春を待つ信号
 午前九時十三分。

 駅前の横断歩道で、私は小さく息を吐いた。

 春になりきれない三月の空気はまだ少し冷たい。
 けれど、昨日よりは確実に柔らかい風が吹いていた。

 信号が青に変わる。

(……今日も、ちゃんと進めるかな)

 そんなことを思いながら、私は人波に紛れて歩き出す。

 藤崎(ふじさき)千紘(ちひろ)、二十七歳。
 一応、小説家。

 ――とは言っても。

 胸を張って名乗れるほど売れているわけじゃない。

 書籍化は四年間でたったの十一冊。
 しかもどれも重版はなし。
 SNSのフォロワーもそこそこ。
 生活は、ギリギリ。

 だけど私は、それでも書くことをやめられなかった。

 読んだ人の心が、ほんの少しでもいい。ほわりと軽くなる……そんなお話を書きたい。
 誰かが「明日も頑張ろう」と思える物語を書き綴ること。

 それだけは、ずっと変わらない思い。

 スマホが震えた。

【締切、大丈夫そうですか?】

 編集の相沢さんからだ。

 私は思わず顔をしかめる。

【大丈夫です!】
 と返したあと、
【……たぶん】
 と打ちかけて消した。

 全然大丈夫じゃない。

 実は三日前から、一文字も書けていなかった。

 今書いているのは、「恋愛を諦めた女性が、もう一度恋をする話」。

 だけど。

(恋って、なんだっけ)

 そんなところで、完全に止まってしまっていた。

 最後に恋をしたのは二年前。
 同業の作家と付き合って、別れた。

 嫌いになったわけじゃない。
 でも、お互い余裕がなかった。

 締切。
 数字。
 ランキング。
 評価。

 好きだけじゃ生きていけない現実に、少しずつすり減ってしまった。
 同業であるがゆえに、相手の成功を(うらや)んでしまって、素直に祝えない。
 それも(あだ)になった。
 彼の書く恋愛小説は、今時の読者の〝好き〟を的確に掴んで数字を伸ばした。
 書きたいものと、書かねばならないものは違う。
 彼はよく私にそう教えてくれた。
 でも……。
 書きたいと思えないものを書くことが、私にはどうしても出来なかった。
 自分の書きたいものに、流行りの要素をうまく練り込む力が、私には足りていない――。

 それ以来、恋愛ものを書こうとするたび、自分の中が空っぽになっていくのを感じるようになった。
 彼との楽しかった思い出が、書くたびに削られていく。
 そろそろ楽しい恋の思い出が、枯渇しかけていた。


***


 家にいたら刺激が足りなさすぎる。
 そう考えて、駅前にある行きつけのカフェに入った。
 窓際のいつもの席。

 ノートパソコンを開き、真っ白な画面を見つめる――。

「……はぁ」

 ため息が漏れた。

「珍しいですね」

 ふいに声が降ってきた。

「今日はまだ一文字も進んでないって顔をしていらっしゃる」

 顔を上げる。

 そこにいたのは、この店の店長――朝比奈(あさひな)(りょう)さんだった。

 三十六歳。

 落ち着いた声と、柔らかな笑い方が印象的な人。
 黒いエプロンがとても似合う、素敵な男性だった。

「顔で分かるんですか?」

「分かりますよ。藤崎さん、書けてる時はコーヒーをお出ししても気づかないですもん」

「……恥ずかしい」

「それに……今日はもう三回、ため息ついておられます」

 そんなに。
 私は額を押さえた。

 朝比奈さんは小さく笑って、カフェラテをテーブルに置く。

「サービスです」

「えっ」

「頑張ってる作家先生に応援。僕、F-Chi(えふちぃ)先生の大ファンなんですよ」

 ふわりとミルクが香る。
 ラテアートは、小さな猫だった。
 なんだか少しだけ胸が温かくなる。

「……私、今、新しい恋愛小説を書いてるんですけど」

「はい」

「最近、恋愛が分からなくて」

 こんなことを口にしたのは初めてだった。

 けれど朝比奈さんは笑わなかった。

「書けない時って、もしかしたら自分を置いてけぼりにしてるんじゃないかな?」

「……自分を?」

「そう。……ちゃんと嬉しいとか、寂しいとか……そういうの、感じられてます?」

 その言葉に、少しだけ息が止まる。

 最近の私は、数字ばかり見ていた。

 ランキング。
 PV。
 売上。

 読者に喜んでもらいたい気持ちは本物なのに、いつの間にか〝結果〟ばかり気にしていた。

「藤崎さん、いつも優しいお話を書かれるじゃないですか」

「え?」

「だから、無理に苦しいもの書こうとすると、自分が先に疲れちゃう」

 窓の外で、信号が青に変わる。

 歩き出す人たち。
 春風に揺れるスカート。
 笑いながら走る学生たち。

 その光景を見ながら、私はぼんやり思った。

(……ああ)

 私、本当は――こういう、〝なんでもない幸せ〟を書くのが好きだった。

 ドラマチックじゃなくていい。
 大恋愛じゃなくていい。
 誰かが誰かを大切に思ってる。
 それだけで、救われることがある。

「……朝比奈さんって、ずるいですね」

「なんでです?」

「欲しい言葉、さらっと言うから」

 そう言うと、朝比奈さんは少し困ったように笑った。

「藤崎さんが頑張ってるのを知ってるからですよ。それに、さっきも言いましたけど、貴女のファンですから」

 その瞬間。

 胸の奥が、じんわり熱くなった。

 ああ、こういうのだ。

 こういう、小さな優しさ。

 誰にも見えない場所で、自分をちゃんと見てくれている人がいる安心感。

 恋って、たぶん、こういうところから始まる。

 私はノートパソコンへ向き直った。

 カーソルが点滅している。

 さっきまで真っ白だった画面に、指が自然と伸びた。

『信号が青になったので、私は少しだけ前を向いてみることにした』

 つぶやきながら文字を入力していく。

 その一文が、するすると次の言葉を呼び込んだ。

「あ」

「書けそうですか?」

「……はい。なんか、急に」

「よかった」

 朝比奈さんは嬉しそうに笑う。

 私はキーボードを打ちながら、ふと思う。

 もしかしたら。

 人生って、ずっと青信号じゃない。

 赤になる日もある。
 立ち止まる日もある。

 でも――。

 誰かの優しさで、また歩き出せる瞬間がある。

 窓の外。
 再び信号が青へ変わった。

 まるで、
「進んでいいよ」
 と言われたみたいだった。

「……あの、朝比奈さん」

「はい?」

「今度、お礼させてください」

「お礼?」

「締切終わったら、ご飯でも」

 一瞬だけ、朝比奈さんが目を丸くする。

 それから。

「それ、デートのお誘いだと思っていいですか?」

 なんて、少しだけ意地悪に笑った。

 私は顔が熱くなるのを感じながら、それでも小さく笑う。

「……たぶん」

 春の光が、窓辺へ落ちる。

 青信号の向こう側で、新しい季節が待っていた。


 END(2026/05/07)
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