野いちご源氏物語 五四 夢浮橋(ゆめのうきはし)
<兄君がお手紙でおっしゃっていた、薫の君のお使者だろうか。今持ってきたお手紙の方が先に届くはずだったのなら、そちらに詳しいことが書いてあるのかもしれない>
尼君はお部屋のそばへお呼びになった。
たいそうかわいらしい少年で、きちんとした格好をしている。
女房が簾の向こうに敷物を差し出して対応しようとすると、
「尼君と直接お話しさせていただくように僧都様はおっしゃいました」
と少年は言った。
仕方がないので尼君が対応なさる。
「僧都様からのお手紙です」
少年が持ってきた手紙の宛名は「ご出家なさった姫君へ」、差出人は僧都のお名前になっている。
浮舟の君は尼君から包み紙を見せられると、
<あぁ、もう駄目だ。何が書かれていたとしても、『私のことではありません』とは言えないだろう>
と、着物のなかに顔を隠してしまった。
「いつもはっきりなさらないご性格ですけれど、こんなときまでそれでは嫌になってしまいますよ」
尼君は困りはてながらお手紙をお開けになる。
「今朝、私のところに薫の君がいらっしゃいました。あなた様についてお尋ねになりましたから、宇治の院でお助けしたことからすべてお話しいたしました。
あなた様は薫の君の恋人でいらっしゃったのですね。そのご関係を一方的に壊して田舎で出家なさったことは、かえって仏様のお叱りを受けましょう。まさかそんなことだったのかと私も驚きました。
どうなさいますか。俗世間にお戻りになることもできますよ。薫の君はあなた様に未練がおありのようでしたから、もともとのご関係に戻って、薫の君のお苦しみを晴らしてさしあげた方がよろしいのではありませんか。
短い期間の出家でもご利益はあるものです。仏様はお許しくださいましょう。手続きなどの詳しいことは、私が下山したときに直接お話しいたします」
これ以上なくはっきりと書かれているけれど、尼君はまだ混乱していらっしゃる。
「まず、この小君という少年とあなたはどういうご関係なのですか。この期に及んで隠し事をなさるなんて」
浮舟の君が簾越しに見てみると、そこにいるのはまさに異父弟で、自殺を決意した日の夕方に恋しく思い出した人のひとりだった。
<一緒に暮らしていたころは生意気だったけれど、母君はかわいがって、宇治の山荘へもときどき連れていらっしゃった。その二年ほどでずいぶん大人びて、姉弟として仲良くするようになったのだ>
思い出すとまるで夢のような気がした。
何よりも母君のことが気になる。
<薫の君や匂宮様のお噂は聞こえてきても、母君のことなんて誰も話してくれないもの>
口を開こうとしても、小君を見るとかえって悲しくて、ほろほろと涙だけがこぼれる。
小君のかわいらしい顔立ちが浮舟の君に似ていることに、尼君はお気づきになった。
「きっと弟君ですね。積もる話もおありでしょうから、部屋のなかに入れてあげましょう」
と気を利かせなさる。
<とんでもない。もはや私は死んだも同然なのに。しかも見苦しい尼姿になっているのだから、ほんの少しでも見られたくない>
どう言えば尼君が納得してくださるか、考えながら話していく。
「隠し事をしているのではなく、本当に思い出せないのです。なんとか記憶をたぐり寄せて、母君がいらしたということだけは思い出しました。今もお元気だろうかとそればかりを気にしております。
この少年の顔は、以前見たことがあるような気もいたします。胸が熱くなるような感覚はあるのですが、やはり私はもう尼ですから、家族であっても縁を切ったままにしたいのです。そうは申しましても、もし母君が生きておいでなら、母君にだけはお会いしたいのですけれど。
まして、僧都様に私のことをお尋ねになったとかいう男性には、けっして生きていることを知られたくありません。どうかうまくごまかして、私の存在をお隠しください」
尼君は首を振っておっしゃった。
「それは難しいでしょうね。兄僧都は生真面目な人ですから、器用な嘘などおつきになれないのです。結局ばれてしまいますよ。それに薫の君のご身分を考えれば、適当な嘘などとても申せません」
女房たちも尼君に同意して、簾のなかに小君を入れてしまった。
<ついたての向こうに姉君がいらっしゃるようだけれど>
まだ少年なので、強気に話しかけることはできない。
「薫の君からも姉君宛てのお手紙をお預かりしてきたのです。受け取っていただけませんか」
伏し目がちに言うと、尼君がご同情なさる。
「おやおや、かわいらしい子がしょんぼりなさって。そのお手紙をお読みになるべき人は、たしかにこちらにいらっしゃいますよ。私にはまだよくご事情が分かりませんがね、もっと声をかけてごらんなさい。その幼さでお使者に選ばれたということは、あなたのお話なら姉君もお聞きになるだろうと、薫の君がお考えになったのですから」
「私のことなど知らないふりをなさっている人に、いったい何のお話をしたらよいか。でも薫の君は、『このお手紙を直接お渡しせよ』とお命じになったのです。どうしたらよいのでしょう」
どんどんしょんぼりしていくので、
「おかわいそうに。これでは小さなお使者さんは困って当然ですよ。さぁ、姫君。そんなふうに意地悪をなさってはいけません。あまりにひどい仕打ちです」
と、尼君は浮舟の君をついたての近くへ押しやりなさる。
うっすらと透けるついたての向こうに、茫然と座る若い女性の姿が見えた。
<姉君だ>
小君はついたての下からそっと手紙を入れる。
「お返事をすぐにいただいて帰ります」
居心地が悪くて急いでいるのね。
浮舟の君は手紙を開こうとしないので、尼君が開いてお見せになった。
昔と変わらない筆跡で、紙にはすばらしい香りがしみついている。
女房たちがはしゃいでほめそやしそうなお手紙よ。
「言葉にならないほど私をお苦しめになりましたね。事を荒立てるつもりはありません。あなたの罪は許しますから、せめてつらかった昔話をしたいのです。早くお会いしたい。我ながら愚かだとは思うけれど」
お気持ちがあふれ出たようなお手紙で、最後に、
「仏教の師と尊敬して交流させていただくようになった僧都ですが、思いがけずあなたにつながっていきました。この少年を覚えていらっしゃるでしょう。私はあなたのお形見だと思って世話していますよ」
と、お優しいことが書かれている。
もう尼君にお隠しすることはできない。
追いつめられた気持ちと、尼姿になった自分を見つけられてしまったという恥ずかしさで、浮舟の君は途方に暮れる。
心がますます暗くなって何も言えない。
ついに泣き伏してしまったので、
<もう少ししっかりしていただきたいものだ>
と女房たちは困る。
「どうお返事なさいますか」
尼君がきっぱりとお尋ねになった。
「しばらくして気持ちが落ち着きましたら、きっとお返事いたします。昔のことを思い出そうとしてもまったく思い出せないのです。『つらかった昔話』とおっしゃるのも何のことだか。少し落ち着けば思い出せることもあるかもしれません。
ですから、今日のところはこのままお帰りいただいてください。私の記憶がはっきりしない以上、もしかしたら人違いの可能性もあります。それでは気まずいことになってしまいますので」
お手紙を広げたまま尼君にお返しする。
「まだそんなことをおっしゃるのですか。隠し事をしようとなされば、あなたをかばう私たちまで仏様の罰を受けますのに」
尼君はお責めになるけれど、浮舟の君は着物に顔をうずめてしまう。
困っている小君に、尼君は言い訳するようにおっしゃった。
「姉君は一年ほど前にひどい妖怪に憑りつかれなさいましてね。私たちが偶然お助けして、妖怪も祓ったのですけれど、まだ体調が悪いと言って出家してしまわれたのです。ご家族が探しにいらっしゃったらどうしようかと心配しておりましたら、案の定こんなことになってしまって。
しかも薫の君の恋人でいらしたのですね。何も知らなかったとはいえ、申し訳ないことをしてしまったと恐縮しております。姉君はずっとご自分一人で悩みつづけていらっしゃって、そこへ今、薫の君からお手紙が届きましたから、少し混乱なさっているのでしょう」
それから尼君は、山里らしい風情ある食事を出しておやりになった。
小君は早く帰りたくてそわそわしながら、
「直接お手紙をお渡ししたという証拠に、何か一言だけでもおっしゃってください」
とお願いする。
尼君はそのまま浮舟の君に伝えたけれど、やはり返事はない。
「何もおっしゃいませんでした。ありのままに薫の君に伝えてさしあげてください。小野は都からそれほど遠くはありませんから、これに懲りずにまたおいでなさいね」
と尼君がおっしゃるので、小君は日暮れまでいてもどうしようもないだろうと帰ることにした。
慕っていた姉の姿をはっきりと見られなかったことが残念で悔しい。
とぼとぼと都に戻っていく。
尼君はお部屋のそばへお呼びになった。
たいそうかわいらしい少年で、きちんとした格好をしている。
女房が簾の向こうに敷物を差し出して対応しようとすると、
「尼君と直接お話しさせていただくように僧都様はおっしゃいました」
と少年は言った。
仕方がないので尼君が対応なさる。
「僧都様からのお手紙です」
少年が持ってきた手紙の宛名は「ご出家なさった姫君へ」、差出人は僧都のお名前になっている。
浮舟の君は尼君から包み紙を見せられると、
<あぁ、もう駄目だ。何が書かれていたとしても、『私のことではありません』とは言えないだろう>
と、着物のなかに顔を隠してしまった。
「いつもはっきりなさらないご性格ですけれど、こんなときまでそれでは嫌になってしまいますよ」
尼君は困りはてながらお手紙をお開けになる。
「今朝、私のところに薫の君がいらっしゃいました。あなた様についてお尋ねになりましたから、宇治の院でお助けしたことからすべてお話しいたしました。
あなた様は薫の君の恋人でいらっしゃったのですね。そのご関係を一方的に壊して田舎で出家なさったことは、かえって仏様のお叱りを受けましょう。まさかそんなことだったのかと私も驚きました。
どうなさいますか。俗世間にお戻りになることもできますよ。薫の君はあなた様に未練がおありのようでしたから、もともとのご関係に戻って、薫の君のお苦しみを晴らしてさしあげた方がよろしいのではありませんか。
短い期間の出家でもご利益はあるものです。仏様はお許しくださいましょう。手続きなどの詳しいことは、私が下山したときに直接お話しいたします」
これ以上なくはっきりと書かれているけれど、尼君はまだ混乱していらっしゃる。
「まず、この小君という少年とあなたはどういうご関係なのですか。この期に及んで隠し事をなさるなんて」
浮舟の君が簾越しに見てみると、そこにいるのはまさに異父弟で、自殺を決意した日の夕方に恋しく思い出した人のひとりだった。
<一緒に暮らしていたころは生意気だったけれど、母君はかわいがって、宇治の山荘へもときどき連れていらっしゃった。その二年ほどでずいぶん大人びて、姉弟として仲良くするようになったのだ>
思い出すとまるで夢のような気がした。
何よりも母君のことが気になる。
<薫の君や匂宮様のお噂は聞こえてきても、母君のことなんて誰も話してくれないもの>
口を開こうとしても、小君を見るとかえって悲しくて、ほろほろと涙だけがこぼれる。
小君のかわいらしい顔立ちが浮舟の君に似ていることに、尼君はお気づきになった。
「きっと弟君ですね。積もる話もおありでしょうから、部屋のなかに入れてあげましょう」
と気を利かせなさる。
<とんでもない。もはや私は死んだも同然なのに。しかも見苦しい尼姿になっているのだから、ほんの少しでも見られたくない>
どう言えば尼君が納得してくださるか、考えながら話していく。
「隠し事をしているのではなく、本当に思い出せないのです。なんとか記憶をたぐり寄せて、母君がいらしたということだけは思い出しました。今もお元気だろうかとそればかりを気にしております。
この少年の顔は、以前見たことがあるような気もいたします。胸が熱くなるような感覚はあるのですが、やはり私はもう尼ですから、家族であっても縁を切ったままにしたいのです。そうは申しましても、もし母君が生きておいでなら、母君にだけはお会いしたいのですけれど。
まして、僧都様に私のことをお尋ねになったとかいう男性には、けっして生きていることを知られたくありません。どうかうまくごまかして、私の存在をお隠しください」
尼君は首を振っておっしゃった。
「それは難しいでしょうね。兄僧都は生真面目な人ですから、器用な嘘などおつきになれないのです。結局ばれてしまいますよ。それに薫の君のご身分を考えれば、適当な嘘などとても申せません」
女房たちも尼君に同意して、簾のなかに小君を入れてしまった。
<ついたての向こうに姉君がいらっしゃるようだけれど>
まだ少年なので、強気に話しかけることはできない。
「薫の君からも姉君宛てのお手紙をお預かりしてきたのです。受け取っていただけませんか」
伏し目がちに言うと、尼君がご同情なさる。
「おやおや、かわいらしい子がしょんぼりなさって。そのお手紙をお読みになるべき人は、たしかにこちらにいらっしゃいますよ。私にはまだよくご事情が分かりませんがね、もっと声をかけてごらんなさい。その幼さでお使者に選ばれたということは、あなたのお話なら姉君もお聞きになるだろうと、薫の君がお考えになったのですから」
「私のことなど知らないふりをなさっている人に、いったい何のお話をしたらよいか。でも薫の君は、『このお手紙を直接お渡しせよ』とお命じになったのです。どうしたらよいのでしょう」
どんどんしょんぼりしていくので、
「おかわいそうに。これでは小さなお使者さんは困って当然ですよ。さぁ、姫君。そんなふうに意地悪をなさってはいけません。あまりにひどい仕打ちです」
と、尼君は浮舟の君をついたての近くへ押しやりなさる。
うっすらと透けるついたての向こうに、茫然と座る若い女性の姿が見えた。
<姉君だ>
小君はついたての下からそっと手紙を入れる。
「お返事をすぐにいただいて帰ります」
居心地が悪くて急いでいるのね。
浮舟の君は手紙を開こうとしないので、尼君が開いてお見せになった。
昔と変わらない筆跡で、紙にはすばらしい香りがしみついている。
女房たちがはしゃいでほめそやしそうなお手紙よ。
「言葉にならないほど私をお苦しめになりましたね。事を荒立てるつもりはありません。あなたの罪は許しますから、せめてつらかった昔話をしたいのです。早くお会いしたい。我ながら愚かだとは思うけれど」
お気持ちがあふれ出たようなお手紙で、最後に、
「仏教の師と尊敬して交流させていただくようになった僧都ですが、思いがけずあなたにつながっていきました。この少年を覚えていらっしゃるでしょう。私はあなたのお形見だと思って世話していますよ」
と、お優しいことが書かれている。
もう尼君にお隠しすることはできない。
追いつめられた気持ちと、尼姿になった自分を見つけられてしまったという恥ずかしさで、浮舟の君は途方に暮れる。
心がますます暗くなって何も言えない。
ついに泣き伏してしまったので、
<もう少ししっかりしていただきたいものだ>
と女房たちは困る。
「どうお返事なさいますか」
尼君がきっぱりとお尋ねになった。
「しばらくして気持ちが落ち着きましたら、きっとお返事いたします。昔のことを思い出そうとしてもまったく思い出せないのです。『つらかった昔話』とおっしゃるのも何のことだか。少し落ち着けば思い出せることもあるかもしれません。
ですから、今日のところはこのままお帰りいただいてください。私の記憶がはっきりしない以上、もしかしたら人違いの可能性もあります。それでは気まずいことになってしまいますので」
お手紙を広げたまま尼君にお返しする。
「まだそんなことをおっしゃるのですか。隠し事をしようとなされば、あなたをかばう私たちまで仏様の罰を受けますのに」
尼君はお責めになるけれど、浮舟の君は着物に顔をうずめてしまう。
困っている小君に、尼君は言い訳するようにおっしゃった。
「姉君は一年ほど前にひどい妖怪に憑りつかれなさいましてね。私たちが偶然お助けして、妖怪も祓ったのですけれど、まだ体調が悪いと言って出家してしまわれたのです。ご家族が探しにいらっしゃったらどうしようかと心配しておりましたら、案の定こんなことになってしまって。
しかも薫の君の恋人でいらしたのですね。何も知らなかったとはいえ、申し訳ないことをしてしまったと恐縮しております。姉君はずっとご自分一人で悩みつづけていらっしゃって、そこへ今、薫の君からお手紙が届きましたから、少し混乱なさっているのでしょう」
それから尼君は、山里らしい風情ある食事を出しておやりになった。
小君は早く帰りたくてそわそわしながら、
「直接お手紙をお渡ししたという証拠に、何か一言だけでもおっしゃってください」
とお願いする。
尼君はそのまま浮舟の君に伝えたけれど、やはり返事はない。
「何もおっしゃいませんでした。ありのままに薫の君に伝えてさしあげてください。小野は都からそれほど遠くはありませんから、これに懲りずにまたおいでなさいね」
と尼君がおっしゃるので、小君は日暮れまでいてもどうしようもないだろうと帰ることにした。
慕っていた姉の姿をはっきりと見られなかったことが残念で悔しい。
とぼとぼと都に戻っていく。