キャラメリゼ ワンルーム
「楓ちゃん、お疲れー」
「桃香さん!お疲れ様です」
デスクに座って、パソコンに本日の売り上げを入力していると、後ろから声をかけられた。
振り返ると、高梨《たかなし》 桃香《ももか》がニコリとこちらを見ていた。
「今日は早く帰れそう?」
「はい、なんとか…!ちょっと次のレッスンの予習もしたくて」
「真面目だねー、でも家遠いんだし、ほどほどにだよ」
そう言いながら、桃香は隣の椅子を引いて座り、パソコンを立ち上げた。
桃香は楓の三年先輩で、この代官山スタジオでは一番年が近い。
明るくて楽しいレッスンをしてくれるとのことでマダムたちから人気があり、桃香のレッスンは常に満員だ。
「あっ実は、引っ越して」
「そうなの!?どこに!?」
「えっと、中目黒に」
「すっごい近いじゃん!いい物件見つけたの!?」
桃香はパソコンにログインしながら「一時間半って言ってたもんねー」と楓に言った。どこまで言っていいのか一瞬悩んだが、別にやましいことがあるわけではないと思い、引越しの経緯を話した。
桃香は手を動かしながら、うんうんと頷いていた。
「へぇ、お兄ちゃんとそんなに仲良いなんてすごいな。うちは妹だけど、一緒に住むのは嫌だなー」
「歳が六つ離れてるからかな?血は繋がってないし、今はもう兄じゃないんですけど…」
「へっ、どういうこと?」
売り上げ入力が終わり、明日の予約の確認をしながら楓は答えた。
明日のレッスンは二回あるが、それぞれ一人ずつキャンセルも出てしまって、空きがある。桃香なら空きが出たらすぐに埋まるのにな、と思いながらそちらの方を見た。
「え…それって、異性じゃん」
先ほどまでキーボードを入力していた手は止まっていて、桃香は大きな目を見開きながらそう言った。
「異性…ではありますね」
「違う!普通に男女じゃん!」
「うーん、でも、全然お兄ちゃんですよ」
「え?え?そんなもん?私がおかしい?え?混乱するんだけど」
本当の兄妹ではないことは、話さない方が良かったのかもしれない。
あまり深く考えていなかったが、もしかしたらこういう関係は普通ではないのかと、桃香の反応を見て楓は思った。
途中からだけれど、怜は兄で、それ以上でもそれ以下でもない。
むしろ、兄だからこそ大好きでかけがえのない存在なのに。
「環境が特殊だからですかね」
「うーん、特殊だからっていうより、楓ちゃんの認識の問題っていうか」
「え?そんなおかしいですか?」
「おかしくはない…うーん、まぁ世の中いろんな家族の形があるもんね…?」
そうだ、家族なんだから。
その後、怜の写真を見せると、桃香はまたキャーキャーと叫び、より同居生活に興味が湧いたらしい。「進捗あったら教えてね」と言われたが、なんの進捗も起こらないと思いながら「はい」と返事だけしておいた。
「つかれたー…」
明日のレッスンは初めてのお客さんが多く、失敗しないようにと手順を予習していたら、思ったよりも遅くなってしまった。
一駅の距離で電車に乗るのも億劫だったが、歩く体力もなかったので大人しく電車で帰宅する。
「おかえり、遅かったね」
「怜ちゃーん…」
今から帰る、と怜に連絡をしたのは二十一時だった。
いくつかの副菜の作り置きはしてあったが、当然その時間から夕食を作れるはずもなく、帰宅するとテーブルの上にはチェーン店の餃子の箱が置いてあった。
「デリバリーした。ニンニク無しだから、さっと食べて寝な」
「怜ちゃん…神」
「ほら、あっためといてやるから、先に風呂行っておいで」
「うう…神すぎる…」
怜の言葉にありがたく甘え、ササっとシャワーだけでもと思ったが、風呂の湯も溜められていた。
湯船に足を入れると、適温のお湯がじわりと脚に絡んだ。怜はまだ入っていないのに、自分のために溜めておいてくれた。
そりゃ仕事もできるはずだ、と思いながらありがたく風呂に浸かり、髪の毛も乾かさないままリビングに戻った。
「米は朝のが残ってた。それと楓が作っておいてくれたおかず食べたよ」
「うっ、そうなの、メインのおかずだけ作ろうと思ってたの」
「いいんだよ、無理してご飯作んなくても」
リビングのテーブルの上にはパソコンが開かれていたままで、きっと仕事をしていたんだろう。楓が怜の仕事部屋を奪ってしまったので、怜はよくリビングで仕事をしている。
「おいひぃ」
「そりゃ良かったな、俺が作ったんじゃないけど」
「餃子の気分だったの」
「ふ、俺すごいじゃん」
怜はそう言って楓の頭に手を乗せると、ソファに戻っていった。
楓はその姿を見送りながら、箱に残った餃子を無言で口に運んだ。
じゅわっと肉汁が口に広がった。
こんなの、お兄ちゃんとして完璧じゃん。
楓は食事を終えると、ソファに座る怜の元に行った。
気配に振り向いた怜が、楓の顔を見て笑みを漏らした。
「ごちそうさま、怜ちゃん」
「どういたしまして」
そのまま隣に腰を下ろすと、怜がちらりと楓を見て、再びパソコンの画面へと視線を向けた。
「どうしたの」
「疲れたの」
「早く寝なよ」
「うん、怜ちゃん何やってんの?」
「仕事だよ」
キーボードを驚く速さでタイピングしながら怜が何かを入力していく。
その画面を隣で見ながらも、内容は全然よく分からない。
「なんのお仕事」
「えー?売上落ちたから何とかしてくれって企業に、原因と対策を出してる」
「すごい、今度私にも教えて」
「え?何を?」
「売上の上げ方」
怜の肩に頭を乗せると、怜の動きが一瞬止まった。
その温かさが心地よくて、怜の存在を感じていたくて目を瞑ると、再びキーボードを叩く音が耳に入ってきた。
「…今度教えてあげるから、早く寝な」
「んー…」
「…髪乾かさないと、風邪ひくよ」
「ん…」
肩から直接、骨を通して怜の言葉が伝わってくる。怜ちゃんの、少しだけ詰まったような声が、好きなんだよなぁ。
「あー…ちょっと待ってな」
そう言って、頭の支えがなくなった。また嫌がらせたかな、と思って、仕方なくソファの背もたれに頭を預けた。
ふわふわして、目がとろんと閉じてきて、あぁ、眠い。
「ほら、楓」
意識を手放そうとしていると、手にドライヤーを持ってきた怜が、スイッチを入れて楓の髪の毛に手を伸ばした。
ブォォ、との轟音と風が耳元に飛んできて、思わず強く目を瞑る。
ソファがぎしりと沈んだ。怜の重さが、クッションを通して伝わってくる。隣に戻ってきた怜がなんだか嬉しくて、楓はそちらに身体を寄せた。
仕方なさそうなため息が、ドライヤーの風と一緒に遠くで聞こえた。
目を少しだけ開けてそちらを見ると、楓の髪の毛に視線をやっている怜の喉仏が目についた。硬そうで、骨張っていて、私にはない。
なんとなく、目が離せなかった。
怜の手のひらが、優しく頭皮を撫でるように触れていく。
耳の後ろを指が通った。
その感触をより鮮明に感じていたくて、少しだけ先ほどより早い鼓動に気づきたくなくて、楓は目を閉じた。