【改稿版】記憶を失くした御曹司と偽りの妻
私は苦笑して、現実に引き戻される。雑居ビルの軒先から一歩出ると、夜の雨が容赦なく頬を打った。

傘の骨が一本、少し曲がっている。風に煽られるたび、ぎしぎし情けない音を立てる。

駅から家まで歩いて二十分。電車代を浮かせたくて、私は大通りではなく川沿いの道を選んだ。人通りが少なく、街灯もまばらだ。雨の日のアスファルトは黒く光って、踏むたびに水たまりが跳ねる。

面接で言えなかった本音ばかりが、頭の中で反芻される。

やる気はあります。
夜間も対応できます。
コミュニケーション能力には自信があります。

全部、本当だ。
でも、本当に言いたかったのはそんなことじゃない。

私は書くことしか、うまくできない。
現場に立って、誰かの息遣いを拾って、言葉にすることしか。

なのに、言葉は家賃を払ってくれない。

「……最悪」

立ち止まって空を見上げる。雨粒が容赦なくまぶたに落ちる。

そのときだった。

甲高いブレーキ音が、雨音を切り裂いた。

続いて、鈍い衝突音。

金属がひしゃげる嫌な音が、夜の川沿いに響く。

私は反射的に顔を上げた。少し先の交差点で、黒いセダンがガードレールに突っ込んでいた。フロントが大きく歪み、片方のライトが道路脇を虚ろに照らしている。ハザードが不規則に瞬いていた。

足が止まる。

行かなきゃ、と思うのに、体がすぐには動かない。

事故だ。
関われば面倒になるかもしれない。
警察、救急、事情聴取。時間も取られる。今の私には面倒ごとにかかわる余裕はない。

それでも、次の瞬間には走っていた。

そういうところが、私の悪い癖だと思う。

現場の匂いがすると、足が向いてしまう。誰かが見て見ぬふりをする場所ほど、目を逸らせなくなる。元記者、なんて肩書きはもう意味がないのに、体だけが覚えている。
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