あなたをストーカーにしてごめんなさい
あの日、玄関先に響いたカンチの声は、私を現実に引き戻す警笛だった。

その後、私は逃げるように実家へ身を寄せた。けれど、カンチは諦めてくれなかった。
彼が知ったのは、私が再び「夜の世界」へ戻り、風俗嬢をしているという事実だった。彼は、私を救い出そうと、夜の街を、そしてついには隠していた実家までも突き止めた。


夜の蝶として舞い、酒を飲み、男に抱かれ、稼ぐ。その一円一円を、私は自分の血を分けるようにして貯めていった。クソ旦那の借金を削り落としていく作業は、自分の過去を浄化していく儀式のようでもあった。

​「これ以上、家族を巻き込むわけにはいかない」
実家の玄関先にまで彼の影がちらつく恐怖に耐えきれず、私は逃げ場を失うようにして、独りで古いアパートを借りた。そこなら誰にも、カンチにさえも見つからないはずだと自分に言い聞かせて。

​あの熱に浮かされた三週間が、まるで幻だったかのように、私は元の乾いた日常の歯車へと戻っていった。

けれど、カンチという存在は静かに、けれど確実に私の日常を侵食していった。彼が「客」から「ストーカー」へと変貌を遂げたとき、世界は一変した。

突き止めた店からは出禁になり、姿を見せなくなった。その代わりに、彼は私の行く先々に不吉な影を落とした。車で出かければ、駐車場の入り口を塞ぐようにして自分の車を停め、こちらの退路を断つ。

​逃げ場のない車内から見える彼の姿は、歪んだ使命感に燃える「スーパースター」のように、どこか現実離れした狂気を帯びていた。

​やがて、あんなに執拗だった連絡が途絶え、付きまといも止まった。どこかで「これでようやく終わったんだ」と胸をなでおろし、安堵していた。

​最近カンチに付きまとわれなくなった――。
そう確信し、ようやく手に入れた平穏に油断していた頃だった。

​仕事が終わり、誰にも教えていないはずの、借りたばかりのアパートの駐車場に車を止めたときだった。
それは、逃げようのない、あまりに唐突な再会だった。
​ふと顔を上げたとき、フロントガラスの向こうにカンチが立っていた。
街灯の下、逃げ出すことも、目を逸らすこともできない距離で、彼は私を見つめていた。心臓の鼓動が耳の奥で激しく打ち鳴らされる中、私は震える指先で、ゆっくりと運転席の窓を下げた。

「好き」という感情は、時に毒になる。
​私がソープ嬢になったことで彼のスイッチを押してしまったのだ。
「あの時、俺が出ていくのを止めなかったから……」
彼はそう繰り返し、自分を責めるふりをしながら、救済者という名のストーカーへと変貌した。自分が行かせたせいで私が汚れたのだと、勝手な後悔を免罪符にして、私を監視する正当性を得たようだった。

その悔恨さえも、私を縛り付けるための身勝手な凶器でしかなかった。
​私の選択を勝手に悲しみ、嘆く彼の声。正義の味方にでもなったつもりなのだろうか。私の生活、子供の未来、クソ旦那の借金――そんな泥まみれの現実を、彼は何一つ知らないくせに。

入り込んできた外気は、思いのほか冷たかった。
​私は、これまでずっと胸の奥に澱のように溜まっていた言葉を、一つひとつ、絞り出すように伝えた。

彼が嘆き、絶望している「夜の世界」で私が働いている本当の理由。クソ旦那が残した泥沼のような借金のこと。子供を守るために、自分の身を削ってでも金を稼がなければならない現実。

​「私はカンチの生活を壊したくない…だから……もうカンチのところには戻れないよ」
​その言葉は、彼への拒絶であると同時に、私自身が過去の自分に引いた最後の一線でもあった。もう、あの頃のような何も知らない無垢な私には戻れない。戻る場所なんて、どこにもない。

​カンチは、何も言わなかった。
ただ、弾かれたように後ろを振り向いた。丸まった背中が、微かに、けれど激しく震えている。
彼は泣いていた。
​自分の名前を「スーパースター」と読むと行って笑っていた彼の、あまりにも脆く、あまりにも人間らしい後ろ姿。その涙が、純粋な悲しみだったのか、それとも現実を知った絶望だったのかは分からない。

​私は、彼が振り返るのを待たずに、静かに窓を閉めた。


今なら、あの時泣いていたカンチの背中に、心のなかでこう告げられる。
「私、飛行機が見えなくても機嫌が良いよ。自分でおいしいご飯を、自分の力で食べられるようになったよ。……だから、もう大丈夫」

​私はもう、誰かの観測対象ではない。自分の足で立ち、自分の人生を食らって生きていく一人の女になったのだ。

​あれから、2年の月日が流れた。
​かつての夜の喧騒が嘘のように、今の私の手元には、教科書のインクの匂いと、幼い娘の柔らかな肌のぬくもりがある。

あの重苦しかった借金は、一円残らず返し終えた。必死に蓄えた貯金通帳の数字は、私が「逃げなかった」ことの唯一の証拠だ。

​夜の仕事を辞め、看護学校の分厚い医学書を開く毎日。慣れない解剖図や薬理学に頭を抱える夜もあるけれど、その苦労さえも、どこか誇らしい。

​それでも、ふとした瞬間に、自分の空いた片手を見つめてしまう。
「……カンチといたら」
口の中でその名前を転がすと、苦い記憶が蘇る。あの時、逃げずにカンチのそばで返済を続けていたら、今はどんな景色を見ていただろう。

​借金がゼロになったこの朝を、二人で迎えられていたのだろうか。その時には、私たちの絆は今よりもっと、濁りのない違う形になっていたはずなのに。

​「ママ、おなかすいた」
​背後から聞こえた小さな声に、私は現実に引き戻される。
離してしまった手のひらの熱は、今も消えずに残っている。けれど、私はもうその熱に縋ることはしない。

​私は立ち上がり、キッチンへと向かう。
もう、誰かに救われるのを待つ時間は終わった。
私は私の、そしてこの子のために、今日もおいしいご飯を作る。

​窓から見える空には、飛行機雲が一本、真っ直ぐに伸びていた。



あとがき

彼は、本当は誰よりも気が小さくて、猫を見かけると目尻を下げるような優しい人だった。

自分の弱さを隠すみたいに「俺はスーパースターだ」なんて嘯(うそぶ)いて、一生懸命自分を大きく見せようとしていた。

​カンチといたら。
カンチのそばで、借金を返していたら……。

​手元に残った、彼がくれたピンクの手袋。
今の私には少し鮮やかすぎるその色は、彼が背伸びして選んでくれた強がりの裏返しみたいで、どうしても捨てられない。

カンチ愛してくれたのにごめん。傷つけてごめん。
どこかで笑っていてくれること祈っています。




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