天然で眼鏡な彼は、まだ恋を知らない
真一(しんいち)side》
 社会人になってから、僕の朝は決まっていた。毎日同じ時間に家を出て、同じ駅の同じ車両へと乗り込む。慣れきった日々の繰り返しだ。

 その日もいつものように電車に乗り込んだ。特に何の変哲もない、普通の朝だった。けれど、ふと目に入った光景に、思わず足が止まった。

 扉のそばでスマホをいじっている一人の女性がいた。誰かとやり取りしているのか、表情がころころと変わっている。驚いたように眉を上げたかと思えば、すぐに口元をほころばせて笑い、その直後には少し寂しそうに伏し目がちになった。

 まるで舞台の役者のように、ひとつの画面に感情を注いでいる。なのに、その姿がまったく不自然ではなかった。むしろ、目が離せなかった。

 ああ、こういう人を「表情豊か」って言うんだな……そんなことを考えていた。


 それ以来、自然と彼女の姿を探すようになった。どんなに疲れていても、朝のホームで彼女の顔を見かけると、少しだけ気持ちが軽くなる。今日はどんな感情を見せてくれるんだろう。そんな風に思ってしまうのだ。


 ある朝、ようやく彼女の隣に立つことができた。

 横に並ぶと、目に入るのは彼女の頭だけだった。改めて、背が小さいんだなと思った。少し前かがみになってスマホを見ている肩越しに、ちらりと耳が見えた。……ん? 耳が赤い? 体調でも悪いのだろうか。

 そう思った瞬間、電車が急ブレーキをかけた。
 彼女の身体が、こちらに寄ってくる。咄嗟に僕は腕を差し出して支えていた。僕が崩れれば彼女も倒れてしまう。それだけは避けなければと、必死に踏ん張った。

「大丈夫ですか?」

 気づけば、彼女と目が合っていた。顔が真っ赤だ。いや、本当に体調が悪いのでは……。

「だ、大丈夫ですっ!」

 声まで震えていた。やはり、熱があるのかもしれない。

 支えていた腕からそっと離れようとした彼女。
 そのとき、何かが僕の左手首を引っ張った。袖のボタンにストラップの紐が引っかかったらしい。彼女が指先で外そうとしたが、細い手がわずかに震えているのが見えた。それを見て、これは代わりに僕がやった方が早いと思った。

「じっとしててください」

 ゆっくりと手を伸ばし、紐をほどく。手先はあまり器用な方ではないが、何とか無事に外すことができた。

「あ、ありがとう、ございます……」

 彼女が、小さくお礼を言った。こういうとき、何と返すのが正解なのか、いまだにわからない。

「いえ」

 短くそう返しただけだった。
 もっと何か言えたはずだ。けれど、喉の奥に言葉が引っかかったまま、出てこなかった。

 やっぱり、自分はこういうのが下手だ。
 相手の笑顔ひとつに、どう返すのが正解なのかわからない。

 やがて、電車が駅に着いた。今日は、いつもより彼女に近づけた気がして、なぜか心がふわふわしていた。


 翌日。
 昨日顔を赤くしていた彼女は、体調が回復しているだろうか。それがずっと気になっていた。電車がホームに入ってくる。つり革を握る彼女の姿が見えた。

 よかった。元気そうだ。ちゃんと乗ってきてくれた。

 車内に入り、いつもの場所に立つ。ふと顔を上げると、彼女と目が合った。会釈をすると一瞬驚いたような表情のあと、彼女も小さく微笑み目礼を返してくれた。それだけなのに、心臓がドクンと音を立てた。

 ……寝不足、だろうか。最近ちょっと疲れてるのかもしれない。今日は早めに寝ることにしよう。


 その数日後。思い切って、彼女に「おはようございます」と声をかけた。彼女は一瞬きょとんとして、すぐに顔を赤らめた。

「お、おはようございますっ!」

 ……どうしてだろう。挨拶を交わしただけなのに、やっぱり胸が高鳴ってしまう。昨日は寝不足かと思ったけど、これは救心を飲むべきレベルかもしれない。これが単なる生理的反応なのか、それとも別の要因か。考えはまとまらなかった。


 朝の挨拶がすっかり日常になっていた、そんなある日、ふと気になっていたことを聞いてみた。

「そのストラップのキャラクター、好きなんですか?」

 彼女は目を丸くしたあと、ぱっと表情を輝かせた。

 話によると、ゲームのキャラクターらしい。あのキャラ、たしか妹のカバンにもついていた気がする。若い女性の間で流行っているのかもしれない。

 楽しそうに話す彼女の表情に、つい見入ってしまう。
 ……彼女と話すたび、胸の音がうるさくなる。どうしてこんなに、彼女のことが気になるのだろう。

 それでも明日もまた、同じ電車で彼女と会えたらいい。ただ、それだけのことを、今日も思っている。
< 3 / 3 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品をシェア

pagetop