【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
それから数日で、怜央の回復は目に見えて進んだ。

最初に戻ってきたのは、医師としての記憶だった。
カルテの読み方も、薬の名前も、手術の手順も、びっくりするくらい正確に体へ戻ってくるらしい。
朝食の席でも、タブレットに表示された検査データを見て、「この数値なら利尿薬を切るのは早い」と平然と言うので、もはや患者とは何なのか少しわからなくなる。

「完全に医師としての記憶が戻ってきたんですか?」

「ああ。入院中の時よりもはっきりとな」

「だからって、病人が病院の方針に口を出さないでください」

私が言うと、怜央はコーヒーではなく薄い白湯を飲みながら、いかにも不満そうに眉を寄せた。

「元・主治医としての意見だ」

「今は患者です」

「面倒だな」

「知ってます」

隣で報告書をめくっていた御堂が、顔を上げずに言った。

「その会話、今朝で四回目です」

「数えてたんですか」

「退屈しのぎです」

相変わらず失礼だ。

でも、そんなやり取りの途中で、不意に怜央が視線を遠くへやることがある。

「どうかしました?」

私が尋ねると、彼は少し考えるようにしてから答えた。

「母が緊張すると、左手の親指を撫でる癖があることを思い出した」

「……そんな細かいことまで?」

「父が将棋で負けると黙ることも。御堂が子どもの頃から可愛げのない顔をしていたことも」

「後半は訂正を要求します」

即座に御堂が言い返す。
私は吹き出しかけて、慌てて口元を押さえた。

「幼少期の家の庭も、研修医の頃に寝泊まりしていた当直室の匂いも、初執刀の日の手順も思い出した」

怜央の声が、そこで少しだけ低くなる。

「でも、それ以上がない」

テーブルの上にすこし沈黙が落ちた。

「事故の前後も?」

怜央は頷く。

「ない。両親や御堂、病院のことはかなり戻ってきた。でも私生活だけが、そこだけ切り取られたみたいに空白だ。事故のことも、なぜあの道を走っていたのかも思い出せない」

そして、まっすぐ私を見る。

「君とのことも」

胸の奥が、ちくりとした。

本当は最初から、思い出すはずの「私たち」なんて存在しない。
痛む資格なんてないのに、それでも一瞬だけ呼吸が浅くなる。

「……焦らなくていいですよ」

言えたのは、それだけだった。

怜央は少しだけ目を細める。

「焦ってるのは、思い出せないことそのものじゃない」

「え?」

「君に関する空白だけが、妙に腹立たしい」

スープを飲みかけて、私は本気でむせた。
御堂が即座に紙ナプキンを差し出してくる。

「奥様、耐性がなさすぎます」

「誰のせいだと思ってるんですか!」

「怜央様ですね」

御堂は一拍も置かなかった。
怜央は怜央で、どこが問題なのかわかっていない顔をしていた。
< 39 / 113 >

この作品をシェア

pagetop