あやかしの君に、二度目の恋をした。
■第一章 紅葉の下で

山里の秋は、静かに、そして鮮やかに訪れる。

赤や橙に染まった木々が風に揺れ、落ち葉がはらはらと舞い落ちる。
その景色の中を、一人の少女が歩いていた。

名は、千代(ちよ)

年は十六。
村に住むごく普通の娘――と呼ぶには、少しだけ違っていた。

「……今日も、来ちゃった」

小さく呟きながら、千代は山の奥へと続く細い道を進む。

村の者たちは誰も近づかない場所。
理由はひとつ――

「あやかしが出る、なんてね」

そう、ここには“人ならざるもの”が棲むとされている。

けれど千代は、そんな噂を気にしたことはなかった。

いや、正確には――
人よりも、あやかしの方が優しいのではないかとさえ思っていた。

やがて、苔むした石段が見えてくる。
その先にあるのは、小さな古い社。

人の手入れなどとうに途絶え、どこか時が止まったような場所だった。

「こんにちはー」

返事がないことを分かっていながら、千代は声をかける。

箒を手に取り、落ち葉を掃き始めた。

しゃ、しゃ、と規則正しい音だけが響く。

「……ここ、落ち着くんだよね」

村では、千代に向けられる視線は決して優しくなかった。

幼い頃に両親を亡くし、親戚の家に引き取られてから――
彼女の居場所は、どこにもなかった。

「役立たず」
「余計な口をきくな」

そんな言葉ばかり。

だからこそ、この社は特別だった。

何も言われない。
何も求められない。

ただ、そこにいていい場所。

そのとき――

「……人の気配がすると思えば」

低く、静かな声が背後から響いた。

びくり、と肩が跳ねる。

ゆっくりと振り向いた瞬間、千代は息を呑んだ。

そこに立っていたのは――

人ではない、美しさを持つ男。

黒く長い髪が風に揺れ、白い肌は月の光のように淡い。
そして何より、その瞳。

人のものとは思えないほど、静かで深い色をしていた。

「……誰?」

思わず問いかける。

男は少しだけ目を細めた。

「それはこちらの台詞だ。ここは人が来る場所ではない」

その声は冷たくもあったが、どこか遠くを見るようでもあった。

千代は少しだけ考えてから、答える。

「掃除、してるの」

「……掃除?」

「うん。ほら、落ち葉いっぱいだし」

そう言って箒を軽く持ち上げて見せる。

男はしばらく黙っていたが、やがてぽつりと呟いた。

「……変わった人間だな」

「よく言われる」

千代はくすっと笑った。

普通なら恐れて逃げるはずの状況。
けれど、不思議と怖くなかった。

それどころか――

「ねえ、あなたは?」

その存在を、もっと知りたいと思った。

男は少しだけ迷うように視線を逸らし、やがて答えた。

「……名など、とうに捨てた」

「じゃあ呼べないじゃん」

「呼ぶ必要はない」

即答だった。

だが千代は、少し考えてから言う。

「じゃあ、私がつけていい?」

「……好きにしろ」

興味なさげな返事。

それでも千代は真剣に考え込む。

やがて顔を上げ、にっこり笑った。

「“暁”ってどう?」

「……暁?」

「うん。なんか、夜と朝の間にいそうな感じ」

その言葉に、男――暁はわずかに目を見開いた。

そして、小さく息を吐く。

「……妙な名だ」

「でも、嫌じゃないでしょ?」

「……まあな」

それが、二人の始まりだった。

それから千代は、毎日のように社へ通うようになる。

暁は最初こそ距離を取っていたが、
やがてその時間を拒まなくなっていった。

「今日はね、村でね――」

「人の話など、興味はない」

「とか言いながら聞いてるじゃん」

「……勝手に耳に入るだけだ」

そんなやり取りを繰り返すうちに、
千代の中で暁は“特別”になっていく。

そして――

暁にとっても。

「……なぜ来る」

ある日、ふと問われた。

千代は少しだけ考えてから、答える。

「楽しいから」

その一言だった。

「ここにいると、ひとりじゃない気がする」

その言葉に、暁は何も返さなかった。

だが――

その胸の奥で、確かに何かが動いていた。

それが何なのか、まだ知らないまま。
■第二章 近づく距離、遠ざかる心

それから千代は、毎日のように社へ通った。

朝の仕事を終えて、誰にも見つからないように山へ入り、
夕暮れまで暁と過ごす。

それが、千代にとって唯一の“自分でいられる時間”だった。

「今日は遅かったな」

社の柱にもたれながら、暁が言う。

「ちょっと見張られててさ」

「……来るなと言っている」

「やだ」

即答だった。

暁は小さくため息をつく。

「なぜそこまでして来る」

千代は少しだけ考えて、でもすぐに笑った。

「暁さんがいるから」

その言葉に、暁の視線がわずかに揺れる。

だがすぐにそらした。

「……くだらぬ理由だ」

「でも本当だよ」

千代はそう言って、いつもの場所に腰を下ろす。

風が吹き、木々がざわめく。

静かな時間。

けれど、その静けさはもう“ひとりのもの”ではなかった。

ある日、千代は転びそうになった。

「きゃっ……!」

その瞬間、腕を引かれる。

気づけば、暁がすぐそばにいた。

「気をつけろ」

低い声。

けれどその手は、思っていたよりずっと温かかった。

「……ありがとう」

千代は少しだけ照れたように笑う。

だが暁は、すぐに手を離した。

まるで触れてはいけないものに触れたかのように。

「……人は脆いな」

「そういうとこあるよね」

軽く笑って返すが、胸の奥が少しだけ痛んだ。

――距離は近づいているのに、どこか遠い。

そんな感覚だった。

日が暮れかけた頃。

千代はふと空を見上げる。

「ねえ、暁さんってさ」

「なんだ」

「ずっとここにいるの?」

暁は少しだけ沈黙したあと、答える。

「……ああ」

「寂しくない?」

その問いに、暁は答えなかった。

代わりに、ゆっくりと目を閉じる。

「慣れている」

それだけだった。

千代は、胸が締めつけられるのを感じた。

「そっか」

それ以上は、何も言えなかった。

その帰り道。

千代はふと立ち止まる。

「……私、なんでこんなに会いたいんだろ」

考えなくても分かっていた。

けれど、認めるのが少しだけ怖かった。

「……これって」

頬がほんのりと熱くなる。

その答えを、まだ言葉にできないまま――
夜は静かに更けていった。
■第三章 名前のない想い

冬の気配が、少しずつ近づいていた。

冷たい風が吹く中でも、千代は変わらず社へ通う。

だがある日、いつもの場所に――

暁はいなかった。

「……あれ?」

胸がざわつく。

「暁さん?」

呼んでも返事はない。

社の奥まで行ってみるが、気配すら感じられなかった。

「……なんで」

たったそれだけで、不安になる自分に気づく。

会えないだけで、こんなにも苦しくなるなんて。

「……変だよ、私」

その日は、日が暮れるまで待った。

それでも、暁は現れなかった。

次の日も。

その次の日も。

「……来ないで、って言ってたもんね」

思い出す言葉。

でも――

「それでも来ていいって、言ってくれたじゃん」

ぽつりとこぼす。

返事はない。

そのときだった。

「……来ていたのか」

背後から、あの声。

振り向いた瞬間、千代は駆け出していた。

「暁さん!」

気づけば、そのまま抱きついていた。

自分でも驚くほど、自然に。

「よかった……会えた……」

震える声。

暁は一瞬、動きを止める。

だがすぐに、そっと千代の肩を押し返した。

「……やめろ」

「どうして?」

「……人とあやかしは、触れ合うべきではない」

その言葉は、冷たく響いた。

千代の胸が、ぎゅっと締めつけられる。

「……嫌だ」

小さく、でもはっきりとした声。

「触れたいよ」

暁の目が揺れる。

「暁さんに、ちゃんと触れたい」

まっすぐな想いだった。

逃げも、迷いもない。

暁はしばらく何も言わなかった。

やがて、苦しそうに言葉を絞り出す。

「……俺は、お前と同じ時を生きられぬ」

「知ってる」

「いずれ別れる」

「それでもいい」

即答だった。

その強さに、暁は言葉を失う。

「今、一緒にいたい」

千代は、まっすぐに彼を見る。

「それじゃダメなの?」

風が吹き、二人の間を通り抜ける。

長い沈黙。

そして――

「……愚かな選択だ」

そう言いながらも、暁はゆっくりと手を伸ばした。

触れるか、触れないかの距離。

ほんのわずかに迷ったあと――

その指先が、千代の手に触れる。

「……あったかい」

千代は、嬉しそうに微笑んだ。

その笑顔に、暁の心が大きく揺れる。

「……後悔するぞ」

「しないよ」

「必ずする」

「それでもいい」

言葉のぶつかり合い。

けれど、その手は離れなかった。

その帰り道。

千代は空を見上げる。

「……好きなんだ」

ようやく、言葉にできた。

隠せない想い。

止められない気持ち。

一方で――

社の中で、暁は一人呟く。

「……これは、間違いだ」

そう言いながらも、
自分の手に残る温もりを、消せずにいた。
■第四章 迫りくる影

冬の足音が、確かに近づいていた。

山の空気は冷たくなり、吐く息は白く染まる。

それでも千代は、変わらず社へ通っていた。

「……また来たのか」

「うん」

短いやり取り。

けれどその距離は、以前よりもずっと近い。

隣に座るのが当たり前になり、
言葉がなくても落ち着く時間が増えていた。

だが――

その穏やかさに、影が差し始める。

「最近、村の様子がおかしいの」

千代はぽつりと呟いた。

「何かあったのか」

「うん……“あやかしが出る”って騒いでて」

その言葉に、暁の表情がわずかに変わる。

「……そうか」

「それでね、“祓う”って話になってる」

風が止まったような、静寂。

「暁さん……」

名前を呼ぶ声が、少し震える。

暁はゆっくりと目を閉じた。

「来るなと言ったはずだ」

「関係あるの?」

「あるに決まっている」

その声は、今までにないほど冷たかった。

千代の胸がぎゅっと締めつけられる。

「……私のせい?」

「違う」

即答だった。

だがそのあと、少しだけ間があく。

「……人と関わった時点で、いずれこうなる」

その言葉は、まるで自分自身を責めているようだった。

「じゃあ、離れればいいの?」

千代の声が震える。

暁は何も答えない。

「ねえ、暁さん」

「……」

「私と離れたいの?」

その問いに、暁の手がわずかに強く握られる。

けれど――

「……ああ」

短い答えだった。

その一言が、胸に突き刺さる。

「……そっか」

千代は笑おうとした。

でも、うまく笑えなかった。

「わかった」

そう言って立ち上がる。

背を向ける。

――なのに、足が動かない。

「……嘘」

ぽつりと、こぼれる。

「そんなの、嘘だよ」

振り返る。

涙がこぼれていた。

「暁さんが、そんなこと思ってるわけない」

そのまっすぐすぎる言葉に、暁の心が揺れる。

「……来るな」

それでも、絞り出したのはその言葉だった。

「もう、来るな」

千代はしばらくその場に立ち尽くしていたが、
やがて小さく頷いた。

「……わかった」

そのまま、振り返らずに去っていく。

その背中を、暁はただ見つめることしかできなかった。

誰もいなくなった社で、暁は一人呟く。

「……これでいい」

だがその声は、ひどくかすれていた。
■第五章 雪に溶ける想い

それから数日、千代は社へ行かなかった。

いや――行けなかった。

「来るな」

その言葉が、ずっと頭から離れない。

けれど同時に、胸の奥が叫んでいた。

――会いたい

その気持ちは、消えなかった。

雪が降り始めた日。

千代は、気づけば山道を走っていた。

「……ダメだって言われたのに」

それでも止まれなかった。

寒さで指先はかじかみ、息は荒い。

それでも――

「暁さん……!」

社にたどり着いた瞬間、名前を呼ぶ。

沈黙。

けれど次の瞬間――

「……なぜ来た」

その声が、すぐ後ろから聞こえた。

振り向く。

そこにいたのは、変わらない姿の暁。

その瞬間、千代の中で何かが溢れた。

「会いたかった……!」

気づけば駆け寄り、抱きついていた。

「来るなって言われても……無理だよ……!」

涙がこぼれる。

「好きだから……!」

その言葉に、暁の呼吸が止まる。

「……言うな」

「嫌だ」

「それ以上、言うな」

「好き!」

はっきりとした声だった。

逃げない想い。

まっすぐな愛情。

「暁さんが好き」

沈黙。

雪が静かに降り続ける。

「……俺は」

暁が口を開く。

「お前を、不幸にする」

「ならない」

「する」

「しない!」

言葉がぶつかる。

けれどその距離は、もう離れない。

「一緒にいられるなら、それでいい」

震えながらも、はっきりとした声。

暁は目を閉じる。

そして――

「……勝てぬな」

小さく、そう呟いた。

次の瞬間。

ぐっと腕を引かれる。

「え……」

言葉を発する間もなく――

唇が重なった。

冷たいはずの空気の中で、
その温もりだけがはっきりと伝わる。

一瞬。

けれど、確かに深く触れ合った。

離れたあと、千代は呆然とする。

「……いま」

頬が一気に熱くなる。

暁はわずかに目を伏せたまま言う。

「……後戻りはできぬぞ」

その声は、覚悟を決めたものだった。

千代は小さく笑う。

「うん」

そして――

今度は自分から、そっと抱きついた。

「それでもいい」

雪が二人を包み込む。

静かな世界の中で、
二人の想いだけが、確かに重なっていた。
■第六章 ぬくもりの約束

雪の日の口づけから――
二人の距離は、もう戻らなかった。

むしろ、以前よりもずっと近く、深く結ばれていった。

「……今日も来たのか」

「うん」

いつものやり取り。

でも、その空気はもう違っていた。

千代は自然に暁の隣に座る。

少し肩が触れる距離。

その近さに、どちらも何も言わなくなっていた。

「寒くないか」

暁がそう言って、そっと羽織をかけてくる。

「ちょっと寒いかも」

そう言うと、暁は少しだけ迷ってから――

「……来い」

静かに腕を引いた。

「え……」

気づけば、暁の腕の中。

背中に回された手は優しくて、けれどしっかりと離さない。

「これで、ましだろう」

ぶっきらぼうな言い方。

でも――

「……あったかい」

千代は小さく笑った。

そのまま、そっと寄りかかる。

鼓動が伝わる距離。

「ねえ、暁さん」

「なんだ」

「こうしてるとさ、ほんとに“普通”みたい」

「普通、か」

暁は小さく呟く。

「お前といると、忘れる」

「何を?」

「……俺が何者かということを」

千代は少しだけ顔を上げた。

「忘れていいよ」

「……」

「私も、気にしてない」

その言葉に、暁の腕がほんの少し強くなる。

しばらくして、千代がぽつりと言う。

「ずっとこうしてたいな」

「……それは叶わぬ」

即答。

でもその声は、どこか苦しそうだった。

「なんで?」

「俺は長く在りすぎた存在だ。お前とは違う」

千代は少しだけ考えてから、微笑む。

「じゃあさ」

「?」

「短い分、いっぱい一緒にいよう」

暁は言葉を失う。

「一日でも多く、笑ってればいいよ」

まっすぐな言葉。

その優しさが、胸に刺さる。

「……愚かだな」

「うん、知ってる」

「だが――」

暁は、そっと千代の頬に触れる。

「嫌いではない」

そのまま、ゆっくりと顔を近づける。

触れるだけの、やさしい口づけ。

今度は短くない。

確かめるように、ゆっくりと。

「……好き」

千代が小さく呟く。

暁は目を閉じたまま、答えた。

「……ああ」

それが、何よりも確かな想いだった。

だが――

その穏やかな時間は、長くは続かなかった。
■第七章 壊れる世界

ある夜。

山の空気が、明らかに違っていた。

「……来たか」

暁が低く呟く。

外から、人の気配。

それも一人や二人ではない。

「暁さん……?」

千代が不安そうに見る。

「下がっていろ」

その声は、これまでにないほど鋭かった。

次の瞬間。

社の外から怒号が響く。

「ここだ!あやかしはここにいる!」

松明の光が揺れる。

村人たちだった。

手には札や棒。

明らかに――“祓うため”の準備。

「やめて!」

千代は思わず外へ飛び出した。

「この人は何もしてない!」

だが誰も止まらない。

「騙されてるんだ!」
「そいつは人じゃない!」

その言葉が突き刺さる。

「千代!」

暁が叫ぶ。

次の瞬間、何かが放たれる。

札が光り、空気が歪む。

「っ……!」

暁が顔を歪める。

体に見えない力が絡みつく。

「暁さん!」

千代は駆け寄ろうとするが――

「来るな!!」

強い声で止められる。

「……俺に近づくな」

その目は、今までにないほど苦しそうだった。

「なんで……!」

涙があふれる。

「一緒にいるって言ったじゃん……!」

暁は答えない。

ただ、ゆっくりと立ち上がる。

そして――

「……千代」

初めて、その名前を優しく呼んだ。

「逃げろ」

「やだ!」

「いいから行け」

「行かない!」

そのやり取りの中で、さらに札が放たれる。

暁の体が揺れる。

「……くっ」

苦しそうな声。

それでも倒れない。

「……やめろ」

低い声が、空気を震わせた。

その瞬間、風が吹き荒れる。

松明の火が揺れ、村人たちが一瞬ひるむ。

「これ以上、触れるな」

その姿は――

どこか“人ではない存在”そのものだった。

千代は初めて、その本当の姿を見た気がした。

それでも――

「……好きだよ」

ぽつりと呟く。

暁の動きが止まる。

その一瞬の隙をつくように、
強い札が放たれた。

光が弾ける。

「っ……!!」

暁の体が崩れる。

「暁さん!!」

千代が駆け寄る。

その体は、少しずつ薄れていた。

「……なぜ、戻ってきた」

かすれた声。

「当たり前じゃん……!」

涙が止まらない。

「好きなんだから……!」

暁はわずかに笑った。

「……そうか」

弱く、優しい声。

「……約束を、しよう」

「やだ……そんなのいらない……」

「いいから、聞け」

千代の手を取る。

その温もりが、少しずつ消えていく。

「必ず、また会う」

「……ほんとに?」

「ああ」

その瞳は、嘘をついていなかった。

「だから――」

一瞬、迷うように目を伏せてから。

「泣くな」

その言葉のあと。

そっと、最後の口づけが落ちる。

今までで一番やさしくて――

一番、悲しいキスだった。

次の瞬間。

光が溶けるように消え――

暁の姿は、そこから消えた。

「……やだ」

千代の声が、震える。

「やだ……やだ……」

何もない空間を、必死に掴もうとする。

「……いかないで」

その声は、誰にも届かない。

雪だけが、静かに降り続けていた。
■第八章 春を待つ心

あの日から、季節は何度も巡った。

雪は溶け、花が咲き、また枯れていく。

けれど――
千代の時間だけは、あの冬の日で止まったままだった。

「……また来たのか」

村の人間にそう言われても、千代は気にしなかった。

かつて“あやかしの社”と呼ばれていた場所。

今では誰も近づかない、ただの古い社。

そこへ、千代は変わらず通い続けていた。

箒を持ち、落ち葉を掃く。

あの頃と同じように。

「……ほんと、変わらないね」

誰もいないはずの場所で、ぽつりと呟く。

返事は、ない。

それでも――

「今日ね、ちょっとだけ褒められたんだ」

小さく笑う。

昔とは違い、千代は少しずつ村の中で認められるようになっていた。

働き者で、文句も言わず、誰よりも真面目。

それでも――

「……でもさ」

手を止める。

「やっぱり、ここが一番落ち着く」

ゆっくりと、空を見上げる。

あの頃と同じ空。

でも、隣にいるはずの人はいない。

「……約束、したもんね」

そっと胸元に手を当てる。

「また会うって」

あの言葉を、何度思い出したかわからない。

何度も信じて、何度も不安になって。

それでも――

「待ってるよ」

小さく、でも確かに。

その想いは消えなかった。

春が近づいていた。

冷たい風の中に、ほんの少しだけ柔らかさが混じる。

その日、千代はいつものように社へ来ていた。

だが――

ふと、違和感を覚える。

「……あれ?」

風の流れが違う。

空気が、少しだけ揺れている。

まるで――

「……誰か、いる?」

心臓が、強く鳴る。

ゆっくりと振り向く。

そこに――

“何か”がいる気がした。
■第九章 月影の再会

「……久しいな」

その声は、あまりにも懐かしかった。

息が止まる。

時間が止まる。

ゆっくりと、振り向く。

そこにいたのは――

変わらない姿の、暁だった。

「……え」

声が出ない。

夢なのか、現実なのかも分からない。

「……なんで」

やっと出た言葉は、それだけだった。

暁は静かに立っている。

あの日と同じように。

けれど――

「約束しただろう」

その一言で、全てが崩れた。

「……ほんとに?」

足が震える。

一歩、また一歩と近づく。

「……ほんとに、暁さん?」

手を伸ばす。

触れたら消えてしまいそうで、怖い。

けれど――

暁の方から、その手を取った。

「……触れている」

低く、やさしい声。

その瞬間。

「……っ」

涙があふれる。

止まらない。

「会いたかった……!」

気づけば、抱きついていた。

「ずっと……待ってた……!」

暁は一瞬驚いたように目を見開く。

だがすぐに――

ゆっくりと、抱きしめ返した。

「……ああ」

その腕は、確かにあたたかかった。

「消えたと思った……」

「消えていた」

「え……?」

「だが、完全ではなかった」

静かに語る声。

「お前との“縁”が、残っていた」

千代は顔を上げる。

涙でぐしゃぐしゃのまま。

「……縁?」

「ああ」

暁はそっと、千代の頬に触れる。

「それが、俺を繋ぎ止めた」

その言葉に、胸が熱くなる。

「……もう、いなくならない?」

震える声で問う。

暁は少しだけ黙る。

そして――

「……以前のようにはいかぬ」

その言葉に、千代の表情が曇る。

「だが」

そのまま、額を軽く寄せる。

「今度は、離さぬ」

低く、はっきりとした声。

「お前を手放す理由が、もうない」

その言葉に、千代は息を呑む。

「……ほんとに?」

「ああ」

迷いのない答え。

次の瞬間。

暁が、そっと千代の顎を上げる。

「え……」

言葉を失う間もなく――

唇が重なる。

今度のキスは、以前よりも深く、長い。

失った時間を埋めるように。

想いを確かめるように。

離れたあとも、距離は近いまま。

「……好きだ」

初めて、はっきりと言葉にされた。

千代の目が大きく揺れる。

「もう、隠さぬ」

その声は、どこまでも優しかった。

「……私も」

涙をこぼしながら、笑う。

「ずっと好きだった」

その答えに、暁はわずかに微笑む。

そして――

再び、強く抱きしめた。

桜の蕾が、静かにほころび始めていた。

それは、終わりではなく――

新しい始まりの季節。
■最終章 月影に誓う、君との縁

春。

山は、淡い桜色に包まれていた。

あの日と同じ社。
けれど、その空気はまるで違っていた。

「……ほんとに咲いたね」

千代は空を見上げて、微笑む。

花びらが風に舞い、やわらかく降り注ぐ。

その隣には――

もう、当たり前のように暁がいた。

「こうして並ぶのも、ようやく自然になったな」

暁が静かに言う。

「最初から自然だったけど?」

千代は少しだけからかうように笑う。

「お前だけだ」

「えー、ひどい」

そんなやり取りさえ、愛おしい。

失って、取り戻して――
ようやく辿り着いた、穏やかな時間だった。

だが、その中で。

千代はふと、真剣な表情になる。

「ねえ、暁さん」

「なんだ」

「これから……どうするの?」

その問いは、ずっと心の中にあったもの。

人とあやかし。

本来、交わらない存在。

「ずっと一緒にいられるのかなって」

少しだけ、不安が混じる声。

暁はしばらく黙っていた。

桜の花びらが一枚、肩に落ちる。

それを払うこともせず、静かに言う。

「……道は、二つある」

「二つ?」

「ああ」

ゆっくりと千代の方を向く。

「一つは、俺がこのまま在り続けること」

「……」

「その場合、お前は老い、やがていなくなる」

その言葉に、胸が少しだけ痛む。

「もう一つは――」

暁の声が、わずかに低くなる。

「お前が、こちら側へ来ることだ」

風が止まったような静けさ。

「……それって」

千代の声が小さく震える。

「人じゃなくなる、ってこと?」

「そうだ」

迷いのない答え。

「寿命も、在り方も変わる」

「……戻れない?」

「ああ」

はっきりとした現実。

少しの沈黙。

桜の花びらだけが舞い続ける。

千代は、ゆっくりと目を閉じた。

「……そっか」

短い言葉。

けれど――

迷いは、なかった。

「いいよ」

顔を上げる。

まっすぐな瞳。

「そっちに行く」

暁の目が、わずかに揺れる。

「……理解しているのか」

「してるよ」

少しだけ笑う。

「だって」

そのまま、一歩近づく。

「暁さんと一緒にいられるなら、それでいい」

変わらない答え。

出会った頃と同じ、まっすぐな想い。

暁はしばらく動かなかった。

やがて、ゆっくりと手を伸ばす。

千代の頬に触れる。

「……後悔するぞ」

「しないよ」

即答。

少しだけ意地悪そうに笑う。

「何回も言ってるじゃん」

その言葉に、暁は小さく息を吐いた。

「……まったく」

そして――

「勝てぬな」

優しく、そう呟いた。

その瞬間。

暁は、千代の前に膝をつく。

「え……?」

予想していなかった行動に、千代が驚く。

暁は、まっすぐに彼女を見上げた。

「千代」

初めて、こんなにもはっきりと名を呼ぶ。

「共に来い」

静かで、けれど強い声。

「人でも、あやかしでもない道を――共に生きよう」

それは、願いであり。

誓いであり。

――求婚だった。

千代の目に、涙が浮かぶ。

でも、それは悲しみじゃない。

「……うん」

小さく、でも確かに頷く。

「行く」

そのまま、手を重ねる。

「どこまでも、一緒に」

暁は立ち上がり、その手を強く握る。

そして――

静かに唇を重ねた。

今までで一番、穏やかで、深いキス。

それは別れではなく、始まりの証。

その瞬間。

風が吹き抜ける。

桜の花びらが、二人を包み込む。

光がやわらかく揺れる中で――

千代の姿が、少しずつ変わっていく。

けれど、その表情は穏やかだった。

やがて。

すべてが静まったとき。

そこに立っていたのは――

変わらず手を繋ぐ、二人の姿。

「……綺麗だな」

暁が呟く。

「うん」

千代は微笑む。

「これからも、ずっと見られるね」

その言葉に、暁は小さく頷いた。

月が昇る。

桜が舞う。

時を越え、境界を越え――

二人は、同じ時間を歩き出す。

「好きだ」

「私も」

それは、終わらない恋のはじまり。
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