今夜は君の夜屑
 
 
 
 
夜の河川敷は、誰も人がいなかった。
一人だったら怖いと感じるはずなのに、隣に橘がいるというだけで、なんだかワクワクした。

「紫陽花、どこかな」
「…分かんないけど」

詩乃の言葉に、橘が気まずそうに返事をした。
石造りの階段を上がって堤防に出た。
その間、橘はチラチラと詩乃を振り返って確認してくれていた。

階段を上がった道は、歩行者用で、誰もいなかった。
ぽつぽつと街灯があって、その脇には大きな木が生い茂っている。きっと春になったら桜が咲くのだろう。

「新田」
「ん?」
「…手繋いでいい?」
「…どうしたの」

橘は足を止めて、詩乃を振り返った。
夜の風が、桜らしき木を揺らしている。目の前に立っている橘の髪の毛も、さらりと木の方に流れていっていた。

「…繋ぎたいから」
「……いいけど」

詩乃は自分から手を差し出した。
橘はその手をするりと握って、指先に力を入れた。

冷たい風の中で、橘が触れている部分だけが熱かった。

そのまましばらく無言で歩き続けた。
たまにどちらのものか分からない吐息だけが、漏れていった。
歩くたびに指先が擦れて、たまに橘は詩乃の指先に、その都度、力を込めた。それについての言葉は、何もなかった。

「…紫陽花、ないね」
「……うん、ないね…」

最初の言葉は橘からだった。詩乃も同じように返した。
そうだった、紫陽花を探しているんだった。そんなこと、もうとっくに忘れていたよ。

「…寒くない?」
「……うん」
「…寒そう、足」

橘は詩乃をちらりと振り返って言った。
そうだよね、覚えていないよね。
詩乃は、返事の代わりに橘の繋がれた手を握り返した。

「…戻ろっか。風邪ひいたら困るね」
「…うん」

そして橘はくるりと身体の向きを変えて、詩乃の隣に立った。
先ほどまでは前を歩いていた橘の体温を隣に感じて、詩乃は笑みが溢れた。

「…今日は出かけてたの?」
「え?うん。買い物にね」
「その格好で?」

橘の言葉に、詩乃は少しだけ考えた後に、そうだよ、と言った。
本当は今日出かけた時、アンクル丈のデニムパンツを履いていたけれど、橘はショート丈をよく思っていないみたいだし、そういうことにしておこうかな、とそんな軽い気持ちだった。

「いつも、そんな短いの履いてんの?」
「短いって、ショートパンツだよ、これ」
「知ってるけど、それは」

知ってるの?
知ってるって言ったけど、覚えているから?それとも、見たら分かるから、そう言ったの?

「…うん」
「変な男に声かけられるよ、そんなの履いてると」
「…そうかもね?」

橘は、詩乃の方には視線を送らず、まっすぐ来た道を見つめていた。
繋がった手だけが、暗闇と風の中で、熱く擦れている。

「新田って、ナンパとかついて行ったことある?」
「ないよ」
「…ふうん」
「可愛くない?このショートパンツ」
「…可愛いけど」

いつの間にか、駐車場近くの階段のところまで戻ってきていた。
行きは長く感じた距離も、帰りはあっという間に感じてしまうのは、なぜだろう。

「…気をつけて」
「ありがと」

橘が先に降りて、詩乃を振り返りながら階段をゆっくり降りてくれる。
握られていた指先から、手のひら全体を包まれるようにして、手に力が入れられた。

「…車、先に乗ってて」

橘は車の鍵をキーのボタンで開けると、駐車場の入り口にある自動販売機に早足で歩いて行った。ポツンと街灯に照らされた一台だけの自動販売機に、橘が小銭を入れているのを、車の前でぼうっと見つめていた。

「乗ってて、って言ったのに」
「ふふ、ありがと」

橘が詩乃に手渡したのは、温かいほうじ茶のペットボトルだった。
反対の手には、温かい緑茶が握られている。それを受け取って、詩乃は車に乗り込んだ。数秒遅れて、橘も乗り込んでくる。

エンジンをかけたので、すぐに発車するかと思いきや、橘は緑茶のペットボトルの蓋を開け、飲んでいる。
詩乃はほうじ茶の温かさを感じていたくて、膝の上に横に置いていた。

「…飲まない?」
「え、ううん、飲むよ、ありがとね」
「足、冷えたんでしょ」
「ううん、そんなことないよ」

橘は詩乃の膝に視線を移した後、自分の飲んでいた緑茶のペットボトルを片手で持って、詩乃を見て言った。

「そんなん履いてるから、あの時も、変な男に目つけられんの」
「え…」
「俺の、飲む?」
「…な、なんで…」
「間接キス」

橘はそう言うと、蓋が開いたままのペットボトルを詩乃の口に付けた。
急なそれに戸惑いながら、詩乃は受け取って、こくりと口をつけて飲んだ。
温かい液体が身体の真ん中を通って、じんわりと温度が高まっていく。

「もっとちゃんと、拒否んないと」
「え?」
「変な男に、目つけられるよって」
「何を、」
「ドライブっつってんのに、そんな無防備な格好して」
「たちばな、」
「俺も、男って分かってる?」

橘は詩乃の前に顔を近づけた。
持ったのペットボトルを両手で握ったまま、詩乃の背筋は固まる。
アイドリングの微かな振動が、シートを通じて詩乃の背中に伝わってくる。


「キスしていい?」
「っ!」

言い終わるなり近づいてきた唇が、勢いよく触れた。


ペットボトルを持つ両手がこわばる。蓋が開いているそれを溢さないように、力が入った両手で握りしめることしかできない。

詩乃の体勢が固まっているのをいいことに、橘は詩乃の背中に手を回した。
狭い車内に閉じ込められた、二人の重い呼吸音。

「っん、な、に」
「だめ」

反対の手で、橘は詩乃の頬を持ち上げるようにして触れた。
完全に橘に包まれて動きを封じられた詩乃の膝から、ごとりと鈍い音がして未開封のペットボトルが転がり落ちた。

さっきまで掌を温めていたはずの熱はもうどこにもなくて、代わりに全身を支配しているのは、橘の熱量だった。外を吹き抜ける夜風の音さえ遮断されているようだ。

溢さないようにと握りしめていたはずのペットボトルさえ、今の詩乃にはもう、どうでもよくなっていた。


「ん、たち、ばな」
「俺が今日ドライブに誘ったのはね」


掠れた音だけが車内を占めていた。
唇を合わせていただけだったのに、いつの間にか深くなっていった。
熱い息が溢れていく。


「酔ってないって、証明したくて」


唇を合わせたまま、橘は言った。
お互いの唾液でぬるりと濡れていて、橘が唇を動かすたびに、ゆっくりと滑った。


「っん、なに、」
「酔ってなくても、こういうことするんだって」


詩乃の返事など、求めていないようだった。
自分の言いたいことだけ言って、口を開きたい時までキスで塞いで、詩乃の息が荒くなって何も言葉が紡げなくなった頃、続きを話し始める。

どういう意味だとか、なんでそれを今言うんだとか、この間のこと覚えてたんだとか、ぼうっとする頭ではあまり考えられなかった。


「詩乃」


さっきまで、新田って、呼んでたくせに。

 
 
 
 
 
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