キャラメリゼ ワンルーム
 
 
 
 
 
帰り道は、お互いほとんど話さなかった。
「寒くない?」「もうすぐ降りるよ」そんな短い言葉だけを漏らす怜に、楓は掠れた声で短く「うん」と言うだけだった。

途中でずっと手に持っていた怜のシャツを返すと、怜はふっと笑って無言でそれを羽織った。
中に着ているTシャツから覗く、少し筋張った二の腕の筋肉に、目がいった。

会話はほとんどなかったが、手はずっと繋がれていた。
電車に乗り込む瞬間など、一瞬手が離れることがあっても、怜がそのあとゆっくりと繋ぎ直した。

たまに指先同士が擦れて、でもそれが絡まることはなかった。
その度に、神経がそこだけ過敏になったかのようだった。





「……怜ちゃん」

家に帰ってからも、ほとんど会話はなく、それぞれが自分の部屋で過ごした。

今日は日曜日で、怜を起こさなくても自分だけ仕事に行けばよかった。でも、このまま避け続けるのは無理だと思ったし、距離を取っていると誤解されるのも嫌だった。

扉の前に立って、ノックしようとして、手が止まった。
昨日と同じように接せられる自信が、なかった。
だからいつもより、遅く起こした。

「………ん…」

怜の身体を布団越しに揺らして、小さく声をかけると、怜が掠れた声を漏らして、薄目を開けた。


「…かえで」
「っ」

昨日も、怜ちゃんの声だけが、やけに鮮明に聞こえた。

クーラーの音だけがうっすらと響いている室内で、怜の掠れた声が、耳の近くで言われたみたいに鼓膜に飛び込んでくる。
薄暗い遮光カーテンの隙間から、朝の鋭い光が一本の線となってベッドのシーツを白く割っている。

秋の冷たい海風、膝にかけられたシャツ、夜空を彩る大輪の光。
五感を揺さぶるような、騒がしい空間だったはずなのに、一番強く刻まれたのは、いつもの柔軟剤の香りと、怜ちゃんの、言葉。



視覚も聴覚も、すべてが、花火の光と音で満たされていたはずなのに。



息を思わず、浅く吸ってしまうほどの破壊力があった。

「…きょうも…おこして、くれたの」
「……ごはん、リビングにあるから」
「ん…」

朝の怜ちゃんの声が掠れているのも、寝起きがぼんやりしているのも、いつものことで。

視線を逸らしてベッドから離れようとすると、手を急に優しく掴まれた。
少しだけひんやりした手のひらが、楓の指先をきゅ、と握った。

「れ、」
「…もう行くの?しごと」
「う、うん…」

怜が眉を寄せて、壁の時計を見つめた。
その視線を追った楓が「八時半だよ」と伝えた。

「行ってらっしゃい」
「うん…」

そう返事をすると、掴まれていた指先がゆっくりと離れていった。
ぱたん、と布団に置かれた自分よりも大きい手のひらを追うことなく、楓は目線を逸らした。

怜が動いて、布団ががさりと衣擦れの音が耳に入った。
楓は振り返らないようにして、部屋を出て、急いで荷物を取って家を出た。

ガチャンと鉄製の玄関の扉が閉まる音がして、朝の風がふわりと頬を撫でる。

不意に昨日の言葉を思い出す。
——『妹じゃなくて…女の子として…楓が、好きだよ』

なんだこれ、バクバクして、心臓が、息が、全身の血液が。
昨日は、ここまでならなかったのに、なんで、急に。

「…っ」

振り切らなければ、この気持ちから、逃げたくて、顔を背けたくて、たまらない。











「えー、もう焦ったーいっ〜〜〜〜〜!!!」
「桃香ちゃんったら」

午前のレッスンが終わった途端、「何かあったね?」と桃香に声をかけられた。
すぐさま藤子に連絡を取られ、休憩時間のランチに連れてこられていた楓だった。
桃香は話を聞きながら興奮したかのように何度もテーブルに突っ伏したり口元を抑えたりと忙しそうで、藤子はたまに目を丸くしながらもにこやかに聞いていた。

「てか、楓ちゃんさぁ、告白を『嫌じゃない』って、勝手に手繋ぐよって言われて『うん』って言ったんでしょ?もうそれはさぁ」
「桃香ちゃん、そういうのは野暮よ」
「カーッ、もう楽しすぎますね!」

もうだめだ、思い出しているだけで、このたまらない気持ちはなんだろう。
なんだか泣きそうで、何かに縋りつきたいような、言語化できない感情が決壊寸前のようで、たまらなかった。

通勤電車で、窓に映る自分の顔が赤くて、仕事中には昨日の怜の言葉が急にフラッシュバックして、手を洗ってる時に、不意に昨日繋いだ手を思い出した。

冷蔵庫を開けた瞬間には、昨日の少し湿った海風が頬を撫でたような気になってしまって、集中しきれなかった。


「嫌じゃないなんて、生殺しのお返事ねぇ」
「ねぇ!?そうですよね!?たまんないなもう、お兄ちゃんは」
「生殺しって何でですか…」

だって、好きって言われて、これからどう変わっていくの?

「てか待って、まだ付き合ってないんだよね?」
「付き合うとか…そんなの、考えたことないじゃないですか…お兄ちゃんだったんだから…」
「お、そこはちゃんと過去形にできてんじゃん」
「……」

黙り込む楓に、藤子が「楓ちゃんはまだ完全には整理できてないのね」と言った。

だって、怖い。
怜を失いたくない。でもこのままでもいられないことくらい、分かっている。
今すぐ答えが欲しいとかじゃない、と怜は言った。

今すぐでなくてもいい、でもいつかは答えを出さないといけないということで。
答えって、好きか、好きじゃないかということなんだろう。


「…好きは、ずっと好きだし…でもそれが恋愛的なのかどうかって、どう違うのかも、つ…付き合うとか、そんなふうに見たことないから…怖いんですよ…」


楓の言葉を聞いた桃香が、「焦ったい…っ」と言いながらテーブルに突っ伏した。

グラスの中で氷がカランと小さな音を立てて崩れ、木のテーブルに落ちた輪郭の曖昧な影が、日差しの揺れに合わせてじわじわと広がっていく。
それだけで昨日の、一緒に飲んだ、結露したお茶のペットボトルを思い出してしまう自分はおかしいのだろうか。


「…でも、楓ちゃんはずっと、これは自惚れ?どういう意味?なんでそんな顔するの?って、ずっと考えていたじゃない?」
「……はい…」
「そうやって、始まっていくのよ」
「え…?」

桃香が顔を起こして何かを言いかけた言葉を藤子がくすりと笑って、人差し指を唇に当てた。
外から差してきた日差しが、テーブルに当たって、グラスの影をゆらゆらと木の板に映し出した。



「世界全部が、その人中心になっていく」













「楓」

夕食の食器は、怜が全部片付けると言ってくれたので甘えて、楓はリビングのソファに座っていた。
目の前でなんとなく流れているクイズ番組をぼうっと見ていると、隣に怜が座った。

「なに…」
「ご飯、ありがと」

ソファがぎしりと音を立てて、楓の身体が少し左に傾いた。


視界の端で、怜がテレビに目線を送っていることが分かる。


「どういたしまして…」

楓がそう言うと、怜が楓の肩にぽすりと頭を乗せた。
頭の重みが左肩の骨にしっかりと預けられていて、怜の髪の毛が、剥き出しの首筋を撫でるようにカサリと擦れ合う。

怜の呼吸の熱をうっすらと感じて、Tシャツの薄い生地が、頭の感触をそのまま伝えてくる。
視界の隅で明滅するテレビの光だけが、他人事のように明暗を繰り返している。



前も、同じようなことがあった。けれど今は、あの時とは違う。


「なに…どうしたの」
「…甘えてる、楓に」


怜がゆっくりとそう言った。

「な、なんで…甘えたりとか、するの…」
「うん、してみようかなって」

ああもう、また、だめだ、なんだか泣きそうなくらい、身体の中の感情が湧き上がってきて、込み上げてきて、


「なんか、変……」


こんな気持ち、感じたことない。
思わず口に出すと、怜がふっと笑った音がした。


「…楓は何も、変じゃないよ」
「え?」


ピンポン、と画面の中で軽快な音がして、芸能人が喜んでいるのが視界の端に映る。


「変なのは、俺だけだから」
「…」
「楓は、細かいことは何も考えなくていいんだよ」


そういう意味じゃないのに、と思ったけれど、自分の気持ちを言語化することができなくて、一言でも漏らしたら何かが込み上げてきそうで、何も言えなかった。

「…楓」
「…なに…」

怜がぽつりと言った。
顔が見られなくて、どんな表情をしているのかは分からなかった。


「手、握っててよ。昨日みたいに」
「……うん…」


楓がそう言うと、膝の上に無造作に置いてあった手を取って、包むように握った。

怜の指の腹が、昨日よりも指の隙間に滑り込んでいる気がする。
ソファのクッションに沈み込んだ二人の手のひらの間には、もう風は吹いてはいない。

怜はテレビを見たまま横顔を動かさなかった。

怜の指の感触が、手のひら全体に広がっていく。
このまま、泣いてしまいそうだと思った。



今日一日、怜のことばかり考えていた。
何を見ても、何をしていても、あの冷たい海風と、耳元の柔軟剤の香りに引き戻される。


ああ、なんでもない瞬間に、小さなこと全てから、じわじわと侵食されていくようだ。



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