今夜は君の夜屑
「詩乃って、さ…」
あのままベッドに倒れ込んで、欲望のまま一度重なった。橘がこちらの様子を伺っているような雰囲気が恥ずかしくて、眠いふりをしていたらそのまま眠ってしまった。
そして日差しが差し込む朝、目を開けたら橘が詩乃を見ていて、ぱちりと目が合った。そのまま何となくまた始まって、それが終わった時だった。
「…うん?」
橘が詩乃に向かって、腕を伸ばす。
詩乃は首を持ち上げ、橘の腕の上に頭を乗せた。がっしりとした腕と枕に挟まれて、詩乃の目の前には橘の首筋が広がっていた。
完全にシラフでそういうことをして、どういう立場でどう接したらいいのか、橘がどんなつもりなのかも、何も分からなかった。だから詩乃からは言葉を発さなかった。
「詩乃、は…」
「…うん」
いづらそうに、歯切れ悪く橘は詩乃の名前を口にした。
そういえば、もうシラフでも苗字じゃなくて名前で呼ぶんだ、と詩乃は思いながら、橘の言葉を待った。
「彼氏、いないよね?」
「…今更」
「や、…そうなんだけど…」
彼氏がいるのに、橘とこういうことをすると思われていたのだろうか。
目の前の橘の首筋が近くて、肌に透ける血管と骨がしっかりと見える。
カーテンが開けっぱなしだった寝室の窓からは、太陽光がしっかりと差し込んでいて眩しいくらいだ。
「…橘も、いないよね?」
「いないよ」
「…じゃあ、なんでそんなこと聞くの」
今更じゃないのか。
私はもうとっくに橘のことを好きになっているのに、そんなことを今更確かめないで欲しい。
今から橘が言おうとしていることが、怖いことだったらどうしよう。
そう思って、詩乃は向きを変えて、橘に背を向けた。もし何か言われたら、泣いてしまうかもしれない。そうなっても、涙は見せたくない。
「詩乃、ごめん、怒った?」
「…怒ってないよ」
橘が腕枕とは反対の手で、詩乃をふわりと抱きしめた。
吸い付くように触れる肌が温かくて、気持ちよかった。
「変なこと聞いて、ごめん」
「…ううん」
「詩乃……俺のこと、きらい?」
「えっ」
何と返すのが正解か分からなくて、詩乃は言葉に詰まった。
詩乃の背後から、橘の指先が肩下まである詩乃の髪を、丁寧に掬い上げる。
さらりと指の間を滑り落ちる髪の重み。
橘の指が、まるで壊れ物を扱うように繊細で、それがかえって詩乃の胸を締め付けた。
「…きらいじゃないよ」
「…そっか」
「うん」
「じゃあ…好き?」
橘は、先ほどよりも、詩乃を抱きしめる手に力を込めた。
「え…」
「付き合う?」
それは、どういうつもりで言ってるの?
繋ぎ止めたくて言っているだけなのか、それとも、からかってる?動揺させたい?ねえ、背中を向けてる時に言うなんて、ずるくない?
私のこと、好きなの?
「…………」
「……ごめん、やっぱ、なし。冗談」
「え?」
沈黙を破るようにして、橘が言った。
何から、言えばいいのか、分からなかった。
どういうつもりなの?も、私のこと好きなの?も聞けなかった。
それが分からないうちから、いいよ、なんてとても言えなかった。
詩乃が振り返るように後ろを向こうとしても、橘は抱きしめていた手の力を弱めなかった。
「…これからも、…友達でいてくれる?」
初めての時と全く同じセリフなのに、含まれている意味合いは違うものに思えてきて、詩乃はすぐに、素直に返事ができない。
それは、セフレってこと?そんな軽口も、詩乃はもう言えない。
もうとっくに、友達なんて思ってないのに。
「…うん…」
それでも、そう返事をする以外にないように思えた。
どちらでも良いと思った。これにすら返事をしなかったら、何者になるんだろう。橘とは、無関係になってしまうくらいなら、友達で良いと思えた。
目の前には、開けっぱなしになったドアからリビングが見える。
昨日押し倒されたビーズクッションの色は、アイボリーだったんだ。そんなどうでも良いことを考えていないと、泣いてしまいそうだ。
「…良かっ、た」
橘はそう言って、身体をごろりと反転させた。
詩乃を抱きしめていた腕は、今は橘の顔の上に、視界を覆うように乗せられていた。
詩乃は身体を起こした。
ちらりと振り返っても、橘の姿勢は変わっていなかった。
先ほどまで自分が寝転んでいたシーツには窪みが残っていて、頭を乗せていた橘の腕も、そのままだった。
「…帰るね」
「……うん」
詩乃はベッドから出て、自分の服を持ってリビングに移動し、寝室の扉を閉めた。
すぐにでもここから出たくて、急いで服を身につけて、そろりと橘の部屋を出た。
ここに来た時は、あんなに熱かったのに。
昨日の夜は寒かったのに、今は暑いくらいだ。そう思って、着ていたデニムの羽織を脱いで、手に持った。
ショートパンツなんか履いて、馬鹿みたいだ。
タクシーを捕まえて家まで帰ろうかと思ったが、なんだか虚しくてやめた。
歩いて駅に向かう途中で、詩乃は後悔する。
何も考えずに、うん、って頷けばよかった。
橘がどういうつもりであっても、良いよって、言えばよかった。
視界には、明るく照らされたアスファルトに映る自分の足が、動いては消えていく。
手に持ったデニムの羽織を、くしゃりと握りしめた。
溢れていく涙を、たまにそれで拭った。
ゴワついた生地で涙を拭うたび、そこに染み付いた橘の部屋の匂いが鼻をくすぐり、詩乃は立ち止まりそうになる。
ああ、きっともう、橘と付き合うことは、できないのかな。