The Quiet Matriarch

夜の独占欲

湾岸エリアのタワーマンション、最上階近くの高級レジデンス。
エレベーターが静かに止まり、玲奈はカードキーをかざしてドアを開けた。
室内は広々としており、床から天井まで続くガラス窓の向こうに、東京湾の夜景が広がっている。レインボーブリッジのライトが水面に揺れ、遠くの船の灯りが点々と浮かぶ。
いつもならその美しさに一瞬だけ心が和むはずなのに、今夜は違う。
玲奈はハイヒールを脱ぎ捨て、黒のテーラードスーツを無造作にソファに投げ出した。
クローゼットからシルクのブラックローブを取り出し、肌に滑らせる。冷えた空気が肌に触れる瞬間、わずかに身震いした。

キッチンカウンターに置かれた高級スーパーの紙袋を開ける。
今日はオフィス近くのデパ地下で買った惣菜——鴨のコンフィとキノアサラダ、フォアグラのテリーヌ。
どれも上質で、味は悪くない。
なのに、フォークで一口つまむたびに、味がしない。
玲奈はグラスに赤ワインを注ぎ、ソファに深く腰を沈めた。
窓辺に寄り、夜の海を眺めながら、ゆっくりと一口。
ボルドーの渋みが舌に広がるが、それさえも空虚を埋めてはくれない。

キャリアは、頂点に達している。

西海岸の名門校で首席卒業。
現地ローファームでの2年半の実務経験。
帰国後、外資系法律事務所で猛烈なスピードでパートナーに昇格。
M&A、企業再編、国際仲裁——どれも彼女の手にかかれば、相手は論理と心理の両面から完膚なきまでに追い詰められる。
今日の会議もそうだった。
相手企業の重役が顔を強張らせ、沈黙した瞬間、玲奈は内心で小さく勝利の笑みを浮かべていた。
すべてが、計画通り。
すべてが、完璧にコントロール下にあった。

なのに、なぜこんなにも胸が空っぽなのか。

玲奈はグラスをテーブルに置き、膝を抱えてソファに体を預けた。
美咲の言葉が、今日一日中、頭の片隅で反響していた。

「玲奈先輩と付き合う彼氏さん、大変そうですね。玲奈先輩、完璧すぎるから……」

違う。
完璧すぎるのではない。
求めるものが「高い」のではなく、ちょっと「特殊」なだけだ。

玲奈は目を閉じ、ゆっくり息を吐いた。
彼女にとって、理想の関係とはフェティッシュではない。
それは、社会哲学だった。
男性中心社会が当たり前のように押しつけてくる「男がリードする」「女は支える」という前提に対する、明確なアンチテーゼ。
女性が男性の人生の全決定権を握り、所有物として扱う。
時間、金銭、友人関係、性的解放、感情のすべてを、構造的に、永続的に支配する。
それは無秩序な虐待ではなく、緻密に設計された支配関係。
知的で、心理的で、残酷で、しかし同時に、究極の「秩序」。

米国時代には、一度だけ、その理想に近いパートナーがいた。
大学院生の頃に出会った、年下の大学院生。
最初は軽い遊びのつもりだったが、彼は玲奈のルールを受け入れ、徐々に深く沈んでいった。
毎日の報告義務、理由なき罰、永久的な貞操管理。
彼が泣きながら「もっと……」と懇願する姿を見たとき、玲奈は初めて「これが私の居場所だ」と感じた。
だが、彼は卒業後に東海岸へ移り、関係は自然消滅した。
それ以来、日本に帰ってからは一度も、本物のFLR(Female Led Relationship)に近い相手を見つけられていない。

文化の壁が厚すぎる。
日本では「女性が男性を所有する」という概念は、せいぜいSMプレイの範疇で語られるか、笑いものにされる。
誰も本気で受け止めてくれない。
玲奈はそれを理解しているからこそ、表向きは「気さくで優しいキャリア女性」を演じ続けている。
部下に慕われ、同僚に一目置かれ、クライアントに信頼される。
でも、それは仮面だ。
本当の自分——冷たく、傲岸で、無慈悲で、相手を徹底的に壊して作り直したいという欲望——を、誰も知らない。

36歳。
周囲の視線が、重くのしかかる。
同期の女性たちは次々と結婚し、子供の写真をSNSに上げている。
親からは「そろそろ落ち着いたら?」という電話が来る。
玲奈はいつも穏やかに笑って返す。
「ご縁があればね。」
でも、心の中では叫んでいる。
ご縁なんかじゃない。
私は「所有権」を求めている。
法的に、感情的に、肉体的に、永遠に私のものになる存在を。

ワインをもう一口。
グラスを傾けると、夜景に映る自分の顔が見えた。
赤いリップ、鋭い視線、冷たい微笑み。
誰も知らない、この顔。
玲奈はゆっくりと唇を舐め、独り言のように呟いた。

「……そろそろ、本物の所有物が見つからないと。
生の粘土を、私の色で塗り潰して、永遠に私の形に焼き付けてあげたいのに。」

彼女はスマホを手に取り、海外のFLRマッチングサイトのアプリを開いた。
プロフィール一覧をスクロールする指が、わずかに震える。
まだ、理想の「キャンバス」は見つかっていない。
でも、今日という日が、玲奈の忍耐の限界に近づいていることは、自分でもわかっていた。

窓の外、レインボーブリッジのライトが静かに瞬く。
玲奈はグラスを空にし、静かに立ち上がった。
ローブの裾が床を滑る音だけが、広い部屋に響いた。
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