徒し世を駆けろ

隣の淡島ちゃん

 結局のところ、彼女を邪険には出来ないのだ。

「冬の空てさぁ、なんやうっすい色しちゃーると思わへん?」

 淡島のお喋りはいつも唐突だ。系統を立てて話をしようという考えは、どうやらこの女子生徒の頭の中にないものらしい。思いついたらすぐさま口にするから、話についていくのも並大抵の事ではない。今だって、ほんの数秒前まで今日の数学の授業がどうとかを話していたはずだ。一雨は防衛線のように手にした本から、ちらりと目を上げた。窓の桟に肘を乗せ、淡島はだらしなく椅子に腰掛けている。自分の席でもないのに、図々しい事この上ない。この辺りの厚かましさは、一雨には到底真似できそうにない芸当だ。尤も、真似したいと思った事も一度もないが。

「何でやろなぁ、空気が冷たいから?」
「さあな」

 また本に目を戻す。ページは先程からちっとも進んでいない。第一、読書をしている人間に、いちいち話し掛けてくるのは礼儀知らずもいいところだ。自分が明らかに他人の邪魔をしていると、どうして彼女は気づかないのだろう。無神経にも、程がある。

「北極の空とかもこんな色しちゃーるんかな」
「……北極?」

 また随分と話が飛躍する。仮に空気が冷たいからとしても、日本の冬と北極の気候とでは天と地程も差があるのではないだろうか。目は機械的に文字の列を追っているものの、一雨の思考はどんどん横滑りしていく。

「あ、雀」

 淡島の暢気な声がした。北極圏の空の色など、既に彼女の頭の中には残っていないらしい。

「なんかさぁ、雀の歌てあったやん。どんなんやっけ」
「知らん」
「何やっけなぁ。雀のおかーさん……おとーさんだっけ。網走先輩に教えてもろたの」

 ぶつぶつと呟くように歌詞を思い出している。やがて一小節ばかり、童謡らしい節を口ずさんでいたが。それ以上は思い出せないようだった。その内、何やらひどくでたらめな音階で鼻歌を歌いだす。明らかに音譜を読んでいるような調子なのだが、脳内の鍵盤を一つ一つ、思いつくままに叩いてみるような。まるで旋律にならない無作為な音の並べ方なのだ。流石に怪訝に思って、一雨は再度顔を上げる。

「あー」

 ほぼ同時に、間の抜けた声と共に鼻歌が途切れた。

「音符が飛んでった」
「音符?」
「電線が五線譜で、ええ感じに雀が止まっちゃーったさけ」

 一雨は窓の外を見た。薄い青い空を背景に、電線が五本並んでいる。成る程、あそこに雀が止まっていたのなら、それは楽譜に音符を並べたように見えるのかもしれない。だからと言って歌う気になるのもどうかしていると思う。ともあれ腑に落ちた事は確かだった。一雨は納得して開きっぱなしの文庫本に目を落とす。ふと、小さな忍び笑いが聞こえた。肘の上に小さな顎を乗せたまま、淡島がくすくす笑っている。

「何だ」
「一雨くん、ほんま付き合ええよね」

 淡島は目を細める。かあっと頬が熱くなるのを感じた。慌てて本に視線を戻す。目は文章を追っても、まるで内容が頭に入ってこない。何の意味も無い文字の羅列を読んでいる様だ。本は淡島に対する防衛線のはずなのに、彼女の言葉は易々とそれを突破してしまうのだ。

「一雨くん、ええ子やねぇ」

 笑い含みに言う声が聞こえる。ページは、遅々として進まない。
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