今夜は君の夜屑

第二章

 
  

 
 

ポケットに入れていたスマホが振動し、ぼうっとしながらそれを取り出した。
メッセージ画面を開くと、一番上に表示されたのは、今別れたばかりの橘の名前だった。

【気をつけてね】

自分のマンションの中で、気をつけても何もない。
何を思って、どんな目的で橘がこれを送ってきたのか。

明日、忘れたつもりで返信したらいいんだろうか。
それとも、さっきのことも全て、覚えていていいんだろうか。

「もう考えるのやめよ」

熱いのは、橘のせいか、アルコールのせいか。
既読はつけたものの、返信はしないでそのままポケットに戻した。
そのまま家に戻り、化粧だけを落としてベッドに入った。

明日の自分が忘れていることに、期待して。










そして当然、記憶は残っていたまま目覚めた。
橘が唇に触れた瞬間の温度や吐息までも鮮明だった。

詩乃は、それを振り払うようにして、無理やり出かけた。
特に用事はなかったが、服を見たり、カフェに行ったりして、どうにかして橘を頭の中から消そうと必死だった。

それなのに、


『もしもし、今なにしてた?』


二十時、橘から電話がかかってきた。


『…テレビ見てたよ』
『ふーん、何か面白いのやってる?』
『適当につけてただけ』

今まで電話などしたことないのに、いつもの調子で話し始める橘に、詩乃は動揺した。

そういえば、気をつけてね、と送ってきた橘のメッセージにも返信はしていなかったと、思い出す。

『そっか、今日何してたの?』

橘は何を考えているんだろう。
日曜の夜に、今日を振り返る関係なんかじゃなかったはずなのに。
そんなの、友達の時ですらしたことないのに。

『…買い物行ったり、カフェ行ったりしたよ』
『なんか買ったの?』
『なんにも。いい服なかった』
『そうなんだ』

昨日の夜の話かと思いきや、それを話すつもりはないらしい。
詩乃は身構えていた肩の力を少し緩めた。

覚えてない、とかある?
だから、何も言ってこないとか?

そう思うと詩乃から話を振ることもできない。
酔った勢い、覚えていない。そう言われることが怖い。自分だけその記憶を持ったままなのが、怖い。

『…橘は?なにしてたの』
『俺は…家でまったりしてたよ』

橘の柔らかい声が、機械越しに、詩乃の耳元に響いていく。
スマホから漏れる橘の声は、微かな電子ノイズを纏って、いつもより少し低く、ざらついて聞こえた。

スマホの画面が頬に張り付く。


『…なんで、電話?』

詩乃がそう言うと、しばらく橘は黙っていた。
詩乃は無意識に、目の前にあるローテーブルの上に置いてあるリモコンを揃えていた。

『…なにしてるのかなって、思っただけだよ』
『……そうなんだ』
『…なんとなくね』
『…そう』

耳元で響いていく橘の声をそのまま聞いていたくて、スピーカーにはしなかった。
熱いのは、スマホの熱か、自分の熱か。

『…新田』
『…なあに』

柔らかく、ゆっくりと名前を呼ばれた。
じわりと、溶けていくみたいな声だ、と思った。

『…呼んだだけ』
『……なに、それ』

テレビから流れていくバラエティの音が、一気に雑音に思えてくる。
それでも詩乃は、電源を切ることはしない。今、橘の声だけになったら、もっとそこに意識がいってしまうから。

奥から湧き上がってくる、自分の感情に気づいてしまいそうだから。

『…ごめん』
『……たちばな』
『…ん?』

詩乃はやり返してやろうと思って名前を呼んだ。ひどく甘ったるい声だった。
それなのに、その言葉が自分の口から飛び出た途端、止められない感情が押し寄せてきて、詩乃はそれを自覚してしまう。


『…呼んだだけ』

橘に、会いたい。

なんでこんな感情になるのか分からない。
今までこんなこと、思ったこともないし休日に顔が浮かんだことなんてなかった。
詩乃の頭の中に浮かんだ言葉が、ぐるぐると回って滞留していく。


『…詩乃って呼んだら、怒る?』


詩乃の耳に、囁かれるように届いた言葉に、思わず肩に力が入った。

『…どういうこと』
『…そのままの意味だよ』

自分の名前なのに、何度も呼ばれてきたはずの音の羅列が、ここまで恥ずかしいと思ったことがあるだろうか。

『…なんでよ…』
『……詩乃』
『っ』

鼓膜を震わせたその音は、ただの呼び名を超えて、詩乃の身体の奥深くに染み渡っていくようだ。
そんな優しい声、聞いたことがない。

『…怒った?』
『…おこってない』
『……詩乃』

二回目は、囁くような小さな声だった。
昨夜の唇の柔らかさや、頭を撫でた掌の重みがフラッシュバックする。

詩乃はそのままソファに倒れ込むようにして横になった。
頬に、お気に入りのクッションがふわりと擦れる。
クッションに顔を埋めても、自分の名前を呼ぶ彼の呼気が耳元に残っている気がして、心臓の音がうるさいほどに跳ねた。

テレビのバラエティ番組の笑い声が、遠くの国の出来事みたいに無機質に響いている。

『…なんなの…』
『…なんでだろうね……』

橘が分からないなら、詩乃に分かるはずがない。
そのまましばらくお互い黙って、おやすみ、と囁くように橘が言って、電話は切れた。詩乃は同じ言葉を返すことすらできなかった。

会いたい、という気持ちだけを自覚させられて、その未練が夜に溶けていった。

 
 
 
 
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