【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻

第1話

雨の日は、いつも何かを失う。

その夜、私は三社目の不採用通知を、駅前の雑居ビルの非常階段で受け取った。

件名はそっけなく『選考結果のご連絡』。
本文はもっとそっけない。

――慎重に選考いたしました結果、今回はご期待に沿えない結果となりました。

スマホの画面に落ちた雨粒が、文字をにじませる。いや、にじんだのは私の視界のほうかもしれない。どちらでもよかった。

「……はは」

笑ったつもりだったのに、喉から出たのは掠れた空気だけだった。

階段の踊り場には、古い蛍光灯が一本。白くちらつく灯りの下で、安物のパンプスの先がぐしょぐしょに濡れている。今日の面接のために、クリーニング代を惜しんで自分でアイロンをかけたジャケットも、肩のあたりが雨で重い。

二十七歳。元・週刊誌記者。現在、無職。

職歴の欄にそう書けるわけもなく、面接では「出版社で取材・記事作成に携わっていました」と言い換える。嘘ではない。でも、本当でもない。

私がいた編集部は去年、親会社の方針転換であっさり切られた。紙の雑誌は休刊、配属転換はなし、希望退職扱い。実質的な首切りだった。

そのあと何とかフリーで食いつなごうとしたけれど、現実は甘くない。家賃、保険、通信費、奨学金の返済。そこに父が残した事業の借金の返済がのしかかる。亡くなる直前まで「迷惑はかけない」と笑っていたくせに、通帳の残高より督促状の枚数のほうが多かった。

私は先ほどの不採用通知を閉じ、別の通知を開く。

『ご返済日のお知らせ』。

『家賃振込確認のお願い』。

見なかったことにしたくて、すぐ画面を伏せた。

一階の自販機の前に降りて、財布を開く。小銭が四百三十円。千円札が一枚。交通費を引けば、今夜の夕食はコンビニのおにぎり一つか……。

胃の奥がきゅうっと縮む。

こんな夜に限って、昔の自分を思い出す。

取材に出ていた頃の私は、雨なんて嫌いじゃなかった。むしろ好きだったかもしれない。傘の下に隠した本音が、雨音にまぎれて少しだけ拾いやすくなるから。

もっとも、拾った本音をうまく記事にできたかは別だ。

私は透明ファイルの間に挟んでいた、古びたメモ帳に指を触れた。角が丸くなり、表紙は擦れて白くなっている。仕事がないのに、なぜか捨てられない。
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