親愛なる旦那様、妻の役目は世継ぎを設けるだけと聞いておりましたが~虐げられ才女の幸せな結婚~2
息が切れるほど走って出迎えたい存在ができるなんて、かつての私なら考えられなかった。
肌を刺すような寒さが日に日に和らぎ、シェラーデン帝国の帝都の大通りでは午後になると雪が溶け、石畳が濡れている。
壮麗な公爵邸から門へと続く一本道も例に漏れず、私――クロエは、視察帰りの夫を出迎えるために、ワンピースの裾が濡れないようスカート部分を持ち上げて走っていた。
門の前まで辿り着くと、冬の鈍い陽光を浴びて輝きを放っているかのような夫、グレン・スウェイド様を視認する。愛馬から降りた彼は、射干玉の美しい黒髪を風に遊ばせ、御者と話していた。
愛する人を見つけた私は、心の内から溢れる喜びのままに、逞しい背中へ声をかける。
「グレン様、おかえりなさいっ」
「ただいま、クロエ」
振り返ったグレン様が迎え入れるように両手を広げたので、私は厚い胸板に飛びこむ。任務先から直帰したのだろう。その証拠に、皇室騎士団の第一師団で騎士団長を務める彼からは、ティーツリーとローズマリーの香りに混じって、微かに土埃の匂いがする。
それさえ愛おしく思うのだからこの恋は重症だ。
「手を広げたのは俺だが、恥ずかしがり屋のクロエから抱きついてくれるとは思わなかった」
グレン様の太い首から浮き出た喉仏が、笑い声に合わせて震えている。シャープな顎のラインや薄い唇、筋の通った鼻と、イエローダイヤモンドを嵌めこんだように美しい双眼。そのどれもが完璧に配置された美貌に見惚れていると、不意に彼の顔が近付き、視界が陰った。
次の瞬間、チュッと可愛らしい音を立てて口付けられる。私が母親譲りのペリドットの瞳を真ん丸に見開くと、グレン様は悪戯っぽく笑った。
「可愛いな、クロエ」
「……っか、からかわないでください」
「本心だよ。ヘリオス陛下の気まぐれによって視察に同行させられたお陰で、一カ月近くも貴女に会えなかった。しばらくぶりの妻が可愛くないはずがないだろう?」
皇帝陛下への若干の恨み節を滲ませつつ、グレン様は私のミルクティーブラウンの髪を撫でる。
「ずっと、こうしてクロエに触れたかった」
「……あの、私も……グレン様に触れてほしかったです……」
(まさかこんな恥ずかしい言葉を、素直に口にできる日が来るなんて。一年前なら想像がつかなかった)
私はこの一年の出来事を、心の中で振り返る。グレン様とは元々、愛のない婚姻関係だった。生家である子爵家で父親からは愛情を注がれず、恵まれた妹に婚約者を寝取られた私が、その醜聞を隠すために嫁いだ相手がスウェイド公爵家の当主であるグレン様だったのだ。
魔力を持つ者が数えるほどしかいなくなったシェラーデン帝国で、ずば抜けた才能を持つ魔法士の彼は、その優秀な遺伝子を残すためにヘリオス陛下から結婚をせっつかれ、世継ぎを設けることを目的として婚姻関係を結んだ。
そう、私たちは利害関係があって成りたつ夫婦だったのだけれど……。
共に生活していく中で惹かれ合い、互いに心を通わせることができた。お陰で私は、幸せの絶頂にいる。
「結婚してから一年近く経つのに、熱烈なことだな」
寒空の下で抱きあっていると、からかうような声がかかった。
久方ぶりに夫に会えた喜びに浸っていた私はどうやら、視野が極端に狭くなっていたらしい。我に返ると、視界に広がる光景に泡を食う。
「……っヘリオス陛下!?」
大国シェラーデンの皇帝陛下が、外套に覆われた腕を組んで、こちらをニコニコと眺めていた。
白銀に煌めく長髪は、日の光を浴びて天使の輪を作りだしている。かの方の後ろには皇室の豪奢な馬車が停まっており、グレン様との視察帰りに、直接ここに立ち寄ったことが窺えた。
私は飛びのくようにグレン様と距離を取り、背筋を伸ばす。それでも羞恥で赤くなった耳は隠しようがない。
「どうしてこちらに……あの、浮ついたところをお見せしてしまい、申し訳ございません」
「お前たちが仲睦まじいのは喜ばしい。我が国随一の魔法士であるグレンに世継ぎを望み、結婚を急かしたのは私だからな。だが……」
菫色をしたヘリオス陛下の双眼が、蛇のごとくキュッと細められる。透き通るような肌と新雪を思わせる髪色から一見儚げな印象を受ける方だが、放つ威圧感は国家元首に相応しい重々しさだ。
私が唾を飲みこむのと同時に、ヘリオス陛下は告げた。
「世継ぎを設けるのは待ってくれないか」と。
「え……?」
私は無意識に戸惑いの声を発し、自身の薄い腹に手を当てる。隣に立つグレン様は眉根を寄せた。
(……私とグレン様の間に子が生まれることを望んでいたのは、ヘリオス陛下だったのに……?)
私の疑問が表情に表れていたのか、ヘリオス陛下は改まった様子で言った。
「お前とグレンに、頼みがある。どうか私の願いを叶えてくれ」
まさかそれが――私たち夫婦を巻きこむ大きな事件になることを、この時の私は知る由もなかった。
肌を刺すような寒さが日に日に和らぎ、シェラーデン帝国の帝都の大通りでは午後になると雪が溶け、石畳が濡れている。
壮麗な公爵邸から門へと続く一本道も例に漏れず、私――クロエは、視察帰りの夫を出迎えるために、ワンピースの裾が濡れないようスカート部分を持ち上げて走っていた。
門の前まで辿り着くと、冬の鈍い陽光を浴びて輝きを放っているかのような夫、グレン・スウェイド様を視認する。愛馬から降りた彼は、射干玉の美しい黒髪を風に遊ばせ、御者と話していた。
愛する人を見つけた私は、心の内から溢れる喜びのままに、逞しい背中へ声をかける。
「グレン様、おかえりなさいっ」
「ただいま、クロエ」
振り返ったグレン様が迎え入れるように両手を広げたので、私は厚い胸板に飛びこむ。任務先から直帰したのだろう。その証拠に、皇室騎士団の第一師団で騎士団長を務める彼からは、ティーツリーとローズマリーの香りに混じって、微かに土埃の匂いがする。
それさえ愛おしく思うのだからこの恋は重症だ。
「手を広げたのは俺だが、恥ずかしがり屋のクロエから抱きついてくれるとは思わなかった」
グレン様の太い首から浮き出た喉仏が、笑い声に合わせて震えている。シャープな顎のラインや薄い唇、筋の通った鼻と、イエローダイヤモンドを嵌めこんだように美しい双眼。そのどれもが完璧に配置された美貌に見惚れていると、不意に彼の顔が近付き、視界が陰った。
次の瞬間、チュッと可愛らしい音を立てて口付けられる。私が母親譲りのペリドットの瞳を真ん丸に見開くと、グレン様は悪戯っぽく笑った。
「可愛いな、クロエ」
「……っか、からかわないでください」
「本心だよ。ヘリオス陛下の気まぐれによって視察に同行させられたお陰で、一カ月近くも貴女に会えなかった。しばらくぶりの妻が可愛くないはずがないだろう?」
皇帝陛下への若干の恨み節を滲ませつつ、グレン様は私のミルクティーブラウンの髪を撫でる。
「ずっと、こうしてクロエに触れたかった」
「……あの、私も……グレン様に触れてほしかったです……」
(まさかこんな恥ずかしい言葉を、素直に口にできる日が来るなんて。一年前なら想像がつかなかった)
私はこの一年の出来事を、心の中で振り返る。グレン様とは元々、愛のない婚姻関係だった。生家である子爵家で父親からは愛情を注がれず、恵まれた妹に婚約者を寝取られた私が、その醜聞を隠すために嫁いだ相手がスウェイド公爵家の当主であるグレン様だったのだ。
魔力を持つ者が数えるほどしかいなくなったシェラーデン帝国で、ずば抜けた才能を持つ魔法士の彼は、その優秀な遺伝子を残すためにヘリオス陛下から結婚をせっつかれ、世継ぎを設けることを目的として婚姻関係を結んだ。
そう、私たちは利害関係があって成りたつ夫婦だったのだけれど……。
共に生活していく中で惹かれ合い、互いに心を通わせることができた。お陰で私は、幸せの絶頂にいる。
「結婚してから一年近く経つのに、熱烈なことだな」
寒空の下で抱きあっていると、からかうような声がかかった。
久方ぶりに夫に会えた喜びに浸っていた私はどうやら、視野が極端に狭くなっていたらしい。我に返ると、視界に広がる光景に泡を食う。
「……っヘリオス陛下!?」
大国シェラーデンの皇帝陛下が、外套に覆われた腕を組んで、こちらをニコニコと眺めていた。
白銀に煌めく長髪は、日の光を浴びて天使の輪を作りだしている。かの方の後ろには皇室の豪奢な馬車が停まっており、グレン様との視察帰りに、直接ここに立ち寄ったことが窺えた。
私は飛びのくようにグレン様と距離を取り、背筋を伸ばす。それでも羞恥で赤くなった耳は隠しようがない。
「どうしてこちらに……あの、浮ついたところをお見せしてしまい、申し訳ございません」
「お前たちが仲睦まじいのは喜ばしい。我が国随一の魔法士であるグレンに世継ぎを望み、結婚を急かしたのは私だからな。だが……」
菫色をしたヘリオス陛下の双眼が、蛇のごとくキュッと細められる。透き通るような肌と新雪を思わせる髪色から一見儚げな印象を受ける方だが、放つ威圧感は国家元首に相応しい重々しさだ。
私が唾を飲みこむのと同時に、ヘリオス陛下は告げた。
「世継ぎを設けるのは待ってくれないか」と。
「え……?」
私は無意識に戸惑いの声を発し、自身の薄い腹に手を当てる。隣に立つグレン様は眉根を寄せた。
(……私とグレン様の間に子が生まれることを望んでいたのは、ヘリオス陛下だったのに……?)
私の疑問が表情に表れていたのか、ヘリオス陛下は改まった様子で言った。
「お前とグレンに、頼みがある。どうか私の願いを叶えてくれ」
まさかそれが――私たち夫婦を巻きこむ大きな事件になることを、この時の私は知る由もなかった。
< 1 / 3 >