銀色の雲の上

第7話-2 揺さぶり

ミハエルが自室で勉強に集中してふと気がつくと、就寝時間になっていた。
あの後、心の平静を取り戻すべく、勉強に取り組んでいた。

(そろそろ寝るか)

書机の上に広げていた教材をまとめ、翌日の授業の準備を終わらせる。
寝支度に取りかかることにする。

就寝前には、洗面器に水を張って必ず髪と体を洗うことにしている。
ミハエルは、真鍮の洗面器と体を拭くための(きれ)をテーブルの上に用意すると、炉火に吊るしてある窯から少量の湯を汲み分けて洗面器で水と合わせてぬるま湯を作った。

ミハエルはシャツを脱ぎ、鏡の中の裸の上半身を覗き込む。

(みにく)い……)

まじまじと覗いた鏡には、どす黒く痣の浮いた、うす汚い身体が映っている。

ミハエルは、自分の体が好きではない。
それなのにこうして鏡ごしに自分の体を観察するのが癖になってしまっている。

肌には内出血で青や茶に変色した打ち身痕があちこちに広がっている。

(これでも少し落ち着いてきた方か)

浮かび上がっている痣が、徐々に薄くなってきているのを認めて小さく胸をなでおろす。

(どうせすぐに新しい痣ができるだろうけど)

ゲオルグが次にいつ接触してくるかは分からない。
父から託されたものを定期的に渡してくる他は、彼の機嫌によるところが大きい。

青痣の治り具合をひと通り確認すると、今度は念入りに体を拭きはじめる。

もう一度鏡ごしに自分の体を見つめなおす。

―――あなたの秘密は、絶対に誰にもばれては駄目よ。

母親の言葉が脳内でリフレインする。

誰にも見られてはいけない箇所。

絶対に、知られてはいけないこと。

ミハエルの体は、月の満ち欠けを内包している。

(僕には隠しておきたいことが多すぎる)

ミハエルは自嘲する。

ほとんどないに等しい胸の膨らみを隠すようにしながら、寝巻に着替えた。

どちらかというと背が高く、体に丸みがないため、今のところ秘密を守り通すことができている。

ミハエルにとって、自身にまつわる秘密を守ることは世界の秩序を守るのと同じだった。

この秘密がばれてしまえば、いとも簡単にミハエルの世界は崩壊するだろう。

そして崩壊した後は、まともに生きていけるはずがない。

(誰にも、ばれてはいけない)

(勘ぐられることすら、許されない)

死ぬまで演じきれ、と強く自分に言い聞かせる。

ミハエルは寝支度をすべて整え終えると、書机の引き出しから小さな陶器の人形を取り出した。
貴婦人の人形は指触りがなめらかだ。
愛らしく優雅に微笑んでいる。

ミハエルはそっと人形に笑いかけておやすみの挨拶をする。

これは就寝前の儀式だ。

ランプの灯りを消して、寝床に潜り込む。

―――銀色の雲の上を見てみろよ。

ミハエルは、自分を励ますかのように布団の中で呟いた。

アレクサンダーのことを突き放しておきながら、今もなお、彼の言葉に励まされている。おかしなことだ、と自分のことを嗤ってしまう。

(今日も誰にも秘密を知られることなく過ごすことができた)

この瞬間だけが、ミハエルにとって唯一、心に安らぎを得られる時である。

今日も一日生きながらえた。そう安堵して、ようやくミハエルの長い一日が終わる。

*

次の日の朝。

「うっす、ミハエル。 おはよう」

「……はよう。」

アレクサンダーがいつもと変わらない調子で話しかけてきた。
ミハエルもいつもと同じように返事をしたつもりだったが、口の中が乾いて声がかすれてしまう。

昨日のこともあり、正直アレクサンダーのことを警戒している。

「今日は一段と寒いな」

「そうだね」

雪こそ降らないものの、もうそろそろ降ってもおかしくない時期だ。

(それなら、さっさとあっちのストーブの前で温まってくればいいのに)

ミハエルは内心、悪態をつく。

教室ではこの日からストーブに火がくべられることになった。
登校するとすでに雑務員によって教室が暖められていた。

たった今登校してきたばかりの生徒が数名、ストーブの周りで寒そうに手を温めている。

「そういえばさ、ミハエル」

アレクサンダーは真っすぐこちらを向いている。

「エミリアは」

次の瞬間、ミハエルはガタッと席を立っていた。

「そういえば、先生に用事があったんだった」

我ながら白々しいと分かっているが、これ以上話を続けるつもりはない。

アレクサンダーと目を合わさないようにしながら、教師に会いに行くふりをして教室を出る。

(駄目だ)

廊下を歩きながら、振り払うように(かぶり)を振る。

頭の中でぐるぐると思考が巡る。

(なぜ、そんなに僕につきまとうんだ)

なぜ、「知らない」と言っているのにエミリアの名を再び出してくるのだ。

(彼は、厄介だ)


あれから数日、ミハエルは今までよりも、もっとあからさまにアレクサンダーと距離をとるようになった。
なんとなく声をかけられそうな気配を察するとさっとその場を離れる。

それまでは早めに家を出て教室に着くようにしていたが、エミリアの名を出されて以来、始業間際に登校している。
アレクサンダーに声をかける隙を与えたくない。

この日、午後からの移動教室のため廊下を歩いていた。
午後の休憩の廊下は、人がまばらで校庭や教室で思い思いに過ごしていている生徒がほとんどだ。

それは唐突だった。

「ミハエル!」

後ろからアレクサンダーに呼び止められる。

アレクサンダーは珍しく一人だ。
いつもならばアレクサンダーは、級友たちに囲まれてぞろぞろと楽しそうに喋りながら移動するというのに。
ミハエルは、思わず身構える。

「……何?」

ミハエルは振り返って、警戒心を(あら)わにした。

アレクサンダーの手には、例の布でできた人形が握られている。

「お前は答えようとしないけどさ」

いつになく真剣な顔をしている。
アレクサンダーはツカツカと歩み寄ってきた。

ミハエルは思わず後ずさる。

二人は向き合う形になっていた。

アレクサンダーに、射抜くように力強い眼を向けられた。

「泉で会ったのは、お前だろう?」

ミハエルはその眼に()され、息ができなくなった。

一寸間を置いて、薄い唇を開く。

「違う」

きっぱりと言い切る。

「それは、僕じゃない」

「でも、」

「どういうつもりだか知らないけど」

アレクサンダーの言葉を遮った。

次の瞬間、ミハエルは自分でも驚くほど低い声で言っていた。

「僕にかまうなよ」

二人の間に重い沈黙が降りる。

アレクサンダーは少しの間、押し黙っていた。

それからしばらくして、

「分かった」

一言だけ言ったかと思うと、静かに目的の教室へ去っていった。
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