私を買ってくれた人は、世界を動かす男でした
第14話 遅すぎた出会い
【本文】
 恋日記の続きが見つかったのは、まったく劇的ではない午後だった。久留巳が旧資料箱の底をさらっていたら、薄い封筒に挟まれた数枚の紙が出てきたのだ。書き手は同じ。インクも紙質も近い。ただ、前のノートより少しだけ筆圧が強い。卒業の直前、あるいは直後に書かれたものかもしれない。

 「今日は紅茶いる?」
 久留巳がいつも通りの調子で訊く。
 響はすぐうなずいた。真叶まで当然のように席についている。
 「君も読む?」
 久留巳が訊くと、真叶は少し考えた末、
 「今日は邪魔しないように読む」
 と言った。
 「その宣言、今まで邪魔してた自覚あるんですね」
 響が返すと、彼は小さく笑った。
 「多少は」

 新しく見つかった頁には、進路を決めたあとの少女の心情が記されていた。彼女は結局、恋より別の夢を選んだらしい。淡い憧れは憧れのまま置き、遠い土地へ出る準備をしている。けれど、そのことを「諦め」とは書いていなかった。
 ――私は、あの人を選ばなかったのではない。
 ――先に、自分の足で立つほうを選んだ。
 響はその一文を読んだ瞬間、息を呑んだ。胸の奥で、いくつかの線が急につながる。

 さらに頁をめくる。
 ――遅すぎた出会いでも、遅すぎた未来にはならない。
 ――もし出会った時に間に合わなかったなら、その時の私はまだ受け取れなかっただけだ。
 ――受け取れないものを、間違いと呼びたくない。

 教室の中がしんとする。窓の外にはまだ午後の光があるのに、響にはその一文だけが妙に明るく見えた。遅すぎた出会いでも、遅すぎた未来にはならない。言葉にすると簡単なのに、読んだ瞬間、心のどこかで固まっていたものが少し溶ける。

 「ずるい」
 響は思わず言った。
 「こんなの、救われるに決まってる」
 久留巳が柔らかく笑う。
 「ね」
 真叶は黙っていた。だが隣でその沈黙の質が変わるのを、響は感じた。冗談を挟む気配がなく、ただ本気で読んでいる時の静けさだ。

 しばらくして久留巳が席を立ち、紅茶を淹れに出ていった。教室に残ったのは、響と真叶、それからページをめくるかすかな音だけ。響が視線を上げると、真叶も同じところを読んでいた。
 「何ですか」
 「いや」
 彼は紙から目を離さずに言う。
 「いい言葉だなと思って」
 「それだけですか」
 「それだけじゃない」
 「じゃあ」
 真叶はようやくこちらを見た。
 「俺らにも当てはまるかもって思った」
 響の指が止まる。ページの角を持ったまま動けない。
 「……勝手に主語を大きくしないでください」
 「大きくしてない。二人分」
 「それが大きいんです」
 「でも、考えた」
 響は何も返せなかった。言葉の内容より、その言い方に動揺する。押しつけるようでいて、決めつけきらない。考えた、とだけ置いてくるから、自分の中でも考えてしまう。

 久留巳が戻ってくると、場の空気を一目で読んだらしく、何も聞かずに紅茶を配った。
 「青春してるねえ」
 「してません」
 響と真叶が同時に返し、久留巳は肩を揺らした。
 「そういう揃い方がもう青春」

 午後の残り時間は、日記の文字起こしと抜粋候補の整理に使った。だが響の頭の半分は、ずっとあの一文に囚われていた。遅すぎた出会いでも、遅すぎた未来にはならない。これまで、自分が何かへ惹かれた時、それが「いまさら」ではないかと先に諦める癖があった。似合わない。場違いだ。もっと前なら。もっと別の人なら。そうやって手を引いてきたものが、いくつあっただろう。

 夕方、展示室で解説文の最終位置を確認していると、真叶が珍しく余計な軽口を言わなかった。必要な確認だけをして、距離も少し保っている。その控えめさが、かえって響を落ち着かなくさせる。プールサイドの夜以降、二人のあいだには一歩分の空白ができた。壊れたわけではない。だが、以前のように軽くからかって済ませるには、もう少し近づきすぎている。

 「避けてます?」
 作業が終わりかけたころ、響はつい訊いてしまった。
 真叶はトリフェーンのケースを見たまま答える。
 「少し」
 「どうして」
 「この前、危なかったから」
 率直すぎて、逆に息が詰まる。
 「私、避けろって言いましたっけ」
 「言ってない」
 「じゃあ」
 「君が考える時間、奪いたくない」
 その返事に、響は一瞬本気で言葉を失った。守る、整える、拾う。いつも先回りする人が、自分の衝動より先にこちらの時間を優先している。それは、想像していた以上に優しかった。

 「……ずるい」
 今度は真叶が瞬く。
 「何が」
 「そういうところです」
 「褒めてる?」
 「違います」
 「残念」

 夜、宿舎へ戻る途中、久留巳が坂の途中で待っていた。保温ポットを抱え、まるで散歩のついでのような顔をしている。
 「ちょうどよかった。紅茶の残り、持ってきた」
 「ありがとうございます」
 二人で宿舎のベンチへ座ると、久留巳はカップへ湯気の立つ紅茶を注いだ。
 「真叶くん、ちゃんと待てるんだね」
 いきなり核心が飛んできて、響は咳き込む。
 「何の話ですか」
 「いまの話」
 「雑すぎます」
 「でも合ってるでしょ」
 久留巳は静かに笑った。
 「押せる人が待てる時って、だいたい本気なのよ」
 響はカップの縁を見つめたまま、小さく息をついた。
 「本気とか、そういうの、今は仕事を難しくします」
 「うん」
 「噂もあるし」
 「うん」
 「でも」
 「でも?」
 久留巳は急かさない。
 「嫌じゃないんです」
 口にした途端、自分の頬が熱くなる。久留巳は驚きも冷やかしもせず、ただ穏やかにうなずいた。
 「知ってた」
 「何でですか」
 「見てればわかる」
 「皆そんなこと言います」
 「あなた、表情に出るタイプだから」
 それは最近何人にも言われている。そんなにわかりやすいのか、と情けなくなる。

 紅茶を飲み終えたあと、久留巳はぽつりと言った。
 「遅すぎた出会いって、間に合わなかった恋の言い訳みたいに聞こえるけどね」
 「はい」
 「ほんとは、出会った時に自分がまだ受け取れない状態だっただけ、ってことも多い」
 響は黙って聞く。
 「だから、遅いとか早いとかに振り回されるより、自分が立てるかどうかのほうが大事」
 その言葉は、恋日記の続きとまっすぐ重なった。

 部屋へ戻ってからも、響はしばらく眠れなかった。窓の外には薄い月が見える。机の上には解説文の最終稿、恋日記の文字起こし、晏寿の試作メモ。全部が仕事のはずなのに、そのどれもが少しずつ心の話へつながっていく。いまさら。似合わない。場違い。その言葉たちの効き目が、前より弱くなっていることに気づく。

 遅すぎた出会いでも、遅すぎた未来にはならない。
 もしそうなら、自分がいまここで感じているものも、全部「間違い」ではなく「まだ途中」なのかもしれない。

 けれど、途中だからこそ怖い。
 受け取ってしまったら、前よりずっと戻れなくなる気がするから。
 その恐れごと抱えたまま、響は夜更けにようやく目を閉じた。
【続】

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