遅れて届く星の光。
雨が降り出したのは、駅前の時計が午後四時を指したころだった。春なのに空気は冷たく、傘の骨に当たる雨音がやけに固く聞こえる。私は改札の前で立ち止まり、濡れたコートの袖を握りしめた。ここは、あなたと最後に会った場所だ。「遅れた。ごめん」そう言って走ってきたあなたの息は白くて、前髪に雨粒がいくつも並んでいた。あの日のあなたは笑っていたのに、私はその笑顔の奥に、言えない言葉が詰まっていることに気づけなかった。私は今、同じ場所にいる。あなたはもう来ないと分かっているのに
ーーーーーーーー
あなたと出会ったのは、図書館の古い閲覧室だった。午後の光が斜めに差し込み、埃の粒が舞っていた。私は受験用の問題集を開いていたが、焦りで文字が頭に入らず、ただページをめくる手だけが動いていた。
「それ、難しいよね」

突然、となりから声がして顔を上げると、あなたがいた。見知らぬ人なのに、なぜか“知っている人”みたいな目をしていた。
「数学、嫌い?」

私はうなずいた。あなたは笑って、私のノートを指さした。 

「ここ、解き方がきれい。嫌いな人の字じゃない」その言い方がずるいと思った。嫌いだと言った自分が、恥ずかしくなるような言い方だった。あなたは同じ高校ではなかった。帰り道も違った。それでも、図書館で会うようになった。約束なんてしなくても、決まった時間になるとあなたが現れた。私はそれを“偶然”だと自分に言い聞かせた。あなたは本の匂いがする人だった。ページをめくる指先がきれいで、文字のない余白に小さく星を描く癖があった。

「ねえ、星ってさ、もう消えてるのに光だけ届くことがあるんだって」
あなたはそう言って、窓の外を見た。
私が「ふーん」と曖昧に返すと、あなたは少しだけ困った顔をして笑った。「だからさ、今見えてるものが“今”とは限らないんだよ」その言葉が、後になって胸を刺すことになるなんて、そのときの私は想像もしていなかった。夏が来て、私たちはやっと名前を呼び合うようになった。


呼ぶたびに心臓の奥が少し熱くなるのが分かった。私はその熱を“友情”だと信じたかった。恋だと認めると、壊れてしまいそうで怖かった。あなたは優しかった。私が模試で落ち込むと、言葉を選んで慰めてくれた。私はあなたの優しさに依存した。自分の価値が、あなたの言葉で決まってしまうくらい。

「大丈夫。君はちゃんと前に進んでるよ」あなたがそう言うと、私はその日だけ生きていけた。あなたは時々、遠くを見る顔をした。誰にも届かない場所へ意識が飛んでしまったみたいに。
「ねえ、どうしたの」
私が尋ねると、あなたは慌てて笑ってごまかした。
「なんでもない。ちょっと眠いだけ」
私はそれ以上聞けなかった。聞いてしまったら、あなたが私から離れてしまいそうで。都合よく、見ないふりをした。秋の終わり、あなたは突然、図書館に来なくなった。最初の一週間、私は“忙しいのかな”で済ませた。二週間目、私は胸がざわざわして眠れなくなった。三週間目、私は初めてあなたにメッセージを送った。「最近どうしてる? 体調大丈夫?」既読はついた。返信はなかった。その夜、私は自分の部屋でずっとスマホを握っていた。指の跡が画面に残るほど。もし、あなたが私のことを嫌いになったのなら、そう言ってくれればよかった。曖昧な沈黙が、いちばん残酷だった。四週間目、私のところに封筒が届いた。差出人は、あなたの名前だった。封筒は少し湿っていて、インクの匂いがした。私はなぜか、開ける前から泣きそうになった。中には手紙が一枚と、小さな栞が入っていた。栞には、あなたがよく描いていた星が一つだけ、青いインクで描かれていた。手紙は、丁寧な文字でこう始まっていた。
「突然いなくなってごめん。驚かせたよね」私は震える手で続きを読んだ。
「君には、ちゃんと話しておきたいことがある。会えるかな。駅前の改札、午後四時。雨が降っても行く。君が来てくれたら、嬉しい」
日付は、明日だった。



翌日、雨が降った。




まるであなたの手紙が雨を呼んだみたいに、空は最初から暗かった。私は駅に向かいながら、何度も言葉を考えた。怒っているのか、心配しているのか、自分でもよく分からなかった。ただ、あなたに会える。それだけで胸が苦しくなった。午後四時。改札の前。人の流れ。濡れた傘。水たまり。あなたは走ってきた。息が切れているのに、笑っていた。
「来てくれた」それだけで、私の中の怒りも不安も全部溶けた。私は言いたかったことを忘れてしまって、ただあなたの顔を見た。あなたは私より少し背が高く、濡れた髪から雨が落ちていた。私は鞄からタオルを取り出して渡そうとしたけれど、あなたは首を振った。



「大丈夫。……それより、話すね」






あなたは息を整えながら、言葉を探すように視線を落とした。


ーーーーーーーーーー
「病気なんだ」
その言い方が、妙に平坦だった。私は最初、冗談だと思った。あなたは冗談を言うのが得意だったから。けれど、あなたの指先は震えていた。
「………治るの?」私が聞くと、あなたはすぐに答えられなかった。雨音が私たちの沈黙を埋める。
「……治るって言える病気じゃない」
その瞬間、私の体の中の音が全部消えた。心臓の鼓動も、呼吸も、足元の水の感触も。世界が薄い紙みたいになって、破れそうだった。あなたは続けた。「君といる時間が、すごく嬉しかった。だから、余計に言えなかった」私は怒りたくなった。どうして黙っていたの。どうして一人で抱えたの。どうして私に選ばせてくれなかったの。けれど、その怒りが向かう先はどこにもなかった。あなたの病気に対して怒ることなんてできない。「じゃあ、これからどうなるの」あなたは少し笑った。いつもの笑い方じゃない、薄い笑い方。「たぶん、遠くに行く。入院する。会えなくなるかもしれない」

「嫌だ」

私の声は子どもみたいだった。雨に溶けて消えてしまいそうな小さな声だった。あなたは私の手を取った。冷たかった。雨のせいだけじゃない冷たさ。「君には、君の人生がある。俺に合わせて止まらないで」

「止まらないよ。止まらないけど、あなたがいないのは嫌だよ」あなたはその言葉を聞いて、泣きそうな顔をした。でも泣かなかった。代わりに、ポケットから小さなものを取り出した。星の栞だった。あなたが手紙に入れてくれた栞と同じ、青い星。「これ、もう一つ作った。お守り」あなたは私の掌にそれを乗せた。「君が本を開くたびに、俺のことを思い出さなくていい。ただ、君が“前に進んでる”って思えなくなったら、ここに星があるって思って」私はうまく返事ができなくて、ただうなずいた。涙が雨と混ざって、頬を流れた。あなたは最後に言った。「君に会えてよかった。ちゃんと好きだった」
“好きだった”という過去形が、私の胸を切り裂いた。そこから先の時間は、速かった。あなたは入院した。私は何度も面会に行こうとした。でもあなたからは「来ないで」と短いメッセージが届いた。

「君が来ると、安心してしまう。安心すると、君に甘えてしまう」私はその言葉に、何も返せなかった。返したら、あなたの決意を壊してしまう気がした。冬の初め、あなたのSNSが止まった。既読がつかなくなった。電話は繋がらなかった。私は毎日、星の栞を握って眠った。本を開くたび、そこに星がいることが苦しくて、でもそれが唯一、あなたに触れられる方法だった。春が来るころ、病院から一通の手紙が届いた。差出人は、あなたではなく、あなたの母親だった。丁寧で、静かな文章だった。
「あの子は二月の終わりに亡くなりました。最後にあなたのことを思っていたわ。今まであのこのそばにいてくれてありがとう。」文字が紙の上にあるのに、意味が頭に入るまで時間がかかった。私は机の上に手紙を置いて、しばらく動けなかった。二月の終わり。私が受験の追い込みで、自分のことで頭がいっぱいで、あなたのことを考える余裕がないふりをしていたころ。あなたは、いなくなった。あなたの母親の手紙には、最後に一行だけあなたの言葉が添えられていた。「星の光は、遅れて届くから。君が泣くのは、今日じゃなくていい」私はその夜、声が枯れるまで泣いた。今日じゃなくていいと言われたのに、今日しか泣けなかった。そして今、私は駅前に立っている。雨が降っている。あなたが約束した雨だ。私は傘をささず、濡れたまま空を見上げる。空は灰色で、星なんて一つも見えない。なのに、私は確かに、胸の奥に星の光を感じてしまう。鞄の中には、あなたがくれた栞が二つある。私は時々、本を開いて、ページの間の星に触れる。触れるたびに思う。あなたは、私に「進んで」と言った。私は進んだ。進んでしまった。進まなければ生きられなかった。大学に入った。友達ができた。笑った。好きな人もできた。あなたのいない世界の中で、私はちゃんと呼吸を覚えた。でも、どうしても許せない瞬間がある。“あなたのいない人生”に慣れていく自分を、許せない。私は駅の改札を見つめる。人が流れる。誰かが誰かを待っている。会える人と、会えない人が混ざり合って、日常ができている。私は小さくつぶやく。「ねえ、私、ちゃんと前に進んだよ」声は雨に飲まれていく。「でもね、進むって、置いていくってことなんだね」胸が痛む。息が詰まる。涙が出る。私は立ったまま泣く。すると、ふと、あなたが言っていた言葉が蘇る。――今見えてるものが“今”とは限らないんだよ。私は鞄から本を取り出す。昔、あなたが薦めてくれた短編集だ。表紙はもう少し色褪せている。私は本を開き、星の栞を挟んでいたページを見る。そこには、あなたの字で短い書き込みがあった。鉛筆の薄い文字。今まで気づかなかった。いや、気づかないふりをしていたのかもしれない。「もし未来の君がここを開いたら、俺はもういないかもしれない。ごめんね。だけど、君が笑ったなら、それでいい。光は遅れて届く。だから、君の幸せは、俺の最後の願い」私はその文字をなぞり、唇を噛んだ。涙が文字の上に落ちて滲む。あなたの言葉が消えてしまうのが怖くて、慌てて袖で拭う。けれど滲みは止まらない。その瞬間、私の中で何かが静かにほどけた。あなたは、いなくなった。もう会えない。だからこそ、あなたの願いを裏切らないことが、私にできる唯一の“会い方”なのかもしれない。私は本を閉じ、栞をそっと挟み直す。雨はまだ降っている。けれど、さっきより少しだけ、音が柔らかくなった気がした。私は歩き出す。駅の出口へ向かう。振り返らない。振り返ったら、あなたがそこにいる気がしてしまうから。でも、心の中では何度も振り返る。何度もあなたの名前を呼ぶ。何度も、ありがとうと言う。何度も、ごめんと言う。そして最後に、私はあなたに誓う。いつか私が、本当に笑えるようになったら。泣かずにあなたの話ができるようになったら。そのとき、あなたの光がやっと“今”に追いつくんだって、信じる。星は見えない。けれど、遅れて届く光があるなら。あなたは、きっとまだ、私の中で生きている。
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