岐路のパキスタン

第8話 世界史上最大の「if」 -Khyber Pass

 世界史上最大の「if」。カイバル峠の魅力はまさにその一点に尽きる。

 紀元前15世紀、もしアーリア人がこの峠を越えていなかったら? 紀元前4世紀、もしアレキサンダー大王がこの峠の手前で引き返していたら? 7世紀、もし玄奘三蔵がこの峠を登り切ることができなかったとしたら? その他、チンギス・ハンやマルコ・ポーロなど、歴史に名を刻む幾多の有名人がもしこの峠を自らの経路に選ばなかったとしたら? 現在の世界はいったいどうなっていたのだろう。

 アーリア人の侵入以前、インダス川流域にはドラヴィダ人と呼ばれる人々が住んでいた。インダス文明の創始者にも擬せられる彼らだが、カイバル峠を越えてきた異形の白人たちによりインド亜大陸の南端にまで追いやられてしまう。新たな支配者となったアーリア人は、ドラヴィダ人の奴隷化を通じて階級制度を確立し、それはやがてヒンドゥー教の基礎となるカースト制度に行き着く。現代に至るインド世界の誕生だ。

 つまり、もしアーリア人がこの峠を越えていなかったら、インド亜大陸は依然としてドラヴィダ人のものであり、インダス文明が現在に至るまで存続していたかもしれない。

 弱冠22歳にして祖国マケドニアを出発したアレキサンダーは、宿敵ペルシャ帝国を打ち破った勢いに任せ中央アジアを駆逐し、ついにはカイバル峠を越えインダス川流域に至る。しかし、長旅と度重なる戦闘で疲弊していた軍は士気の低下も著しく、勇猛果敢で知られるパシュトゥン人を前に世界帝国の夢破れることとなった。

 だが、もしアレキサンダーがこの峠の手前で引き返していたら、西洋と東洋が出会うことはなく、大航海時代の訪れもなかったかもしれない。現在のようなグローバリゼーションの到来にはまだ何世紀も要した可能性が高い。

 ゴータマ・シッダールタを開祖として成立した仏教は、インドではヒンドゥー教に圧され消滅の危機に瀕していた。そんな中、唐を出た玄奘は灼熱のタクラマカン砂漠や厳寒の天山山脈はおろかカイバル峠も越えてインドに至り、大分冊の教典、仏像、仏舎利など、仏教のすべてを持ち帰る。帰国後は皇帝の支援も受けて訳経に専念し、その成果は中国のみならず朝鮮半島や日本にも伝えられることとなった。

 だから、もし玄奘がこの峠を登り切ることができなかったとしたら、仏教は現在のような世界宗教とはなり得ず、鉄砲とともにやって来たポルトガル人によって日本はキリスト教国になっていたかもしれない。

 検問所を越え、展望台からアフガニスタンの国土を見下ろしたとき、そんなあれやこれやの想いが止めどなく浮かんできて、感動のあまりしばらくその場を動けなかった。

 眼下に拡がる素晴らしい景観も、おそらく僕の目には映っていなかった。見えていたのは何千年にもわたる人々の往来と、彼らが刻んだであろう夥しい数の喜怒哀楽のドラマだ。

 ここが、世界を変えた峠。

 添乗員に促されてもなかなか立ち去ることができなかった。まさか生きているうちにこの場に立てるとは思わなかった。大げさではなく、心の底からそう思った。

 名残惜しげに何度も振り返っていると、あれれ、検問所の脇から羊が一頭、また一頭と姿を現してくるではないか。群れとなった羊は牧童に追われ、僕たちの横を掠めるように通り過ぎて行った。そうか。観光客にとっては「世界を変えた峠」でも、遊牧民にとっては日々の散歩道に過ぎないのか。ふと、マザー牧場に行った時のことを思い出してしまった。
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