猫物語
私は、猫。白い猫。いわゆる野良猫。でも、あちこちに、名前がある。三月のこの時期は、日差しがあればとてもあたたかい。私は、このさびたすべり台と、ベンチが一つしかない簡素な公園によくいる。そして、今日もこうして、午後の日差しを浴びながら公園のベンチで丸くなっている。
すると、公園に誰かが、やって来た。明るい声は女の子だろう。女性は、となりにいる誰かに一生懸命に、話かけている。私は、顔をあげてチラッと声の方を見た。高校生くらいのポニーテールをした女の子と、同じ年くらいの男の子が見えた。私は、その女の子と一瞬目と目が合った。
「あ、かわいい猫。」
女の子は、そう言った。でも、となりにいる男の子は、何も言わない。私はベンチのはしっこにいるので、このまま動かず、丸くなって寝たふりをした。
二人は、どうやらベンチに座ったようだ。しかし、何かへんだなと私は思った。女の子がどれだけ話しかけても、男の子は何も言わない。そのうちに、会話はなくなり、静まりかえった。そして、少しの沈黙の後で、女の子がポツリと言った。
「もしかして、私の事嫌いになったの?」
とてもさみしそうな声だった。男の子は、何も言わない。
「雄一君、東京に行っても俺は何も変わらないって言ってくれたよね。私は地元に残って就職するけど、東京に行って大学生になっても、私達の関係は変わらないって言ってくれてたよね?」
「あのさぁ。」
ようやくぶっきらぼうな声が聞こえた。
「俺、東京に行ったら、遊びたいんだ。」
「え。」
「だからさ、俺達別れないか?それで、俺が夏休みとかお正月とかに帰って来た時に、友達として会わない?ゆなの気持ちが、俺は重いんだ。もっときらくにさ。」
ゆなと呼ばれた女の子が勢いよく立ち上がる音がした。私は、顔をあげて、ゆなを見た。大きな目から、涙が次々にこぼれていた。そして、ゆなは言った。
「なによそれ。嫌いになったなら、そう言えばいいでしょ。東京に遊びに行くわけ?大学に行くんでしょ。何よ、遊びたいって。バカにしないでよ!私は、キープになんてならないから。もう一生、会わない!ずっと信じてたのに。」
ゆなは、そう言い残すと走って行ってしまった。私は、ベンチから降りて、ゆなのあとを追った。そして、公園を出る時に、一度立ち止まり、振り返った。ベンチには一人のこされた男の子が、ガックリと首を下にして呆然としていた。それもそうだろう。ゆなの気持ちを考えずに、自分の都合の良い事を優先した罰だ。私は、前を向いて公園を出た。けれど、走って行ったゆなの姿を見失ってしまった。ゆなに、伝えたかった。流した涙の分だけ、きっとこれから幸せになれるはずだと。
夕方、私はある家の玄関にいた。そろそろ帰って来るはずだろう。そんな事を考えて待っていると、二つ髷をした中学生の女の子が帰って来て、私の顔を見るなり言った。
「白ちゃん。」
女の子は、私の頭をなでてくれた。そして、語り掛けて来る。
「今日も、中学校楽しくなかったよ。」
悲しそうな声だ。
「どうしてかな。」
女の子はいつもこうやって、私に悩みを打ち明ける。私は、その悩みをただただ聞いている。
「なんで、いじめってあるのかな。私、なんにもしてないのに。それに、ただ誤解されてるだけなのに。たまたまとなりの席になった男子と話してただけなのに。その男子とかくれて付き合ってるとか、うわさされて。友達の好きな人、奪ったとか言われて。なんで、こんな事になったのかな。もう、学校に行きたくないよ。教室で、一人ぼっちなのは、もういやだよ。」
女の子は、泣いた。私は、どうにかなぐさめたくて考えた。そして、招き猫のポーズをしてみた。すると、女の子は私を見て涙をとめた。ハンカチで涙をふいてから、
「白ちゃん。ちょっと待ってて。」
と言って、玄関に入って行った。
少しすると、戻って来て、牛乳が入っている皿を私に差し出してくれた。
「野良猫にえさをあげちゃだめだって、聞いた事あるんだけど。今日だけは、特別だよ。白ちゃん、なぐさめてくれてありがとう。」
私は、差し出された牛乳を遠慮なく飲むことにした。舌でペロペロと牛乳をなめていると、玄関が開いた。
「あかり、どうしたの?」
「ママ。」
あかりと呼ばれた女の子は、ママの顔を見て、また泣いた。
「あかり、最近元気がないなって心配してたのよ。何かあったの?」
あかりは、何も言わない。
「ママにも話してくれないかしら。」
「うん。」
あかりは、立ち上がって、ママと家の中に入って行った。私は、牛乳を全部飲み終わってから、走り出した。こういう時は神頼みだ。神社に行こう。あかりが、元気になれるようにお願いしてこよう。私は神社に向かって全力で走った。
数日後、私は神社の境内にいた。この神社には、よく来る。向こうから楽しそうな声が聞こえたので、そちらを見ると、若い夫婦が仲良く話をしながら、こちらに来るのが見えた。私は、お参りの邪魔にならないように、社務所の方に行った。すると、女の人が私を見て言った。
「あれ、この猫、この前の夕方もここにいたよね。」
「あ、本当だ。この猫、この前の夕方、なんか真剣にお願い事でもしてるみたいに神社に向かってじっとしてたよな。」
すると、社務所から宮司さんが出てきた。
「おはようございます。」
宮司さんは、若い夫婦に挨拶をした。
「おはようございます。」
若い夫婦も挨拶を返した。そして、男の人が、宮司さんに聞いた。
「この白い猫、ここの猫ですか?」
宮司さんは私の頭をなでながら、しゃがんだまま答えた。
「タマは、ここの猫ってわけではないんですよ。ただ、時々ここに来るから、私はタマと呼んでかわいがっています。」
「へぇ。」
宮司さんはしばらく私の頭をなでていたが、それをやめ立ち上がって、若い夫婦に話しかけた。
「妊娠されているんですね。」
「はい。」
女の人が、大きなおなかをそっとなでながら答えた。
「もうすぐ、出産なんです。初めての出産で、色々不安なので、この神社に時々来て、お参りしてるんです。」
「それは、それは。赤ちゃんが生まれてくるのが楽しみですね。」
「はい、無事に生まれてきてほしいです。」
女の人はとても優しい目をしていた。
「じゃあ、お参りしようか。」
男の人がそう声をかけて、若い夫婦は神社の前で手を合わせた。それを、宮司さんは微笑みながら見ていた。私もなんだか、うれしいなと思った。幸せそうな顔をしている人を見ると、なんだかこちらまで幸せな気持ちになる。
「無事に生まれてくるといいな、タマ。」
宮司さんが私にそう言った。私も、そう思った。どんな赤ちゃんが生まれてくるんだろう。楽しみだなと、そう思った。
神社からの帰り道、アパートの前を通ったら、大きなトラックが一台、アパートから出て行くのが見えた。引っ越しの季節だ。誰かがこのアパートに引っ越して来たのだろうか。それとも、出て行くのだろうか。私はそっとアパートに近づいた。すると、かっこいいというよりは、かわいらしい顔をした高校生くらいの背の高い男の子と、多分その母親がいた。母親は泣きながら話している。盗み聞きをするのは、申し訳ないが、聞こえて来てしまうので、しかたない。
「翔、四月から大学生になるのね。ここでこれから一人暮らし、本当に大丈夫なの?」
「母さん、大丈夫だよ。だから、そんなに泣かないでよ。」
翔という男の子は優しい口調で言った。
「そんなに泣いてたら、こっちがなんだか心配になるよ。僕は、大丈夫だから、そんなに心配しないでよ。」
「翔、大きくなったのね。幼稚園の頃は、幼稚園に行きたくないって、あんなに大泣きしてたのに。」
「いつの話してるんだよ。僕はもう大人だから、本当に心配しないでよ。」
「そうね。母さんも、子離れしないとね。それじゃあ、そろそろ母さんは行くから。しっかり食べるのよ。ああそれから、戸締りはしっかりね。ああそれから、火事になるといけないから料理をしたら、きちんとコンロの火を確認してね。ああそれから。」
「母さん、心配しすぎだよ。僕は本当に大丈夫だから。」
「わかったわ。それじゃあ、母さんは帰るからね。元気でね。」
ようやく話を終えて、ふと二人が私を見た。
「あら、猫。」
「母さん、猫好きだもんね。」
「野良猫かしら。でも白くてきれいな猫ね。」
「この近くに住んでるのかな。」
「そうかもしれないわね。」
二人は私を見ながらそんな会話をしている。私は、その場をそっと去る事にした。大人になる子供と、大人になる子供が心配な母親。親子の絆はきっと離れてもかたく結ばれているだろう。そう、これからもきっと。私はそんな事を思いながら歩いた。
午後から私は、いつもの公園のベンチで昼寝をする事にした。今日もポカポカな陽気だ。気持ちよく寝ていたら、バサッと大きな音がして、目をさました。見ると、ベンチの上に大きな袋が置かれていた。そして髪の毛の長い女性が大きなため息をついて、ベンチに腰をおろしていた。なんだろう、この大きな袋。私はその大きな袋を見て考えた。その時、電話の音が聞こえてきた。
「もしもし。」
髪の毛の長い女の人は、めんどうくさそうに言った。
「桃子、あんた今どこにいるの?」
電話の相手の声が大きくて、聞こえてきた。
「今日は、友達の結婚式だったの。だから、スマホの電源切ってたの。」
「あら、誰の結婚式?」
「しずくだよ。高校の時の同級生。三月に結婚したいって言ってて、本当に結婚するから、びっくりだよね。」
「あら、しずくちゃん結婚したのね。桃子も、そろそろ。」
「お母さん、もういいかげんにしてよね。三十歳なんて、今の時代まだ若いんだから。」
「そんな事言ってもねぇ、三十過ぎたら、いい条件の相手に出会えないかもしれないでしょ。」
「わかったって。」
「桃子もそろそろいいかげんに、結婚の事考えてよ。親類からも、桃子ちゃんはまだなのかって言われてるのよ。」
「そんなのほっといてよ。」
桃子は電話を切って、それをカバンにつっこんだ。そして、大きなため息をついた。私がその一部始終を見ていたら、視線に気が付いたようで、桃子がこちらを見た。
「何?」
私は何も言っていないし、問いかけてもいない。
「猫は、いいよね。結婚をあせらせる人がいなくてさ。まさか、しずくまで先に結婚するなんて。」
桃子がぼやき始めた。私は、ぼやきを聞くほど、暇ではない。この場を去ろうと思った。その時、桃子が大きな声で言った。
「あ!飛行機雲だ。」
桃子の声につられて、私は空を見上げた。真っ青な空に、白い雲が一筋きれいに浮かんでいた。
「飛行機雲なんて、久しぶりだな。」
桃子がポツリとつぶやいた。その声が、なんだか遠い記憶を思い出しているようで、私は桃子の横顔をみつめた。
「子供の頃はね、ウェディングドレスに、すごくあこがれたんだ。結婚式もチャペルがいいなとか。でも、大人になると、そんな夢みたいな事人にはなかなか言えなくなってさ。私にも、いい出会いがあればなぁ。」
その声と横顔がとてもはかなくて、なんだかこの人をほっとけなかった。桃子が大きな袋を持って歩き出したので、私はそのとなりを歩いた。
「うちは、アパートだから、ペットは飼えないんだけどな。」
私はペットになるつもりはない。ただ、この人をなんだか今は一人にしておけなかった。桃子がだまってあるいたので、私もそのとなりをだまって歩いた。
「だから、ペットは無理なんだって。」
桃子はアパートにつくと、しゃがみこんで私の頭をなでながら言った。このアパートは、知っている。この前翔という男の子が引っ越してきたアパートだ。
「じゃあね。」
桃子はそう言ってカギをあけてアパートの中に入って行った。私は知った。大人になっても、人にはいろいろな悩みがあるんだなと。そして、なにげなく空を見上げた。もう飛行機雲は見えなくなっていた。そして、空を見上げながら思った。桃子にも、いつか素敵な出会いがありますようにと。
私は、野良猫だけどそれはそれで、けっこう楽しく過ごしている。今日は、行きつけの本屋に来ている。商店街の一角にある小さな本屋だ。そこには、私の事を「マル」と呼ぶ、おばあちゃんがいる。おばあちゃんは、この本屋で一人で働いている。
「マル、ひさしぶりだねぇ。」」
レジの所に椅子を置き、おばあちゃんはいつもそこに座っている。私はそんなおばあちゃんの足元にいつもこうして座っている。
「こんにちは。」
いつも来るおばさんが、おばあちゃんと私に声をかけてくれた。
「こんにちは。」
「マル、久しぶりね。」
おばあちゃんの前に来たそのおばさんは笑顔で言った。
「そこに、いつもの椅子があるから。」
おばあちゃんが言うと、おばさんはその椅子を持って来て、レジの近くに座った。おばあちゃんは、一度席を離れてから、お茶を持ってきた。そして、おばあちゃんと、おばさんが話を始めた。
「この店も、もうすぐおわるのね。」
おばさんが言った。
「お客さんもほとんどこないからね。息子夫婦がこの街に家を建てているから、これからは孫と息子夫婦と暮らすんだよ。」
「さみしくなるわね。」
「まぁ、ここから歩いて二十分くらいだから、いつでも遊びに来てよ。」
「あら、いいの?」
「もちろんだよ。息子夫婦は今、店舗を借りて喫茶店をやってるんだけど、これからは自宅に喫茶店をするスペースを作るから、コーヒーでも飲みに来て。」
「コーヒーねぇ。私はおばあちゃんのいれてくれる、このお茶が好きなのよ。」
「あら、それはうれしいわ。じゃあ、喫茶店じゃなくて、家の方に来て。いつでもお茶をいれるから。」
二人はそんな会話をしていた。この店がなくなる事を知って、私はなんだかとても悲しい気持ちになった。ここに来ると、おばあちゃんは、いつでも「マル。」と言ってかわいがってくれたからだ。もうおばあちゃんに会えなくなるのかなと考えると、とてもさみしい。かつて、私をとてもかわいがってくれた斗真のようにもう二度と会えなくなるのかなと、悲しくて思わず私は鳴いた。
「ニャー。」
「あらあら、マルがさみしがってるわよ。」
おばさんが、言った。
「そうだね。マルとも会えなくなるのね。マル、この店を閉めるまでいつでも来てね。」
私はもう一度、
「ニャー。」
と、鳴いた。
数日後、私は新築の家の前にいた。その新築の家のとなりにも、新しく家を建てている。今私の目の前には、とても大きな窓がある。こんなに大きな窓がある家は、初めて見た。すると、中から男性が出てきた。
「あ、猫だ。」
その人は私の方に来て、目の前でしゃがみこんだ。
「看板猫に、ならないか?」
看板猫なんて言葉、私は初めて聞いた。なんだそれと思っていると、
「おはようございます。」
と私のうしろから明るい女の子の声がした。見ると、なんといつか公園で涙をながしていた、ゆなという女の子だった。
「ああ、ええと今日からこの店で働かせてもらう鈴木ゆなです。よろしくお願いします。」
「鈴木さん、よろしく。俺はこの花屋の息子で、圭介っていいます。店長は俺の親父で副店長は俺の母親。家族経営の店だけど、よろしく。」
「私、お花屋さんで仕事するのが夢だったんです。ここなら、自宅からも歩いて通えるし、こちらこそよろしくお願いします。」
「じゃあ、店がオープンするまであと三日だから、店内の掃除とか仕事の事教えるよ。」
「はい、お願いします。」
ゆなは、ぺこっとおじぎをしてから、ふと私を見た。
「あれ、この猫どこかで。」
ゆながそう言って私の目の前に来た。
「もしかして、ここで飼っているんですか?」
「いいや、ちがう。でも、看板猫になってくれないかなって今スカウトしてたんだ。」
「スカウト?」
ゆなは、笑った。いい笑顔だと、私は思った。公園で泣いていた時とちがって、すっきりとした顔をしている。
「じゃあ、名前つけましょうか。」
ゆなが言った。
「そうだな。」
「うーん、白いから、ミルクとかどうですか。」
「いいねぇ。」
私は、あわててこの場を離れた。あやうく看板猫とやらにされてしまう。私は、自由に生きていきたいんだ。看板猫がなんだかよくわからないけど、あわててその場から、私は逃げた。
夕方の公園はちょっとものさみしい。この簡素な公園に、子供たちはめったにやって来ない。一人、滑り台にのぼって遊んでいると、翔が公園にやって来た。そして、ベンチに腰をおろした。なんだか元気がない。私は、そっと歩いて翔のそばに行った。
「翔は、本当にさみしそうな顔をしていた。私はぴょんとベンチにあがって、翔のとなりに座った。その時、電話が鳴った。
「もしもし。」
翔は、電話の相手となにやら話をしていた。
「大丈夫だよ、母さん。ちゃんと食べてるから。」
どうやら電話の相手は、母親のようだ。しばらくの会話の後で、翔はポケットに電話をしまった。そして、私の顔を見て、ポツリと言った。
「なんか、さみしいな。」
さっき、電話では元気そうな声を出していたのにと、私は思った。
「母さんの料理が食べたいな。」
もしかして、翔はホームシックとやらになっているのではないかと、私は思った。
「大学が始まるまで、友達もできそうにないし。」
ポツリと言う言葉を聞いて、なんだかなぐさめてあげたくなった。私はそっと、翔の足元に前足でふれてみた。
「もしかして、かまってほしいのかな。」
翔は、ポツリと言って私の頭をなでてくれた。その時、私のうしろから、「コツコツ。」と音が聞こえた。振り返ると、白杖を持った女の子がこちらにやって来るところだった。顔を見て私は、彩ちゃんだとうれしくなった。翔は、たちあがって、彩ちゃんに声をかけた。
「あの、ここにベンチがありますよ。」
彩ちゃんは、一瞬おどろいてたちどまった。それから、
「教えてくれてありがとうございます。私は、この公園によく来るので、ベンチの場所はわかるんですよ。」
と答えた。
「ニャー。」
私が一声鳴くと、彩ちゃんはうれしそうな顔をして言った。
「猫ちゃん。」
「ニャー。」
彩ちゃんはしゃがみこんで私をなでてくれようと右手を宙にさまよわせた。それを見て、翔は、
「ここにいますよ。」
と彩ちゃんの手を私の頭の上にのせてくれた。
「猫ちゃん。こんにちは。」
「ニャー。」
目の見えない彩ちゃんには、できるだけここにいるよと私は、声で教えてあげる。
「あの、この猫猫ちゃんって名前なんですか?」
翔が、彩ちゃんに聞いた。
「ええと、私が勝手に名前を付けたんです。」
「そうなんですか。」
彩ちゃんは、たちあがって、翔に言った。
「ええと、ベンチに座ってもいいですか?」
「あ、ベンチはここですよ。」
翔が彩ちゃんを誘導してベンチに座らせてくれた。翔は、彩ちゃんの前に立って言った。
「この公園には、よくくるんですか?」
「はい。こうして猫ちゃんに会いに来ます。でも、猫ちゃんは、きまぐれだから、いない時もあるんです。今日は会えてよかったです。」
「そうですか。僕はこの春に大学生になるんです。それで、この街に引っ越してきたばかりで。」
「そうなんですね。じゃあ、まだ知り合いはもしかしていないんですか?」
「はい。」
「そっかぁ、それじゃあちょっとさみしいですね。私はだいたいこのくらいの時間にここに来ます。私でよければ、話し相手くらいにはなれます。」
「ええと、高校生ですか?」
「高校には行ってないんです。もしも行っていたら、四月から高校三年生です。この公園には、一年くらい前から時々くるようになって。」
「そうなんだ。今日は話せてよかったです。猫ちゃんも、ありがとう。」
翔はそう言って、公園を出て行った。ちょっとだけ元気になったようで私は、ほっとした。そして、ベンチの上に座って彩ちゃんの話を聞いた。
「さっきの人、さみしそうな声だったね。早く友達ができるといいね。」
彩ちゃんは私の頭をなでながらそう言った。私も同じ気持ちだ。どうかたくさんの笑顔があふれる街になりますようにと、私は思った。
次の日、私は神社に行った。翔に友達ができるようにお願いをするためだ。階段をのぼって、鳥居をくぐり、神社にたどりついて、翔の事を神様にお願いした。すると、にぎやかな声が聞こえたので、ふりかえった。元気のよさそうな高校生カップルが、楽しそうににぎやかに話をしながらこちらにやってきた。
「あ、猫だ。」
女の子が言った。
「愛ちゃん、猫派?」
「うん。慎吾君は?」
「俺は、動物はなんでも好き。」
慎吾は、そう言って、私の方にやって来た。
「ここの猫かな。」
「どうだろうね。」
「まずは、お参りしようか。」
二人は何やら手を合わせてお参りを始めた。
「慎吾君、何をお願いしたの?」
「この前バイトの面接しただろ?採用されますようにって。」
「え、そんな事をお願いしたの?」
「愛ちゃんは、何お願いしたの?」
「二年生になっても、慎吾君と同じクラスになれますようにだよ。」
愛はちょっと怒りながら言った。
「あー、ごめんごめん。それもお願いする。」
慎吾はあわててもう一度、神社に向かって手を合わせた。
「タマ。」
宮司さんがやって来て、私の名前を呼んだ。
「あの、この猫ここの神社の猫ですか?」
愛が宮司さんに聞いた。
「いいえ。ちがいます。でも、時々やって来るので、私はタマと呼んでいます。」
「へぇ、タマかぁ。」
慎吾は、そう言って私の頭をなでた。
「白いし、サザエさんに出てくるタマみたいだな。」
慎吾がそう言って、みんながわらった。なんだろう、サザエさんって。私は首をかしげた。みんな、私の事をかわいがってくれた。猫が好きな人はいつまでも、かまってくれる。それはとてもうれしい。けれど、私はなんだか眠くなったので、いつもの公園のベンチで昼寝をしようと、なごりおしい気持ちをもちながら、神社を後にした。
数日後、私はこの前の花屋の前にいた。
「あれ、こんな所に花屋なんてあったっけ?」
私のうしろで、桃子が首をかしげながら言った。その時、車がとまる音がした。振り返ると、軽トラックがとまっていて、中からここの花屋の圭介がおりてきた。桃子を見ると、圭介は笑顔で言った。
「いらっしゃいませ。」
「え、あ、えっと。私はおきゃくさんじゃなくて。」
桃子はなんだかあわてている。
「あれ、ミルクか。」
圭介は私を見て言った。
「ミルク?この猫ミルクって、いうんですか?」
「いや、多分野良猫。この前もここにいて、その時名前をつけたんです。」
「そうですか。私、コンビニに行こうかなってアパートを出たら、この猫に会って。それでなんとなくこの猫の後をついてきたら、この店にたどりついて。ここに花屋があるって、知らなかったです。」
「この店は、つい最近オープンして。そうか、ミルクお客さんをつれてきてくれたのか。えらいな。」
圭介は私の頭をなでた。
「やっぱりうちの看板猫にならないか?」
「看板猫?」
桃子がまた首をかしげた。
「はい、看板猫がいる花屋っていいかなって。」
圭介はたちあがりながら、桃子に言った。
「たしかに、白くてかわいい猫ですよね。」
桃子がそう言って私を見て、微笑んだ。その微笑みを見て圭介が言った。
「そうだ、ちょっとここで待っててください。」
圭介はそう言って、店の中に入った。そして、チューリップを一本持ってきた。
「このチューリップ、クリスマスドリームっていうんです。よかったら、どうぞ。」
圭介はチューリップを桃子に差し出した。
「え、でも私、お客さんじゃないし。それに、お花とかくわしくないし。」
「これは、サービスです。お金はいらないですよ。花瓶がなかったら、コップに水をいれて、適当な長さに切って飾ってみてください。」
圭介がそう言って、桃子にチューリップを改めて差し出すと、桃子はそれを受け取った。
「ありがとうございます。」
「毎日水を変えてあげるといいですよ。弱ってきたら、茎を少し切ってあげると、また元気になるし、チューリップってあったかい所に置くと、けっこう花びらを開くんです。それで、寒い所に置くと、また花びらがすぼむんです。」
「へぇ、なんだか理科の実験みたいですね。あったかい所においてみようかな。」
「寝る時暖房を切ってねるでしょう。起きたら、チューリップを見てみてください。」
「なんだか、ちょっと楽しみになってきました。」
「生け花とかむずかしく考えなくていいんですよ。花を一本部屋に飾るだけでも、部屋が明るくなるので。ああそう、買わなくてもいいので、いつでも店に来てください。」
「ありがとうございます。」
桃子はピンク色のチューリップを見ながら、また笑顔になった。私は、そんなやりとりを聞いて、心があったかくなった。やっぱり花っていいなと私は思った。この大きな窓から、店の中にある花を見た。色とりどりの花たち。いつも散歩する道には咲いていない花ばかり。また、ここに来てたくさんの花を見よう、そう思って私はその場を後にした。
夕方、私はいつもの公園のベンチの下にいた。たまにこうして、私はこのベンチの下にかくれる。一人かくれんぼだ。すると、男の人の声が聞こえて、その声がだんだんおおきくなってきた。
「俺、今日初めてのバイトで失敗ばかりだったな。」
この声はきっと慎吾だと私は思った。
「僕は高校の時に、コンビニでバイトしてたから、コンビニのバイトには慣れてるんだよ。」
この声は翔だなと、私は思った。
「でも、同期のバイトの人がコンビニのバイト経験者でうれしいよ。俺のミスを全部フォローしてもらって。あ、そうだ。これどうぞ。」
「あ、うまい棒だ。なつかしいな。ありがとう。」
二人が何かを食べている音が聞こえた。何を食べているんだろうと、私はベンチの下からでてきた。
「あ、タマ。」
慎吾が言った。棒のようなお菓子をかじっていた。
「この猫、タマっていうの?」
翔も同じく棒のようなお菓子をかじっていた。
「神社でみかけて。その神社の人が、タマって言ってたから。」
「そっか。なんかかわいいよね、この猫。」
「あの、翔さんは猫派ですか?」
「僕は、動物はなんでも好きなんだよ。」
「同じ。俺も動物が大好き。」
「慎吾君は明るいから、動物からも好かれそうだね。こうして僕とも、すぐに仲良くなってくれたし。」
「翔さんこそ、優しそうな顔してるし。実際、優しいし。」
二人はどうやら、同じコンビニでバイトを始めたらしいと私は思った。翔に友達ができてよかったなと、ほっとした。こうして、一人でも多く笑顔になってくれたら、私はなんだかうれしい。
「ニャー。」
私は、一声鳴いた。
「あれ、タマもうまい棒ほしいのか?もう食っちゃったよ。ごめんな。」
いやいや私はそんなお菓子なんて、いらない。ただこうしておだやかな時間が好きなだけだ。しばらくこうして、慎吾と翔の会話をのんびりと聞いてその日の夕暮れを過ごした。
次の日、私は本屋の前にいた。いつもは店のドアが開いているけれど、今日は閉まっている。すると、うしろから男の子の声が聞こえた。
「もしかして、マル?」
その声に反応して、私は振り返った。しらない中学生くらいの男の子だった。
「ばあちゃん。」
その男の子は店のドアをあけて中に入ると、そう言った。中から、おばあちゃんが出てきた。
「吾郎、ひさしぶりだね。」
「この猫、もしかしてマル?」
吾郎と呼ばれた男の子はそう問いかけた。
「そうだよ。マル、よく来てくれたね。さあ、中にお入り。」
おばあちゃんにうながされて私は店の中に入った。おばあちゃんはレジの前に椅子を持って来て吾郎にそこに座るようにうながした。吾郎は素直に座った。それから、おばあちゃんは二人分のお茶を持って来て、いつもの椅子に座った。
「吾郎、手伝いに来てくれて、ありがとう。さぁ、とりあえずお茶でも飲もうかね。」
吾郎は、お茶を飲みながら私を見た。
「マル、店の前にいたよ。」
「ああそうだったね。今日はドアを閉めていたから、マルは仲に入れなくて困っていたのかもね。吾郎が来てくれてよかったよ。」
吾郎はお茶を飲んでから、店の中を見回した。
「ずいぶんかたづけが進んでるね。」
「ああ、どうせお客さんがいないから、ぼちぼちかたづけをしてたんだよ。」
私も店内を見回した。そういえば、そうだ。店の中は少しきれいにかたづいている。そこに、ドアをあけて誰かが入って来た。
「こんにちは。」
聞き覚えのある声に私は声の方を見た。あかりだった。
「あれ、白ちゃん。」
あかりは私を見てそう言った。
「あかりちゃん、こんにちは。マルを知っているのかい?」
おばあちゃんは、あかりに聞いた。
「マル?」
あかりが首をかしげた。
「ばあちゃんが、この猫にマルって名前をつけたんだ。」
吾郎が答えた。あかりは吾郎を見た。すると、おばあちゃんが吾郎にあかりを紹介した。
「あかりちゃんは、この店の近くに住んでいて、この店の常連客なんだよ。そういえば、吾郎と同じ年だね。」
「へぇ、じゃあもしかして同じ中学になるのか?」
吾郎が言った。
「そうだね。同じ中学だね。」
おばあちゃんはそう言って、椅子を持って来て、吾郎のとなりに座るようにあかりにうながした。それから、おばあちゃんは、あかりのお茶も入れてくれた。
「ありがとうございます。」
あかりは、湯のみちゃわんを両手で包み込んで、お茶を飲んだ。
「今日は、店のかたづけを手伝いに来てくれたんだよ。」
おばあちゃんが、吾郎にそう言った。
「そっか。ありがとう。あかりちゃんっていうんだね。俺は吾郎。同じ中学になるから、よろしく。」
「吾郎は引っ越して来たばかりだから、あかりちゃん吾郎をよろしくね。」
あかりは、お茶を飲むのをやめた。少しうつむいてポツリと言った。
「私、三年生になれるかな。」
「え、なんで?」
吾郎が大きな声で聞いた。
「三学期の後半から、学校を休んでたの。」
「具合でも悪いのかい?」
おばあちゃんが、聞いた。あかりは首を横に振った。そして、だまりこんでしまった。
「何かあったのか?」
吾郎が聞いた。私はあかりが、学校に行けなくなった理由を知っている。じっとあかりの言葉をみんなで、待っていた。すると、あかりの目からポロポロと涙がこぼれた。
「どうしたの?」
吾郎があわてて聞いた。
「あかりちゃん、どうしたんだい?」
おばあちゃんも、聞いた。
「ちょっと友達と色々あって。それで私、学校に行けなくなって。」
「そうだったのかい。それなのに、今日こうして店の手伝いに来てくれたのかい。」
おばあちゃんが言った。
「この本屋さんとおばあちゃんには、お世話になったから。この本屋さんが亡くなるのが、ちょっとさみしいけど。でも、かたづけをして少しでも恩返しができたらって。」
「そうかい、あかりちゃん、ありがとね。」
「いじめ?」
吾郎が、ストレートに聞いた。
「えっと。」
あかりは、ためらいながら、少しの間の後に、うなづいた。
「いじめって、俺許せねぇんだ。確かに、合う人とか合わない人とかいるけど、だからっていじめるって、ひどいよな。俺が、言い返してやるから、学校来いよ。」
吾郎が力強く、あかりに言った。
「でも。男子と仲良くしてると、また言われてしまうと思う。」
「はぁ?なんだそれ。」
吾郎が大きな声で言った。
「気にすんなよ。俺が、ちゃんと守るから。学校来いよ。」
あかりは、涙目で吾郎を見た。そして、何か考えている。
「まぁ、吾郎。あかりちゃんの気持ちもあるから、無理に学校に行かなくてもいいんじゃないかい。」
おばあちゃんが、言った。
「いや、それっておかしい。いじめられた人がなんで学校に行けなくなるんだ。悪い事してる人が学校に来て。それって、絶対おかしい。」
「吾郎は、あいかわらずまっすぐだね。おばあちゃんは、吾郎のそういう所が好きだよ。」
だまっているあかりを見て、おばあちゃんが言った。
「まぁ、学校の事はこれからゆっくり考える事にして、かたづけをしようかね。明日でここを最後にするから。今日は二人に応援してもらって、頑張るよ。」
三人は、おばあちゃんをリーダーに、かたづけを始めた。いよいよこの店がなくなってしまう。私は、さみしい。けれど、あかりの事も心配だ。三人が一生懸命働くのを見ていたら、吾郎が私を見て言った。
「マル、手伝ってよ。猫の手も借りたいってこういう事だな。」
と言った。みんな笑った。ちょっとだけ、みんなが笑顔になった。それを見て、私はそっと店を出た。
夕方、私はいつもの公園のベンチに座っていた。となりには、彩ちゃんがいる。彩ちゃんは、なつかしいような目で、空を見上げていた。目の不自由な彩ちゃんには、この夕暮れの空はどんなふうに見えるんだろう。
公園の入り口から、足音が聞こえた。そちらを見ると、やって来たのは翔だった。翔は、彩ちゃんの前に来ると、
「こんにちは。」
と、優しい口調で挨拶をした。私は、ベンチから飛び降りて、席を翔にゆずった。
「あ、こんにちは。この前の、人ですね。」
彩ちゃんは、声のする方に向かって、挨拶を返した。
「となりに、座ってもいいかな?」
「あ、はい。えっと、猫ちゃんがいると思うんだけど。」
「ああ、今その猫なら、君の足元にいるよ。」
翔は、そう言って彩ちゃんのとなりに、座った。
「僕、ええとまだ名前を言ってなかったよね。翔って、言います。」
「私は、彩です。観月彩。」
「なんて、呼んだらいいかな。」
「彩でいいです。でも、なんでもいいかな。おまえとかでも。」
彩ちゃんは、そう言って、なつかしそうな顔をした。
「え、おまえなんて、さすがに失礼ですよ。ええと、じゃあ、彩ちゃんて呼ばせてもらいます。僕の事も名前で、呼んでくれていいからね。」
「はい。翔君ですね。よろしくお願いします。」
「ええと、彩ちゃんは、高校生かな?」
「えっと、私は高校には、行ってなくて。」
「え。ごめん、失礼な事聞いて。」
「いいえ。いいんです。高校に行かないって、自分で決めたんだし。あ、でも行ってたら、この春、四月から高校三年生です。」
「そっか、僕の一つ年下なんだね。」
夕暮れの風が、そよそよと公園の中を吹き抜けた。
「私、生まれつき見えないわけじゃないんです。」
彩ちゃんが、話始めた。
「だから、昔は普通に見えてて。それが、病気でこんなんになって。」
「そっか。」
「今は、光を感じる程度にしか見えないんです。でも、それもいいかなって、最近思うんです。なんていうか、一度は人生に絶望した時もあったんだけど、こうしてここで出会った人がいて。それで、今パソコンで仕事できないかなって、就職活動してるんです。」
「え、パソコンできるの?」
「はい。音声ソフトがあって。それを使えば、見えなくてもなんとか。」
「すごいな。」
「初めは、なんとなくパソコンの勉強を始めたんだけど。そのうちに、仕事したいなって。全盲の人でも、パソコンの仕事してる人がいるって聞いて、私も頑張ってみようって。でも、なかなか難しいですね。仕事、全然きまらないんです。だから、今は家にいて、そのちょっとした将来の夢を、ええとまぁ努力していて。」
「夢?」
「はい。まぁ、恥ずかしくて人には言えないんですけど。」
「そっか。でも、すごいね。僕はこの四月から、大学生になるけど、将来の夢は、まだはっきりとは決まってないんだ。だから、彩ちゃんは、すごいね。」
「ええ、そんな事ないんです。パソコンを始めたのだって、そのなんていうか。私は。」
彩ちゃんは、思い切ったように翔に話した。
「もともと読書が好きで。音訳した本を耳で聞いて読書してたんです。で、そのうちに、私も小説を書いてみたいなって思って。そんな理由で、パソコン教室に行くようになって。あ、普通のパソコン教室じゃなくて、目の不自由な人を対象にしたパソコン教室があって。それで、ある程度、パソコンの勉強をして。今はもう、パソコン教室には通ってなくて。家にいて、読書してるか、パソコンで小説書いてるか、そんな日々です。小説家になんて、ほんのひとにぎりの人しかなれないのに、まぁ一応努力してはいるんですけどね。」
「へぇ。すごいな。やっぱり、すごいよ。」
「なんだか、恥ずかしい事言っちゃったな。」
彩ちゃんは、ごまかすように笑った。
「私、もともとほとんど家にひきこもってたんです。中学は、盲学校通ってて、そこを卒業してからずっと家の中でひきこもってて。でも、この公園で、ある人に出会って。それから、少しづつ前向きになって。猫ちゃんとも出会えたし。」
「そっか。その人とは、たまにここで会うの?」
「いいえ。もう会えないんです。」
「え、なんで?」
「遠くに行ってしまったんです。」
「そっか、引っ越したんだね。」
「ええと、引っ越しというよりも、なんていうか、今はきっと空の上から私と猫ちゃんを見守ってくれていると、思います。」
「え、空の上から?」
翔は、目を大きくした。そして、はっとした。
「もしかして、その人、亡くなったのかな?」
「はい。交通事故で。」
「ごめんね。さっきから僕は聞いてはいけないような事を聞いて。」
「いいんです。彼の事は私と猫ちゃんだけの秘密だったんです。こうして、誰かにやっと話せたって事は、彼が亡くなったって、やっと私の心の中で受け入れたんだと思うんです。今までは、今もだけど、会いたいなって思う気持ちが強くて。でも、こうして、おだやかに話せるようになって、私もちょっと気持ちの整理がついたのかなって。よく知らない翔君に、話せて良かったです。」
「僕は、なんにもわからずに。本当にデリケートな事聞いちゃって、ごめんね。」
「本当に、いいんです。逆に、聞いてもらえて良かったです。」
私は、彩ちゃんの顔を見た。おだやかな表情だ。斗真の事を思い出にできたんだなと、私は思った。これまで、彩ちゃんは、私に斗真の事を話してくれていた。斗真に会えないさみしさを。それが、やっとこうして気持ちのくぎりがつき、誰かに話せるまでになったんだなと、私は思った。
「そうだ。バイト先の友達からきいたんだけど、新しく花屋ができたんだって。」
「あ、ママが言ってました。今度、ママといこうかなって思ってます。」
「僕も、行ってみようかなって、思ってるんだ。今まで気がつかなかったけど、一人暮らし始めて料理とか洗濯とか、掃除とか家にいたらやらなくちゃいけない事がこんなにあるんだなって。母さんにもっと感謝してれば良かったって反省してるんだ。だから、母さんに、花束でも送ろうかなって。花って、配達できるのかな。」
「できると思います。花束もいいし、フラワーアレンジメントとかもいいと思いますよ。」
「フラワーアレンジメント?」
「はい。そこの花屋さんが、週に一回フラワーアレンジメントの教室をやるみたいで、チラシが入ってて。ママがやってみようかなって言ってたんです。」
「へぇ。じゃあ、なおさら今度その花屋さんに行こうかな。」
「お母さん、きっと喜びますね。」
彩ちゃんは、笑ってそう言った。私はそんなおだやかな彩ちゃんを見て、斗真の事を思い出した。斗真と一緒にいた頃の彩ちゃんとは、ちょっとちがう気がした。彩ちゃん、いつのまにかだいぶ大人になったんだねって私は思った。
次の日、本屋さんに行くと、吾郎とあかりが店の前にいた。
「お、マル。おはよう。」
吾郎が私の顔を見て挨拶をしてくれた。
「白ちゃん、おはよう。」
あかりもまた挨拶をしてくれた。
「ニャー。」
私は二人に、挨拶を返した。店の中からおばあちゃんが出てきた。
「吾郎、あかりちゃん、昨日は遅くまで手伝いありがとね。今日でこの店をしめるよ。なんだか、さみしいけどね。」
「私もさみしいです。」
あかりちゃんが言った。すると、店の前に、人が少しづつ集まって来た。ここが今日で閉店するから、商店街の人たちが挨拶に来たのだ。おばあちゃんは、
「お世話になりました。」
と、涙を流しながらみんなに挨拶をした。この本屋は、商店街では、おばあちゃんの店と呼ばれていた。売上こそそんなにないけれど、愛された店だった。
「じゃあ、ばあちゃん、夕方車で迎えに来るからね。」
吾郎がそう言って、おばあちゃんに手を振った。おばあちゃんは、店のシャッターをしめて、店のわきにある通路を通って、店の裏にある住居に行ってしまった。
「さて、マル、どうする?この店なくなったぞ。うちにでも、来るか?」
「吾郎君、白ちゃんをペットにするの?」
「うーん、どうかな。うちは喫茶店だからな。親がペットを飼う事を禁止するかもな。」
そう言いながら、吾郎は私をだっこした。
「あかりちゃん、うちに来ない?せっかく友達になったし。喫茶店はまだオープンしてないけど。うちに来れば、ばあちゃんにもこれからも会えるよ。」
「そうだなぁ。おばあちゃんには、これからも会いたいし。」
「うちの場所だけでも、教えるからついて来てヨ。」
「そうだね。行ってみる。」
あかりちゃんの顔が、パット明るくなった。そして、吾郎は私をだっこして、となりにあかりちゃんがいて、二人と一匹は、吾郎の家に向かって進んだ。
なんと、吾郎の家は、あの花屋さんのとなりだった。こんな偶然もあるんだなと、私は目を大きくした。吾郎は家の前につくと、私をおろしてくれた。
「ここなんだね、吾郎君の家。」
「いつでも遊びに来てヨ。今日の夜からは、ばあちゃんも一緒に暮らすし。縁側もあるから、そこでばあちゃんの話でも聞いてやって。」
「ありがとう。おばあちゃんに、これからも会えるのが、うれしいよ。」
あかりちゃんはそう言って笑った。
「じゃあ、本当に来てくれる?」
吾郎が念をおして聞いた。
「うん。今日はこれで帰るけど、また絶対に来るからね。」
あかりちゃんは、そう言って帰って行った。あかりちゃんを見送った吾郎は、私の目の前にしゃがみこんだ。
「あかりちゃん、学校来るかな。」
どうだろうと、私は思った。すると、じっと私の顔を見ていた吾郎が、急に大きな声で笑った。
「あははは。」
何がおかしいのかと、私は吾郎の顔を、じっと見た。吾郎は私の顔を見て言った。
「マルの目って、まんまるなんだな。だからばあちゃん、マルって名前つけたのかもな。」
吾郎はまだ笑っていた。そんな吾郎を見て、思わず私も笑った。
「え、マル、今笑った?」
吾郎が、きょとんとした顔でそう言った。私は、うなづいた。
「へ?今、うなづいた?」
吾郎が驚いた顔をしている。おどろきすぎて、吾郎の目がまんまるになっている。これでは、吾郎こそマルだ。私は、もう一度にっこりと笑った。
「え、また笑った?え、え、気のせいかな。」
おどろいている吾郎に、私はぺこっと頭をさげて、その場を後にした。うしろから、吾郎の声が聞こえた。
「マル、ばあちゃんに、会いにきてくれよな。」
私は立ち止まって、振り返り、うなづいた。そんな私をまた吾郎はおどろいた顔でみていた。私は、ここにくれば、おばあちゃんに会えるんだなと安心して、歩いた。
次の日、私は花屋の店先にいた。大きな窓から店内の花たちを見ていた。すると、車のとまる音が聞こえた。振り返ると、軽トラックから圭介がおりてきた。
「あれ、ミルク。また来たのか?」
私の事を、すっかりミルクと呼んでいる。圭介は、私の目の前にしゃがみこんで、頭をなでながら言った。
「ミルク、花が好きか?店の中に入ってみるか?」
圭介がそう言ってくれたので、私は、
「ニャー。」
と、返事をした。
圭介のあとに続いて、私は店の中に入った。
「あ、圭介さん、お疲れさまです。」
レジにいたゆなが圭介に声をかけた。
「あれ、その猫。」
ゆなが私を見て言った。
「ああ、店先にいたんだ。どうやらミルクは花が好きみたいだ。」
「へぇ、ミルク。お花好きなの?」
ゆなが、私に笑顔で聞いて来た。
「ニャー。」
私はそれに答えて鳴いた。店の中には見た事のない花々があり、私はしばらく店内をうろうろした。
「いらっしゃいませ。」
ゆなが、明るい声で挨拶をした。店の奥に入った圭介はその時はいなかった。店の入り口を見ると、やって来たのは彩ちゃんとママだった。彩ちゃんは、右手に白杖を持ち、左手でママの右腕をつかんでいた。
「こんにちは。ちょっと、お花を見せてください。」
彩ちゃんのママが、ゆなに言った。
「どうぞ。」
ゆなは、笑顔で答えた。
「彩、かわいいチューリップがあるわよ。」
ママがそう言ってから、ゆなの方を見てゆなに声をかけた。
「あの、この子に花びらをちょっとさわらせてあげてもいいですか?」
「はい、もちろんです。」
ゆなは、そう答えた。
「彩、ここにチューリップがあるわよ。」
ママはそう言って、彩の手をとり、チューリップの花びらにふれさせた。
「ピンク色よ。とてもかわいいわ。」
ママが彩ちゃんに説明をした。
「わぁ、チューリップの花びらだ。」
彩ちゃんは、とてもうれしそうに笑顔で言った。その時、店に誰かが入って来た。
「いらっしゃいませ。」
ゆなが、来店客にあいさつをした。私は店の入り口を見た。やって来たのは、翔だった。
「あれ、彩ちゃん。」
翔は、彩ちゃんを見てそう言った。
「彩、知り合いなの?」
ママが彩ちゃんに聞いた。翔は、ママに説明を始めた。
「最近、この街に引っ越して来たんです。それで、公園でたまたま会って、話をするようになって。」
翔の声を聞いて彩ちゃんが、翔だとわかり、しゃべり始めた。
「翔君。こんにちは。今日はママとこのお花屋さんに初めて来たの。まさか、翔君に会えると思ってなかったよ。」
彩ちゃんの足元にいた私を翔が見て言った。
「あれ、この猫。」
「え、猫?」
彩ちゃんが、聞き返した。
「彩の足元に、白い猫がいるわよ。」
ママが説明した。
「この猫、公園にいる猫だよ、きっと。」
翔は説明した。
「え、なんでここに猫ちゃんが?」
彩ちゃんがおどろいて言った。
「この猫、時々この店先に来るんですよ。」
店の奥から圭介が出てきて話に加わった。
「ミルクって、適当に名前をつけて、看板猫になってくれないかなって思ってたんです。」
「え、看板猫?」
彩ちゃんと、翔がおどろいて聞き返した。
「私は、この猫に猫ちゃんって名前をつけてて。」
彩ちゃんが言うと、ゆながそれを聞いて笑顔で言った。
「え、猫に猫ちゃん?かわいいかも。」
ゆなの声を聞いて、彩ちゃんが言った。
「私が勝手につけたんです。猫ちゃんて。」
「あ、そういえば、バイト先の子が、この猫神社で見たって言ってたよ。神社では、タマって、呼ばれてるみたいだよ。」
翔が言うと、ゆなが笑って言った。
「そっか、ミルクはあちこちに行ってるんだね。名前もたくさんあるんだね。だったら、看板猫は、無理だね。気楽な野良猫生活を楽しんでるんだろうし。」
ゆなの言う通りだと私は思った。私は、この気楽な野良猫生活を楽しんでいる。いわゆるリア充というものだ。
「あ、いらっしゃいませ。」
ゆなと圭介が、入って来たお客さんに挨拶をした。やって来たのは、桃子だった。
「あれ、君同じアパートの。」
桃子は、翔の顔を見てそうつぶやいた。
「翔君、知り合いなの?」
彩ちゃんが聞いた。
「翔君?」
桃子が聞き返した。翔が桃子に、挨拶を始めた。
「こんにちは。アパートが同じで顔は知っているけど、僕はこの四月から大学生で、それで引っ越して来たんです。」
「へぇ、そうだったの。翔君っていうのね。」
桃子が聞いた。
「あ、はい。翔と呼んでください。」
「わかったわ。ええと、私は。」
桃子はちょっと間をおいてから言った。
「そうね、どうせなら下の名前で呼んでもらおうかな。私は、桃子。よろしくね。」
「桃子さんですか。よろしくお願いします。」
翔と桃子が挨拶を終えた。すると、桃子がふと私を見て言った。
「あれ、この猫。」
「桃子さんもこの猫知ってるんですか?」
翔が聞いた。
「知ってるっていうか、顔見知りみたいな。」
桃子があいまいに答えた。
「なんだか、ミルクは招き猫みたいだね。」
ゆなが言った。
「あ、そういえば、この間は、チューリップありがとうございました。」
桃子が圭介に向かって、お礼を言った。
「私、本当におどろいたんです。暖房がついている部屋だと、チューリップの花びらが開いて、夜寝てる時暖房を消して寝てて。それで、朝起きてみてみたらチューリップの花びらがすぼんでいて。びっくりしました。」
「へぇ、チューリップの花って、そうなんだ。」
翔が、なるほどと感心して言った。
「そうなんだね。ママ、チューリップ買って行こうよ。」
彩ちゃんも、桃子の話を聞いて言った。
「そうね。」
「チューリップとかすみ草の花束なんて、どうですか。とても春らしいですよ。」
ゆなが、ママと彩ちゃんに言った。
「そうね。それをもらおうかしら。花束は、作ってもらえるのかしら?」
「はい、もちろんです。」
ゆなが、明るく返事をした。
「それと、チラシを見て来たんだけど。フラワーアレンジメントの教室に申し込みたくて。」
ママが言うと、桃子も口をはさんで言った。
「私も、フラワーアレンジメントの教室に申し込もうと思って、ここに来たんです。」
「ありがとうございます。そちらのテーブルにどうぞ。」
ゆなが店の一角にある四人がけのテーブル席を案内した。そこに、彩ちゃんとママ、桃子が座った。立っていたままの翔が、ゆなに言った。
「あの、僕は花の配達ができるか、聞きに来たんです。」
すると、圭介がそれに答えてくれた。
「できますよ。近くなら、無料で配達しますよ。」
「えっと、実家に送りたいのですが。」
「ああそうなんですね。そうなると、送料がかかります。」
「はい。それで、花束もいいなと思うんだけど、そのフラワーアレンジメントって、どんな花ですか?もしそういうのも配達できるなら、ええとお願いしたいんですけど。」
「できますよ。そうだ、見本を見せますね。」
圭介はそう言って、翔を彩ちゃんたちが座っている席に座るように促した。
「これが、見本です。」
圭介が持ってきたフラワーアレンジメントを見て、みんなが歓声をあげた。
「わぁ、きれいだね。」
ただ一人、彩ちゃんだけは何も言わなかった。目が不自由な彩ちゃんには、このフラワーアレンジメントの見本がみえないのだろう。
「彩、ちょっと触ってみる?」
ママがそう言って、彩ちゃんの手をフラワーアレンジメントにふれさせた。
「ピンクと赤の色がきれいに配置されていて、とても春らしいわよ。」
ママが説明しているのを、聞いてゆなが補足説明をした。
「カーネーションと、スプレー菊です。菊の花って、仏花ってイメージがあると思うんですけど、スプレー菊って、意外とこんなふうにアレンジできるんですよ。」
「へぇ、スプレー菊っていうのね。」
ママがそう言った。
「さわってみてください。これが、スプレー菊です。」
ゆながそう言って、彩ちゃんの手をとって、スプレー菊にふれさせてくれた。
「わぁ。」
彩ちゃんの顔が、パット明るくなった。
「すごい、きれいですね。イメージできます。」
彩ちゃんは、満足そうにゆなに言った。
「あの、うちの彩と同じくらいの年齢ですよね?」
ママがゆなに聞いた。
「ゆなちゃんは、この春うちに就職したんですよ。」
圭介がママに説明した。
「あら、そうなの?それじゃあ、彩の一つ上ね。彩、ゆなちゃんですって。ポニーテールがとても似合っていて、かわいい女の子よ。」
「私、彩っていいます。よろしくお願いします。」
彩ちゃんが、ゆなに挨拶をした。
「ゆなと言います。こちらこそよろしくお願いします。」
二人は笑顔で挨拶をかわした。
それから、みんなで花についておしゃべりをした。ママと桃子は、フラワーアレンジメントの教室に申し込んで、翔は実家にフラワーアレンジメントを配達してもらうように、手続きをした。みんなが帰る時、店の外までゆなと圭介が送ってくれた。圭介は、桃子に言った。
「あの、また来てくださいね。」
「はい。フラワーアレンジメントの教室に申し込んだので、また来ます。」
桃子がそう答えると、圭介は口をパクパクさせながら、何か言葉を探していた。
「ああ、そうですね。ええと、そうなんだけど。」
圭介は何か言いたそうで、それ以上は言わなかった。みんなが帰るのを見送ると、圭介とゆなは店の中に入って行った。
「ミルク、店に入るか?」
圭介に聞かれたが、私は店にははいらなかった。これから、行く所があるからだ。
「ミルクは、あちこち行ってるみたいだからね。また、来てね。」
ゆながそう言って、私の気持ちを悟ってくれた。ありがとう、ゆな。私はそう心の中で、お礼を言った。
午後から、私は吾郎の家の前にいた。吾郎の家の喫茶店はオープンしていた。でも、私は猫なので、さすがに喫茶店には入れない。おばあちゃんに会いたいけれど、どうすればいいか考えていた。
「白ちゃん。」
うしろからそう声をかけられた。振り返ると、あかりがいた。
「白ちゃんも、おばあちゃんに会いに来たの?」
「ニャー。」
私は、返事をした。あかりは、吾郎の家の喫茶店を見て、言った。
「ここが喫茶店なんだね。自宅は、この店の奥かもね。」
あかりが歩き出したので、私もついて行く事にした。
喫茶店のわきにある小道を進んだ所に、吾郎の自宅の玄関があった。
「ここが、きっと吾郎君の自宅だよ。」
あかりは、そう言ってインターホンを押した。
「はーい。」
吾郎の声が聞こえた。しばらくして、玄関のドアが開いた。
「あかりちゃん。来てくれたんだね。」
吾郎は大きな声でそう言った。そして、私を見ると、
「マル。マルもきてくれたのか?」
と、おどろきながら言った。
「どうぞ、中に入って。あ、マル、ちょっと待ってて。」
吾郎はそう言ってから、ぞうきんを持ってきた。
「マル、一応足をふいてから家にあがってくれよな。新築だから。」
吾郎は私をだっこして、ぞうきんで私の足をふいてくれた。
「よし、いいぞ、マル。」
靴をぬいだあかりちゃんと、私は吾郎の案内で縁側に行った。そこには、お茶を静かに飲んでいる、おばあちゃんがいた。
「ばあちゃん、あかりちゃんとマルが来てくれたよ。」
「ああ、あかりちゃん、マルモよく来てくれたね。」
吾郎が座布団を持って来てくれた。あかりちゃんに座布団にすわるように言ってから、自分も座布団に座った。それから、吾郎は膝の上に私をだっこしてくれた。おばあちゃんが、一度席を立って、みんなにお茶を出してくれた。私には、牛乳の入った皿をすすめてくれた。のどが渇いていたので、私は吾郎のひざの上から降りて、その出してもらった牛乳をぺろぺろと飲み始めた。
「あかりちゃん、月曜日から、新学期だね。」
おばあちゃんが言った。
「私、保健室登校にしようと思ってて。」
あかりちゃんが、ポツリと言った。
「教室においでよ。もしかしたら、同じクラスになれるかもしれないし。ちがうクラスでも、同じ学年だし、なんかあったら俺が守ってあげるよ。」
吾郎が力強く言った。でも、あかりは元気があまりないようで、弱弱しく言った。
「先生にも言われたの。いじめている人とちがうクラスにするからって。でも、同じ中学で同じ学年だったら、廊下とかトイレで顔を合わせる事もあるだろうし。二年生の最後は私は学校を休んでいたから、教室に行く勇気がないの。それで、話し合って、保健室登校にしたの。」
「でもさ、いじめなんて、結局いじめてる方がわるいんだから、あかりちゃんは堂々としてればいいんだよ。」
吾郎がお茶を飲みながら言った。
「でもね、怖いんだよね。教室に行くのが。怖くてしかたないの。」
すると、おばあちゃんが言った。
「そうだね、あかりちゃんのペースでゆっくり頑張ればいいと思うよ。」
「でもさ、あかりちゃんは悪くないのに、なんであかりちゃんが保健室登校になるんだよ。納得できねぇな。」
吾郎が言った。
「吾郎、吾郎の気持ちもよくわかるよ。でも、今はあかりちゃんのペースで、ゆっくりでいいんじゃないかい。」
おばあちゃんが、そう言った。
「たしかに、いじめる方が悪いよ。でも、怖い気持ちをかかえて教室に行くのは、とても勇気がいると思うよ。それでも、吾郎はあかりちゃんがそんな怖い思いをしながら教室に行った方がいいと思うのかい?」
「それは。」
吾郎は、何か考えた。それから、
「そうだな。」
と言った。
「吾郎君、ありがとう。色々勇気づけてくれて。でも、今の私にできるのは、せいぜい保健室に登校する事くらいなの。中学三年生だし、高校受験も控えているから、勉強もしないといけないし。でも、教室に行く勇気がないし。それで、なんとか保健室登校にしたの。他の生徒が登校した後に学校に行けばいいから、多分他の生徒には合わなくていいし。今の私の精一杯なの。」
「そうか。それじゃあ、俺が休み時間にあかりちゃんに会いに行くよ。」
「ありがとう。保健室登校なのはね、私だけじゃないみたいなんだ。他に、二人いるんだって。私の一つ下の学年の女の子。」
「よくわかんねぇな。女子のそういうのって。」
吾郎がぼやいた。
「女の子同士って、めんどうなもんだよ。いくつになっても。」
おばあちゃんが言った。
「え、ばあちゃんもそういう経験があるのかよ。」
「あるよ。まぁ、いじめられたわけではないけどね。いくつになってもあるんだよ。女っていうのは、意地があるし、なんていうかうわさ好きだし。人の悪口を平気で言うし。」
「なんか、女子って怖い生き物だな。」
吾郎が、またぼやいた。
「でも、悪い事ばかりじゃないからね。あかりちゃんには、きっとこれから良い友達もできるよ。」
おばあちゃんが、あかりを励ました。
「ありがとうございます。」
「俺はもう、あかりちゃんと友達だからな。」
「吾郎君、ありがとう。」
あかりが笑顔になった。
「吾郎君は転校してくるのが、怖くないの?」
「怖い?それはないな。さすがにちょっと緊張はしてるけど。俺、陸上部なんだ。三年だから、あんまり部活で着ないかもしれないけど、早く部活やりたいし。」
「へぇ、陸上部か。すごいね。なんの競技なの?」
「持久走。」
「持久走?すごいな。私は運動が苦手だから、尊敬するよ。」
「そんな尊敬なんて。ただ、走る事が好きなんだ。短距離とちがって、持久走は結果が出やすいんだ、俺の場合。だから、走ってるんだ。走ってて、つらくなる瞬間もあるけど、走り切ったあとの快感の方が大きいから、俺はただ走ってるんだ。まぁ、単純なんだよ。あかりちゃんは、何部なの?」
「私は、美術部なの。でもね、文化部って、けっこうバカにされるんだよね。」
「そんなのもおかしいだろ。人には得意な事とか苦手な事があるんだから。俺なんて、絵を書くの苦手だし。美術部のあかりちゃんの方こそ尊敬するよ。」
「ありがとう。吾郎君って、いい人だね。」
「え、それ言う?いい人って、恋愛対象外って聞いた事ある。だから、俺モテないのかよ。」
「え、そんな事ないでしょ。吾郎君かっこいいし。」
あかりがそう言うと、吾郎はガッツポーズをした。おばあちゃんとあかりがそれを見て笑った。あかりが、元気に新学期を迎えられるといいなと私は思った。
私は今、神社に続く階段をのぼっている。鳥居をくぐって、神社の前で、座った。あたりをきょろきょろして、人がいない事を確認してから、私は神社に向かってお参りを始めた。ちゃんと二礼二拍手一礼をして、あかりの事をお願いした。元気よく中学に通えますようにと。こんな姿を人に見られたら、動画に撮られてユーチューブとやらに、アップされてしまうだろう。そしたらきっと、バズってしまう。私は、気楽な野良猫生活が好きだ。今話題の猫なんて、人気が出たら困ってしまう。
私は、お参りを終えて、社務所の前で、宮司さんが出てくるのを、静かに待っていた。しばらくすると、誰かがせっせと神社の階段をのぼってきた。やってきたのは、男の人だった。いつか見た夫婦の一人だと、私はその人の顔を見て、思い出した。男の人は、神社に向かって、手を合わせた。それから、急いで、社務所の玄関をたたいた。
「すみません。」
大きな声で、さけびながら、玄関をたたいている。そのうちに、宮司さんが、何事かと出てきた。
「どうしたんですか。」
宮司さんは、男の人に聞いた。
「生まれたんです。赤ちゃんが。」
息を乱して、男の人が言った。
「それはそれは。おめでとうございます。」
男の人は、呼吸を整えてから、言った。
「ありがとうございます。すごい難産だったんです。」
「そうですか。」
「おとといの深夜に病院に行って、じつに十九時間もかかって、やっと生まれてきたんです。すごく大きな赤ちゃんでした。妻は、すごく頑張ってくれたんです。私も出産には、たちあいました。でも、妻に比べたら、私はなんの力にもなれませんでした。」
「そんな事はないと思いますよ。」
「そうでしょうか。痛みに耐える妻に、私は何もしてあげられませんでした。」
「それでも、奥さんのそばにいてあげたんですよね。それは、とても力になったと、そう思いますよ。」
「そうでしょうか。」
「そうです。おめでとうございます。」
男の人は、深呼吸をした。そして、言った。
「あの、生まれてきた赤ちゃんに、名前をつけてほしいんです。今日は、そのお願いにきました。」
「私がですか。」
「はい。名前が決まらなくて、妻とも話して、ここの宮司さんに名前をつけてもらおうって事になりました。難産だったけど、こうして元気に生まれてきてくれたのは、きっとこの神社でお参りをしたからです。さっき、お礼参りをさせてもらいました。どうか、赤ちゃんに、名前をつけてあげてほしいんです。」
「そうですか。」
宮司さんは、腕組みをして考え始めた。
「男の子ですよね?」
「はい。」
「うーん。」
数分、宮司さんは静かに考えていた。それから、考えがまとまったようで、口を開いた。
「生まれてきた赤ちゃんに、たくさんの出会いがあるように、たくさんの素晴らしい出来事が起こるように、たくさんの幸せに恵まれるように。恵まれるに多いと書いて、けいたという名前はいかがでしょうか。」
「恵多、いい名前ですね。」
「気に入ってもらえましたか?」
「もちろんです。妻も、きっと気に入りますよ。急に来て、こんなお願いをしてすみませんでした。」
「いえいえ、私でよければ。お役にたてれば。」
「ありがとうございます。さっそく妻に伝えます。」
「これから子育て、楽しんでくださいね。」
「はい。」
「時には、大変なご苦労もあるかと思います。それでも、この世に生まれて来てくれた命を、優しく育んでくださいね。」
「はい。」
男の人は、何度も頭をさげて帰って行った。その一部始終を見ていた私は、思った。命が生まれるって、すごい事なんだなと。
「タマ、赤ちゃんが生まれたんだって。」
宮司さんが私に話しかけてきた。
「今度、赤ちゃんを連れて来てくれるかもしれないな。タマも、赤ちゃんを見てみたいか?」
「ニャー。」
私は、素直に返事をした。
その日の夕方、私はいつもの公園のベンチの下にいた。こうして、ベンチの下で、ひっそりと隠れているのも、好きだ。すると、コツコツと音が聞こえた。見ると、白杖がこちらに近づいて来る。彩ちゃんだと思い、私はベンチから出た。
彩ちゃんは、ベンチを手でさわって確認してから、ベンチに座った。いつも彩ちゃんはベンチの左側に座る。一人なんだから、真ん中に座ればいいと私は初め思った。けれど、彩ちゃんは、いつもこうして左側に座っている。まるで、右側にはもう会えなくなった斗真がいるかのように、こうして左側に座る。私は、そのあいている右側のベンチにぴょんと飛び乗り、座った。
「ニャー。」
私が彩ちゃんに声をかけると、彩ちゃんはすぐにこちらを見て反応した。
「猫ちゃん?」
「ニャー。」
そうだよと私はもう一声、鳴いた。
「この前は、まさか花屋さんで会えるとはね。猫ちゃん、あちこちに行っているの?」
彩ちゃんは、優しく話しかけてくれた。
「翔君とも会えたし、花屋さんで働いているゆなちゃんと、翔君と同じアパートの桃子さんとも知り会えてうれしかったよ。」
彩ちゃんは、そっと私の体をなでてくれた。
「でもね、みんなの顔が見えなくて残念だったな。家に帰る時にね、ママが教えてくれたの。ゆなちゃんはポニーテールが似合っていて、元気な明るい印象だった寄って。桃子さんは、髪の毛が長くてきれいな大人の女性だったって。翔君は、男の子なんだけどかわいらしい顔をしていたって。みんな人柄がよさそうだったって教えてくれたの。みんなの顔が見えなくて、すごく残念だったな。」
彩ちゃんは、ちょっと悲しそうな表情をしていた。
「でもね、花屋さんでチューリップの花びらをさわった時にね、ママがピンク色だって教えてくれたでしょ。私ね、その時、頭の中にピンクのチューリップが想像できたの。それで、花びらからチューリップを感じて、こういうお花見もあるんだなって、感動したんだ。もう、二度と花なんて見えないとあきらめてたんだけどね。でも、花びらをさわって想像したら、お花が見えた気になったの。あのね、猫ちゃん。私後悔してる事があるんだ。」
彩ちゃんは、私の体をなでていた手をとめて話を続けた。
「昔は見えてたのに、もっともっと世界を良く見ていたらよかったなって。例えばね、お花。もっとたくさんの花々を見てたら、観察してたらよかったのになって。花だけじゃなくてね、木々の葉の色とか、季節によって移り変わる風景をもっともっとちゃんと見てればよかったなって思うの。今頃、後悔しても遅いよね。だって、私はもうこんなしか目が見えないんだもん。」
彩ちゃんの声が、小さく震えていた。どうしたんだろうと、私は彩ちゃんを見た。彩ちゃんの目からひとすじの涙がこぼれていた。
「ゆなちゃんは、この春お花屋さんに就職して、翔君はこの春大学生になって。みんな新しい春を迎えているのにね。私は結局一年前と、たいして成長してないんだ。結局仕事も決まらなくて。斗真君と約束したのに。求人が少なくて、なかなか就職先が決まらないの。それで、結局、毎日一年前とほとんど同じ生活になってて。私って、成長しないなって。唯一、パソコンを少しできるようになって、小説を書いてるけど、私の小説なんて、小説家になれるほどのものじゃないし。そもそも小説家なんて、ほんのひとにぎりの人しかきっとなれない。」
彩ちゃんの目から次々に涙がこぼれてきた。どうにか元気づけようと、私は彩ちゃんの手にふれた。
「猫ちゃん。励ましてくれてるの?」
「ニャー。」
「ありがとう。」
彩ちゃんは、両手で涙でぬれた頬をふいた。
「斗真君がいたら、今の私を見てなんて言うかな。」
斗真がいたらと私は考えた。
「きっと、ただただ私の話を聞いてるだけかもね。」
彩ちゃんは、きっと斗真の顔を思い出している。そして、ふっと笑った。
「そういえば、斗真君って、いつも私をおまえって呼んでたよね。私の名前最後まで呼んでくれなかったな。まぁいいんだけどさ。」
彩ちゃんは、空を見上げた。
「会いたいなぁ。」
きっと斗真の事を言っているんだと、私は思った。私も斗真にあいたいと思った。
「でも、どうせ会うなら、もっともっと成長した姿を見てもらいたいな。だから、私頑張るね。」
彩ちゃんは、そう言った。
「猫ちゃん、いつも私の話を聞いてくれて、ありがとう。また来るね。」
彩ちゃんは、そう言って立ち上がった。その帰る彩ちゃんの後ろ姿を見ながら、私は思った。きっと人は前向きになったり立ち止まって後ろ向きになったりしながら成長していくんだろうなと。この前は、彩ちゃんがすごく成長したように思えた。でも、目の不自由な彩ちゃんは、普通の人よりも悩みが多いんだろう。病気でなければ悩まなくていい事もあるはずだ。それでも、こうして頑張って生きている。彩ちゃん、すごいよ。彩ちゃんは、ちゃんと頑張ってるよ。きっともしも斗真がここにいたら、同じ事を思うはずだよ。私は、彩ちゃんの後ろ姿が見えなくなっても、しばらくそのまま公園の入り口を見ていた。
月曜日、夕方私はあかりの家の玄関にいた。今日から、新学期だ。あかりは、どんな顔をして帰ってくるのだろうか。
「あ、白ちゃん。」
私を見るなり、あかりはかけよって来た。そして、私の前でしゃがみこんだ。
「もしかして、私を待っててくれたの?」
「ニャー。」
「ありがとう。」
あかりの表情はちょっと曇っていた。
「あのね、保健室には、私の他にも生徒がいてね。ちょっとおしゃべりもしたの。でもね、三年生は私だけで。高校受験を控えているのに、本当にこのままでいいのかなって私初日から、なんだか心配になって。」
あかりは、目をふせた。きっと今日は、ありったけの勇気を出して、学校に行って来たのだろう。
「明日から、保健室で勉強をするんだけど、保健室の先生に質問してもわからない時は、職員室に行って、担当教科の先生に質問しなくちゃいけないの。でもね、私職員室に行く事さえ、なんだか怖いんだ。廊下で、職員室で私をいじめてた人たちに会うんじゃないかってそう思うと怖いの。」
いじめというのは、これほどまでに人の心を深く傷つけるのだと私はあかりの話を聞いて思った。
「吾郎君、今日は結局保健室に来てくれなかった。きっと転校してきたばっかりだし、クラスの人から色々話しかけられたりしてたんだろうね。吾郎君かっこいいし性格もいいから、きっと女子からも男子からも多分先生からもかわいがられると思うの。そしたら、私の事なんて。」
あかりの顔がいっそう曇った。そんな事はないと私は思った。吾郎は、まっすぐな性格だ。まだ出会って少ししかたっていないけれど、吾郎は本当にまっすぐな性格だと思う。それをあかりにどう伝えたらいいのだろうか。しょせん私は猫だ。人の言葉を話せない。どうやって、あかりを元気づけたらいいのだろうか。
「白ちゃん、おなかすいてない?」
急に聞かれて、困った。こんな時におなかがすいているなんて言えない。
「ちょっと待ってて。」
あかりは、そう言って家の中に入って行った。そして、しばらくしてから、もどって来た。
「また牛乳なんだけど。」
あかりはそう言って、牛乳の入った皿を私に差し出してくれた。ここは、素直にもらおう。私は遠慮なく牛乳をいただいた。
「まだ、初日だもんね。吾郎君のおばあちゃんも言ってたよね。私のペースで頑張ればいいんだよね。こうして、白ちゃんも、話を聞いてくれるし。」
牛乳を全部のみほした私はあかりを見た。
「白ちゃん、吾郎君はマルって呼んでたよね?どっちの名前が好き?」
私はどっちでもいい。でもそれをどう伝えたらいいのか。
「まぁいいや。白ちゃんって、これからも言うね。今日は来てくれてありがとう。また来てね。」
あかりはそう言って、家の中に入って行った。もしも私が、人の言葉を話せたら、もっと気のきいた言葉をあかりに伝える事ができるのに。もどかしい気持ちになってしまった。でも、家の中に入って行く時、ちょっとだけあかりの表情が明るくなった。もしかして、一人で悩みを抱えているよりも、猫でもいいから、悩みを打ち明けられる相手がいると元気になれるのだろうか。だとしたら、私は、あかりの心の中の悩みを聞いて元気にしてあげたい。そういえば、彩ちゃんも言っていたなと、ふと思い出した。もしかして、人には言えない事でも、猫である私には言えるのかもしれない。だったら、私は猫として生まれてきて良かった。こうしてたくさんの人と出会って、少しでも誰かの何かの役にたてるのなら、私はうれしい。そんな事を考えて、あかりの家をあとにした。
数日後の夕方、私はいつもの公園で遊んでいた。そこに、翔と慎吾がやって来た。
「お、タマ。元気だったか?」
慎吾は私を見るなり、そう言った。二人は、ベンチに座って話を始めた。私は、翔の足元にそっと座った。
「あー、バイト行きたくねぇなぁ。」
慎吾が大きな声で言った。
「春休み終わったから、これからは五時から十時までかぁ。なんか、めんどくさいな。」
慎吾がそう言うと、翔がいつもの優しい口調で答えた。
「そうだね。平日は、きついね。僕は高校生の頃、日曜日と祝日の昼間にコンビニでバイトしてたから、この時間帯は初めてなんだ。」
「コンビニの仕事って、けっこう大変だよな。色々やる事が多くて、大変すぎる。」
「そうだね。確かにやる事は多いね。でも、慣れれば、大丈夫だよ。」
「あー、めんどくさい。でも、バイトしないとおこずかい足りないしな。」
慎吾がぼやいた。そして、ちょっと間をあけてから言った。
「俺、高校卒業したら大学に行こうと思ってたんだ。でも、べつに将来の夢とかなくて。ただ、彼女が大学に行くって言ってたから、俺もって適当に簡単に考えてたんだ。それがうちの親にバレてさ。やりたい目標もないのに、高い学費払って大学に行かせる余裕がないんだってさ。で、考えたんだ。俺、勉強好きじゃないし。だったら、就職しようかなって。翔さんは、どうして大学に行こうって思ったんですか。」
「僕は、ただなんていうか。僕も将来の夢なんてないよ。」
「え、でも翔さんて、国立の大学に行ってるから、すっげぇ頭いいじゃん。それなのに、将来の夢、ないんですか。」
「そうなんだ。僕はね、小さい頃から物づくりが好きで。中学も高校もロボット部に入ってたんだよ。」
「ロボット部?」
「そう。部活のみんなとロボット作ってたんだ。全国のロボットコンテスト、通称ロボコンにエントリーしてて。それで、プログラミングしたり、ロボットの調整とか修理とかして、改良をかさねて。高校はだから工業高校だったんだよ。」
「え、工業高校?なんか翔さんのイメージとちがうかも。なんていうか、工業高校ってワイルドで男くさいイメージあるけど、翔さんって、その逆っていうか。」
「あはは。たしかに、そうかもね。」
「それで、なんで大学に行こうと思ったんですか。」
「工学部に入ろうと思って。ロボット作ってて、もっとなんていうかそういう道の勉強をしたくて。でも、それは好きな分野の勉強がしたいってそれだけで、今のところは将来の夢なんてないよ。慎吾君もそのうち、何か得意な分野でやってみようとか、思える日がくるんじゃないかな。」
「どうだろうな。あとさ、最近ちょっと悩んでて。」
「悩み事?」
「そう。彼女が前は地元の大学に行きたいって言ってたから、俺もって思ってたんだけど。それが最近になって、東京の大学に行きたいって言い出して。なんかさ、東京の大学に行って一人暮らししたいとか言い出してさ。さすがに、将来の夢もない俺が、親に東京の大学にいきたいなんて言えなくて。うち、そんなに経済的に余裕ないし。」
「そっか。一人暮らしか。僕も、高校生の頃一人暮らししてみたいなって思ってた。で、今一人で暮らしてみて思うんだ。一人で暮らすのって、すごく大変だなって。実家にいた頃は、ご飯でも掃除でも洗濯でもみんな母さんがやってくれてたから、気づかなかったけど、生活するってそういうことを自分でやらなくちゃいけなくてさ。特に、ごみ捨てがけっこう大変。」
「え、ゴミ捨て?」
「そう。ゴミは分別してすてなくちゃいけないし。ゴミをまとめてゴミ箱に新しいゴミ袋をセットしてとか、地味に大変なんだよ。きっとさ、一人暮らしって理想と現実でギャップがあるかもね。慎吾君の彼女も、もしかしたら実際に一人暮らししたら大変だなって思う事も多いかもしれないよ。慎吾君は、一人暮らししたいとか思った事はあるの?」
「ないかな。俺、部屋のかたづけもできないし。親にいつも怒鳴られてる。俺の部屋、マジきたなくて。足の踏み場もなくて。それを彼女に言ったら、その部屋見てみたいって言われてさ、前に一度彼女に俺の部屋を見せたんだ。」
「そうか、反応はどうだったの?」
「絶句してた。」
「あはは。そんなにきたないの?」
「マジで足の踏み場もないんですよ、俺の部屋。」
「そっか、それはちょっと一人暮らしにはむいてないかもね。」
「そう。だいたい身の回りの事を一人でなんて、俺は無理。でもさ、もしも彼女が東京に言ったら、今みたいに毎日会えなくなるし。それが、今の最大の悩み。」
「彼女は、将来の夢とかあるのかな。」
「小学校の先生になりたいって言ってたな。なんでも、小学校の時の先生で、すごくいい先生がいて、その頃から小学校の先生になりたいって思ってたみたいです。」
「すごいね。将来の夢がきちんとあって。」
「そうなんです。でも、なんていうかな。」
慎吾は、ちょっと私の顔を見てから話を続けた。
「わざわざ東京の大学にいかなくてもって、俺は思うんですよ。」
「そうか、彼女と離れたくないんだね。」
「そう。だってさ、離れたら恋は終わるって気がするから。」
「でも、慎吾君は、まだ高校二年生になったばかりだから、そんな先の事で悩まなくていいと思うよ。今の気持ちを大事にして。将来の事はこれから、少しづつ考えていけばいいんじゃないかな。」
「うーん。」
慎吾はそう言ってから、顔をパット明るくした。
「そうですよね。そんな先の事考えて、今がだめになったらだめだし。今はとりあえず、今日のバイトの事を考えようかな。」
「そうだね。あ、そろそろバイトの時間だよ。行こうか。」
二人は立ち上がった。
「じゃあな、タマ。」
慎吾が私に声をかけてくれた。翔は、慎吾に言った。
「この猫、けっこう名前があるみたいだよ。この前は、花屋で見かけたよ。」
「え、花屋?」
「そう。きっとたくさんの人から、かわいがってもらってるんだね。」
「へぇ、タマ、顔が広いんだな。またな。」
慎吾がそう言って、右手をあげた。二人は、話をしながら公園を出て行った。そんな二人を見送って、私は思った。明るい慎吾にも悩みがあるんだなと。もしかして、人は少なからず、誰にでも悩みがあるんじゃないか。生きていくって、大変なんだなと私は思った。
土曜日、私は花屋の店先に行った。
「あれ、ミルク。」
店の前にいると、ゆなが私に気づいて声をかけてくれた。
「店に入る?」
ゆなが私の前にしゃがみこんで聞いた。
「ニャー。」
私は、返事をした。
ゆなに続いて、私は店に入った。
「副店長、この猫この前も店の中にいれたんです。すごくおとなしい猫で。圭介さんも、この猫かわいがってるから、店の中にいれました。よかったですか?」
ゆなは、ちょっと心配そうに聞いた。
「あら、白い猫。かわいいわね。おとなしい猫なら、いいわよ。」
副店長はそう言ってくれた。
「こんにちは。」
そう言って、店の中に入って来たのは、桃子だった。その少し後に、彩ちゃんのママ、それから最後に吾郎のおばあちゃんが入って来た。
「さぁ、こちらへどうぞ。」
副店長は、店の一角にある四人掛けの席にみんなを案内した。
「それじゃあ、フラワーアレンジメント教室を始めます。私は、この店の副店長です。よろしくお願いします。初日なので、まず自己紹介をしましょうか。」
副店長の挨拶から始まって、みんな一人一人自己紹介を始めた。それから、ようやく副店長が、フラワーアレンジメントについて、説明を始めた。
「これは、オアシスって言います。昨日から、バケツに水をいれて、このオアシスを水につけておきました。このオアシスに、お花をさして作っていきます。」
私も副店長の説明を聞いていた。フラワーアレンジメントとやらの作り方には、ちょっと興味がある。
「初日なので、難しい事は考えなくてもいいですよ。生け花とちがうのは、花を短く切る所です。切る時は、くきに対してハサミを斜めにいれて、ななめに切ります。そうする事で、くきの表面積が大きくなるので、吸水率がアップします。そして、切った花を、こうしてオアシスにさしていきます。」
みんな、それぞれ好きなように、花を切り、オアシスにさして言った。みんなおしゃべりをしながら楽しそうにやっている。
「いらっしゃいませ。」
ゆながレジから来店客に明るい声で挨拶した。やって来たのは幼い男の子とその母親だった。男の子は、私を見て笑顔で言った。
「ニャンニャン。」
「あ、猫がいるね。」
男の子の母親がそう言った。
「ニャンニャン。」
男の子はうれしそうに私に近づいて来た。ゆなが出てきて、男の子の前にしゃがみこみ、話しかけた。
「こんにちは。ニャンニャン、好きなの?」
「えへへ。」
男の子は、返事のかわりに小さく恥ずかしそうに笑った。
「かわいいお子さんですね。」
ゆなが男の子の母親に声をかけた。
「ありがとうございます。このお店、猫がいるんですね。」
「いつもはいないんですけど、たまにこの子やって来るんですよ。おとなしい猫だから、こうして店の中に入れたんです。」
「あら、そうなんですね。」
ゆなは、もう一度男の子の前にしゃがみこんで、聞いた。
「お名前は?」
「たっくん。」
男の子は、得意そうにそう答えた。
「たっくんは、何歳かな。」
たっくんは、指を不器用にピースサインの形にした。
「二歳かな。」
ゆなが首をかしげて聞いた。すると、たっくんの母親が補足説明をした。
「二歳に、なったばっかりです。」
とても微笑ましいやりとりだなと、私は思った。その時、店の奥から、圭介が出てきた。圭介は、店内にいるみんなにそれぞれていねいに挨拶をした。それから、わたしを見ると、私に声をかけた。
「ミルク、ちょっと来てくれ。」
なんだろうと、私は店を出て行く圭介の後に続いて店を出た。
店の前に来た。大きな窓から圭介は店内を見ていた。ふと、気が付いた。圭介の視線の先には、桃子がいる。圭介は、私の前にしゃがみこんで、話しかけてきた。
「ミルク、桃子さんの事、どう思う?」
何を聞くのかと思ったら、そんな事かと私は思った。私は、無言で圭介の話を聞いた。
「きれいな人だよな。桃子さん。初めて会った時からいいなって思ってたんだ。でもなぁ、お客さんだしなぁ。もしも、ご飯に誘って、いやな気持ちにさせたらなぁ。でも、いきなりどこかに行きませんかなんて、デートの誘いもできないしなぁ。どうしたらいいもんかなぁ。」
圭介は、まるで猫かのように猫なで声で話しかけてきた。やれやれと私は思った。なんだか、つきあってられないなと、私は圭介から視線をそらした。そらした視線の先に、喫茶店があった。吾郎の家の喫茶店だ。私の視線の先をたどった圭介が言った。
「そうか、となりにできた喫茶店に、コーヒーでも飲みませんかって、誘ってみようか。コーヒーくらいなら、つきあってくれるかもしれないよな。ミルク、いいアイディアだな。」
圭介がうれしそうに言った。いや、私はなんのアドバイスもしていない。そんな私の気持ちとはうらはらに、なんだか圭介はうれしそうにぶつぶつ独り言を言い始めた。その時、店から、たっくんとたっくんの母親が出てきた。圭介は、それに気がついてあいさつをした。
「ありがとうございました。またの来店をお待ちしています。」
「バイバイ、ニャンニャン。」
たっくんが私にそう言って、手をふってくれた。二人は手をつないで帰って行った。たっくんの母親はチューリップを持っていた。そして、チューリップの歌をたっくんに歌って聞かせながら、歩いていた。本当に微笑ましい親子だなと私は思った。その幸せに満ちた気持ちの私に、圭介がまた言った。
「でもなぁ、桃子さんの仕事は土曜日と日曜日が休みだしなぁ。俺の仕事の休みは平日だしなぁ。休みが合わないしなぁ。」
圭介は、さっきからなんだか一人で表情をころころと変えて、忙しそうだなと私は思った。店先にいる圭介に気が付いて、店の中から副店長が出てきた。
「圭介、早く配達に行きなさい。猫といつまで遊んでるのよ。」
「はいはい。」
圭介は、そんな返事をしながら、私の前から去り、軽トラックに乗って配達に行ってしまった。やれやれと、本日二度目のやれやれを私はした。
フラワーアレンジメントの教室が終わったのか、彩ちゃんのママと桃子、おばあちゃんが店から出てきた。みんな袋を持っている。きっとあの袋の中に今日作ったフラワーアレンジメントが入っているんだろうなと、私は思った。
三人は、しばらく店先で立ち話をしていた。それから、話が終わったようで、それぞれ帰って行った。
おばあちゃんは、私を見ると、笑顔で声をかけてくれた。
「マル、待っててくれたのかい。」
私はおばあちゃんの誘いで、吾郎の家に行く事にした。玄関の所で、おばあちゃんから足を拭いてもらった。
「マル、おいで。」
私はおばあちゃんの後に続いて家の中に入った。
「ここは、茶の間だよ。私はたいていここにいるよ。畳の部屋は、初めて買い?」
私は、その畳の部屋を少しうろうろした。これが、畳のにおいかとくんくんもした。おばあちゃんは、台所で、ご飯を作り始めた。そろそろお昼だからだ。私は、なんだか疲れてしまって、畳の上で丸くなって、眠る事にした。
どれくらい眠ったのだろうか。
「マル、マル。」
と私を呼ぶ声が聞こえた。
「ばあちゃん、いつまで昼寝してるんだよ。もう三時過ぎてるぞ。」
聞いたことのある声だなと、ぼんやりと思った。となりにはどうやら、おばあちゃんが寝ているようだった。
「ばあちゃん、起きて。」
これはきっと吾郎の声だと、ようやく私は気がついた。となりに寝ていたおばあちゃんが起きる気配がした。私も、ゆっくり顔をあげた。
「こんにちは。」
挨拶をしたのは、あかりだった。吾郎が、座布団を持って来て、あかりに座るようにうながしていた。
「あれあれ、こんな時間まで昼寝してしまったよ。」
おばあちゃんはそう言って、立ち上がった。
「今、お茶いれるからね。」
「帰ってきたら、ばあちゃんとマルが昼寝してたからさ、何度も声かけたんだぜ。」
「吾郎、それは悪かったね。気がつかなくて。なんだか、眠くなってしまってね。」
おばあちゃんが、三人分のお茶をテーブルに置いた。
「マル、何か飲む会?」
のどが渇いていたので、私は一声鳴いた。
「マルには何がいいかね。」
「水でいいんじゃねぇ?」
吾郎が言った。おばあちゃんは、皿に水をいれてきてくれた。私は、その水をペロペロなめた。おいしい。のどが渇いていると、水は最高だなと私は思った。
「ばあちゃん、相談があるんだ。」
お茶を飲んでいた吾郎が、話をきりだした。
「新学期が始まって教室に行ったら、席が一つあいていて、その席があかりちゃんの席だってわかったんだよ。同じクラスだったんだ。それで、俺、休み時間に保健室に行って、あかりちゃんにそれを伝えたんだ。同じクラスだから、教室に来ないかって。ばあちゃんは、どう思う?」
「そうだね、同じクラスだったって、この前聞いた時はおどろいたよ。それで、考えてみたよ。でも、やっぱり一番大事なのはあかりちゃんの気持ちだからね。あかりちゃんが、どうしたいかだと思うよ。」
「俺は、絶対に、あかりちゃんを守るから、だから教室に来てほしいって、何度もはなしたんだ。」
「あかりちゃんは、どう思ってるんだい?」
「私は。」
あかりは、静かに言った。
「この数日、保健室で勉強していて、やっぱり教室にもどりたいなって、思ったりもしたの。でも、いざ教室に行こうかって考えると、やっぱり怖くて。でも、吾郎君と同じクラス習って、ちょっと考えて。なんていうか、自分でもどうしたらいいのか、わからないんです。」
「あのさ、俺学校って、勉強だけじゃないと思うんだ。体育祭とか、文化祭とか、行事あるじゃん。俺は、勉強はあんまり好きじゃないけど、学校行事は大好きだから、あかりちゃんにも参加してほしいんだ。」
「吾郎の気持ちは、よくわかるよ。でも、あせらなくていいんじゃないかい。」
「でもさ、保健室にいる時間が長くなると、教室に来る勇気がどんどんなくなるんじゃねぇかな。」
「それは、私も考えたの。保健室登校をいつまで続けるのかなって。私は、このまま教室にいけないまま中学を卒業するのかなって。それから、もしも高校に合格しても、ちゃんと高校生になれるかなって。高校生になって、ちゃんと教室にいけるようになるのかなって。考えると、どんどん不安になるの。」
「だから、俺が絶対守るから、あかりちゃんに教室に来てもらおうかなって思ってるんだ。」
吾郎は、力強く言った。
「そうだねぇ。」
おばあちゃんは、お茶をすすりながら考えた。
「吾郎と同じクラスならねぇ。」
「なぁ、あかりちゃん。最初は勇気がいるかもしれないけど、教室に来ない?」
あかりはだまってうつむいた。そのまま、沈黙が流れた。誰も、何も言わない時間が数分過ぎた。沈黙を破ったのは、あかりだった。
「吾郎君の気持ちはすごくうれしいの。私も、できれば教室に行きたい。学校行事にも参加したいし、美術部の活動もしたいの。でもね、勇気がないの。」
「吾郎、あかりちゃんがもうちょっと勇気を出すまで、ゆっくり待ってあげたらどうかね?」
「でもさ、そんな事言ってたら、どんどん時間が過ぎてくヨ。ここで思い切り勇気を出して、頑張らないと。いつまでもこのままでいいのかよ。」
吾郎の力強い言葉に、あかりは困ったような顔をした。
「吾郎君の言っている事はよくわかるの。気持ちもすごくうれしいし。でも。」
「でも、何?」
吾郎が聞く。あかりは言った。
「私が、男子と話してると、女子から文句言われちゃうの。」
「それが意味わかんねぇんだよ。なんで男子としゃべったら文句言われるんだよ。男子としゃべってる女子なんて、いっぱいいるよ。」
「でも、なぜか文句言われちゃうの。だから、教室で吾郎君と一緒にいれないよ。話だって、きっとできないよ。」
「そういうのが、おかしいんだって。文句言われたら、俺が言い返すから、あかりちゃん、勇気出して。」
「まぁまぁ、吾郎。さっきも言ったけど、あかりちゃんのペースで、ゆっくり時間をかけてすすめていくしかないよ。」
「でも。」
吾郎は、不服そうだった。私は、吾郎が本当にまっすぐで正義感のある人なんだなと、思った。あかりがもうちょっとその吾郎に甘えればいいんじゃないだろうか。私は、あかりのひざにそっとふれた。
「白ちゃん。」
「マルだって、きっとあかりちゃんの事を心配してるよ。」
「そうだよね、白ちゃんはいつも優しいもんね。」
「頑張ってみようよ。」
吾郎がもう一度あかりを説得した。
「あのね、私ずっと仲良くしてた友達がいたの。でもね、その友達から、言われたの。もうあかりのひきたて役にはなりたくないって。それで、その友達が、まず離れていったの。それから、だんだん女子から、悪口言われるようになって。女子の目が怖いの。わざと聞こえるようにひそひそ悪口言うの。トイレに行った時とかも。体育の時も、一人にされたら、本当にみじめでさみしくて悲しくて。それで、教室に行けなくなったの。だから、吾郎君と同じクラスでも、吾郎君が守ってくれるって言っても、私やっぱり怖いんだよね。教室に行くのが。それと同じくらい、保健室登校をいつまで続けるんだろうって不安も大きくて。本当にどうしたらいいのか。」
「だから、俺が守るから。大丈夫だよ。」
吾郎がもう一度力強く言った。あかりの目から涙がこぼれた。
「あれ、あ、えっと、ごめん。」
吾郎があわてて謝った。
「ちがうの。こんなに一生懸命に私の事を考えてくれる友達ができたんだなって思ったら、うれしくて。」
「あかりちゃん、吾郎を信じてみたらどうかね?勇気を出して教室に行ってみて、どうしてもだめなら、その時はまた考えたらどうだね?吾郎の言うように、たしかにここで勇気をださなかったら、どんどん時間がすぎて、余計に教室に行けなくなるかもしれないよ。吾郎は、いい子だよ。その吾郎を信じてみたらどうだね?」
あかりは、涙をハンカチでふいた。それから、深呼吸をした。
「うん。吾郎君を信じてみます。」
「やった。」
吾郎が喜んで大きな声を出した。
「月曜日、一緒に登校しようか。」
吾郎が言った。あかりは、ちょっと考えてから言った。
「大丈夫。教室に吾郎君がいるんだから、私頑張って一人で登校してみるね。」
「じゃあ、月曜日から、クラスメイトだね。」
「うん。まだちょっと怖いし、緊張もしてる。けど、とりあえず一日頑張ってみるね。」
「そうだね、人生は一日一日の積み重ねだからね。とりあえず一日頑張ってみて、その都度考えようかね。あと、無理は絶対にしないんだよ、あかりちゃん。何か困った事があったら、その時は遠慮なく吾郎に頼るんだよ。」
おばあちゃんが助言をした。
「はい。」
あかりは、そう返事をして笑った。吾郎も笑顔だった。あかりの決断と勇気は、すごいなと私は思った。そして、あかりの心を動かした吾郎もすごいなと思った。吾郎は、本当の優しさをもっている人なんだなと私は思った。
日曜日の午前に、私は神社に来ていた。宮司さんに、かまってもらって遊んでいた。すると、階段をのぼってくる人たちの声が聞こえた。幼い子供が、
「咲いた、咲いた。」
とチューリップの歌を歌っている。同じフレーズを何度も繰り返して、かわいい声で元気よく歌っている。階段をのぼりきって、鳥居をくぐってきたのは、この間花屋で会ったたっくんとその母親だった。たっくんは、
「咲いた、咲いた。」
と歌いながら、私を見た。
「あ、ニャンニャン。」
「あら、この間花屋さんにいた猫ね。」
たっくんの母親がそう言った。たっくんは、元気よく私のもとに駆け寄って来た。
「ニャンニャン。」
そのたっくんのあとから、やや遅れてたっくんの母親が来た。たっくんの母親は、宮司さんに挨拶をした。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
宮司さんも笑顔で挨拶を返した。
「この猫、この前花屋で見たんです。」
たっくんの母親が宮司さんに言った。
「そうですか。タマはいろんな所に行っているんだね。」
「タマ?花屋さんでは、ミルクって呼ばれていましたよ。」
「おおそうですか。いろんな名前が、もっとあるかもしれませんね。」
宮司さんは言った。
「ニャンニャン。」
たっくんは私のまわりをくるくるまわって、何度もそう言った。
「たっくん、神社にお参りをしようね。」
たっくんの母親がそう言って、二人は手をつないで神社の前で、手を合わせた。何をお願いしているのか、たっくんもきちんと手を合わせている。お参りが終わると、宮司さんがたっくんに声をかけた。
「何をお願いしたのかな?」
「ブーブ。」
すると、たっくんの母親が補足説明をした。どうやら、少ししか言葉を話せないたっくんの言っている事が、たっくんの母親だけには通じているようだ。
「この子、車が好きなんです。ミニカーで遊ぶのが大好きで。それで多分、ミニカーをたくさん買ってほしいってお願いしたんだと思います。」
「おおそうですか。ミニカーが、好きなんだね。」
「ブーブ。」
たっくんは、宮司さんに向かって笑顔でそう言った。
「この前、花屋さんでチューリップを買って、それで私がチューリップの歌を教えたら、喜んで歌うようになったんです。まだ、最初の咲いた咲いたしか歌えないんですけどね。」
「咲いた、咲いた。」
たっくんは得意になって、宮司さんに歌を披露した。宮司さんは拍手をしてほめてあげた。うれしそうな顔をしている。しばらく神社で立ち話をしていたたっくんの母親が、たっくんに言った。
「そろそろ、帰ろうか。」
「うん。」
二人は、宮司さんに手をふって、それから私にも手をふって帰って行った。そんな微笑ましい様子を見て宮司さんが私に言った。
「子供の目は、純粋だな。穢れを知らない。大人になると、そのきれいな目も心も少し汚れてしまうのかもしれないな。人には、色々あるからね。」
宮司さんの言葉を私は深いなと感心して聞いていた。
その日の夕方、私はいつもの公園のベンチにいた。そろそろ来るころだろうか。そんな事を思っていると、彩ちゃんが公園にやって来た。白杖を右手に持ちながら、慣れた感じでベンチに近づいて来た。そして、ベンチを手でさわって確認しながら、座った。
「ニャー。」
私はここにいるよと、彩ちゃんに声をかけた。
「猫ちゃん?」
「ニャー。」
あいかわらず彩ちゃんは、ベンチの左側に座っている。私は、彩ちゃんの足元に来た。そして、足をそっとさわった。
「猫ちゃん、くすぐったいよ。」
彩ちゃんが、ちょっと笑った。どうやら、元気みたいだ。その時、公園の入り口から誰かが来る音がした。振り返ると、やって来たのは翔だった。
「彩ちゃん、こんにちは。翔です。」
翔はそう言って、彩ちゃんの右側に座った。
「翔君、大学はもう始まってるよね?どんな感じ?」
彩ちゃんが、聞いた。
「初めはすごく緊張してたけど、だんだん友達もできてきて、ちょっと慣れたかな。」
「そっか、友達ができて良かったね。」
「そうだな。大学って広いし、人も多いから、こんなに人がいて、友達が本当にできるのかちょっと不安だったけど、話しかけてきてくれた人がいて。今はその人と、お昼休みは学食でお昼を食べているよ。」
「へぇ、学食かぁ。いいな。どんなのを食べてるの?」
「色々だよ。けっこうメニューも豊富で。あと、値段が安いし。この前なんて、友達が大盛ラーメンを頼んだら、とにかく大盛すぎて、食べても食べても麺がなくならなくて、おかしかったよ。」
「え、そんなに大盛なの?」
「そう。僕は普通のラーメンを食べてたんだけど、普通のラーメンがもうすでに大盛だったんだ。だから、大盛ラーメンなんてとんでもない量だったよ。」
翔は、おもしろがって笑った。
「いいなぁ。楽しそう。」
「彩ちゃんも、大学に来てみる?」
「え。」
彩ちゃんが、おどろいてとなりに座っている翔を見た。
「え、私なんて大学生でもなんでもないのに、行ってもいいのかな。」
「いいと思うよ。もしも大学に来るなら、僕が大学を案内するよ。」
「翔君は、優しいんだね。」
「え。」
今度は翔が彩ちゃんを見た。
「だって、私は白杖を持っているんだよ。そんな人と一緒にいたら、翔君だって、もしかしたら偏見の目で見られてしまうかもしれないよ。」
「偏見?そんなの誰も思わないよ。目が不自由だから、白杖を使っているんでしょ。」
「でもね、世の中には、偏見の目をもっている人もけっこういるんだよ。私は、最初白杖を持つ事にすごく抵抗があったの。盲学校にいくようになっても、なんていうか、まわりの人が白杖を持っている私を見て、なんておもうのかなって、不安だったの。もともとは普通の小学校に通っていたから、その時の友達には白杖を持っている姿なんて、絶対に見られたくないって、そう思ってたよ。」
翔は彩ちゃんの言葉を静かに聞いていた。
「彩ちゃん。僕は工学部に通っているんだ。昔から物づくりが得意で。中学も高校もロボット部に入ってて、ロボットを作ってたんだ。」
「え、すごいね。ロボット?そんなのを作れる人が、本当にいるんだね。」
「ねぇ、彩ちゃん。こんなのがあったら便利だなって思う物とかある?」
「え。」
「無理かもしれないけど、僕にできることがあれば力になりたいんだ。」
「ありがとう。」
彩ちゃんは、一度空を見上げた。それから、ちょっといたずらっ子みたいに笑って言った。
「ドラえもんに出てくる、どこでもドアとかほしいな。」
「どこでもドア?」
翔がおどろいて聞き返した。
「さすがに、彩ちゃんそれは無理だよ。」
「そうだよね。」
彩ちゃんは笑った。
「でも、行きたい時に行きたい所に行けるのはいいなって思うの。私はね、この公園になら、一人で来れるけど、一人での外出はできないんだ。この公園までの道は、家族に手伝ってもらって、何度も訓練したから、こうしてここまでは一人で来れるようになったけど。だから、行きたい時に、例えばコンビニとかドラックストアとか、ちょっとした用事も私は一人で行けないの。だから、本当にどこでもドアがあったらいいなって、半分冗談だよ。でもね、半分は本当にそう思ってるの。」
「そうか。白杖があっても、訓練した道しかでかけられないんだね。僕は、知らなかったよ。白杖があれば、どこでもいけるのかと思ってたよ。」
「たしかに、目の症状が軽い人なら、白杖を使って一人でどこでもでかけられるかもね。でもね、私はもうほとんど見えないから、しかたないの。」
翔は、静かに聞いてから、言った。
「大学で、そういう分野の研究をしてみるよ。」
「え。」
彩ちゃんが、翔を見た。翔は考えながら、話した。
「僕の将来の夢はまだないんだ。でも、今彩ちゃんの話を聞いて、僕にできる事があるかもしれないって、ちょっとだけ思ったんだ。だから、まだ具体的にどんな物を作るかまだわからないけど、目の不自由な人が一人でも出かけられるようになるアイテムの研究をしてみるよ。」
彩ちゃんは、とてもおどろいた顔をした。それから、笑顔で言った。
「ありがとう。そんな事を言ってくれるなんて、うれしいよ。」
「僕は思うんだ。人類って、いつの時代も物を作って、それを進化させて発展してきたんだって。だから、困っている人が便利に使えるようになるものを考えて、それが実用化されたら、物を作る人間としては、これほどうれしいことはないと思うんだ。」
「ありがとう。」
彩ちゃんは、もう一度お礼を言った。私は、翔の人のために何かを研究して作ろうと思った意欲が、すばらしいなと感心した。。そこで、翔の足をちょっとさわってみた。
「あれ、くすぐったいなと思ったら。」
翔は私を見て笑った。
月曜日の夕方、私はあかりの家の玄関の前にいた。あかりはどんな顔をして帰ってくるだろうか。しばらく待っても、あかりは来ない。丸くなって座っていると、
「マル。」
と吾郎の声が聞こえた。
「マルも、あかりちゃんが心配でここに来たのか?」
なんで吾郎が、ここにいるんだろうと私は思った。丸くなっている私の前に吾郎はしゃがみこんだ。
「あかりちゃん、今日学校に来なかったんだ。」
そうだったのかと、私は思った。しばらく吾郎が静かに私の体をなでていた。すると、玄関があいてあかりが出てきた。
「え、吾郎君。」
あかりは吾郎を見て、おどろいた声で言った。
「あかりちゃん。」
吾郎がたちあがった。玄関の外に出てきたあかりは言った。
「もしかして、白ちゃんが来てるかなって思って、出てきたの。吾郎君がいるなんて思わなかった。」
「あかりちゃん、なんで今日学校に来なかったの?」
あかりは、うつむいてだまった。それから、ゆっくりと話をした。
「行こうと思ったの。学校にもちゃんと連絡してもらって。教室に行く事にしたって、先生に伝えてもらって。でもね、靴をはいて、玄関の外に出たら、やっぱり怖くなって。そしたらね、過呼吸になっちゃって。それで、行けなかったの。」
「そうだったんだ。」
吾郎がつぶやいた。
「吾郎君と、おばあちゃんと約束したのにね。私って本当にだめだよね。勇気もだせないし、約束も破っちゃうし。」
あかりは、まただまりこんだ。吾郎も何も言わない。
「そっか。」
やっと口をひらいた吾郎が言った。
「それじゃあ、やっぱばあちゃんが言ってたみたいに、あかりちゃんのペースで学校に来なよ。俺、ずっと待ってるから。」
吾郎はそう言って帰って行った。私は、なんだか吾郎が心配になって吾郎の後をいそいで追いかけた。
吾郎は足が速い。やっと追いついた時には、もうすぐ吾郎の家と言う所だった。
「あれ、マル。ついてきたのか?」
私は、一声鳴いて返事をした。すると、吾郎がしゃがみ込んで、言った。
「俺、だめだな。」
いつになく元気のない吾郎が、私は心配だった。
「あかりちゃんのためって思って言ったけど、あかりちゃんに無理させてたんだな。」
吾郎は、自分の言った事を悔やんでいるようだった。その時、吾郎の家の喫茶店から、慎吾と愛が話をしながら出てきた。
「愛ちゃんて、本当においしそうに食べるよね。」
「だって、おいしかったんだもん。それより、慎吾君、コーヒーに三杯も砂糖いれるなんて、それじゃあせっかくのおいしいコーヒーがだいなしだよ。」
「俺、コーヒーって苦いから砂糖入れないと飲めないんだ。」
二人はそんな会話をしながら、私に気が付いて言った。
「あれ、この猫、神社でみたよね?」
愛がそう言った。
「公園でも見たぞ。」
慎吾が言った。吾郎はそんな二人に、立ち上がって挨拶をした。
「あの喫茶ってんからでてきましたよね?うちの親がやっている喫茶店なんです。」
「へぇ、そうなんだ。」
慎吾が言った。
「すごくおいしかったよ。」
愛が言った。
「ありがとうございます。またのご来店、お待ちしてます。」
吾郎がかしこまって言った。二人は笑った。
「そんなかしこまって。」
でも、吾郎の表情に元気がない事にきがついた愛が言った。
「どうかしたの?元気ないみたい。」
「え。えっと、クラスメイトにうまくアドバイスできなくて。」
吾郎がぼそっと言った。
「アドバイス?」
慎吾と愛が声をそろえて聞き返した。
「いや、なんでもないんです。」
吾郎は、むりやり笑顔を作って、二人に挨拶をしてその場を去った。
吾郎の家の玄関に来ると、吾郎が言った。
「マル、ついてきてくれてありがとな。」
吾郎の表情はやっぱり元気がなかった。私は、すごく心配になってしまった。
土曜日の午後、私は吾郎の家に向かって歩いていた。途中で、あかりに会った。
「白ちゃん。」
あかりはおどろいてそう声をかけてきた。
「どこ行くの?」
そう聞かれても、人間の言葉がしゃべれない。困ったなと思っていると、あかりが言った。
「これから吾郎君の家に行くの。白ちゃんも、来る?」
「ニャー。」
私は返事をして、一緒に吾郎の家に向かった。
吾郎の家の喫茶ってんの前に、吾郎と慎吾、愛がいた。吾郎があかりに気が付いて声をかけてきた。
「あかりちゃん。」
元気な声だった。しかし、あかりの表情が曇った。何かにおびえているような、不安な顔をしている。
「え、もしかして吾郎君の彼女?」
慎吾が聞いた。
「ちがいます。クラスメイトですよ。」
吾郎があわてて言った。
「すっごいかわいいね。あかりちゃんって言うの?」
愛が聞いた。あかりは、だまったままだ。
「あかりちゃん、どうしたの?」
吾郎が声をかけた。あかりの足はがくがくと震えていた。
「どうかしたの?」
愛が聞いた。
「あ、もしかして俺らの事しらないから、緊張してるんじゃね?」
慎吾がそう言った。
「あかりちゃん、この人たちは喫茶店のお客さんなんだ。高校生で、慎吾君と愛ちゃんだよ。」
吾郎がそう説明した。あかりは、それを聞いてどこかほっとした顔になった。そして、ゆっくり吾郎たちのそばに近づいた。
「私、吾郎君と同じクラスの人かなって思っちゃって。」
あかりが言った。
「え、俺って中学生に見える?ショック。」
慎吾が言った。すると、なぜかあかりは泣き出してしまった。
「え、え。」
慎吾があわてた。
「俺、そんなにへんな事言ったのか?」
「ちがうの。」
あかりはかぼそい声で言った。
「とにかく、家に入ろう。ばあちゃんもいるし。」
吾郎があかりに言った。
吾郎の家の茶の間に、吾郎と慎吾、愛とおばあちゃんが座った。私も家の中に入れてもらった。
「あの、あかりちゃん、どうして泣いちゃったの?」
愛が、優しい口調で言った。
「私、二人が吾郎君と同じクラスなのかなって思って。」
あかりが、ポツリポツリと言った。
「え、あかりちゃんって、吾郎君と同じクラスなんだろ?」
慎吾が言った。あかりは、少し間をあけてから言った。
「私、学校に行ってないんです。」
慎吾と愛が、だまった。
「この春から、保健室登校になったんだけど、この前吾郎君に励まされて、一度は教室に行こうって本当にそう思ったんです。でも、いざ学校に行こうとしたら、やっぱり勇気がでなくて。」
あかりの話を聞いて、愛が質問をした。
「もしかして、いじめられてるの?」
あかりは、静かにうなづいた。
「何か理由でもあったの?その、なんていうかいじめの原因。」
愛が優しく聞いた。あかりは、これまでの事をゆっくり話した。あかりの話を全部聞いた愛は言った。
「それはさ、あかりちゃんがすっごくかわいいから他の女子が嫉妬してるだけだよ。」
「え。」
あかりが愛の顔を見た。
「女子って、本当にめんどうな生き物だよね。グループ作ってみたり、誰かを仲間はずれにしたり。かわいい女の子を無視していじめたり。でも、聞いたかぎりじゃあかりちゃんは、何も悪くないよ。」
愛は、優しく話を続けた。
「いいじゃん。吾郎君と一緒に登校すれば。」
愛は明るくそう提案した。
「でも、私が男子と一緒にいたり、話をするとすぐに文句言われるから。」
「だから、それはあかりちゃんが、すっごくかわいいから他の女子が嫉妬してるだけだよ。いいじゃん、吾郎君と一緒に登校したって。教室でも、吾郎君と一緒にいればいいんだよ。そうやって、堂々としてれば、そのうち相手だって悪口言わなくなるよ。こっちが言い返さないから、言ってくるんだよ。大丈夫、吾郎君なんかしっかりしてるみたいだし。」
愛がそう言うと、吾郎は困ったような顔をして言った。
「でも、無理させたら、あかりちゃんまた過呼吸になるかもしれないし。」
吾郎の表情を見て、愛がさらに言った。
「たしかに、そうかもしれないよね。過呼吸になるくらいあかりちゃんはつらい思いしてるんだもんね。それなのにさ、いじめてる相手はなんの反省もしないでるなんて、許せないよね。」
どうやら愛も正義感が強いんだなと私は思った。
「堂々としてればいいんだよ。それで、文句言われたら、その時はさ、吾郎君ちゃんと言い返してあげてね。」
「それは、もちろん。」
吾郎が言った。
「そうだな。いじめなんてまだそんな幼稚な事する奴いたのかよ。わが母校の生徒四。俺は、恥ずかしぞ。」
慎吾がちょっとふざけた口調で言った。
「そうだよね。いじめなんてするの幼稚だよね。でも、これって、きっといつまでも、きっと大人になってもこういう問題あると思うの。もっと、気楽に考えて、甘えられる時は吾郎君にあまえればいいんだよ。全部一人で抱え込まなくていいんだよ。先生に頼ってもいいし、親に頼ってもいいし。でも、同じクラスに吾郎君がいるんだから、一番頼りになるじゃん。あかりちゃん、頑張って。私はあかりちゃんの味方だよ。今日初めて会ったけど、私達はもう友達だよ。何かあったら、いつでも言ってね。もしも必要なら、わが母校に助けに行くよ。」
愛がちょっと慎吾のまねをして言った。みんな少し笑った。
「あかりちゃん、みんなここにいる人はあかりちゃんの味方だよ。だから愛ちゃんのいうように、あかりちゃんは一人じゃないよ。」
おばあちゃんが言った。あかりは、泣いた。
「え、どうしたんだ?」
慎吾がおどろいて大きな声をだした。
「ありがとうございます。すごくうれしいです。本当にありがとう。」
「あれれ、もしかしてうれし泣き?」
愛が笑顔で言った。あかりは、笑ってうなづいた。私は思った。世の中には、人をいじめて苦しめる人間もいるが、こうして助けてくれる人間もいる。この前宮司さんが言っていた。いつのまにか大人になるとけがれてしまうと。子供の頃のように、いつまでも純粋な心と目で生きていければいいなと、私は思った。
月曜日の朝、私はあかりの事が心配であかりの家まで行った。あかりの家の前には、吾郎が立っていた。吾郎は、私に気が付くと声をかけてくれた。
「マル。マルもあかりちゃんが心配で来たのか?」
私は、そうだよという意味で、
「ニャー。」
と、一声鳴いた。
しばらく吾郎はあかりの家の前でまっていた。玄関には近づかず、ただあかりの家の前にいる。私が、どうしたのだろうと、首をかしげると吾郎が言った。
「玄関でインターホンならすのもなぁ。プレッシャーかけたくないし。あかりちゃんが、出て来たら、その時は一緒に学校に行こうと思って。でも、今日も学校に来れないかな。」
吾郎は、とても心配そうな顔をした。吾郎のとなりで、私もずっと家の中からあかりが出てくるのを待っていた。
しばらく待っていた吾郎が言った。
「やっぱり、学校に行くのが怖いのかな。俺、そろそろ行かないと、遅刻するから。」
吾郎が私にそう言った。その時、あかりが家から出てきた。
「あ、あかりちゃん。」
吾郎が声をかけた。
「吾郎君。」
あかりが、おどろいて目を大きくした。
「もしかして、待っててくれたの?」
あかりが、吾郎のそばに来てそう言った。
「うん。」
「私ね、ちゃんと学校に行こうと思って。」
あかりがそう言って、私を見た。
「白ちゃんも、心配して来てくれたの?」
あかりは、しゃがみこんで、私の頭をなでてくれた。
「白ちゃん、いつもありがとう。」
そう言って、あかりが立ち上がった。
「じゃあ、学校に行こうか。」
あかりが吾郎に言った。吾郎の顔が、パット明るくなった。
「そうだね、早く行かないと遅刻だよ。」
「うん。」
二人は、ならんで歩き出した。歩きながら、吾郎が振り返って私に声をかけてくれた。
「マル、あかりちゃんの事なら心配すんなよ。俺がちゃんと、守るからな。」
吾郎がいつものように力強く言った。二人は、話しながら歩いて行った。そのうしろ姿を、私は見えなくなるまで、見送った。
あかりと吾郎を見送った私は、神社にやって来た。人が誰もいない事を確認して、神社の前で、きちんと祈る。二礼二拍手一礼。神社でのお参りのしかたは、ここにやって来る人たちの作法を見て、覚えた。そして、あかりの無事を祈った。
その後、私は、なんだか眠くなったので、丸くなった。朝の静かな空気に満たされて、私はうとうとと眠りかけた。しかし、誰かがこちらにやって来る足音で、目がさめた。こんなあわただしい足音は、誰だろうと、私は起きてやって来る人を見た。
鳥居をくぐってやってきたのは、圭介だった。走って、こちらに来る。圭介は私を見て、
「お、ミルク。」
と、一言言った。それから、神社の前で、手を合わせて、なにやら真剣にお参りを始めた。私はそんな圭介を、静かに見ていた。
圭介のお参りは、じつに長かった。一体、何をそんなに真剣にお参りしていたのだろう。お参りが終わった圭介は、私の目の前にしゃがみこんだ。
「ミルク、聞いてくれよ。」
圭介は、話始めた。
「この前の土曜日に、フラワーアレンジメントの教室に来た桃子さんに、声をかけたんだ。それで、桃子さんが帰る時に、連絡先を交換したんだ。」
何かと思えば、どうやら圭介は桃子との事を真剣にお参りしていたのだなと、私は思った。
「それで、電話で話をしたんだ。けっこう長電話してさ。桃子さんって、三十歳なんだって。もっと若く見えるよな。俺の二つ年下だった。桃子さん、年上の男の人は、嫌いかな。」
そんな事は、私に聞かれてもわからない。
「それで、一人暮らししてるんだってさ。でも、家事は得意じゃないって言ってたな。ご飯もあんまり自分では作らないし、掃除とか洗濯もそんなにまめにはしないんだって。そう言う事って、普通は人に隠したいもんだろう。でも、そんなことまで正直に話すなんて、ますます桃子さんの事が好きになったよ。休みの日は、家の事をしてるらしい。たまった洗濯物したり、やってなかった掃除したり。」
どうやら、圭介の話は長くなりそうだなと思い、私は座って聞くことにした。
「それで、映画が好きなんだってさ。でも、映画館には行かないんだって。」
映画が好きなのに、どうしてだろうと私は圭介の話の続きを聞いた。
「たいていテレビの金曜ロードショーでやっている映画を録画して、休みの日に見るらしい。だから、映画が好きでも新作の映画の事はよく知らないんだってさ。そんなことまで話してくれるなんて、もしかして、俺の事いいなって思ってくれてるのかな。」
それは、どうかわからない。本人に直接聞いてみればいいんじゃないだろうかと、私は思った。
「映画は、なんでも見るけどホラーは大嫌いだってさ。意外と怖がりなんだな。ディズニー映画も、アラジンとかリトルマーメイドも好きだけど、一番好きなのは名探偵コナンらしい。」
なんだそれと、私は首をかしげた。
「名探偵コナンって、知ってるか?」
知らないと、私は思った。
「高校生探偵がある日、毒薬を飲まされて子供になるんだ。でも、体は子供になっても、頭脳は大人のままで、いろんな事件を推理して解決していくって話。」
そうなのかと、私はなるほどと思った。
「それで、もしも名探偵コナンの映画に誘ったら来てくれるかなと思ったんだ。でも、桃子さんはこう言うんだ。どうせ、一年後に金曜ロードショーでやるからって。俺の誘いは、あっけなく終わったよ。それで、なんとか一緒にもっと仲良くなりたいと思って、ご飯に誘ったんだ。俺にしてみれば、けっこうな勇気だったのにな。それを、桃子さんは、あいまいに断ったんだ。もしかして、俺って嫌われてるのかな。」
表情が曇った。
「でもさ、こんなに色々話をして、思ったんだ。なんでも隠さずに言う桃子さんって、正直な人だなって。普通は、人には自分の事を良く思わせようとするだろう。それが、桃子さんにはないんだ。家事は苦手な事とか、映画もちょっとケチな事も、隠さず言う。それって、正直だからだよな。俺、桃子さんともっと仲良くなりたい。というか、結婚したい。」
おやおや、それはちょっと気が早いのではと、私は思った。その時、社務所から宮司さんが出てきた。宮司さんは、圭介に挨拶をした。圭介はしゃがみこんでいたが、あわてて立ち上がり、挨拶を返した。そして、なにやら挙動不審な感じになった。
「どうかされましたか。」
宮司さんが、圭介に声をかけた。
「え、いや、あの。」
圭介はしどろもどろに言った。それから、少したって、ため息をついた。宮司さんが、圭介の前にやって来た。
「何か、悩み事でも?」
圭介は、少ししてから、口をひらいた。
「え、いや。俺、真剣に猫に話しかけてたから、それを変な奴って思われた叶って。」
圭介は、しょんぼりとしながらそう言った。宮司さんは、ほがらかな顔で答えた。
「そんな事はないですよ。タマは、かしこい猫です。ちゃんと人の話を聞いてくれますから。」
「タマ?この猫、タマって言うんですか?もしかして、この神社の猫ですか?」
「いいえ。私が勝手にタマと名前をつけているだけです。タマは、時々ここにやって来るので。」
「そうですか。俺の家、花屋なんです。それで、この猫を、店先でみかけて。色が白いしミルクって、花屋に来たお客さんにもそう説明してました。」
「おやおや、ミルクとは、とてもかわいらしい名前ですね。」
「なんか、この猫本当に人の事をよく見てるっていうか、人の話を聞いてくれるっていうか。それで、ついミルクに話してたんです。」
圭介はそう言ってから、宮司さんに聞いた。
「あの、この神社って、縁結びのご利益ありますか?」
「縁結びですか。どうでしょうね。でも、神社に向かって手を合わせると、心が少しおだやかになりませんか。心がおだやかになれば、冷静な判断ができるようになります。願い事は、祈るだけでなく、多少の努力も必要ではと思います。思いをよせている方がいらっしゃるんですね。」
「はい。」
「その方と、縁があればきっとうまくいきますよ。」
宮司さんは圭介にそう諭した。
圭介は、宮司さんに何度も頭をさげて帰って行った。そして、圭介の姿が見えなくなると、宮司さんは私に言った。
「タマ、いろんな所でいろんな人の話を聞いてあげているんだね。」
宮司さんは、私の頭を、優しくなでて微笑んだ。
その日の夕方、私はあかりの家の玄関の前にいた。あかりは今日、どんな一日をすごしたのだろうか。
しばらくすると、あかりが帰って来た。
「白ちゃん。」
私を見てそう言って、すぐに私の目の前に来てしゃがみこんだ。
「待っててくれたの?もしかして、一日ここにいたの?」
それはちがうと、伝えたい。でも、人の言葉がしゃべれないので、だまっていた。
「今日ね、遅刻ギリギリに吾郎君と教室に入ったの。みんな、私を見て一瞬静かになったの。空気がピンと張りつめたみたいになって、私はもうそこで、泣きたくなったの。」
あかりは、話を続けた。
「でもね、吾郎君が、教室の入り口で、大きな声で言ったの。おはようって。」
吾郎らしいなと、私は思った。
「そしたら、少しづつ、張りつめていた教室の空気がほどけたの。私は、挨拶も
できずに、席についたの。心臓の音がドクドクって大きく鳴って、また過呼吸になったらどうしようかって、心配したの。でもね、休み時間には吾郎君が時々はなしかけてくれたし、誰かに何か言われる事は今日はなかったよ。」
それは良かったと、私は思った。
「でもね、音楽の授業の時、移動教室の時はちょっとつらかったな。みんな友達と、音楽室に行くから。私は一人で音楽室に行ったの。それは、ちょっときつかったな。でもね、帰り道で考えたの。一人で行動するのも、そんなに悪くないのかなって。女子ってグループを作って行動するんだけどね、考えてみたら私は今まで、同じグループの友達の顔色を気にしてばかりいたから。友達にどう思われているのかなとか、きらわれないようにとか。だから、一人で行動したら、もうそんなのを気にしなくていいでしょ。考え方で、ちょっと気持ちがらくになったの。それでね、明日も、吾郎君と一緒に登校する約束をしたの。愛ちゃんがいっていたでしょ。一人で抱え込まないでって。今はちょっとだけ、吾郎君に頼ってみようかなって思ってるの。いつまでもじゃないよ。学校に慣れるまで。」
あかりは、そこまで言うと、笑顔になった。
「長い一日だったよ。でも、私は頑張れたの。だから、きっと明日も学校に行けるよ。」
あかりのその言葉を聞いて、ほっとした。あかりは、とても頑張ったんだなと思い、私はあかりの足にすりすり体をあずけた。その私の体を、あかりは優しくなでてくれた。
あかりの家から、公園に行った。ベンチには、慎吾と翔が座っていた。私が二人のもとにかけよると、慎吾が言った。
「よぉ、タマ。」
それから、慎吾は翔に言った。
「この猫、マルって名前もあるんですよ。」
「マル?」
「花屋のとなりに喫茶店ができたでしょ。そこの喫茶ってんの息子と仲良くなって。その子がマルって呼んでいて。」
「そうか、いろいろな名前があるんだね。」
私は翔の足元に行き、ちょこんと座った。
「それで、この前の話なんだけど。」
慎吾が話を始めた。
「たまたま知り合ったその喫茶店の息子にはクラスメイトの美少女がいて。で、その女の子が不登校で。」
「不登校?それは、かわいそうだね。」
「そう。で、なんだかんだあって、その息子の家に俺と彼女も行って、その女の子の悩み相談になって。」
「そっか、悩みを聞いてあげたんだね。」
「そうなんですよ。なんだかんだで。で、彼女がその女の子にポンポンといいアドバイスしてて。俺、彼女をほれなおしました。」
「慎吾君、すごい素直だね。」
翔はちょっと笑った。
「はい。」
慎吾はちょっと自分の言葉に照れたみたいで、顔を赤くした。
「で、彼女が小学校の先生になったら、きっとすっげぇいい先生になるだろうなって思ったんです。なんていうか、俺は何もその女の子にアドバイスできなかったから。でも、彼女はちがった。自分の意見を的確に言ってたし、実際にその女の子最後はうれし泣きしてたし。」
「そうか、すごいね。その女の子、学校には行けたのかな。」
「どうだろう。彼女も心配してました。学校にちゃんと行けたのかなって。それで、彼女は彼女なりに、あんなアドバイスで良かったのかなって心配してて。うまく言えないけど、女子ってデリケートな生き物だなって、思いました。俺、ガサツだし。でも、女子は色々大変みたいですね。」
「そうかもしれないね。その女の子が、ちょっとでも元気になってくれたらいいね。」
「はい。それで、今日はバイト休みなのに翔さんに聞いてほしくて、ここに来てもらったんです。」
「なにかな?」
「俺、やっぱり彼女には東京に行ってほしくないんです。だから、それを正直に言おうと思って、ケンカになるかもしれないけど。それで、俺今から、遅いかもしれないけど、勉強頑張って彼女と同じ大学に行けるように頑張ろうって思って。」
「うん。いいと思うよ。東京に行ってほしくないっていう慎吾君の気持ちも話せば、きっとわかってくれると思うよ。」
「よかった。翔さんに、そう言ってもらえて。ケンカになるかもしれないけど、ちゃんと話をしようと思います。」
「うん。それがいいと思うよ。」
慎吾は、ほっとした顔をした。それから、翔の顔を見て言った。
「翔さんって、好みの女性のタイプとかってありますか。」
「え。」
翔がおどろいて、慎吾を見た。
「いや、理想の彼女のタイプって、どんなかなって。」
翔は、ちょっと考えてから言った。
「特に、ないかな。」
「え、ないんですか。」
「え、そんなに珍しいかな。そんなにおどろかれる事かな。」
「おどろきですよ。普通は、ちょっとくらいあるでしょ。例えば、かわいい事か。きれいな人よりもかわいい子がタイプとか、色々。」
「うーん。特にないな。」
「翔さん、もったいないですよ。せっかくイケメンなのに。」
「イケメン?あんまり言われたことないよ。」
「なんていうか、翔さんって、子犬みたいな顔してるから、女子から絶対もてるはずなのに。」
「え、子犬?」
「ああ、いい意味です。なんていうか、かわいらしい顔っていうか。年上の人にこんな事言って失礼かもしれないけど。」
「一応ほめてくれてるんだよね?」
「はい、もちろんです。」
「ありがとう。僕は、なんていうか、めぐり会えたらなって思ってるんだよ。」
「めぐり会い?」
「そう。理想のタイプとかはないんだけど、そういうのって縁があって結ばれると思うから。」
「ふーん。」
「慎吾君には理想のタイプとかあったの?」
「はい。顔がかわいい子。あと、よく食べる子。俺の彼女、かわいいし、よく食べるんです。この前も、花屋のとなりにできた喫茶店に二人で行って来たんだけど、おいしそうに食べてる彼女がかわいくて。」
「へぇ、そうなんだ。」
「あの喫茶店、店も新しくてきれいだし、おいしかったし、翔さんも今度行ってみてくださいよ。」
「そうだね、いつか行ってみるよ。」
二人は、そんな会話をしていた。私は、少し眠くなったので、ベンチの下にもぐりこんだ。そして、体を丸くして、ねむった。
翌日の夕方も、私はあかりの家の玄関の前にいた。あかりはどんな顔をして帰ってくるだろうか。
「白ちゃん。」
あかりが帰って来て、私に声をかけてくれた。表情が明るい。あかりは、私の目の前でしゃがみこんで、話をしてくれた。
「今日ね、すごい事があったの。」
すごいことって、なんだろうと私は話の続きを聞いた。
「私の前の席の女子がね、話しかけてくれたの。さきちゃんって子なんだけどね、さきちゃんは、一年生の頃から私の事を知ってたんだって。クラスはずっとちがったのに。それで、私と友達になりたいって思ってくれてたんだって。昨日は、緊張して、話かけられなかったって言ってたの。」
あかりに友達ができたみたいで、私はうれしくなった。
「でもね、さきちゃんには仲良くしている女子のグループがあるから、あんまり一緒にはいられないの。」
そこが、意味がわからない。私はそう思ってあかりの話を聞いていた。
「お昼休みにね、トイレに行ったの。その時にね、去年同じクラスだった女子から、文句を言われたの。すごく怖かった。でもね、さきちゃんが、言い返してくれたの。すごいでしょう。普通、みんなそういう事に関わりたくないって、見てみぬふりをするのに。さきちゃんは、私のために言い帰してくれたんだよ。はきはき物事を言えるさきちゃんが、かっこよかったな。私とは、性格が正反対。私は思っていることを言えないから。それでね、さきちゃんと、ちょっと話をしてね。私が読書が趣味だって話したら、さきちゃんは小説は読まないけど、マンガ本なら大好きだって教えてくれたの。今度ね、さきちゃんのおすすめのマンガ本を貸してくれるって言ってくれたんだよ。」
あかりが、とてもうれしそうでなによりだ。
「あ、そうだ。私の事もさきちゃんに話したの。最近ね、スマホで小説投稿サイトにアップしてある小説を読んだよって。すごくおもしろかったよって、教えたの。」
あかりは、その小説投稿サイトの小説の話もしてくれた。
「あこがれのアオハルっていうタイトルだったの。タイトルに魅かれて、呼んでみたの。主人公は高校生の女の子でね、病気で入院しているの。学校に行きたくても行けなくて。でもね、眠って夢の中で高校生活を送るの。それがね、とってもよくて。休み時間に友達とお菓子食べてしゃべったり、お昼休みに購買でパンとジュース買ったり。学校帰りに寄り道して、友達とドーナツ食べたり。食べてばっかりだなって、わらっちゃった。でもね、目がさめると、主人公は病院に入院していて、現実の世界では学校には行けなくて。読んでいてね、学校にいけないっていうのが、私と同じだなって思ったの。でも、その主人公は病気で入院しているから行けないの。私は元気な体をしてるのに、行けなかった。きっと世の中には、こんなふうに本当に病気で、学校に行きたくても行けない人がいるんだろうなって思ったの。」
あかりは、真剣に話をしてくれた。
「読み終わって、コメントを書いたの。恥ずかしいから本名は書かなかったよ。そのかわりに、白ちゃんってペンネームにしたの。白ちゃんの名前使っちゃった。」
あかりは、はにかんで笑った。それから、あかりは一度家に入って、戻って来た。
「白ちゃん。色々心配かけちゃったね。私ね、明日も学校に行けるよ。」
あかりはそう言って、牛乳の入った皿を差し出してくれた。私は、それを遠慮なく飲んだ。
「白ちゃん、ありがとね。」
あかりは、そうお礼を言ってくれた。
あかりの家を後にして歩いていた。翔と桃子の住むアパートに来た。ちょうど仕事から帰って来た桃子と偶然会った。
「あれ、ミルクだよね?」
桃子はそう言って、私に近づいて来た。そして、目の前でしゃがみこんで、話をした。
「圭介さんって、知ってるでしょ?花屋の、男の人。その人から連絡先を聞かれたの。それで、最近電話で話すの。なんかね、圭介さん、私の事が好きみたいなんだ。私もね、話してて圭介さんって、いい人だなって思ったの。でもね、ご飯に誘われても、ことわったんだよね。」
なんでだろうと、私は首をかしげた。
「だって、私彼氏いない歴六年なんだもん。うまく男性とつきあえるか、わかんないよ。それに、つきあうなら、もうこの年だし結婚とか考えたいの。でも、いきなり結婚なんて言ったら相手には、重い女っておもわれちゃうよね。」
そんな事はないのにと、私は思った。そこに、翔が帰って来た。
「桃子さん、こんばんは。」
「あ、翔君。こんばんは。」
桃子は立ち上がって翔に挨拶をした。
「翔君は夜ご飯、何食べるの?」
「僕は、適当に作って食べます。」
「へぇ、料理するんだね。えらいね。」
「いえ、僕のおかずのレパートリーなんて少なくて。」
「でも、すごいよ。私なんて、今日もカップラーメンだよ。たまには、おいしいもの食べたいな。」
「あ、そういえば、バイト先の子が言ってましたよ。花屋のとなりの喫茶店、店内もきれいだしおいしかったって。」
「へぇ、あの喫茶ってんね。」
「今度行ってみたらッてすすめられました。桃子さんも、いつか行ってみたらどうですか。」
「そうね。行ってみたいな。」
「それじゃあ、僕はご飯作らないとなので。」
「私も、カップラーメン食べないと。じゃあ、またね。」
桃子は翔に手を振ってから、私にも手を振ってアパートの中に入って行った。翔も私に手を振って、アパートに入って行った。私は、首をかしげて考えた。圭介は桃子を好きだ。桃子も圭介が気になっているようだ。それなのにどうして、桃子は圭介の誘いを断ったのだろう。まったくわからない。私は、そう思っていつもの公園に向かって歩き出した。
翌日、神社に行った。私は今までたくさんの願い事をこの神社にしてきた。あかりが元気に学校に行けるようになったので、今日はお礼参りをしようと思ってやって来た。
お礼参りを終えてから、ふと思った。そういえばと思い出して、圭介と桃子の事もついでにお参りをした。それから、私は、花屋に向かった。
花屋の店にやって来た私は、大きな窓から店内にある色とりどりの花々を見ていた。きれいだなと思って見ていると、圭介が店から出てきた。私に気が付くと、さっそく近づいてしゃがみこみ、話を始めた。圭介の話は、いつも長い。私はちょこんと座って話を聞いた。
「ミルク、聞いてくれ。桃子さんから昨日電話がきたんだ。それで、そこの喫茶ってんに今度二人で行く事になったんだ。」
それはそれはうれしそうに、圭介は言った。
「神社でお参りしたからかな。さっそくご利益があったな。で、うれしすぎてさ。でも、次に問題が起こったんだ。」
今度はなんだと、私は思った。
「着て行く服がないんだ。」
なんだ、そんな事かと私は思った。
「今までデートなんてした事ないからな。着て行く服がないんだ。クローゼットあさっても、なくてさ。ダサい男だって思われたくないんだよ。何を着て行けばいいかな。」
私は、やれやれと思た。圭介の話は、いつもやれやれだ。
「きっと桃子さんは、仕事の帰りに来るからきちんとした服を着てくるだろうな。だから、となりにいてもはずかしくない服を着て行かないとな。」
私は、圭介の表情を見ておもった。よろこんだり悩んだり、表情がくるくる変わる。まったく忙しい人だなと思った。
「猫はいいよな。服着なくてもいいから。」
なんだそれ、だったら圭介も服を着なければいいじゃないかと、私はちょっと思ってしまった。
「でもな、俺は裸で行くわけにもいかないしな。」
まさか、私の心の声が聞こえたのかと、私は思った。
「うーん。何を着ていけばいいんだ。この際、買い物に行って、店の人に事情を話して、かっこいい服をコーディネートしてもらおうか。でも、俺、あんまりお金ないしな。」
圭介はそんな事をずっと話していた。すると、店の中から、副店長が出てきて、圭介を怒鳴った。
「圭介、いつまでそんな所にいるの!早く配達に行って来なさい。」
「はいはい。」
圭介はたちあがって、軽トラックの方へと歩いて行った。一度立ち止まり、私を見て言った。
「ミルク、また来てくれよな。」
もしかして、私が圭介の話は長いと思っていた事がバレてしまったのだろうか。圭介は、軽トラックに乗って、配達に出かけて行った。それにしても、たった一言で圭介を動かす副店長はすごいなと私は思った。
私は、午後から公園のベンチで昼寝をしていた。日差しがポカポカしていて、気持ちがいい。すやすやと眠っていると、優しい風が吹いて、まるで私の体を優しくなでてくれているみたいだった。そのまどろみから目を覚まして、私はある場所に行こうと思った。
ベンチから降りて私は公園を出た。いつもは行かない方向へ向かう。
トコトコと歩いてやってきたのは、ある場所だった。私の目の前には電柱がある。そのうしろには民家のブロック壁がある。私は、以前ここで車にひかれそうになった。あれは私がまだ子猫だった頃の事だ。捨て猫だった私は、親猫をさがすのにこのあたりをうろうろしていた。車が来ている事には全く気がつかなかった。すごく大きな音が聞こえて、その音の方向を見た時には、私の目の前にすごいスピードで車が近づいてきたところだった。危ないと私は、とっさに目をつぶった。しかし、次の瞬間、誰かに私は助けられた。優しくて大きな両手が私を守ってくれたのだった。そして、車はものすごいブレーキ音を出して、何かにぶつかった。ドン!と大きな音が聞こえた。何が起こったのか、すぐには理解できなかった。ようやく理解したのは、救急車とパトカーのサイレンが聞こえた時だった。私は、男子高校生に助けてもらって無事だったが、私を助けてくれた男子高校生は即死だった。それが、斗真だ。私は、ここであの日、斗真に命を救ってもらったのだ。私はあの時の事を思って目をとじた。斗真がこの私の命を救ってくれたからこそ、私は今こうして生きている。斗真、本当にありがとう。斗真に感謝を伝えてから、私はまた公園に戻った。
夕方になった。私は公園のベンチで座っていた。そこに彩ちゃんがやって来た。白杖を上手に使ってこちらに歩いて来る。ベンチまでたどりつくと、いつものように手でベンチを確認してから座った。
「ニャー。」
私が挨拶すると、彩ちゃんが私にも挨拶をしてくれた。
「猫ちゃん、こんにちは。」
彩ちゃんと、しばらく二人夕暮れ時の音を聞いていた。それから彩ちゃんが、私に話しかけてくれた。
「小説がね、この前歓声したの。」
彩ちゃんはうれしそうに言った。
「斗真君にいつか話したあの小説が、完成したの。私は高校には行ってないから、高校生活をしらないでしょ。だから、わたしのあこがれを小説にこめたんだよ。」
彩ちゃんは、まるで私だけでなくここに斗真がいるように、優しい口調で話をした。
「休み時間にお菓子を食べながら友達とおしゃべりしたり、お昼休みに購買に行ってパンとジュース買ったり。帰り道に寄り道して、友達とドーナツ食べたり。ふふふ、この話した時、斗真君言ってたよね。食う事ばっかりだなって。」
彩ちゃんは、なつかしそうな顔をして話を続けた。
「それでね、あこがれのアオハルってタイトルにしたの。小説を書くためにパソコン教室に通って良かったよ。パソコンができるようになったから、小説が書けたわけだしね。でもね、小説投稿サイトにアップするのは、お兄ちゃんにしてもらったの。音声ソフトはね、キー操作じゃないと使えないから。」
キー操作ってなんだろうと思いながら、私は彩ちゃんの話を聞いた。
「マウスで操作すると音声で画面を読み上げてくれないの。だから、見えない私にはマウスの操作ができなくて、小説投稿サイトにアップする時はお兄ちゃんにしてもらうしかないんだよね。それで、昨日、私の小説を読んでくれた人がいたのかなって思って、お兄ちゃんにいいねがついているか見てもらったの。」
彩ちゃんは、私の方を見て笑顔で言った。
「いいねが一つあるぞって言われたの。うれしかったな。すごくすごくうれしかったな。一生懸命書いて良かったなって、心から思ったの。それでね、お兄ちゃんが言ったの。コメントもあるぞって。そのコメントも、お兄ちゃんから読んでもらったの。そのコメントに羽根、私もこんな学校生活にあこがれていますって一言だけ書いてあったの。白ちゃんって人からの、たった一言のコメントが、私にはすっごくすっごくうれしかったの。書いてよかったなって。思ったんだ。」
私は彩ちゃんの話を聞いて、そのコメントをしたのが、あかりだとわかった。彩ちゃんは、本当にすがすがしいほどの笑顔をしていた。本当にうれしいのが、伝わってくる。小説を書いた彩ちゃんと、それを読んだあかりが、見えない糸でつながれたんだなって、私は思った。
「猫ちゃん、私ね、最近思うの。見えなくなって、本当に人生に絶望してた頃もあったけど。なんで病気になったのが、私だったのかって、神様を恨んだりもした。でもね、こういうふうに目がみえなくなって、弱い立場になったからこそ、見えたものがあるの。」
なんだろうと、私は首をかしげた。
「本当の優しさが、わかるようになったの。本当の優しさがなんなのか、見えるようになったの。」
彩ちゃんは、話を続けた。
「翔君は、白杖を持っている私にも、普通に接してくれるでしょう。同情とかじゃなくて、特別扱いでもなくて。そういうのが、うれしいの。普通にしていてくれる子音が。それにね、ママと二人で出かけたりした時にもね、声をかけてくれる人がいたりして。気にかけて声をかけるなんて、きっと私なら、こんなふうに見え亡くならなかったら、私にはそんな気遣いはできなかったと思うの。さりげない優しさとか、思いやりがうれしいんだなって、心から思ったの。だから、病気になった事はいやな事だけど、病気になったからこそ、気づけた事もあるんだなって。」
その時、一瞬強い風が吹いた。思わず私は目をつぶった。そして、目をあけると、目の前には、ブレザーの制服を着た斗真が立っていた。
「斗真君。」
彩ちゃんにも斗真が見えるみたいだ。斗真は優しい顔で、私と彩ちゃんを見た。そして、本当に本当に優しい微笑みを浮かべた。その時、今度は静かな風が吹いた。そして、斗真の姿は消えた。
「猫ちゃん、今斗真君いたよね?」
「ニャー。」
「猫ちゃんにも、見えたよね?」
「ニャー。」
「もしかして、斗真君の事を思って話をしていたから、出て来てくれたのかな。私と、猫ちゃんに会いに来てくれたのかな。」
私も彩ちゃんと同じ事を考えた。
「ニャー。」
私は彩ちゃんに声をかけた。
「うれしいね。一瞬だけど、斗真君に会えたね。」
彩ちゃんは、そう言って私の頭をやさしくなでてくれた。そして、しばらく、二人で静かに公園のベンチに座っていた。
彩ちゃんが帰って、私は一人になった。今日はいろんな事があったなと思った。私は、斗真のおかげで、こうして生きている。斗真からもらった大切な命だ。私は猫だけど、これからもたくさんの人と出会いたい。そして、たくさんの話を聞きたい。もちろん、これからも彩ちゃんの話も聞くし、あかりや翔、圭介や桃子の話も聞くつもりだ。私は、猫。白い猫。いわゆる野良猫。でも、名前はいくつかある。誰かの何かの役にたてれば、私はうれしい。これからも幸せな野良猫生活を楽しもうと思う。
すると、公園に誰かが、やって来た。明るい声は女の子だろう。女性は、となりにいる誰かに一生懸命に、話かけている。私は、顔をあげてチラッと声の方を見た。高校生くらいのポニーテールをした女の子と、同じ年くらいの男の子が見えた。私は、その女の子と一瞬目と目が合った。
「あ、かわいい猫。」
女の子は、そう言った。でも、となりにいる男の子は、何も言わない。私はベンチのはしっこにいるので、このまま動かず、丸くなって寝たふりをした。
二人は、どうやらベンチに座ったようだ。しかし、何かへんだなと私は思った。女の子がどれだけ話しかけても、男の子は何も言わない。そのうちに、会話はなくなり、静まりかえった。そして、少しの沈黙の後で、女の子がポツリと言った。
「もしかして、私の事嫌いになったの?」
とてもさみしそうな声だった。男の子は、何も言わない。
「雄一君、東京に行っても俺は何も変わらないって言ってくれたよね。私は地元に残って就職するけど、東京に行って大学生になっても、私達の関係は変わらないって言ってくれてたよね?」
「あのさぁ。」
ようやくぶっきらぼうな声が聞こえた。
「俺、東京に行ったら、遊びたいんだ。」
「え。」
「だからさ、俺達別れないか?それで、俺が夏休みとかお正月とかに帰って来た時に、友達として会わない?ゆなの気持ちが、俺は重いんだ。もっときらくにさ。」
ゆなと呼ばれた女の子が勢いよく立ち上がる音がした。私は、顔をあげて、ゆなを見た。大きな目から、涙が次々にこぼれていた。そして、ゆなは言った。
「なによそれ。嫌いになったなら、そう言えばいいでしょ。東京に遊びに行くわけ?大学に行くんでしょ。何よ、遊びたいって。バカにしないでよ!私は、キープになんてならないから。もう一生、会わない!ずっと信じてたのに。」
ゆなは、そう言い残すと走って行ってしまった。私は、ベンチから降りて、ゆなのあとを追った。そして、公園を出る時に、一度立ち止まり、振り返った。ベンチには一人のこされた男の子が、ガックリと首を下にして呆然としていた。それもそうだろう。ゆなの気持ちを考えずに、自分の都合の良い事を優先した罰だ。私は、前を向いて公園を出た。けれど、走って行ったゆなの姿を見失ってしまった。ゆなに、伝えたかった。流した涙の分だけ、きっとこれから幸せになれるはずだと。
夕方、私はある家の玄関にいた。そろそろ帰って来るはずだろう。そんな事を考えて待っていると、二つ髷をした中学生の女の子が帰って来て、私の顔を見るなり言った。
「白ちゃん。」
女の子は、私の頭をなでてくれた。そして、語り掛けて来る。
「今日も、中学校楽しくなかったよ。」
悲しそうな声だ。
「どうしてかな。」
女の子はいつもこうやって、私に悩みを打ち明ける。私は、その悩みをただただ聞いている。
「なんで、いじめってあるのかな。私、なんにもしてないのに。それに、ただ誤解されてるだけなのに。たまたまとなりの席になった男子と話してただけなのに。その男子とかくれて付き合ってるとか、うわさされて。友達の好きな人、奪ったとか言われて。なんで、こんな事になったのかな。もう、学校に行きたくないよ。教室で、一人ぼっちなのは、もういやだよ。」
女の子は、泣いた。私は、どうにかなぐさめたくて考えた。そして、招き猫のポーズをしてみた。すると、女の子は私を見て涙をとめた。ハンカチで涙をふいてから、
「白ちゃん。ちょっと待ってて。」
と言って、玄関に入って行った。
少しすると、戻って来て、牛乳が入っている皿を私に差し出してくれた。
「野良猫にえさをあげちゃだめだって、聞いた事あるんだけど。今日だけは、特別だよ。白ちゃん、なぐさめてくれてありがとう。」
私は、差し出された牛乳を遠慮なく飲むことにした。舌でペロペロと牛乳をなめていると、玄関が開いた。
「あかり、どうしたの?」
「ママ。」
あかりと呼ばれた女の子は、ママの顔を見て、また泣いた。
「あかり、最近元気がないなって心配してたのよ。何かあったの?」
あかりは、何も言わない。
「ママにも話してくれないかしら。」
「うん。」
あかりは、立ち上がって、ママと家の中に入って行った。私は、牛乳を全部飲み終わってから、走り出した。こういう時は神頼みだ。神社に行こう。あかりが、元気になれるようにお願いしてこよう。私は神社に向かって全力で走った。
数日後、私は神社の境内にいた。この神社には、よく来る。向こうから楽しそうな声が聞こえたので、そちらを見ると、若い夫婦が仲良く話をしながら、こちらに来るのが見えた。私は、お参りの邪魔にならないように、社務所の方に行った。すると、女の人が私を見て言った。
「あれ、この猫、この前の夕方もここにいたよね。」
「あ、本当だ。この猫、この前の夕方、なんか真剣にお願い事でもしてるみたいに神社に向かってじっとしてたよな。」
すると、社務所から宮司さんが出てきた。
「おはようございます。」
宮司さんは、若い夫婦に挨拶をした。
「おはようございます。」
若い夫婦も挨拶を返した。そして、男の人が、宮司さんに聞いた。
「この白い猫、ここの猫ですか?」
宮司さんは私の頭をなでながら、しゃがんだまま答えた。
「タマは、ここの猫ってわけではないんですよ。ただ、時々ここに来るから、私はタマと呼んでかわいがっています。」
「へぇ。」
宮司さんはしばらく私の頭をなでていたが、それをやめ立ち上がって、若い夫婦に話しかけた。
「妊娠されているんですね。」
「はい。」
女の人が、大きなおなかをそっとなでながら答えた。
「もうすぐ、出産なんです。初めての出産で、色々不安なので、この神社に時々来て、お参りしてるんです。」
「それは、それは。赤ちゃんが生まれてくるのが楽しみですね。」
「はい、無事に生まれてきてほしいです。」
女の人はとても優しい目をしていた。
「じゃあ、お参りしようか。」
男の人がそう声をかけて、若い夫婦は神社の前で手を合わせた。それを、宮司さんは微笑みながら見ていた。私もなんだか、うれしいなと思った。幸せそうな顔をしている人を見ると、なんだかこちらまで幸せな気持ちになる。
「無事に生まれてくるといいな、タマ。」
宮司さんが私にそう言った。私も、そう思った。どんな赤ちゃんが生まれてくるんだろう。楽しみだなと、そう思った。
神社からの帰り道、アパートの前を通ったら、大きなトラックが一台、アパートから出て行くのが見えた。引っ越しの季節だ。誰かがこのアパートに引っ越して来たのだろうか。それとも、出て行くのだろうか。私はそっとアパートに近づいた。すると、かっこいいというよりは、かわいらしい顔をした高校生くらいの背の高い男の子と、多分その母親がいた。母親は泣きながら話している。盗み聞きをするのは、申し訳ないが、聞こえて来てしまうので、しかたない。
「翔、四月から大学生になるのね。ここでこれから一人暮らし、本当に大丈夫なの?」
「母さん、大丈夫だよ。だから、そんなに泣かないでよ。」
翔という男の子は優しい口調で言った。
「そんなに泣いてたら、こっちがなんだか心配になるよ。僕は、大丈夫だから、そんなに心配しないでよ。」
「翔、大きくなったのね。幼稚園の頃は、幼稚園に行きたくないって、あんなに大泣きしてたのに。」
「いつの話してるんだよ。僕はもう大人だから、本当に心配しないでよ。」
「そうね。母さんも、子離れしないとね。それじゃあ、そろそろ母さんは行くから。しっかり食べるのよ。ああそれから、戸締りはしっかりね。ああそれから、火事になるといけないから料理をしたら、きちんとコンロの火を確認してね。ああそれから。」
「母さん、心配しすぎだよ。僕は本当に大丈夫だから。」
「わかったわ。それじゃあ、母さんは帰るからね。元気でね。」
ようやく話を終えて、ふと二人が私を見た。
「あら、猫。」
「母さん、猫好きだもんね。」
「野良猫かしら。でも白くてきれいな猫ね。」
「この近くに住んでるのかな。」
「そうかもしれないわね。」
二人は私を見ながらそんな会話をしている。私は、その場をそっと去る事にした。大人になる子供と、大人になる子供が心配な母親。親子の絆はきっと離れてもかたく結ばれているだろう。そう、これからもきっと。私はそんな事を思いながら歩いた。
午後から私は、いつもの公園のベンチで昼寝をする事にした。今日もポカポカな陽気だ。気持ちよく寝ていたら、バサッと大きな音がして、目をさました。見ると、ベンチの上に大きな袋が置かれていた。そして髪の毛の長い女性が大きなため息をついて、ベンチに腰をおろしていた。なんだろう、この大きな袋。私はその大きな袋を見て考えた。その時、電話の音が聞こえてきた。
「もしもし。」
髪の毛の長い女の人は、めんどうくさそうに言った。
「桃子、あんた今どこにいるの?」
電話の相手の声が大きくて、聞こえてきた。
「今日は、友達の結婚式だったの。だから、スマホの電源切ってたの。」
「あら、誰の結婚式?」
「しずくだよ。高校の時の同級生。三月に結婚したいって言ってて、本当に結婚するから、びっくりだよね。」
「あら、しずくちゃん結婚したのね。桃子も、そろそろ。」
「お母さん、もういいかげんにしてよね。三十歳なんて、今の時代まだ若いんだから。」
「そんな事言ってもねぇ、三十過ぎたら、いい条件の相手に出会えないかもしれないでしょ。」
「わかったって。」
「桃子もそろそろいいかげんに、結婚の事考えてよ。親類からも、桃子ちゃんはまだなのかって言われてるのよ。」
「そんなのほっといてよ。」
桃子は電話を切って、それをカバンにつっこんだ。そして、大きなため息をついた。私がその一部始終を見ていたら、視線に気が付いたようで、桃子がこちらを見た。
「何?」
私は何も言っていないし、問いかけてもいない。
「猫は、いいよね。結婚をあせらせる人がいなくてさ。まさか、しずくまで先に結婚するなんて。」
桃子がぼやき始めた。私は、ぼやきを聞くほど、暇ではない。この場を去ろうと思った。その時、桃子が大きな声で言った。
「あ!飛行機雲だ。」
桃子の声につられて、私は空を見上げた。真っ青な空に、白い雲が一筋きれいに浮かんでいた。
「飛行機雲なんて、久しぶりだな。」
桃子がポツリとつぶやいた。その声が、なんだか遠い記憶を思い出しているようで、私は桃子の横顔をみつめた。
「子供の頃はね、ウェディングドレスに、すごくあこがれたんだ。結婚式もチャペルがいいなとか。でも、大人になると、そんな夢みたいな事人にはなかなか言えなくなってさ。私にも、いい出会いがあればなぁ。」
その声と横顔がとてもはかなくて、なんだかこの人をほっとけなかった。桃子が大きな袋を持って歩き出したので、私はそのとなりを歩いた。
「うちは、アパートだから、ペットは飼えないんだけどな。」
私はペットになるつもりはない。ただ、この人をなんだか今は一人にしておけなかった。桃子がだまってあるいたので、私もそのとなりをだまって歩いた。
「だから、ペットは無理なんだって。」
桃子はアパートにつくと、しゃがみこんで私の頭をなでながら言った。このアパートは、知っている。この前翔という男の子が引っ越してきたアパートだ。
「じゃあね。」
桃子はそう言ってカギをあけてアパートの中に入って行った。私は知った。大人になっても、人にはいろいろな悩みがあるんだなと。そして、なにげなく空を見上げた。もう飛行機雲は見えなくなっていた。そして、空を見上げながら思った。桃子にも、いつか素敵な出会いがありますようにと。
私は、野良猫だけどそれはそれで、けっこう楽しく過ごしている。今日は、行きつけの本屋に来ている。商店街の一角にある小さな本屋だ。そこには、私の事を「マル」と呼ぶ、おばあちゃんがいる。おばあちゃんは、この本屋で一人で働いている。
「マル、ひさしぶりだねぇ。」」
レジの所に椅子を置き、おばあちゃんはいつもそこに座っている。私はそんなおばあちゃんの足元にいつもこうして座っている。
「こんにちは。」
いつも来るおばさんが、おばあちゃんと私に声をかけてくれた。
「こんにちは。」
「マル、久しぶりね。」
おばあちゃんの前に来たそのおばさんは笑顔で言った。
「そこに、いつもの椅子があるから。」
おばあちゃんが言うと、おばさんはその椅子を持って来て、レジの近くに座った。おばあちゃんは、一度席を離れてから、お茶を持ってきた。そして、おばあちゃんと、おばさんが話を始めた。
「この店も、もうすぐおわるのね。」
おばさんが言った。
「お客さんもほとんどこないからね。息子夫婦がこの街に家を建てているから、これからは孫と息子夫婦と暮らすんだよ。」
「さみしくなるわね。」
「まぁ、ここから歩いて二十分くらいだから、いつでも遊びに来てよ。」
「あら、いいの?」
「もちろんだよ。息子夫婦は今、店舗を借りて喫茶店をやってるんだけど、これからは自宅に喫茶店をするスペースを作るから、コーヒーでも飲みに来て。」
「コーヒーねぇ。私はおばあちゃんのいれてくれる、このお茶が好きなのよ。」
「あら、それはうれしいわ。じゃあ、喫茶店じゃなくて、家の方に来て。いつでもお茶をいれるから。」
二人はそんな会話をしていた。この店がなくなる事を知って、私はなんだかとても悲しい気持ちになった。ここに来ると、おばあちゃんは、いつでも「マル。」と言ってかわいがってくれたからだ。もうおばあちゃんに会えなくなるのかなと考えると、とてもさみしい。かつて、私をとてもかわいがってくれた斗真のようにもう二度と会えなくなるのかなと、悲しくて思わず私は鳴いた。
「ニャー。」
「あらあら、マルがさみしがってるわよ。」
おばさんが、言った。
「そうだね。マルとも会えなくなるのね。マル、この店を閉めるまでいつでも来てね。」
私はもう一度、
「ニャー。」
と、鳴いた。
数日後、私は新築の家の前にいた。その新築の家のとなりにも、新しく家を建てている。今私の目の前には、とても大きな窓がある。こんなに大きな窓がある家は、初めて見た。すると、中から男性が出てきた。
「あ、猫だ。」
その人は私の方に来て、目の前でしゃがみこんだ。
「看板猫に、ならないか?」
看板猫なんて言葉、私は初めて聞いた。なんだそれと思っていると、
「おはようございます。」
と私のうしろから明るい女の子の声がした。見ると、なんといつか公園で涙をながしていた、ゆなという女の子だった。
「ああ、ええと今日からこの店で働かせてもらう鈴木ゆなです。よろしくお願いします。」
「鈴木さん、よろしく。俺はこの花屋の息子で、圭介っていいます。店長は俺の親父で副店長は俺の母親。家族経営の店だけど、よろしく。」
「私、お花屋さんで仕事するのが夢だったんです。ここなら、自宅からも歩いて通えるし、こちらこそよろしくお願いします。」
「じゃあ、店がオープンするまであと三日だから、店内の掃除とか仕事の事教えるよ。」
「はい、お願いします。」
ゆなは、ぺこっとおじぎをしてから、ふと私を見た。
「あれ、この猫どこかで。」
ゆながそう言って私の目の前に来た。
「もしかして、ここで飼っているんですか?」
「いいや、ちがう。でも、看板猫になってくれないかなって今スカウトしてたんだ。」
「スカウト?」
ゆなは、笑った。いい笑顔だと、私は思った。公園で泣いていた時とちがって、すっきりとした顔をしている。
「じゃあ、名前つけましょうか。」
ゆなが言った。
「そうだな。」
「うーん、白いから、ミルクとかどうですか。」
「いいねぇ。」
私は、あわててこの場を離れた。あやうく看板猫とやらにされてしまう。私は、自由に生きていきたいんだ。看板猫がなんだかよくわからないけど、あわててその場から、私は逃げた。
夕方の公園はちょっとものさみしい。この簡素な公園に、子供たちはめったにやって来ない。一人、滑り台にのぼって遊んでいると、翔が公園にやって来た。そして、ベンチに腰をおろした。なんだか元気がない。私は、そっと歩いて翔のそばに行った。
「翔は、本当にさみしそうな顔をしていた。私はぴょんとベンチにあがって、翔のとなりに座った。その時、電話が鳴った。
「もしもし。」
翔は、電話の相手となにやら話をしていた。
「大丈夫だよ、母さん。ちゃんと食べてるから。」
どうやら電話の相手は、母親のようだ。しばらくの会話の後で、翔はポケットに電話をしまった。そして、私の顔を見て、ポツリと言った。
「なんか、さみしいな。」
さっき、電話では元気そうな声を出していたのにと、私は思った。
「母さんの料理が食べたいな。」
もしかして、翔はホームシックとやらになっているのではないかと、私は思った。
「大学が始まるまで、友達もできそうにないし。」
ポツリと言う言葉を聞いて、なんだかなぐさめてあげたくなった。私はそっと、翔の足元に前足でふれてみた。
「もしかして、かまってほしいのかな。」
翔は、ポツリと言って私の頭をなでてくれた。その時、私のうしろから、「コツコツ。」と音が聞こえた。振り返ると、白杖を持った女の子がこちらにやって来るところだった。顔を見て私は、彩ちゃんだとうれしくなった。翔は、たちあがって、彩ちゃんに声をかけた。
「あの、ここにベンチがありますよ。」
彩ちゃんは、一瞬おどろいてたちどまった。それから、
「教えてくれてありがとうございます。私は、この公園によく来るので、ベンチの場所はわかるんですよ。」
と答えた。
「ニャー。」
私が一声鳴くと、彩ちゃんはうれしそうな顔をして言った。
「猫ちゃん。」
「ニャー。」
彩ちゃんはしゃがみこんで私をなでてくれようと右手を宙にさまよわせた。それを見て、翔は、
「ここにいますよ。」
と彩ちゃんの手を私の頭の上にのせてくれた。
「猫ちゃん。こんにちは。」
「ニャー。」
目の見えない彩ちゃんには、できるだけここにいるよと私は、声で教えてあげる。
「あの、この猫猫ちゃんって名前なんですか?」
翔が、彩ちゃんに聞いた。
「ええと、私が勝手に名前を付けたんです。」
「そうなんですか。」
彩ちゃんは、たちあがって、翔に言った。
「ええと、ベンチに座ってもいいですか?」
「あ、ベンチはここですよ。」
翔が彩ちゃんを誘導してベンチに座らせてくれた。翔は、彩ちゃんの前に立って言った。
「この公園には、よくくるんですか?」
「はい。こうして猫ちゃんに会いに来ます。でも、猫ちゃんは、きまぐれだから、いない時もあるんです。今日は会えてよかったです。」
「そうですか。僕はこの春に大学生になるんです。それで、この街に引っ越してきたばかりで。」
「そうなんですね。じゃあ、まだ知り合いはもしかしていないんですか?」
「はい。」
「そっかぁ、それじゃあちょっとさみしいですね。私はだいたいこのくらいの時間にここに来ます。私でよければ、話し相手くらいにはなれます。」
「ええと、高校生ですか?」
「高校には行ってないんです。もしも行っていたら、四月から高校三年生です。この公園には、一年くらい前から時々くるようになって。」
「そうなんだ。今日は話せてよかったです。猫ちゃんも、ありがとう。」
翔はそう言って、公園を出て行った。ちょっとだけ元気になったようで私は、ほっとした。そして、ベンチの上に座って彩ちゃんの話を聞いた。
「さっきの人、さみしそうな声だったね。早く友達ができるといいね。」
彩ちゃんは私の頭をなでながらそう言った。私も同じ気持ちだ。どうかたくさんの笑顔があふれる街になりますようにと、私は思った。
次の日、私は神社に行った。翔に友達ができるようにお願いをするためだ。階段をのぼって、鳥居をくぐり、神社にたどりついて、翔の事を神様にお願いした。すると、にぎやかな声が聞こえたので、ふりかえった。元気のよさそうな高校生カップルが、楽しそうににぎやかに話をしながらこちらにやってきた。
「あ、猫だ。」
女の子が言った。
「愛ちゃん、猫派?」
「うん。慎吾君は?」
「俺は、動物はなんでも好き。」
慎吾は、そう言って、私の方にやって来た。
「ここの猫かな。」
「どうだろうね。」
「まずは、お参りしようか。」
二人は何やら手を合わせてお参りを始めた。
「慎吾君、何をお願いしたの?」
「この前バイトの面接しただろ?採用されますようにって。」
「え、そんな事をお願いしたの?」
「愛ちゃんは、何お願いしたの?」
「二年生になっても、慎吾君と同じクラスになれますようにだよ。」
愛はちょっと怒りながら言った。
「あー、ごめんごめん。それもお願いする。」
慎吾はあわててもう一度、神社に向かって手を合わせた。
「タマ。」
宮司さんがやって来て、私の名前を呼んだ。
「あの、この猫ここの神社の猫ですか?」
愛が宮司さんに聞いた。
「いいえ。ちがいます。でも、時々やって来るので、私はタマと呼んでいます。」
「へぇ、タマかぁ。」
慎吾は、そう言って私の頭をなでた。
「白いし、サザエさんに出てくるタマみたいだな。」
慎吾がそう言って、みんながわらった。なんだろう、サザエさんって。私は首をかしげた。みんな、私の事をかわいがってくれた。猫が好きな人はいつまでも、かまってくれる。それはとてもうれしい。けれど、私はなんだか眠くなったので、いつもの公園のベンチで昼寝をしようと、なごりおしい気持ちをもちながら、神社を後にした。
数日後、私はこの前の花屋の前にいた。
「あれ、こんな所に花屋なんてあったっけ?」
私のうしろで、桃子が首をかしげながら言った。その時、車がとまる音がした。振り返ると、軽トラックがとまっていて、中からここの花屋の圭介がおりてきた。桃子を見ると、圭介は笑顔で言った。
「いらっしゃいませ。」
「え、あ、えっと。私はおきゃくさんじゃなくて。」
桃子はなんだかあわてている。
「あれ、ミルクか。」
圭介は私を見て言った。
「ミルク?この猫ミルクって、いうんですか?」
「いや、多分野良猫。この前もここにいて、その時名前をつけたんです。」
「そうですか。私、コンビニに行こうかなってアパートを出たら、この猫に会って。それでなんとなくこの猫の後をついてきたら、この店にたどりついて。ここに花屋があるって、知らなかったです。」
「この店は、つい最近オープンして。そうか、ミルクお客さんをつれてきてくれたのか。えらいな。」
圭介は私の頭をなでた。
「やっぱりうちの看板猫にならないか?」
「看板猫?」
桃子がまた首をかしげた。
「はい、看板猫がいる花屋っていいかなって。」
圭介はたちあがりながら、桃子に言った。
「たしかに、白くてかわいい猫ですよね。」
桃子がそう言って私を見て、微笑んだ。その微笑みを見て圭介が言った。
「そうだ、ちょっとここで待っててください。」
圭介はそう言って、店の中に入った。そして、チューリップを一本持ってきた。
「このチューリップ、クリスマスドリームっていうんです。よかったら、どうぞ。」
圭介はチューリップを桃子に差し出した。
「え、でも私、お客さんじゃないし。それに、お花とかくわしくないし。」
「これは、サービスです。お金はいらないですよ。花瓶がなかったら、コップに水をいれて、適当な長さに切って飾ってみてください。」
圭介がそう言って、桃子にチューリップを改めて差し出すと、桃子はそれを受け取った。
「ありがとうございます。」
「毎日水を変えてあげるといいですよ。弱ってきたら、茎を少し切ってあげると、また元気になるし、チューリップってあったかい所に置くと、けっこう花びらを開くんです。それで、寒い所に置くと、また花びらがすぼむんです。」
「へぇ、なんだか理科の実験みたいですね。あったかい所においてみようかな。」
「寝る時暖房を切ってねるでしょう。起きたら、チューリップを見てみてください。」
「なんだか、ちょっと楽しみになってきました。」
「生け花とかむずかしく考えなくていいんですよ。花を一本部屋に飾るだけでも、部屋が明るくなるので。ああそう、買わなくてもいいので、いつでも店に来てください。」
「ありがとうございます。」
桃子はピンク色のチューリップを見ながら、また笑顔になった。私は、そんなやりとりを聞いて、心があったかくなった。やっぱり花っていいなと私は思った。この大きな窓から、店の中にある花を見た。色とりどりの花たち。いつも散歩する道には咲いていない花ばかり。また、ここに来てたくさんの花を見よう、そう思って私はその場を後にした。
夕方、私はいつもの公園のベンチの下にいた。たまにこうして、私はこのベンチの下にかくれる。一人かくれんぼだ。すると、男の人の声が聞こえて、その声がだんだんおおきくなってきた。
「俺、今日初めてのバイトで失敗ばかりだったな。」
この声はきっと慎吾だと私は思った。
「僕は高校の時に、コンビニでバイトしてたから、コンビニのバイトには慣れてるんだよ。」
この声は翔だなと、私は思った。
「でも、同期のバイトの人がコンビニのバイト経験者でうれしいよ。俺のミスを全部フォローしてもらって。あ、そうだ。これどうぞ。」
「あ、うまい棒だ。なつかしいな。ありがとう。」
二人が何かを食べている音が聞こえた。何を食べているんだろうと、私はベンチの下からでてきた。
「あ、タマ。」
慎吾が言った。棒のようなお菓子をかじっていた。
「この猫、タマっていうの?」
翔も同じく棒のようなお菓子をかじっていた。
「神社でみかけて。その神社の人が、タマって言ってたから。」
「そっか。なんかかわいいよね、この猫。」
「あの、翔さんは猫派ですか?」
「僕は、動物はなんでも好きなんだよ。」
「同じ。俺も動物が大好き。」
「慎吾君は明るいから、動物からも好かれそうだね。こうして僕とも、すぐに仲良くなってくれたし。」
「翔さんこそ、優しそうな顔してるし。実際、優しいし。」
二人はどうやら、同じコンビニでバイトを始めたらしいと私は思った。翔に友達ができてよかったなと、ほっとした。こうして、一人でも多く笑顔になってくれたら、私はなんだかうれしい。
「ニャー。」
私は、一声鳴いた。
「あれ、タマもうまい棒ほしいのか?もう食っちゃったよ。ごめんな。」
いやいや私はそんなお菓子なんて、いらない。ただこうしておだやかな時間が好きなだけだ。しばらくこうして、慎吾と翔の会話をのんびりと聞いてその日の夕暮れを過ごした。
次の日、私は本屋の前にいた。いつもは店のドアが開いているけれど、今日は閉まっている。すると、うしろから男の子の声が聞こえた。
「もしかして、マル?」
その声に反応して、私は振り返った。しらない中学生くらいの男の子だった。
「ばあちゃん。」
その男の子は店のドアをあけて中に入ると、そう言った。中から、おばあちゃんが出てきた。
「吾郎、ひさしぶりだね。」
「この猫、もしかしてマル?」
吾郎と呼ばれた男の子はそう問いかけた。
「そうだよ。マル、よく来てくれたね。さあ、中にお入り。」
おばあちゃんにうながされて私は店の中に入った。おばあちゃんはレジの前に椅子を持って来て吾郎にそこに座るようにうながした。吾郎は素直に座った。それから、おばあちゃんは二人分のお茶を持って来て、いつもの椅子に座った。
「吾郎、手伝いに来てくれて、ありがとう。さぁ、とりあえずお茶でも飲もうかね。」
吾郎は、お茶を飲みながら私を見た。
「マル、店の前にいたよ。」
「ああそうだったね。今日はドアを閉めていたから、マルは仲に入れなくて困っていたのかもね。吾郎が来てくれてよかったよ。」
吾郎はお茶を飲んでから、店の中を見回した。
「ずいぶんかたづけが進んでるね。」
「ああ、どうせお客さんがいないから、ぼちぼちかたづけをしてたんだよ。」
私も店内を見回した。そういえば、そうだ。店の中は少しきれいにかたづいている。そこに、ドアをあけて誰かが入って来た。
「こんにちは。」
聞き覚えのある声に私は声の方を見た。あかりだった。
「あれ、白ちゃん。」
あかりは私を見てそう言った。
「あかりちゃん、こんにちは。マルを知っているのかい?」
おばあちゃんは、あかりに聞いた。
「マル?」
あかりが首をかしげた。
「ばあちゃんが、この猫にマルって名前をつけたんだ。」
吾郎が答えた。あかりは吾郎を見た。すると、おばあちゃんが吾郎にあかりを紹介した。
「あかりちゃんは、この店の近くに住んでいて、この店の常連客なんだよ。そういえば、吾郎と同じ年だね。」
「へぇ、じゃあもしかして同じ中学になるのか?」
吾郎が言った。
「そうだね。同じ中学だね。」
おばあちゃんはそう言って、椅子を持って来て、吾郎のとなりに座るようにあかりにうながした。それから、おばあちゃんは、あかりのお茶も入れてくれた。
「ありがとうございます。」
あかりは、湯のみちゃわんを両手で包み込んで、お茶を飲んだ。
「今日は、店のかたづけを手伝いに来てくれたんだよ。」
おばあちゃんが、吾郎にそう言った。
「そっか。ありがとう。あかりちゃんっていうんだね。俺は吾郎。同じ中学になるから、よろしく。」
「吾郎は引っ越して来たばかりだから、あかりちゃん吾郎をよろしくね。」
あかりは、お茶を飲むのをやめた。少しうつむいてポツリと言った。
「私、三年生になれるかな。」
「え、なんで?」
吾郎が大きな声で聞いた。
「三学期の後半から、学校を休んでたの。」
「具合でも悪いのかい?」
おばあちゃんが、聞いた。あかりは首を横に振った。そして、だまりこんでしまった。
「何かあったのか?」
吾郎が聞いた。私はあかりが、学校に行けなくなった理由を知っている。じっとあかりの言葉をみんなで、待っていた。すると、あかりの目からポロポロと涙がこぼれた。
「どうしたの?」
吾郎があわてて聞いた。
「あかりちゃん、どうしたんだい?」
おばあちゃんも、聞いた。
「ちょっと友達と色々あって。それで私、学校に行けなくなって。」
「そうだったのかい。それなのに、今日こうして店の手伝いに来てくれたのかい。」
おばあちゃんが言った。
「この本屋さんとおばあちゃんには、お世話になったから。この本屋さんが亡くなるのが、ちょっとさみしいけど。でも、かたづけをして少しでも恩返しができたらって。」
「そうかい、あかりちゃん、ありがとね。」
「いじめ?」
吾郎が、ストレートに聞いた。
「えっと。」
あかりは、ためらいながら、少しの間の後に、うなづいた。
「いじめって、俺許せねぇんだ。確かに、合う人とか合わない人とかいるけど、だからっていじめるって、ひどいよな。俺が、言い返してやるから、学校来いよ。」
吾郎が力強く、あかりに言った。
「でも。男子と仲良くしてると、また言われてしまうと思う。」
「はぁ?なんだそれ。」
吾郎が大きな声で言った。
「気にすんなよ。俺が、ちゃんと守るから。学校来いよ。」
あかりは、涙目で吾郎を見た。そして、何か考えている。
「まぁ、吾郎。あかりちゃんの気持ちもあるから、無理に学校に行かなくてもいいんじゃないかい。」
おばあちゃんが、言った。
「いや、それっておかしい。いじめられた人がなんで学校に行けなくなるんだ。悪い事してる人が学校に来て。それって、絶対おかしい。」
「吾郎は、あいかわらずまっすぐだね。おばあちゃんは、吾郎のそういう所が好きだよ。」
だまっているあかりを見て、おばあちゃんが言った。
「まぁ、学校の事はこれからゆっくり考える事にして、かたづけをしようかね。明日でここを最後にするから。今日は二人に応援してもらって、頑張るよ。」
三人は、おばあちゃんをリーダーに、かたづけを始めた。いよいよこの店がなくなってしまう。私は、さみしい。けれど、あかりの事も心配だ。三人が一生懸命働くのを見ていたら、吾郎が私を見て言った。
「マル、手伝ってよ。猫の手も借りたいってこういう事だな。」
と言った。みんな笑った。ちょっとだけ、みんなが笑顔になった。それを見て、私はそっと店を出た。
夕方、私はいつもの公園のベンチに座っていた。となりには、彩ちゃんがいる。彩ちゃんは、なつかしいような目で、空を見上げていた。目の不自由な彩ちゃんには、この夕暮れの空はどんなふうに見えるんだろう。
公園の入り口から、足音が聞こえた。そちらを見ると、やって来たのは翔だった。翔は、彩ちゃんの前に来ると、
「こんにちは。」
と、優しい口調で挨拶をした。私は、ベンチから飛び降りて、席を翔にゆずった。
「あ、こんにちは。この前の、人ですね。」
彩ちゃんは、声のする方に向かって、挨拶を返した。
「となりに、座ってもいいかな?」
「あ、はい。えっと、猫ちゃんがいると思うんだけど。」
「ああ、今その猫なら、君の足元にいるよ。」
翔は、そう言って彩ちゃんのとなりに、座った。
「僕、ええとまだ名前を言ってなかったよね。翔って、言います。」
「私は、彩です。観月彩。」
「なんて、呼んだらいいかな。」
「彩でいいです。でも、なんでもいいかな。おまえとかでも。」
彩ちゃんは、そう言って、なつかしそうな顔をした。
「え、おまえなんて、さすがに失礼ですよ。ええと、じゃあ、彩ちゃんて呼ばせてもらいます。僕の事も名前で、呼んでくれていいからね。」
「はい。翔君ですね。よろしくお願いします。」
「ええと、彩ちゃんは、高校生かな?」
「えっと、私は高校には、行ってなくて。」
「え。ごめん、失礼な事聞いて。」
「いいえ。いいんです。高校に行かないって、自分で決めたんだし。あ、でも行ってたら、この春、四月から高校三年生です。」
「そっか、僕の一つ年下なんだね。」
夕暮れの風が、そよそよと公園の中を吹き抜けた。
「私、生まれつき見えないわけじゃないんです。」
彩ちゃんが、話始めた。
「だから、昔は普通に見えてて。それが、病気でこんなんになって。」
「そっか。」
「今は、光を感じる程度にしか見えないんです。でも、それもいいかなって、最近思うんです。なんていうか、一度は人生に絶望した時もあったんだけど、こうしてここで出会った人がいて。それで、今パソコンで仕事できないかなって、就職活動してるんです。」
「え、パソコンできるの?」
「はい。音声ソフトがあって。それを使えば、見えなくてもなんとか。」
「すごいな。」
「初めは、なんとなくパソコンの勉強を始めたんだけど。そのうちに、仕事したいなって。全盲の人でも、パソコンの仕事してる人がいるって聞いて、私も頑張ってみようって。でも、なかなか難しいですね。仕事、全然きまらないんです。だから、今は家にいて、そのちょっとした将来の夢を、ええとまぁ努力していて。」
「夢?」
「はい。まぁ、恥ずかしくて人には言えないんですけど。」
「そっか。でも、すごいね。僕はこの四月から、大学生になるけど、将来の夢は、まだはっきりとは決まってないんだ。だから、彩ちゃんは、すごいね。」
「ええ、そんな事ないんです。パソコンを始めたのだって、そのなんていうか。私は。」
彩ちゃんは、思い切ったように翔に話した。
「もともと読書が好きで。音訳した本を耳で聞いて読書してたんです。で、そのうちに、私も小説を書いてみたいなって思って。そんな理由で、パソコン教室に行くようになって。あ、普通のパソコン教室じゃなくて、目の不自由な人を対象にしたパソコン教室があって。それで、ある程度、パソコンの勉強をして。今はもう、パソコン教室には通ってなくて。家にいて、読書してるか、パソコンで小説書いてるか、そんな日々です。小説家になんて、ほんのひとにぎりの人しかなれないのに、まぁ一応努力してはいるんですけどね。」
「へぇ。すごいな。やっぱり、すごいよ。」
「なんだか、恥ずかしい事言っちゃったな。」
彩ちゃんは、ごまかすように笑った。
「私、もともとほとんど家にひきこもってたんです。中学は、盲学校通ってて、そこを卒業してからずっと家の中でひきこもってて。でも、この公園で、ある人に出会って。それから、少しづつ前向きになって。猫ちゃんとも出会えたし。」
「そっか。その人とは、たまにここで会うの?」
「いいえ。もう会えないんです。」
「え、なんで?」
「遠くに行ってしまったんです。」
「そっか、引っ越したんだね。」
「ええと、引っ越しというよりも、なんていうか、今はきっと空の上から私と猫ちゃんを見守ってくれていると、思います。」
「え、空の上から?」
翔は、目を大きくした。そして、はっとした。
「もしかして、その人、亡くなったのかな?」
「はい。交通事故で。」
「ごめんね。さっきから僕は聞いてはいけないような事を聞いて。」
「いいんです。彼の事は私と猫ちゃんだけの秘密だったんです。こうして、誰かにやっと話せたって事は、彼が亡くなったって、やっと私の心の中で受け入れたんだと思うんです。今までは、今もだけど、会いたいなって思う気持ちが強くて。でも、こうして、おだやかに話せるようになって、私もちょっと気持ちの整理がついたのかなって。よく知らない翔君に、話せて良かったです。」
「僕は、なんにもわからずに。本当にデリケートな事聞いちゃって、ごめんね。」
「本当に、いいんです。逆に、聞いてもらえて良かったです。」
私は、彩ちゃんの顔を見た。おだやかな表情だ。斗真の事を思い出にできたんだなと、私は思った。これまで、彩ちゃんは、私に斗真の事を話してくれていた。斗真に会えないさみしさを。それが、やっとこうして気持ちのくぎりがつき、誰かに話せるまでになったんだなと、私は思った。
「そうだ。バイト先の友達からきいたんだけど、新しく花屋ができたんだって。」
「あ、ママが言ってました。今度、ママといこうかなって思ってます。」
「僕も、行ってみようかなって、思ってるんだ。今まで気がつかなかったけど、一人暮らし始めて料理とか洗濯とか、掃除とか家にいたらやらなくちゃいけない事がこんなにあるんだなって。母さんにもっと感謝してれば良かったって反省してるんだ。だから、母さんに、花束でも送ろうかなって。花って、配達できるのかな。」
「できると思います。花束もいいし、フラワーアレンジメントとかもいいと思いますよ。」
「フラワーアレンジメント?」
「はい。そこの花屋さんが、週に一回フラワーアレンジメントの教室をやるみたいで、チラシが入ってて。ママがやってみようかなって言ってたんです。」
「へぇ。じゃあ、なおさら今度その花屋さんに行こうかな。」
「お母さん、きっと喜びますね。」
彩ちゃんは、笑ってそう言った。私はそんなおだやかな彩ちゃんを見て、斗真の事を思い出した。斗真と一緒にいた頃の彩ちゃんとは、ちょっとちがう気がした。彩ちゃん、いつのまにかだいぶ大人になったんだねって私は思った。
次の日、本屋さんに行くと、吾郎とあかりが店の前にいた。
「お、マル。おはよう。」
吾郎が私の顔を見て挨拶をしてくれた。
「白ちゃん、おはよう。」
あかりもまた挨拶をしてくれた。
「ニャー。」
私は二人に、挨拶を返した。店の中からおばあちゃんが出てきた。
「吾郎、あかりちゃん、昨日は遅くまで手伝いありがとね。今日でこの店をしめるよ。なんだか、さみしいけどね。」
「私もさみしいです。」
あかりちゃんが言った。すると、店の前に、人が少しづつ集まって来た。ここが今日で閉店するから、商店街の人たちが挨拶に来たのだ。おばあちゃんは、
「お世話になりました。」
と、涙を流しながらみんなに挨拶をした。この本屋は、商店街では、おばあちゃんの店と呼ばれていた。売上こそそんなにないけれど、愛された店だった。
「じゃあ、ばあちゃん、夕方車で迎えに来るからね。」
吾郎がそう言って、おばあちゃんに手を振った。おばあちゃんは、店のシャッターをしめて、店のわきにある通路を通って、店の裏にある住居に行ってしまった。
「さて、マル、どうする?この店なくなったぞ。うちにでも、来るか?」
「吾郎君、白ちゃんをペットにするの?」
「うーん、どうかな。うちは喫茶店だからな。親がペットを飼う事を禁止するかもな。」
そう言いながら、吾郎は私をだっこした。
「あかりちゃん、うちに来ない?せっかく友達になったし。喫茶店はまだオープンしてないけど。うちに来れば、ばあちゃんにもこれからも会えるよ。」
「そうだなぁ。おばあちゃんには、これからも会いたいし。」
「うちの場所だけでも、教えるからついて来てヨ。」
「そうだね。行ってみる。」
あかりちゃんの顔が、パット明るくなった。そして、吾郎は私をだっこして、となりにあかりちゃんがいて、二人と一匹は、吾郎の家に向かって進んだ。
なんと、吾郎の家は、あの花屋さんのとなりだった。こんな偶然もあるんだなと、私は目を大きくした。吾郎は家の前につくと、私をおろしてくれた。
「ここなんだね、吾郎君の家。」
「いつでも遊びに来てヨ。今日の夜からは、ばあちゃんも一緒に暮らすし。縁側もあるから、そこでばあちゃんの話でも聞いてやって。」
「ありがとう。おばあちゃんに、これからも会えるのが、うれしいよ。」
あかりちゃんはそう言って笑った。
「じゃあ、本当に来てくれる?」
吾郎が念をおして聞いた。
「うん。今日はこれで帰るけど、また絶対に来るからね。」
あかりちゃんは、そう言って帰って行った。あかりちゃんを見送った吾郎は、私の目の前にしゃがみこんだ。
「あかりちゃん、学校来るかな。」
どうだろうと、私は思った。すると、じっと私の顔を見ていた吾郎が、急に大きな声で笑った。
「あははは。」
何がおかしいのかと、私は吾郎の顔を、じっと見た。吾郎は私の顔を見て言った。
「マルの目って、まんまるなんだな。だからばあちゃん、マルって名前つけたのかもな。」
吾郎はまだ笑っていた。そんな吾郎を見て、思わず私も笑った。
「え、マル、今笑った?」
吾郎が、きょとんとした顔でそう言った。私は、うなづいた。
「へ?今、うなづいた?」
吾郎が驚いた顔をしている。おどろきすぎて、吾郎の目がまんまるになっている。これでは、吾郎こそマルだ。私は、もう一度にっこりと笑った。
「え、また笑った?え、え、気のせいかな。」
おどろいている吾郎に、私はぺこっと頭をさげて、その場を後にした。うしろから、吾郎の声が聞こえた。
「マル、ばあちゃんに、会いにきてくれよな。」
私は立ち止まって、振り返り、うなづいた。そんな私をまた吾郎はおどろいた顔でみていた。私は、ここにくれば、おばあちゃんに会えるんだなと安心して、歩いた。
次の日、私は花屋の店先にいた。大きな窓から店内の花たちを見ていた。すると、車のとまる音が聞こえた。振り返ると、軽トラックから圭介がおりてきた。
「あれ、ミルク。また来たのか?」
私の事を、すっかりミルクと呼んでいる。圭介は、私の目の前にしゃがみこんで、頭をなでながら言った。
「ミルク、花が好きか?店の中に入ってみるか?」
圭介がそう言ってくれたので、私は、
「ニャー。」
と、返事をした。
圭介のあとに続いて、私は店の中に入った。
「あ、圭介さん、お疲れさまです。」
レジにいたゆなが圭介に声をかけた。
「あれ、その猫。」
ゆなが私を見て言った。
「ああ、店先にいたんだ。どうやらミルクは花が好きみたいだ。」
「へぇ、ミルク。お花好きなの?」
ゆなが、私に笑顔で聞いて来た。
「ニャー。」
私はそれに答えて鳴いた。店の中には見た事のない花々があり、私はしばらく店内をうろうろした。
「いらっしゃいませ。」
ゆなが、明るい声で挨拶をした。店の奥に入った圭介はその時はいなかった。店の入り口を見ると、やって来たのは彩ちゃんとママだった。彩ちゃんは、右手に白杖を持ち、左手でママの右腕をつかんでいた。
「こんにちは。ちょっと、お花を見せてください。」
彩ちゃんのママが、ゆなに言った。
「どうぞ。」
ゆなは、笑顔で答えた。
「彩、かわいいチューリップがあるわよ。」
ママがそう言ってから、ゆなの方を見てゆなに声をかけた。
「あの、この子に花びらをちょっとさわらせてあげてもいいですか?」
「はい、もちろんです。」
ゆなは、そう答えた。
「彩、ここにチューリップがあるわよ。」
ママはそう言って、彩の手をとり、チューリップの花びらにふれさせた。
「ピンク色よ。とてもかわいいわ。」
ママが彩ちゃんに説明をした。
「わぁ、チューリップの花びらだ。」
彩ちゃんは、とてもうれしそうに笑顔で言った。その時、店に誰かが入って来た。
「いらっしゃいませ。」
ゆなが、来店客にあいさつをした。私は店の入り口を見た。やって来たのは、翔だった。
「あれ、彩ちゃん。」
翔は、彩ちゃんを見てそう言った。
「彩、知り合いなの?」
ママが彩ちゃんに聞いた。翔は、ママに説明を始めた。
「最近、この街に引っ越して来たんです。それで、公園でたまたま会って、話をするようになって。」
翔の声を聞いて彩ちゃんが、翔だとわかり、しゃべり始めた。
「翔君。こんにちは。今日はママとこのお花屋さんに初めて来たの。まさか、翔君に会えると思ってなかったよ。」
彩ちゃんの足元にいた私を翔が見て言った。
「あれ、この猫。」
「え、猫?」
彩ちゃんが、聞き返した。
「彩の足元に、白い猫がいるわよ。」
ママが説明した。
「この猫、公園にいる猫だよ、きっと。」
翔は説明した。
「え、なんでここに猫ちゃんが?」
彩ちゃんがおどろいて言った。
「この猫、時々この店先に来るんですよ。」
店の奥から圭介が出てきて話に加わった。
「ミルクって、適当に名前をつけて、看板猫になってくれないかなって思ってたんです。」
「え、看板猫?」
彩ちゃんと、翔がおどろいて聞き返した。
「私は、この猫に猫ちゃんって名前をつけてて。」
彩ちゃんが言うと、ゆながそれを聞いて笑顔で言った。
「え、猫に猫ちゃん?かわいいかも。」
ゆなの声を聞いて、彩ちゃんが言った。
「私が勝手につけたんです。猫ちゃんて。」
「あ、そういえば、バイト先の子が、この猫神社で見たって言ってたよ。神社では、タマって、呼ばれてるみたいだよ。」
翔が言うと、ゆなが笑って言った。
「そっか、ミルクはあちこちに行ってるんだね。名前もたくさんあるんだね。だったら、看板猫は、無理だね。気楽な野良猫生活を楽しんでるんだろうし。」
ゆなの言う通りだと私は思った。私は、この気楽な野良猫生活を楽しんでいる。いわゆるリア充というものだ。
「あ、いらっしゃいませ。」
ゆなと圭介が、入って来たお客さんに挨拶をした。やって来たのは、桃子だった。
「あれ、君同じアパートの。」
桃子は、翔の顔を見てそうつぶやいた。
「翔君、知り合いなの?」
彩ちゃんが聞いた。
「翔君?」
桃子が聞き返した。翔が桃子に、挨拶を始めた。
「こんにちは。アパートが同じで顔は知っているけど、僕はこの四月から大学生で、それで引っ越して来たんです。」
「へぇ、そうだったの。翔君っていうのね。」
桃子が聞いた。
「あ、はい。翔と呼んでください。」
「わかったわ。ええと、私は。」
桃子はちょっと間をおいてから言った。
「そうね、どうせなら下の名前で呼んでもらおうかな。私は、桃子。よろしくね。」
「桃子さんですか。よろしくお願いします。」
翔と桃子が挨拶を終えた。すると、桃子がふと私を見て言った。
「あれ、この猫。」
「桃子さんもこの猫知ってるんですか?」
翔が聞いた。
「知ってるっていうか、顔見知りみたいな。」
桃子があいまいに答えた。
「なんだか、ミルクは招き猫みたいだね。」
ゆなが言った。
「あ、そういえば、この間は、チューリップありがとうございました。」
桃子が圭介に向かって、お礼を言った。
「私、本当におどろいたんです。暖房がついている部屋だと、チューリップの花びらが開いて、夜寝てる時暖房を消して寝てて。それで、朝起きてみてみたらチューリップの花びらがすぼんでいて。びっくりしました。」
「へぇ、チューリップの花って、そうなんだ。」
翔が、なるほどと感心して言った。
「そうなんだね。ママ、チューリップ買って行こうよ。」
彩ちゃんも、桃子の話を聞いて言った。
「そうね。」
「チューリップとかすみ草の花束なんて、どうですか。とても春らしいですよ。」
ゆなが、ママと彩ちゃんに言った。
「そうね。それをもらおうかしら。花束は、作ってもらえるのかしら?」
「はい、もちろんです。」
ゆなが、明るく返事をした。
「それと、チラシを見て来たんだけど。フラワーアレンジメントの教室に申し込みたくて。」
ママが言うと、桃子も口をはさんで言った。
「私も、フラワーアレンジメントの教室に申し込もうと思って、ここに来たんです。」
「ありがとうございます。そちらのテーブルにどうぞ。」
ゆなが店の一角にある四人がけのテーブル席を案内した。そこに、彩ちゃんとママ、桃子が座った。立っていたままの翔が、ゆなに言った。
「あの、僕は花の配達ができるか、聞きに来たんです。」
すると、圭介がそれに答えてくれた。
「できますよ。近くなら、無料で配達しますよ。」
「えっと、実家に送りたいのですが。」
「ああそうなんですね。そうなると、送料がかかります。」
「はい。それで、花束もいいなと思うんだけど、そのフラワーアレンジメントって、どんな花ですか?もしそういうのも配達できるなら、ええとお願いしたいんですけど。」
「できますよ。そうだ、見本を見せますね。」
圭介はそう言って、翔を彩ちゃんたちが座っている席に座るように促した。
「これが、見本です。」
圭介が持ってきたフラワーアレンジメントを見て、みんなが歓声をあげた。
「わぁ、きれいだね。」
ただ一人、彩ちゃんだけは何も言わなかった。目が不自由な彩ちゃんには、このフラワーアレンジメントの見本がみえないのだろう。
「彩、ちょっと触ってみる?」
ママがそう言って、彩ちゃんの手をフラワーアレンジメントにふれさせた。
「ピンクと赤の色がきれいに配置されていて、とても春らしいわよ。」
ママが説明しているのを、聞いてゆなが補足説明をした。
「カーネーションと、スプレー菊です。菊の花って、仏花ってイメージがあると思うんですけど、スプレー菊って、意外とこんなふうにアレンジできるんですよ。」
「へぇ、スプレー菊っていうのね。」
ママがそう言った。
「さわってみてください。これが、スプレー菊です。」
ゆながそう言って、彩ちゃんの手をとって、スプレー菊にふれさせてくれた。
「わぁ。」
彩ちゃんの顔が、パット明るくなった。
「すごい、きれいですね。イメージできます。」
彩ちゃんは、満足そうにゆなに言った。
「あの、うちの彩と同じくらいの年齢ですよね?」
ママがゆなに聞いた。
「ゆなちゃんは、この春うちに就職したんですよ。」
圭介がママに説明した。
「あら、そうなの?それじゃあ、彩の一つ上ね。彩、ゆなちゃんですって。ポニーテールがとても似合っていて、かわいい女の子よ。」
「私、彩っていいます。よろしくお願いします。」
彩ちゃんが、ゆなに挨拶をした。
「ゆなと言います。こちらこそよろしくお願いします。」
二人は笑顔で挨拶をかわした。
それから、みんなで花についておしゃべりをした。ママと桃子は、フラワーアレンジメントの教室に申し込んで、翔は実家にフラワーアレンジメントを配達してもらうように、手続きをした。みんなが帰る時、店の外までゆなと圭介が送ってくれた。圭介は、桃子に言った。
「あの、また来てくださいね。」
「はい。フラワーアレンジメントの教室に申し込んだので、また来ます。」
桃子がそう答えると、圭介は口をパクパクさせながら、何か言葉を探していた。
「ああ、そうですね。ええと、そうなんだけど。」
圭介は何か言いたそうで、それ以上は言わなかった。みんなが帰るのを見送ると、圭介とゆなは店の中に入って行った。
「ミルク、店に入るか?」
圭介に聞かれたが、私は店にははいらなかった。これから、行く所があるからだ。
「ミルクは、あちこち行ってるみたいだからね。また、来てね。」
ゆながそう言って、私の気持ちを悟ってくれた。ありがとう、ゆな。私はそう心の中で、お礼を言った。
午後から、私は吾郎の家の前にいた。吾郎の家の喫茶店はオープンしていた。でも、私は猫なので、さすがに喫茶店には入れない。おばあちゃんに会いたいけれど、どうすればいいか考えていた。
「白ちゃん。」
うしろからそう声をかけられた。振り返ると、あかりがいた。
「白ちゃんも、おばあちゃんに会いに来たの?」
「ニャー。」
私は、返事をした。あかりは、吾郎の家の喫茶店を見て、言った。
「ここが喫茶店なんだね。自宅は、この店の奥かもね。」
あかりが歩き出したので、私もついて行く事にした。
喫茶店のわきにある小道を進んだ所に、吾郎の自宅の玄関があった。
「ここが、きっと吾郎君の自宅だよ。」
あかりは、そう言ってインターホンを押した。
「はーい。」
吾郎の声が聞こえた。しばらくして、玄関のドアが開いた。
「あかりちゃん。来てくれたんだね。」
吾郎は大きな声でそう言った。そして、私を見ると、
「マル。マルもきてくれたのか?」
と、おどろきながら言った。
「どうぞ、中に入って。あ、マル、ちょっと待ってて。」
吾郎はそう言ってから、ぞうきんを持ってきた。
「マル、一応足をふいてから家にあがってくれよな。新築だから。」
吾郎は私をだっこして、ぞうきんで私の足をふいてくれた。
「よし、いいぞ、マル。」
靴をぬいだあかりちゃんと、私は吾郎の案内で縁側に行った。そこには、お茶を静かに飲んでいる、おばあちゃんがいた。
「ばあちゃん、あかりちゃんとマルが来てくれたよ。」
「ああ、あかりちゃん、マルモよく来てくれたね。」
吾郎が座布団を持って来てくれた。あかりちゃんに座布団にすわるように言ってから、自分も座布団に座った。それから、吾郎は膝の上に私をだっこしてくれた。おばあちゃんが、一度席を立って、みんなにお茶を出してくれた。私には、牛乳の入った皿をすすめてくれた。のどが渇いていたので、私は吾郎のひざの上から降りて、その出してもらった牛乳をぺろぺろと飲み始めた。
「あかりちゃん、月曜日から、新学期だね。」
おばあちゃんが言った。
「私、保健室登校にしようと思ってて。」
あかりちゃんが、ポツリと言った。
「教室においでよ。もしかしたら、同じクラスになれるかもしれないし。ちがうクラスでも、同じ学年だし、なんかあったら俺が守ってあげるよ。」
吾郎が力強く言った。でも、あかりは元気があまりないようで、弱弱しく言った。
「先生にも言われたの。いじめている人とちがうクラスにするからって。でも、同じ中学で同じ学年だったら、廊下とかトイレで顔を合わせる事もあるだろうし。二年生の最後は私は学校を休んでいたから、教室に行く勇気がないの。それで、話し合って、保健室登校にしたの。」
「でもさ、いじめなんて、結局いじめてる方がわるいんだから、あかりちゃんは堂々としてればいいんだよ。」
吾郎がお茶を飲みながら言った。
「でもね、怖いんだよね。教室に行くのが。怖くてしかたないの。」
すると、おばあちゃんが言った。
「そうだね、あかりちゃんのペースでゆっくり頑張ればいいと思うよ。」
「でもさ、あかりちゃんは悪くないのに、なんであかりちゃんが保健室登校になるんだよ。納得できねぇな。」
吾郎が言った。
「吾郎、吾郎の気持ちもよくわかるよ。でも、今はあかりちゃんのペースで、ゆっくりでいいんじゃないかい。」
おばあちゃんが、そう言った。
「たしかに、いじめる方が悪いよ。でも、怖い気持ちをかかえて教室に行くのは、とても勇気がいると思うよ。それでも、吾郎はあかりちゃんがそんな怖い思いをしながら教室に行った方がいいと思うのかい?」
「それは。」
吾郎は、何か考えた。それから、
「そうだな。」
と言った。
「吾郎君、ありがとう。色々勇気づけてくれて。でも、今の私にできるのは、せいぜい保健室に登校する事くらいなの。中学三年生だし、高校受験も控えているから、勉強もしないといけないし。でも、教室に行く勇気がないし。それで、なんとか保健室登校にしたの。他の生徒が登校した後に学校に行けばいいから、多分他の生徒には合わなくていいし。今の私の精一杯なの。」
「そうか。それじゃあ、俺が休み時間にあかりちゃんに会いに行くよ。」
「ありがとう。保健室登校なのはね、私だけじゃないみたいなんだ。他に、二人いるんだって。私の一つ下の学年の女の子。」
「よくわかんねぇな。女子のそういうのって。」
吾郎がぼやいた。
「女の子同士って、めんどうなもんだよ。いくつになっても。」
おばあちゃんが言った。
「え、ばあちゃんもそういう経験があるのかよ。」
「あるよ。まぁ、いじめられたわけではないけどね。いくつになってもあるんだよ。女っていうのは、意地があるし、なんていうかうわさ好きだし。人の悪口を平気で言うし。」
「なんか、女子って怖い生き物だな。」
吾郎が、またぼやいた。
「でも、悪い事ばかりじゃないからね。あかりちゃんには、きっとこれから良い友達もできるよ。」
おばあちゃんが、あかりを励ました。
「ありがとうございます。」
「俺はもう、あかりちゃんと友達だからな。」
「吾郎君、ありがとう。」
あかりが笑顔になった。
「吾郎君は転校してくるのが、怖くないの?」
「怖い?それはないな。さすがにちょっと緊張はしてるけど。俺、陸上部なんだ。三年だから、あんまり部活で着ないかもしれないけど、早く部活やりたいし。」
「へぇ、陸上部か。すごいね。なんの競技なの?」
「持久走。」
「持久走?すごいな。私は運動が苦手だから、尊敬するよ。」
「そんな尊敬なんて。ただ、走る事が好きなんだ。短距離とちがって、持久走は結果が出やすいんだ、俺の場合。だから、走ってるんだ。走ってて、つらくなる瞬間もあるけど、走り切ったあとの快感の方が大きいから、俺はただ走ってるんだ。まぁ、単純なんだよ。あかりちゃんは、何部なの?」
「私は、美術部なの。でもね、文化部って、けっこうバカにされるんだよね。」
「そんなのもおかしいだろ。人には得意な事とか苦手な事があるんだから。俺なんて、絵を書くの苦手だし。美術部のあかりちゃんの方こそ尊敬するよ。」
「ありがとう。吾郎君って、いい人だね。」
「え、それ言う?いい人って、恋愛対象外って聞いた事ある。だから、俺モテないのかよ。」
「え、そんな事ないでしょ。吾郎君かっこいいし。」
あかりがそう言うと、吾郎はガッツポーズをした。おばあちゃんとあかりがそれを見て笑った。あかりが、元気に新学期を迎えられるといいなと私は思った。
私は今、神社に続く階段をのぼっている。鳥居をくぐって、神社の前で、座った。あたりをきょろきょろして、人がいない事を確認してから、私は神社に向かってお参りを始めた。ちゃんと二礼二拍手一礼をして、あかりの事をお願いした。元気よく中学に通えますようにと。こんな姿を人に見られたら、動画に撮られてユーチューブとやらに、アップされてしまうだろう。そしたらきっと、バズってしまう。私は、気楽な野良猫生活が好きだ。今話題の猫なんて、人気が出たら困ってしまう。
私は、お参りを終えて、社務所の前で、宮司さんが出てくるのを、静かに待っていた。しばらくすると、誰かがせっせと神社の階段をのぼってきた。やってきたのは、男の人だった。いつか見た夫婦の一人だと、私はその人の顔を見て、思い出した。男の人は、神社に向かって、手を合わせた。それから、急いで、社務所の玄関をたたいた。
「すみません。」
大きな声で、さけびながら、玄関をたたいている。そのうちに、宮司さんが、何事かと出てきた。
「どうしたんですか。」
宮司さんは、男の人に聞いた。
「生まれたんです。赤ちゃんが。」
息を乱して、男の人が言った。
「それはそれは。おめでとうございます。」
男の人は、呼吸を整えてから、言った。
「ありがとうございます。すごい難産だったんです。」
「そうですか。」
「おとといの深夜に病院に行って、じつに十九時間もかかって、やっと生まれてきたんです。すごく大きな赤ちゃんでした。妻は、すごく頑張ってくれたんです。私も出産には、たちあいました。でも、妻に比べたら、私はなんの力にもなれませんでした。」
「そんな事はないと思いますよ。」
「そうでしょうか。痛みに耐える妻に、私は何もしてあげられませんでした。」
「それでも、奥さんのそばにいてあげたんですよね。それは、とても力になったと、そう思いますよ。」
「そうでしょうか。」
「そうです。おめでとうございます。」
男の人は、深呼吸をした。そして、言った。
「あの、生まれてきた赤ちゃんに、名前をつけてほしいんです。今日は、そのお願いにきました。」
「私がですか。」
「はい。名前が決まらなくて、妻とも話して、ここの宮司さんに名前をつけてもらおうって事になりました。難産だったけど、こうして元気に生まれてきてくれたのは、きっとこの神社でお参りをしたからです。さっき、お礼参りをさせてもらいました。どうか、赤ちゃんに、名前をつけてあげてほしいんです。」
「そうですか。」
宮司さんは、腕組みをして考え始めた。
「男の子ですよね?」
「はい。」
「うーん。」
数分、宮司さんは静かに考えていた。それから、考えがまとまったようで、口を開いた。
「生まれてきた赤ちゃんに、たくさんの出会いがあるように、たくさんの素晴らしい出来事が起こるように、たくさんの幸せに恵まれるように。恵まれるに多いと書いて、けいたという名前はいかがでしょうか。」
「恵多、いい名前ですね。」
「気に入ってもらえましたか?」
「もちろんです。妻も、きっと気に入りますよ。急に来て、こんなお願いをしてすみませんでした。」
「いえいえ、私でよければ。お役にたてれば。」
「ありがとうございます。さっそく妻に伝えます。」
「これから子育て、楽しんでくださいね。」
「はい。」
「時には、大変なご苦労もあるかと思います。それでも、この世に生まれて来てくれた命を、優しく育んでくださいね。」
「はい。」
男の人は、何度も頭をさげて帰って行った。その一部始終を見ていた私は、思った。命が生まれるって、すごい事なんだなと。
「タマ、赤ちゃんが生まれたんだって。」
宮司さんが私に話しかけてきた。
「今度、赤ちゃんを連れて来てくれるかもしれないな。タマも、赤ちゃんを見てみたいか?」
「ニャー。」
私は、素直に返事をした。
その日の夕方、私はいつもの公園のベンチの下にいた。こうして、ベンチの下で、ひっそりと隠れているのも、好きだ。すると、コツコツと音が聞こえた。見ると、白杖がこちらに近づいて来る。彩ちゃんだと思い、私はベンチから出た。
彩ちゃんは、ベンチを手でさわって確認してから、ベンチに座った。いつも彩ちゃんはベンチの左側に座る。一人なんだから、真ん中に座ればいいと私は初め思った。けれど、彩ちゃんは、いつもこうして左側に座っている。まるで、右側にはもう会えなくなった斗真がいるかのように、こうして左側に座る。私は、そのあいている右側のベンチにぴょんと飛び乗り、座った。
「ニャー。」
私が彩ちゃんに声をかけると、彩ちゃんはすぐにこちらを見て反応した。
「猫ちゃん?」
「ニャー。」
そうだよと私はもう一声、鳴いた。
「この前は、まさか花屋さんで会えるとはね。猫ちゃん、あちこちに行っているの?」
彩ちゃんは、優しく話しかけてくれた。
「翔君とも会えたし、花屋さんで働いているゆなちゃんと、翔君と同じアパートの桃子さんとも知り会えてうれしかったよ。」
彩ちゃんは、そっと私の体をなでてくれた。
「でもね、みんなの顔が見えなくて残念だったな。家に帰る時にね、ママが教えてくれたの。ゆなちゃんはポニーテールが似合っていて、元気な明るい印象だった寄って。桃子さんは、髪の毛が長くてきれいな大人の女性だったって。翔君は、男の子なんだけどかわいらしい顔をしていたって。みんな人柄がよさそうだったって教えてくれたの。みんなの顔が見えなくて、すごく残念だったな。」
彩ちゃんは、ちょっと悲しそうな表情をしていた。
「でもね、花屋さんでチューリップの花びらをさわった時にね、ママがピンク色だって教えてくれたでしょ。私ね、その時、頭の中にピンクのチューリップが想像できたの。それで、花びらからチューリップを感じて、こういうお花見もあるんだなって、感動したんだ。もう、二度と花なんて見えないとあきらめてたんだけどね。でも、花びらをさわって想像したら、お花が見えた気になったの。あのね、猫ちゃん。私後悔してる事があるんだ。」
彩ちゃんは、私の体をなでていた手をとめて話を続けた。
「昔は見えてたのに、もっともっと世界を良く見ていたらよかったなって。例えばね、お花。もっとたくさんの花々を見てたら、観察してたらよかったのになって。花だけじゃなくてね、木々の葉の色とか、季節によって移り変わる風景をもっともっとちゃんと見てればよかったなって思うの。今頃、後悔しても遅いよね。だって、私はもうこんなしか目が見えないんだもん。」
彩ちゃんの声が、小さく震えていた。どうしたんだろうと、私は彩ちゃんを見た。彩ちゃんの目からひとすじの涙がこぼれていた。
「ゆなちゃんは、この春お花屋さんに就職して、翔君はこの春大学生になって。みんな新しい春を迎えているのにね。私は結局一年前と、たいして成長してないんだ。結局仕事も決まらなくて。斗真君と約束したのに。求人が少なくて、なかなか就職先が決まらないの。それで、結局、毎日一年前とほとんど同じ生活になってて。私って、成長しないなって。唯一、パソコンを少しできるようになって、小説を書いてるけど、私の小説なんて、小説家になれるほどのものじゃないし。そもそも小説家なんて、ほんのひとにぎりの人しかきっとなれない。」
彩ちゃんの目から次々に涙がこぼれてきた。どうにか元気づけようと、私は彩ちゃんの手にふれた。
「猫ちゃん。励ましてくれてるの?」
「ニャー。」
「ありがとう。」
彩ちゃんは、両手で涙でぬれた頬をふいた。
「斗真君がいたら、今の私を見てなんて言うかな。」
斗真がいたらと私は考えた。
「きっと、ただただ私の話を聞いてるだけかもね。」
彩ちゃんは、きっと斗真の顔を思い出している。そして、ふっと笑った。
「そういえば、斗真君って、いつも私をおまえって呼んでたよね。私の名前最後まで呼んでくれなかったな。まぁいいんだけどさ。」
彩ちゃんは、空を見上げた。
「会いたいなぁ。」
きっと斗真の事を言っているんだと、私は思った。私も斗真にあいたいと思った。
「でも、どうせ会うなら、もっともっと成長した姿を見てもらいたいな。だから、私頑張るね。」
彩ちゃんは、そう言った。
「猫ちゃん、いつも私の話を聞いてくれて、ありがとう。また来るね。」
彩ちゃんは、そう言って立ち上がった。その帰る彩ちゃんの後ろ姿を見ながら、私は思った。きっと人は前向きになったり立ち止まって後ろ向きになったりしながら成長していくんだろうなと。この前は、彩ちゃんがすごく成長したように思えた。でも、目の不自由な彩ちゃんは、普通の人よりも悩みが多いんだろう。病気でなければ悩まなくていい事もあるはずだ。それでも、こうして頑張って生きている。彩ちゃん、すごいよ。彩ちゃんは、ちゃんと頑張ってるよ。きっともしも斗真がここにいたら、同じ事を思うはずだよ。私は、彩ちゃんの後ろ姿が見えなくなっても、しばらくそのまま公園の入り口を見ていた。
月曜日、夕方私はあかりの家の玄関にいた。今日から、新学期だ。あかりは、どんな顔をして帰ってくるのだろうか。
「あ、白ちゃん。」
私を見るなり、あかりはかけよって来た。そして、私の前でしゃがみこんだ。
「もしかして、私を待っててくれたの?」
「ニャー。」
「ありがとう。」
あかりの表情はちょっと曇っていた。
「あのね、保健室には、私の他にも生徒がいてね。ちょっとおしゃべりもしたの。でもね、三年生は私だけで。高校受験を控えているのに、本当にこのままでいいのかなって私初日から、なんだか心配になって。」
あかりは、目をふせた。きっと今日は、ありったけの勇気を出して、学校に行って来たのだろう。
「明日から、保健室で勉強をするんだけど、保健室の先生に質問してもわからない時は、職員室に行って、担当教科の先生に質問しなくちゃいけないの。でもね、私職員室に行く事さえ、なんだか怖いんだ。廊下で、職員室で私をいじめてた人たちに会うんじゃないかってそう思うと怖いの。」
いじめというのは、これほどまでに人の心を深く傷つけるのだと私はあかりの話を聞いて思った。
「吾郎君、今日は結局保健室に来てくれなかった。きっと転校してきたばっかりだし、クラスの人から色々話しかけられたりしてたんだろうね。吾郎君かっこいいし性格もいいから、きっと女子からも男子からも多分先生からもかわいがられると思うの。そしたら、私の事なんて。」
あかりの顔がいっそう曇った。そんな事はないと私は思った。吾郎は、まっすぐな性格だ。まだ出会って少ししかたっていないけれど、吾郎は本当にまっすぐな性格だと思う。それをあかりにどう伝えたらいいのだろうか。しょせん私は猫だ。人の言葉を話せない。どうやって、あかりを元気づけたらいいのだろうか。
「白ちゃん、おなかすいてない?」
急に聞かれて、困った。こんな時におなかがすいているなんて言えない。
「ちょっと待ってて。」
あかりは、そう言って家の中に入って行った。そして、しばらくしてから、もどって来た。
「また牛乳なんだけど。」
あかりはそう言って、牛乳の入った皿を私に差し出してくれた。ここは、素直にもらおう。私は遠慮なく牛乳をいただいた。
「まだ、初日だもんね。吾郎君のおばあちゃんも言ってたよね。私のペースで頑張ればいいんだよね。こうして、白ちゃんも、話を聞いてくれるし。」
牛乳を全部のみほした私はあかりを見た。
「白ちゃん、吾郎君はマルって呼んでたよね?どっちの名前が好き?」
私はどっちでもいい。でもそれをどう伝えたらいいのか。
「まぁいいや。白ちゃんって、これからも言うね。今日は来てくれてありがとう。また来てね。」
あかりはそう言って、家の中に入って行った。もしも私が、人の言葉を話せたら、もっと気のきいた言葉をあかりに伝える事ができるのに。もどかしい気持ちになってしまった。でも、家の中に入って行く時、ちょっとだけあかりの表情が明るくなった。もしかして、一人で悩みを抱えているよりも、猫でもいいから、悩みを打ち明けられる相手がいると元気になれるのだろうか。だとしたら、私は、あかりの心の中の悩みを聞いて元気にしてあげたい。そういえば、彩ちゃんも言っていたなと、ふと思い出した。もしかして、人には言えない事でも、猫である私には言えるのかもしれない。だったら、私は猫として生まれてきて良かった。こうしてたくさんの人と出会って、少しでも誰かの何かの役にたてるのなら、私はうれしい。そんな事を考えて、あかりの家をあとにした。
数日後の夕方、私はいつもの公園で遊んでいた。そこに、翔と慎吾がやって来た。
「お、タマ。元気だったか?」
慎吾は私を見るなり、そう言った。二人は、ベンチに座って話を始めた。私は、翔の足元にそっと座った。
「あー、バイト行きたくねぇなぁ。」
慎吾が大きな声で言った。
「春休み終わったから、これからは五時から十時までかぁ。なんか、めんどくさいな。」
慎吾がそう言うと、翔がいつもの優しい口調で答えた。
「そうだね。平日は、きついね。僕は高校生の頃、日曜日と祝日の昼間にコンビニでバイトしてたから、この時間帯は初めてなんだ。」
「コンビニの仕事って、けっこう大変だよな。色々やる事が多くて、大変すぎる。」
「そうだね。確かにやる事は多いね。でも、慣れれば、大丈夫だよ。」
「あー、めんどくさい。でも、バイトしないとおこずかい足りないしな。」
慎吾がぼやいた。そして、ちょっと間をあけてから言った。
「俺、高校卒業したら大学に行こうと思ってたんだ。でも、べつに将来の夢とかなくて。ただ、彼女が大学に行くって言ってたから、俺もって適当に簡単に考えてたんだ。それがうちの親にバレてさ。やりたい目標もないのに、高い学費払って大学に行かせる余裕がないんだってさ。で、考えたんだ。俺、勉強好きじゃないし。だったら、就職しようかなって。翔さんは、どうして大学に行こうって思ったんですか。」
「僕は、ただなんていうか。僕も将来の夢なんてないよ。」
「え、でも翔さんて、国立の大学に行ってるから、すっげぇ頭いいじゃん。それなのに、将来の夢、ないんですか。」
「そうなんだ。僕はね、小さい頃から物づくりが好きで。中学も高校もロボット部に入ってたんだよ。」
「ロボット部?」
「そう。部活のみんなとロボット作ってたんだ。全国のロボットコンテスト、通称ロボコンにエントリーしてて。それで、プログラミングしたり、ロボットの調整とか修理とかして、改良をかさねて。高校はだから工業高校だったんだよ。」
「え、工業高校?なんか翔さんのイメージとちがうかも。なんていうか、工業高校ってワイルドで男くさいイメージあるけど、翔さんって、その逆っていうか。」
「あはは。たしかに、そうかもね。」
「それで、なんで大学に行こうと思ったんですか。」
「工学部に入ろうと思って。ロボット作ってて、もっとなんていうかそういう道の勉強をしたくて。でも、それは好きな分野の勉強がしたいってそれだけで、今のところは将来の夢なんてないよ。慎吾君もそのうち、何か得意な分野でやってみようとか、思える日がくるんじゃないかな。」
「どうだろうな。あとさ、最近ちょっと悩んでて。」
「悩み事?」
「そう。彼女が前は地元の大学に行きたいって言ってたから、俺もって思ってたんだけど。それが最近になって、東京の大学に行きたいって言い出して。なんかさ、東京の大学に行って一人暮らししたいとか言い出してさ。さすがに、将来の夢もない俺が、親に東京の大学にいきたいなんて言えなくて。うち、そんなに経済的に余裕ないし。」
「そっか。一人暮らしか。僕も、高校生の頃一人暮らししてみたいなって思ってた。で、今一人で暮らしてみて思うんだ。一人で暮らすのって、すごく大変だなって。実家にいた頃は、ご飯でも掃除でも洗濯でもみんな母さんがやってくれてたから、気づかなかったけど、生活するってそういうことを自分でやらなくちゃいけなくてさ。特に、ごみ捨てがけっこう大変。」
「え、ゴミ捨て?」
「そう。ゴミは分別してすてなくちゃいけないし。ゴミをまとめてゴミ箱に新しいゴミ袋をセットしてとか、地味に大変なんだよ。きっとさ、一人暮らしって理想と現実でギャップがあるかもね。慎吾君の彼女も、もしかしたら実際に一人暮らししたら大変だなって思う事も多いかもしれないよ。慎吾君は、一人暮らししたいとか思った事はあるの?」
「ないかな。俺、部屋のかたづけもできないし。親にいつも怒鳴られてる。俺の部屋、マジきたなくて。足の踏み場もなくて。それを彼女に言ったら、その部屋見てみたいって言われてさ、前に一度彼女に俺の部屋を見せたんだ。」
「そうか、反応はどうだったの?」
「絶句してた。」
「あはは。そんなにきたないの?」
「マジで足の踏み場もないんですよ、俺の部屋。」
「そっか、それはちょっと一人暮らしにはむいてないかもね。」
「そう。だいたい身の回りの事を一人でなんて、俺は無理。でもさ、もしも彼女が東京に言ったら、今みたいに毎日会えなくなるし。それが、今の最大の悩み。」
「彼女は、将来の夢とかあるのかな。」
「小学校の先生になりたいって言ってたな。なんでも、小学校の時の先生で、すごくいい先生がいて、その頃から小学校の先生になりたいって思ってたみたいです。」
「すごいね。将来の夢がきちんとあって。」
「そうなんです。でも、なんていうかな。」
慎吾は、ちょっと私の顔を見てから話を続けた。
「わざわざ東京の大学にいかなくてもって、俺は思うんですよ。」
「そうか、彼女と離れたくないんだね。」
「そう。だってさ、離れたら恋は終わるって気がするから。」
「でも、慎吾君は、まだ高校二年生になったばかりだから、そんな先の事で悩まなくていいと思うよ。今の気持ちを大事にして。将来の事はこれから、少しづつ考えていけばいいんじゃないかな。」
「うーん。」
慎吾はそう言ってから、顔をパット明るくした。
「そうですよね。そんな先の事考えて、今がだめになったらだめだし。今はとりあえず、今日のバイトの事を考えようかな。」
「そうだね。あ、そろそろバイトの時間だよ。行こうか。」
二人は立ち上がった。
「じゃあな、タマ。」
慎吾が私に声をかけてくれた。翔は、慎吾に言った。
「この猫、けっこう名前があるみたいだよ。この前は、花屋で見かけたよ。」
「え、花屋?」
「そう。きっとたくさんの人から、かわいがってもらってるんだね。」
「へぇ、タマ、顔が広いんだな。またな。」
慎吾がそう言って、右手をあげた。二人は、話をしながら公園を出て行った。そんな二人を見送って、私は思った。明るい慎吾にも悩みがあるんだなと。もしかして、人は少なからず、誰にでも悩みがあるんじゃないか。生きていくって、大変なんだなと私は思った。
土曜日、私は花屋の店先に行った。
「あれ、ミルク。」
店の前にいると、ゆなが私に気づいて声をかけてくれた。
「店に入る?」
ゆなが私の前にしゃがみこんで聞いた。
「ニャー。」
私は、返事をした。
ゆなに続いて、私は店に入った。
「副店長、この猫この前も店の中にいれたんです。すごくおとなしい猫で。圭介さんも、この猫かわいがってるから、店の中にいれました。よかったですか?」
ゆなは、ちょっと心配そうに聞いた。
「あら、白い猫。かわいいわね。おとなしい猫なら、いいわよ。」
副店長はそう言ってくれた。
「こんにちは。」
そう言って、店の中に入って来たのは、桃子だった。その少し後に、彩ちゃんのママ、それから最後に吾郎のおばあちゃんが入って来た。
「さぁ、こちらへどうぞ。」
副店長は、店の一角にある四人掛けの席にみんなを案内した。
「それじゃあ、フラワーアレンジメント教室を始めます。私は、この店の副店長です。よろしくお願いします。初日なので、まず自己紹介をしましょうか。」
副店長の挨拶から始まって、みんな一人一人自己紹介を始めた。それから、ようやく副店長が、フラワーアレンジメントについて、説明を始めた。
「これは、オアシスって言います。昨日から、バケツに水をいれて、このオアシスを水につけておきました。このオアシスに、お花をさして作っていきます。」
私も副店長の説明を聞いていた。フラワーアレンジメントとやらの作り方には、ちょっと興味がある。
「初日なので、難しい事は考えなくてもいいですよ。生け花とちがうのは、花を短く切る所です。切る時は、くきに対してハサミを斜めにいれて、ななめに切ります。そうする事で、くきの表面積が大きくなるので、吸水率がアップします。そして、切った花を、こうしてオアシスにさしていきます。」
みんな、それぞれ好きなように、花を切り、オアシスにさして言った。みんなおしゃべりをしながら楽しそうにやっている。
「いらっしゃいませ。」
ゆながレジから来店客に明るい声で挨拶した。やって来たのは幼い男の子とその母親だった。男の子は、私を見て笑顔で言った。
「ニャンニャン。」
「あ、猫がいるね。」
男の子の母親がそう言った。
「ニャンニャン。」
男の子はうれしそうに私に近づいて来た。ゆなが出てきて、男の子の前にしゃがみこみ、話しかけた。
「こんにちは。ニャンニャン、好きなの?」
「えへへ。」
男の子は、返事のかわりに小さく恥ずかしそうに笑った。
「かわいいお子さんですね。」
ゆなが男の子の母親に声をかけた。
「ありがとうございます。このお店、猫がいるんですね。」
「いつもはいないんですけど、たまにこの子やって来るんですよ。おとなしい猫だから、こうして店の中に入れたんです。」
「あら、そうなんですね。」
ゆなは、もう一度男の子の前にしゃがみこんで、聞いた。
「お名前は?」
「たっくん。」
男の子は、得意そうにそう答えた。
「たっくんは、何歳かな。」
たっくんは、指を不器用にピースサインの形にした。
「二歳かな。」
ゆなが首をかしげて聞いた。すると、たっくんの母親が補足説明をした。
「二歳に、なったばっかりです。」
とても微笑ましいやりとりだなと、私は思った。その時、店の奥から、圭介が出てきた。圭介は、店内にいるみんなにそれぞれていねいに挨拶をした。それから、わたしを見ると、私に声をかけた。
「ミルク、ちょっと来てくれ。」
なんだろうと、私は店を出て行く圭介の後に続いて店を出た。
店の前に来た。大きな窓から圭介は店内を見ていた。ふと、気が付いた。圭介の視線の先には、桃子がいる。圭介は、私の前にしゃがみこんで、話しかけてきた。
「ミルク、桃子さんの事、どう思う?」
何を聞くのかと思ったら、そんな事かと私は思った。私は、無言で圭介の話を聞いた。
「きれいな人だよな。桃子さん。初めて会った時からいいなって思ってたんだ。でもなぁ、お客さんだしなぁ。もしも、ご飯に誘って、いやな気持ちにさせたらなぁ。でも、いきなりどこかに行きませんかなんて、デートの誘いもできないしなぁ。どうしたらいいもんかなぁ。」
圭介は、まるで猫かのように猫なで声で話しかけてきた。やれやれと私は思った。なんだか、つきあってられないなと、私は圭介から視線をそらした。そらした視線の先に、喫茶店があった。吾郎の家の喫茶店だ。私の視線の先をたどった圭介が言った。
「そうか、となりにできた喫茶店に、コーヒーでも飲みませんかって、誘ってみようか。コーヒーくらいなら、つきあってくれるかもしれないよな。ミルク、いいアイディアだな。」
圭介がうれしそうに言った。いや、私はなんのアドバイスもしていない。そんな私の気持ちとはうらはらに、なんだか圭介はうれしそうにぶつぶつ独り言を言い始めた。その時、店から、たっくんとたっくんの母親が出てきた。圭介は、それに気がついてあいさつをした。
「ありがとうございました。またの来店をお待ちしています。」
「バイバイ、ニャンニャン。」
たっくんが私にそう言って、手をふってくれた。二人は手をつないで帰って行った。たっくんの母親はチューリップを持っていた。そして、チューリップの歌をたっくんに歌って聞かせながら、歩いていた。本当に微笑ましい親子だなと私は思った。その幸せに満ちた気持ちの私に、圭介がまた言った。
「でもなぁ、桃子さんの仕事は土曜日と日曜日が休みだしなぁ。俺の仕事の休みは平日だしなぁ。休みが合わないしなぁ。」
圭介は、さっきからなんだか一人で表情をころころと変えて、忙しそうだなと私は思った。店先にいる圭介に気が付いて、店の中から副店長が出てきた。
「圭介、早く配達に行きなさい。猫といつまで遊んでるのよ。」
「はいはい。」
圭介は、そんな返事をしながら、私の前から去り、軽トラックに乗って配達に行ってしまった。やれやれと、本日二度目のやれやれを私はした。
フラワーアレンジメントの教室が終わったのか、彩ちゃんのママと桃子、おばあちゃんが店から出てきた。みんな袋を持っている。きっとあの袋の中に今日作ったフラワーアレンジメントが入っているんだろうなと、私は思った。
三人は、しばらく店先で立ち話をしていた。それから、話が終わったようで、それぞれ帰って行った。
おばあちゃんは、私を見ると、笑顔で声をかけてくれた。
「マル、待っててくれたのかい。」
私はおばあちゃんの誘いで、吾郎の家に行く事にした。玄関の所で、おばあちゃんから足を拭いてもらった。
「マル、おいで。」
私はおばあちゃんの後に続いて家の中に入った。
「ここは、茶の間だよ。私はたいていここにいるよ。畳の部屋は、初めて買い?」
私は、その畳の部屋を少しうろうろした。これが、畳のにおいかとくんくんもした。おばあちゃんは、台所で、ご飯を作り始めた。そろそろお昼だからだ。私は、なんだか疲れてしまって、畳の上で丸くなって、眠る事にした。
どれくらい眠ったのだろうか。
「マル、マル。」
と私を呼ぶ声が聞こえた。
「ばあちゃん、いつまで昼寝してるんだよ。もう三時過ぎてるぞ。」
聞いたことのある声だなと、ぼんやりと思った。となりにはどうやら、おばあちゃんが寝ているようだった。
「ばあちゃん、起きて。」
これはきっと吾郎の声だと、ようやく私は気がついた。となりに寝ていたおばあちゃんが起きる気配がした。私も、ゆっくり顔をあげた。
「こんにちは。」
挨拶をしたのは、あかりだった。吾郎が、座布団を持って来て、あかりに座るようにうながしていた。
「あれあれ、こんな時間まで昼寝してしまったよ。」
おばあちゃんはそう言って、立ち上がった。
「今、お茶いれるからね。」
「帰ってきたら、ばあちゃんとマルが昼寝してたからさ、何度も声かけたんだぜ。」
「吾郎、それは悪かったね。気がつかなくて。なんだか、眠くなってしまってね。」
おばあちゃんが、三人分のお茶をテーブルに置いた。
「マル、何か飲む会?」
のどが渇いていたので、私は一声鳴いた。
「マルには何がいいかね。」
「水でいいんじゃねぇ?」
吾郎が言った。おばあちゃんは、皿に水をいれてきてくれた。私は、その水をペロペロなめた。おいしい。のどが渇いていると、水は最高だなと私は思った。
「ばあちゃん、相談があるんだ。」
お茶を飲んでいた吾郎が、話をきりだした。
「新学期が始まって教室に行ったら、席が一つあいていて、その席があかりちゃんの席だってわかったんだよ。同じクラスだったんだ。それで、俺、休み時間に保健室に行って、あかりちゃんにそれを伝えたんだ。同じクラスだから、教室に来ないかって。ばあちゃんは、どう思う?」
「そうだね、同じクラスだったって、この前聞いた時はおどろいたよ。それで、考えてみたよ。でも、やっぱり一番大事なのはあかりちゃんの気持ちだからね。あかりちゃんが、どうしたいかだと思うよ。」
「俺は、絶対に、あかりちゃんを守るから、だから教室に来てほしいって、何度もはなしたんだ。」
「あかりちゃんは、どう思ってるんだい?」
「私は。」
あかりは、静かに言った。
「この数日、保健室で勉強していて、やっぱり教室にもどりたいなって、思ったりもしたの。でも、いざ教室に行こうかって考えると、やっぱり怖くて。でも、吾郎君と同じクラス習って、ちょっと考えて。なんていうか、自分でもどうしたらいいのか、わからないんです。」
「あのさ、俺学校って、勉強だけじゃないと思うんだ。体育祭とか、文化祭とか、行事あるじゃん。俺は、勉強はあんまり好きじゃないけど、学校行事は大好きだから、あかりちゃんにも参加してほしいんだ。」
「吾郎の気持ちは、よくわかるよ。でも、あせらなくていいんじゃないかい。」
「でもさ、保健室にいる時間が長くなると、教室に来る勇気がどんどんなくなるんじゃねぇかな。」
「それは、私も考えたの。保健室登校をいつまで続けるのかなって。私は、このまま教室にいけないまま中学を卒業するのかなって。それから、もしも高校に合格しても、ちゃんと高校生になれるかなって。高校生になって、ちゃんと教室にいけるようになるのかなって。考えると、どんどん不安になるの。」
「だから、俺が絶対守るから、あかりちゃんに教室に来てもらおうかなって思ってるんだ。」
吾郎は、力強く言った。
「そうだねぇ。」
おばあちゃんは、お茶をすすりながら考えた。
「吾郎と同じクラスならねぇ。」
「なぁ、あかりちゃん。最初は勇気がいるかもしれないけど、教室に来ない?」
あかりはだまってうつむいた。そのまま、沈黙が流れた。誰も、何も言わない時間が数分過ぎた。沈黙を破ったのは、あかりだった。
「吾郎君の気持ちはすごくうれしいの。私も、できれば教室に行きたい。学校行事にも参加したいし、美術部の活動もしたいの。でもね、勇気がないの。」
「吾郎、あかりちゃんがもうちょっと勇気を出すまで、ゆっくり待ってあげたらどうかね?」
「でもさ、そんな事言ってたら、どんどん時間が過ぎてくヨ。ここで思い切り勇気を出して、頑張らないと。いつまでもこのままでいいのかよ。」
吾郎の力強い言葉に、あかりは困ったような顔をした。
「吾郎君の言っている事はよくわかるの。気持ちもすごくうれしいし。でも。」
「でも、何?」
吾郎が聞く。あかりは言った。
「私が、男子と話してると、女子から文句言われちゃうの。」
「それが意味わかんねぇんだよ。なんで男子としゃべったら文句言われるんだよ。男子としゃべってる女子なんて、いっぱいいるよ。」
「でも、なぜか文句言われちゃうの。だから、教室で吾郎君と一緒にいれないよ。話だって、きっとできないよ。」
「そういうのが、おかしいんだって。文句言われたら、俺が言い返すから、あかりちゃん、勇気出して。」
「まぁまぁ、吾郎。さっきも言ったけど、あかりちゃんのペースで、ゆっくり時間をかけてすすめていくしかないよ。」
「でも。」
吾郎は、不服そうだった。私は、吾郎が本当にまっすぐで正義感のある人なんだなと、思った。あかりがもうちょっとその吾郎に甘えればいいんじゃないだろうか。私は、あかりのひざにそっとふれた。
「白ちゃん。」
「マルだって、きっとあかりちゃんの事を心配してるよ。」
「そうだよね、白ちゃんはいつも優しいもんね。」
「頑張ってみようよ。」
吾郎がもう一度あかりを説得した。
「あのね、私ずっと仲良くしてた友達がいたの。でもね、その友達から、言われたの。もうあかりのひきたて役にはなりたくないって。それで、その友達が、まず離れていったの。それから、だんだん女子から、悪口言われるようになって。女子の目が怖いの。わざと聞こえるようにひそひそ悪口言うの。トイレに行った時とかも。体育の時も、一人にされたら、本当にみじめでさみしくて悲しくて。それで、教室に行けなくなったの。だから、吾郎君と同じクラスでも、吾郎君が守ってくれるって言っても、私やっぱり怖いんだよね。教室に行くのが。それと同じくらい、保健室登校をいつまで続けるんだろうって不安も大きくて。本当にどうしたらいいのか。」
「だから、俺が守るから。大丈夫だよ。」
吾郎がもう一度力強く言った。あかりの目から涙がこぼれた。
「あれ、あ、えっと、ごめん。」
吾郎があわてて謝った。
「ちがうの。こんなに一生懸命に私の事を考えてくれる友達ができたんだなって思ったら、うれしくて。」
「あかりちゃん、吾郎を信じてみたらどうかね?勇気を出して教室に行ってみて、どうしてもだめなら、その時はまた考えたらどうだね?吾郎の言うように、たしかにここで勇気をださなかったら、どんどん時間がすぎて、余計に教室に行けなくなるかもしれないよ。吾郎は、いい子だよ。その吾郎を信じてみたらどうだね?」
あかりは、涙をハンカチでふいた。それから、深呼吸をした。
「うん。吾郎君を信じてみます。」
「やった。」
吾郎が喜んで大きな声を出した。
「月曜日、一緒に登校しようか。」
吾郎が言った。あかりは、ちょっと考えてから言った。
「大丈夫。教室に吾郎君がいるんだから、私頑張って一人で登校してみるね。」
「じゃあ、月曜日から、クラスメイトだね。」
「うん。まだちょっと怖いし、緊張もしてる。けど、とりあえず一日頑張ってみるね。」
「そうだね、人生は一日一日の積み重ねだからね。とりあえず一日頑張ってみて、その都度考えようかね。あと、無理は絶対にしないんだよ、あかりちゃん。何か困った事があったら、その時は遠慮なく吾郎に頼るんだよ。」
おばあちゃんが助言をした。
「はい。」
あかりは、そう返事をして笑った。吾郎も笑顔だった。あかりの決断と勇気は、すごいなと私は思った。そして、あかりの心を動かした吾郎もすごいなと思った。吾郎は、本当の優しさをもっている人なんだなと私は思った。
日曜日の午前に、私は神社に来ていた。宮司さんに、かまってもらって遊んでいた。すると、階段をのぼってくる人たちの声が聞こえた。幼い子供が、
「咲いた、咲いた。」
とチューリップの歌を歌っている。同じフレーズを何度も繰り返して、かわいい声で元気よく歌っている。階段をのぼりきって、鳥居をくぐってきたのは、この間花屋で会ったたっくんとその母親だった。たっくんは、
「咲いた、咲いた。」
と歌いながら、私を見た。
「あ、ニャンニャン。」
「あら、この間花屋さんにいた猫ね。」
たっくんの母親がそう言った。たっくんは、元気よく私のもとに駆け寄って来た。
「ニャンニャン。」
そのたっくんのあとから、やや遅れてたっくんの母親が来た。たっくんの母親は、宮司さんに挨拶をした。
「こんにちは。」
「こんにちは。」
宮司さんも笑顔で挨拶を返した。
「この猫、この前花屋で見たんです。」
たっくんの母親が宮司さんに言った。
「そうですか。タマはいろんな所に行っているんだね。」
「タマ?花屋さんでは、ミルクって呼ばれていましたよ。」
「おおそうですか。いろんな名前が、もっとあるかもしれませんね。」
宮司さんは言った。
「ニャンニャン。」
たっくんは私のまわりをくるくるまわって、何度もそう言った。
「たっくん、神社にお参りをしようね。」
たっくんの母親がそう言って、二人は手をつないで神社の前で、手を合わせた。何をお願いしているのか、たっくんもきちんと手を合わせている。お参りが終わると、宮司さんがたっくんに声をかけた。
「何をお願いしたのかな?」
「ブーブ。」
すると、たっくんの母親が補足説明をした。どうやら、少ししか言葉を話せないたっくんの言っている事が、たっくんの母親だけには通じているようだ。
「この子、車が好きなんです。ミニカーで遊ぶのが大好きで。それで多分、ミニカーをたくさん買ってほしいってお願いしたんだと思います。」
「おおそうですか。ミニカーが、好きなんだね。」
「ブーブ。」
たっくんは、宮司さんに向かって笑顔でそう言った。
「この前、花屋さんでチューリップを買って、それで私がチューリップの歌を教えたら、喜んで歌うようになったんです。まだ、最初の咲いた咲いたしか歌えないんですけどね。」
「咲いた、咲いた。」
たっくんは得意になって、宮司さんに歌を披露した。宮司さんは拍手をしてほめてあげた。うれしそうな顔をしている。しばらく神社で立ち話をしていたたっくんの母親が、たっくんに言った。
「そろそろ、帰ろうか。」
「うん。」
二人は、宮司さんに手をふって、それから私にも手をふって帰って行った。そんな微笑ましい様子を見て宮司さんが私に言った。
「子供の目は、純粋だな。穢れを知らない。大人になると、そのきれいな目も心も少し汚れてしまうのかもしれないな。人には、色々あるからね。」
宮司さんの言葉を私は深いなと感心して聞いていた。
その日の夕方、私はいつもの公園のベンチにいた。そろそろ来るころだろうか。そんな事を思っていると、彩ちゃんが公園にやって来た。白杖を右手に持ちながら、慣れた感じでベンチに近づいて来た。そして、ベンチを手でさわって確認しながら、座った。
「ニャー。」
私はここにいるよと、彩ちゃんに声をかけた。
「猫ちゃん?」
「ニャー。」
あいかわらず彩ちゃんは、ベンチの左側に座っている。私は、彩ちゃんの足元に来た。そして、足をそっとさわった。
「猫ちゃん、くすぐったいよ。」
彩ちゃんが、ちょっと笑った。どうやら、元気みたいだ。その時、公園の入り口から誰かが来る音がした。振り返ると、やって来たのは翔だった。
「彩ちゃん、こんにちは。翔です。」
翔はそう言って、彩ちゃんの右側に座った。
「翔君、大学はもう始まってるよね?どんな感じ?」
彩ちゃんが、聞いた。
「初めはすごく緊張してたけど、だんだん友達もできてきて、ちょっと慣れたかな。」
「そっか、友達ができて良かったね。」
「そうだな。大学って広いし、人も多いから、こんなに人がいて、友達が本当にできるのかちょっと不安だったけど、話しかけてきてくれた人がいて。今はその人と、お昼休みは学食でお昼を食べているよ。」
「へぇ、学食かぁ。いいな。どんなのを食べてるの?」
「色々だよ。けっこうメニューも豊富で。あと、値段が安いし。この前なんて、友達が大盛ラーメンを頼んだら、とにかく大盛すぎて、食べても食べても麺がなくならなくて、おかしかったよ。」
「え、そんなに大盛なの?」
「そう。僕は普通のラーメンを食べてたんだけど、普通のラーメンがもうすでに大盛だったんだ。だから、大盛ラーメンなんてとんでもない量だったよ。」
翔は、おもしろがって笑った。
「いいなぁ。楽しそう。」
「彩ちゃんも、大学に来てみる?」
「え。」
彩ちゃんが、おどろいてとなりに座っている翔を見た。
「え、私なんて大学生でもなんでもないのに、行ってもいいのかな。」
「いいと思うよ。もしも大学に来るなら、僕が大学を案内するよ。」
「翔君は、優しいんだね。」
「え。」
今度は翔が彩ちゃんを見た。
「だって、私は白杖を持っているんだよ。そんな人と一緒にいたら、翔君だって、もしかしたら偏見の目で見られてしまうかもしれないよ。」
「偏見?そんなの誰も思わないよ。目が不自由だから、白杖を使っているんでしょ。」
「でもね、世の中には、偏見の目をもっている人もけっこういるんだよ。私は、最初白杖を持つ事にすごく抵抗があったの。盲学校にいくようになっても、なんていうか、まわりの人が白杖を持っている私を見て、なんておもうのかなって、不安だったの。もともとは普通の小学校に通っていたから、その時の友達には白杖を持っている姿なんて、絶対に見られたくないって、そう思ってたよ。」
翔は彩ちゃんの言葉を静かに聞いていた。
「彩ちゃん。僕は工学部に通っているんだ。昔から物づくりが得意で。中学も高校もロボット部に入ってて、ロボットを作ってたんだ。」
「え、すごいね。ロボット?そんなのを作れる人が、本当にいるんだね。」
「ねぇ、彩ちゃん。こんなのがあったら便利だなって思う物とかある?」
「え。」
「無理かもしれないけど、僕にできることがあれば力になりたいんだ。」
「ありがとう。」
彩ちゃんは、一度空を見上げた。それから、ちょっといたずらっ子みたいに笑って言った。
「ドラえもんに出てくる、どこでもドアとかほしいな。」
「どこでもドア?」
翔がおどろいて聞き返した。
「さすがに、彩ちゃんそれは無理だよ。」
「そうだよね。」
彩ちゃんは笑った。
「でも、行きたい時に行きたい所に行けるのはいいなって思うの。私はね、この公園になら、一人で来れるけど、一人での外出はできないんだ。この公園までの道は、家族に手伝ってもらって、何度も訓練したから、こうしてここまでは一人で来れるようになったけど。だから、行きたい時に、例えばコンビニとかドラックストアとか、ちょっとした用事も私は一人で行けないの。だから、本当にどこでもドアがあったらいいなって、半分冗談だよ。でもね、半分は本当にそう思ってるの。」
「そうか。白杖があっても、訓練した道しかでかけられないんだね。僕は、知らなかったよ。白杖があれば、どこでもいけるのかと思ってたよ。」
「たしかに、目の症状が軽い人なら、白杖を使って一人でどこでもでかけられるかもね。でもね、私はもうほとんど見えないから、しかたないの。」
翔は、静かに聞いてから、言った。
「大学で、そういう分野の研究をしてみるよ。」
「え。」
彩ちゃんが、翔を見た。翔は考えながら、話した。
「僕の将来の夢はまだないんだ。でも、今彩ちゃんの話を聞いて、僕にできる事があるかもしれないって、ちょっとだけ思ったんだ。だから、まだ具体的にどんな物を作るかまだわからないけど、目の不自由な人が一人でも出かけられるようになるアイテムの研究をしてみるよ。」
彩ちゃんは、とてもおどろいた顔をした。それから、笑顔で言った。
「ありがとう。そんな事を言ってくれるなんて、うれしいよ。」
「僕は思うんだ。人類って、いつの時代も物を作って、それを進化させて発展してきたんだって。だから、困っている人が便利に使えるようになるものを考えて、それが実用化されたら、物を作る人間としては、これほどうれしいことはないと思うんだ。」
「ありがとう。」
彩ちゃんは、もう一度お礼を言った。私は、翔の人のために何かを研究して作ろうと思った意欲が、すばらしいなと感心した。。そこで、翔の足をちょっとさわってみた。
「あれ、くすぐったいなと思ったら。」
翔は私を見て笑った。
月曜日の夕方、私はあかりの家の玄関の前にいた。あかりはどんな顔をして帰ってくるだろうか。しばらく待っても、あかりは来ない。丸くなって座っていると、
「マル。」
と吾郎の声が聞こえた。
「マルも、あかりちゃんが心配でここに来たのか?」
なんで吾郎が、ここにいるんだろうと私は思った。丸くなっている私の前に吾郎はしゃがみこんだ。
「あかりちゃん、今日学校に来なかったんだ。」
そうだったのかと、私は思った。しばらく吾郎が静かに私の体をなでていた。すると、玄関があいてあかりが出てきた。
「え、吾郎君。」
あかりは吾郎を見て、おどろいた声で言った。
「あかりちゃん。」
吾郎がたちあがった。玄関の外に出てきたあかりは言った。
「もしかして、白ちゃんが来てるかなって思って、出てきたの。吾郎君がいるなんて思わなかった。」
「あかりちゃん、なんで今日学校に来なかったの?」
あかりは、うつむいてだまった。それから、ゆっくりと話をした。
「行こうと思ったの。学校にもちゃんと連絡してもらって。教室に行く事にしたって、先生に伝えてもらって。でもね、靴をはいて、玄関の外に出たら、やっぱり怖くなって。そしたらね、過呼吸になっちゃって。それで、行けなかったの。」
「そうだったんだ。」
吾郎がつぶやいた。
「吾郎君と、おばあちゃんと約束したのにね。私って本当にだめだよね。勇気もだせないし、約束も破っちゃうし。」
あかりは、まただまりこんだ。吾郎も何も言わない。
「そっか。」
やっと口をひらいた吾郎が言った。
「それじゃあ、やっぱばあちゃんが言ってたみたいに、あかりちゃんのペースで学校に来なよ。俺、ずっと待ってるから。」
吾郎はそう言って帰って行った。私は、なんだか吾郎が心配になって吾郎の後をいそいで追いかけた。
吾郎は足が速い。やっと追いついた時には、もうすぐ吾郎の家と言う所だった。
「あれ、マル。ついてきたのか?」
私は、一声鳴いて返事をした。すると、吾郎がしゃがみ込んで、言った。
「俺、だめだな。」
いつになく元気のない吾郎が、私は心配だった。
「あかりちゃんのためって思って言ったけど、あかりちゃんに無理させてたんだな。」
吾郎は、自分の言った事を悔やんでいるようだった。その時、吾郎の家の喫茶店から、慎吾と愛が話をしながら出てきた。
「愛ちゃんて、本当においしそうに食べるよね。」
「だって、おいしかったんだもん。それより、慎吾君、コーヒーに三杯も砂糖いれるなんて、それじゃあせっかくのおいしいコーヒーがだいなしだよ。」
「俺、コーヒーって苦いから砂糖入れないと飲めないんだ。」
二人はそんな会話をしながら、私に気が付いて言った。
「あれ、この猫、神社でみたよね?」
愛がそう言った。
「公園でも見たぞ。」
慎吾が言った。吾郎はそんな二人に、立ち上がって挨拶をした。
「あの喫茶ってんからでてきましたよね?うちの親がやっている喫茶店なんです。」
「へぇ、そうなんだ。」
慎吾が言った。
「すごくおいしかったよ。」
愛が言った。
「ありがとうございます。またのご来店、お待ちしてます。」
吾郎がかしこまって言った。二人は笑った。
「そんなかしこまって。」
でも、吾郎の表情に元気がない事にきがついた愛が言った。
「どうかしたの?元気ないみたい。」
「え。えっと、クラスメイトにうまくアドバイスできなくて。」
吾郎がぼそっと言った。
「アドバイス?」
慎吾と愛が声をそろえて聞き返した。
「いや、なんでもないんです。」
吾郎は、むりやり笑顔を作って、二人に挨拶をしてその場を去った。
吾郎の家の玄関に来ると、吾郎が言った。
「マル、ついてきてくれてありがとな。」
吾郎の表情はやっぱり元気がなかった。私は、すごく心配になってしまった。
土曜日の午後、私は吾郎の家に向かって歩いていた。途中で、あかりに会った。
「白ちゃん。」
あかりはおどろいてそう声をかけてきた。
「どこ行くの?」
そう聞かれても、人間の言葉がしゃべれない。困ったなと思っていると、あかりが言った。
「これから吾郎君の家に行くの。白ちゃんも、来る?」
「ニャー。」
私は返事をして、一緒に吾郎の家に向かった。
吾郎の家の喫茶ってんの前に、吾郎と慎吾、愛がいた。吾郎があかりに気が付いて声をかけてきた。
「あかりちゃん。」
元気な声だった。しかし、あかりの表情が曇った。何かにおびえているような、不安な顔をしている。
「え、もしかして吾郎君の彼女?」
慎吾が聞いた。
「ちがいます。クラスメイトですよ。」
吾郎があわてて言った。
「すっごいかわいいね。あかりちゃんって言うの?」
愛が聞いた。あかりは、だまったままだ。
「あかりちゃん、どうしたの?」
吾郎が声をかけた。あかりの足はがくがくと震えていた。
「どうかしたの?」
愛が聞いた。
「あ、もしかして俺らの事しらないから、緊張してるんじゃね?」
慎吾がそう言った。
「あかりちゃん、この人たちは喫茶店のお客さんなんだ。高校生で、慎吾君と愛ちゃんだよ。」
吾郎がそう説明した。あかりは、それを聞いてどこかほっとした顔になった。そして、ゆっくり吾郎たちのそばに近づいた。
「私、吾郎君と同じクラスの人かなって思っちゃって。」
あかりが言った。
「え、俺って中学生に見える?ショック。」
慎吾が言った。すると、なぜかあかりは泣き出してしまった。
「え、え。」
慎吾があわてた。
「俺、そんなにへんな事言ったのか?」
「ちがうの。」
あかりはかぼそい声で言った。
「とにかく、家に入ろう。ばあちゃんもいるし。」
吾郎があかりに言った。
吾郎の家の茶の間に、吾郎と慎吾、愛とおばあちゃんが座った。私も家の中に入れてもらった。
「あの、あかりちゃん、どうして泣いちゃったの?」
愛が、優しい口調で言った。
「私、二人が吾郎君と同じクラスなのかなって思って。」
あかりが、ポツリポツリと言った。
「え、あかりちゃんって、吾郎君と同じクラスなんだろ?」
慎吾が言った。あかりは、少し間をあけてから言った。
「私、学校に行ってないんです。」
慎吾と愛が、だまった。
「この春から、保健室登校になったんだけど、この前吾郎君に励まされて、一度は教室に行こうって本当にそう思ったんです。でも、いざ学校に行こうとしたら、やっぱり勇気がでなくて。」
あかりの話を聞いて、愛が質問をした。
「もしかして、いじめられてるの?」
あかりは、静かにうなづいた。
「何か理由でもあったの?その、なんていうかいじめの原因。」
愛が優しく聞いた。あかりは、これまでの事をゆっくり話した。あかりの話を全部聞いた愛は言った。
「それはさ、あかりちゃんがすっごくかわいいから他の女子が嫉妬してるだけだよ。」
「え。」
あかりが愛の顔を見た。
「女子って、本当にめんどうな生き物だよね。グループ作ってみたり、誰かを仲間はずれにしたり。かわいい女の子を無視していじめたり。でも、聞いたかぎりじゃあかりちゃんは、何も悪くないよ。」
愛は、優しく話を続けた。
「いいじゃん。吾郎君と一緒に登校すれば。」
愛は明るくそう提案した。
「でも、私が男子と一緒にいたり、話をするとすぐに文句言われるから。」
「だから、それはあかりちゃんが、すっごくかわいいから他の女子が嫉妬してるだけだよ。いいじゃん、吾郎君と一緒に登校したって。教室でも、吾郎君と一緒にいればいいんだよ。そうやって、堂々としてれば、そのうち相手だって悪口言わなくなるよ。こっちが言い返さないから、言ってくるんだよ。大丈夫、吾郎君なんかしっかりしてるみたいだし。」
愛がそう言うと、吾郎は困ったような顔をして言った。
「でも、無理させたら、あかりちゃんまた過呼吸になるかもしれないし。」
吾郎の表情を見て、愛がさらに言った。
「たしかに、そうかもしれないよね。過呼吸になるくらいあかりちゃんはつらい思いしてるんだもんね。それなのにさ、いじめてる相手はなんの反省もしないでるなんて、許せないよね。」
どうやら愛も正義感が強いんだなと私は思った。
「堂々としてればいいんだよ。それで、文句言われたら、その時はさ、吾郎君ちゃんと言い返してあげてね。」
「それは、もちろん。」
吾郎が言った。
「そうだな。いじめなんてまだそんな幼稚な事する奴いたのかよ。わが母校の生徒四。俺は、恥ずかしぞ。」
慎吾がちょっとふざけた口調で言った。
「そうだよね。いじめなんてするの幼稚だよね。でも、これって、きっといつまでも、きっと大人になってもこういう問題あると思うの。もっと、気楽に考えて、甘えられる時は吾郎君にあまえればいいんだよ。全部一人で抱え込まなくていいんだよ。先生に頼ってもいいし、親に頼ってもいいし。でも、同じクラスに吾郎君がいるんだから、一番頼りになるじゃん。あかりちゃん、頑張って。私はあかりちゃんの味方だよ。今日初めて会ったけど、私達はもう友達だよ。何かあったら、いつでも言ってね。もしも必要なら、わが母校に助けに行くよ。」
愛がちょっと慎吾のまねをして言った。みんな少し笑った。
「あかりちゃん、みんなここにいる人はあかりちゃんの味方だよ。だから愛ちゃんのいうように、あかりちゃんは一人じゃないよ。」
おばあちゃんが言った。あかりは、泣いた。
「え、どうしたんだ?」
慎吾がおどろいて大きな声をだした。
「ありがとうございます。すごくうれしいです。本当にありがとう。」
「あれれ、もしかしてうれし泣き?」
愛が笑顔で言った。あかりは、笑ってうなづいた。私は思った。世の中には、人をいじめて苦しめる人間もいるが、こうして助けてくれる人間もいる。この前宮司さんが言っていた。いつのまにか大人になるとけがれてしまうと。子供の頃のように、いつまでも純粋な心と目で生きていければいいなと、私は思った。
月曜日の朝、私はあかりの事が心配であかりの家まで行った。あかりの家の前には、吾郎が立っていた。吾郎は、私に気が付くと声をかけてくれた。
「マル。マルもあかりちゃんが心配で来たのか?」
私は、そうだよという意味で、
「ニャー。」
と、一声鳴いた。
しばらく吾郎はあかりの家の前でまっていた。玄関には近づかず、ただあかりの家の前にいる。私が、どうしたのだろうと、首をかしげると吾郎が言った。
「玄関でインターホンならすのもなぁ。プレッシャーかけたくないし。あかりちゃんが、出て来たら、その時は一緒に学校に行こうと思って。でも、今日も学校に来れないかな。」
吾郎は、とても心配そうな顔をした。吾郎のとなりで、私もずっと家の中からあかりが出てくるのを待っていた。
しばらく待っていた吾郎が言った。
「やっぱり、学校に行くのが怖いのかな。俺、そろそろ行かないと、遅刻するから。」
吾郎が私にそう言った。その時、あかりが家から出てきた。
「あ、あかりちゃん。」
吾郎が声をかけた。
「吾郎君。」
あかりが、おどろいて目を大きくした。
「もしかして、待っててくれたの?」
あかりが、吾郎のそばに来てそう言った。
「うん。」
「私ね、ちゃんと学校に行こうと思って。」
あかりがそう言って、私を見た。
「白ちゃんも、心配して来てくれたの?」
あかりは、しゃがみこんで、私の頭をなでてくれた。
「白ちゃん、いつもありがとう。」
そう言って、あかりが立ち上がった。
「じゃあ、学校に行こうか。」
あかりが吾郎に言った。吾郎の顔が、パット明るくなった。
「そうだね、早く行かないと遅刻だよ。」
「うん。」
二人は、ならんで歩き出した。歩きながら、吾郎が振り返って私に声をかけてくれた。
「マル、あかりちゃんの事なら心配すんなよ。俺がちゃんと、守るからな。」
吾郎がいつものように力強く言った。二人は、話しながら歩いて行った。そのうしろ姿を、私は見えなくなるまで、見送った。
あかりと吾郎を見送った私は、神社にやって来た。人が誰もいない事を確認して、神社の前で、きちんと祈る。二礼二拍手一礼。神社でのお参りのしかたは、ここにやって来る人たちの作法を見て、覚えた。そして、あかりの無事を祈った。
その後、私は、なんだか眠くなったので、丸くなった。朝の静かな空気に満たされて、私はうとうとと眠りかけた。しかし、誰かがこちらにやって来る足音で、目がさめた。こんなあわただしい足音は、誰だろうと、私は起きてやって来る人を見た。
鳥居をくぐってやってきたのは、圭介だった。走って、こちらに来る。圭介は私を見て、
「お、ミルク。」
と、一言言った。それから、神社の前で、手を合わせて、なにやら真剣にお参りを始めた。私はそんな圭介を、静かに見ていた。
圭介のお参りは、じつに長かった。一体、何をそんなに真剣にお参りしていたのだろう。お参りが終わった圭介は、私の目の前にしゃがみこんだ。
「ミルク、聞いてくれよ。」
圭介は、話始めた。
「この前の土曜日に、フラワーアレンジメントの教室に来た桃子さんに、声をかけたんだ。それで、桃子さんが帰る時に、連絡先を交換したんだ。」
何かと思えば、どうやら圭介は桃子との事を真剣にお参りしていたのだなと、私は思った。
「それで、電話で話をしたんだ。けっこう長電話してさ。桃子さんって、三十歳なんだって。もっと若く見えるよな。俺の二つ年下だった。桃子さん、年上の男の人は、嫌いかな。」
そんな事は、私に聞かれてもわからない。
「それで、一人暮らししてるんだってさ。でも、家事は得意じゃないって言ってたな。ご飯もあんまり自分では作らないし、掃除とか洗濯もそんなにまめにはしないんだって。そう言う事って、普通は人に隠したいもんだろう。でも、そんなことまで正直に話すなんて、ますます桃子さんの事が好きになったよ。休みの日は、家の事をしてるらしい。たまった洗濯物したり、やってなかった掃除したり。」
どうやら、圭介の話は長くなりそうだなと思い、私は座って聞くことにした。
「それで、映画が好きなんだってさ。でも、映画館には行かないんだって。」
映画が好きなのに、どうしてだろうと私は圭介の話の続きを聞いた。
「たいていテレビの金曜ロードショーでやっている映画を録画して、休みの日に見るらしい。だから、映画が好きでも新作の映画の事はよく知らないんだってさ。そんなことまで話してくれるなんて、もしかして、俺の事いいなって思ってくれてるのかな。」
それは、どうかわからない。本人に直接聞いてみればいいんじゃないだろうかと、私は思った。
「映画は、なんでも見るけどホラーは大嫌いだってさ。意外と怖がりなんだな。ディズニー映画も、アラジンとかリトルマーメイドも好きだけど、一番好きなのは名探偵コナンらしい。」
なんだそれと、私は首をかしげた。
「名探偵コナンって、知ってるか?」
知らないと、私は思った。
「高校生探偵がある日、毒薬を飲まされて子供になるんだ。でも、体は子供になっても、頭脳は大人のままで、いろんな事件を推理して解決していくって話。」
そうなのかと、私はなるほどと思った。
「それで、もしも名探偵コナンの映画に誘ったら来てくれるかなと思ったんだ。でも、桃子さんはこう言うんだ。どうせ、一年後に金曜ロードショーでやるからって。俺の誘いは、あっけなく終わったよ。それで、なんとか一緒にもっと仲良くなりたいと思って、ご飯に誘ったんだ。俺にしてみれば、けっこうな勇気だったのにな。それを、桃子さんは、あいまいに断ったんだ。もしかして、俺って嫌われてるのかな。」
表情が曇った。
「でもさ、こんなに色々話をして、思ったんだ。なんでも隠さずに言う桃子さんって、正直な人だなって。普通は、人には自分の事を良く思わせようとするだろう。それが、桃子さんにはないんだ。家事は苦手な事とか、映画もちょっとケチな事も、隠さず言う。それって、正直だからだよな。俺、桃子さんともっと仲良くなりたい。というか、結婚したい。」
おやおや、それはちょっと気が早いのではと、私は思った。その時、社務所から宮司さんが出てきた。宮司さんは、圭介に挨拶をした。圭介はしゃがみこんでいたが、あわてて立ち上がり、挨拶を返した。そして、なにやら挙動不審な感じになった。
「どうかされましたか。」
宮司さんが、圭介に声をかけた。
「え、いや、あの。」
圭介はしどろもどろに言った。それから、少したって、ため息をついた。宮司さんが、圭介の前にやって来た。
「何か、悩み事でも?」
圭介は、少ししてから、口をひらいた。
「え、いや。俺、真剣に猫に話しかけてたから、それを変な奴って思われた叶って。」
圭介は、しょんぼりとしながらそう言った。宮司さんは、ほがらかな顔で答えた。
「そんな事はないですよ。タマは、かしこい猫です。ちゃんと人の話を聞いてくれますから。」
「タマ?この猫、タマって言うんですか?もしかして、この神社の猫ですか?」
「いいえ。私が勝手にタマと名前をつけているだけです。タマは、時々ここにやって来るので。」
「そうですか。俺の家、花屋なんです。それで、この猫を、店先でみかけて。色が白いしミルクって、花屋に来たお客さんにもそう説明してました。」
「おやおや、ミルクとは、とてもかわいらしい名前ですね。」
「なんか、この猫本当に人の事をよく見てるっていうか、人の話を聞いてくれるっていうか。それで、ついミルクに話してたんです。」
圭介はそう言ってから、宮司さんに聞いた。
「あの、この神社って、縁結びのご利益ありますか?」
「縁結びですか。どうでしょうね。でも、神社に向かって手を合わせると、心が少しおだやかになりませんか。心がおだやかになれば、冷静な判断ができるようになります。願い事は、祈るだけでなく、多少の努力も必要ではと思います。思いをよせている方がいらっしゃるんですね。」
「はい。」
「その方と、縁があればきっとうまくいきますよ。」
宮司さんは圭介にそう諭した。
圭介は、宮司さんに何度も頭をさげて帰って行った。そして、圭介の姿が見えなくなると、宮司さんは私に言った。
「タマ、いろんな所でいろんな人の話を聞いてあげているんだね。」
宮司さんは、私の頭を、優しくなでて微笑んだ。
その日の夕方、私はあかりの家の玄関の前にいた。あかりは今日、どんな一日をすごしたのだろうか。
しばらくすると、あかりが帰って来た。
「白ちゃん。」
私を見てそう言って、すぐに私の目の前に来てしゃがみこんだ。
「待っててくれたの?もしかして、一日ここにいたの?」
それはちがうと、伝えたい。でも、人の言葉がしゃべれないので、だまっていた。
「今日ね、遅刻ギリギリに吾郎君と教室に入ったの。みんな、私を見て一瞬静かになったの。空気がピンと張りつめたみたいになって、私はもうそこで、泣きたくなったの。」
あかりは、話を続けた。
「でもね、吾郎君が、教室の入り口で、大きな声で言ったの。おはようって。」
吾郎らしいなと、私は思った。
「そしたら、少しづつ、張りつめていた教室の空気がほどけたの。私は、挨拶も
できずに、席についたの。心臓の音がドクドクって大きく鳴って、また過呼吸になったらどうしようかって、心配したの。でもね、休み時間には吾郎君が時々はなしかけてくれたし、誰かに何か言われる事は今日はなかったよ。」
それは良かったと、私は思った。
「でもね、音楽の授業の時、移動教室の時はちょっとつらかったな。みんな友達と、音楽室に行くから。私は一人で音楽室に行ったの。それは、ちょっときつかったな。でもね、帰り道で考えたの。一人で行動するのも、そんなに悪くないのかなって。女子ってグループを作って行動するんだけどね、考えてみたら私は今まで、同じグループの友達の顔色を気にしてばかりいたから。友達にどう思われているのかなとか、きらわれないようにとか。だから、一人で行動したら、もうそんなのを気にしなくていいでしょ。考え方で、ちょっと気持ちがらくになったの。それでね、明日も、吾郎君と一緒に登校する約束をしたの。愛ちゃんがいっていたでしょ。一人で抱え込まないでって。今はちょっとだけ、吾郎君に頼ってみようかなって思ってるの。いつまでもじゃないよ。学校に慣れるまで。」
あかりは、そこまで言うと、笑顔になった。
「長い一日だったよ。でも、私は頑張れたの。だから、きっと明日も学校に行けるよ。」
あかりのその言葉を聞いて、ほっとした。あかりは、とても頑張ったんだなと思い、私はあかりの足にすりすり体をあずけた。その私の体を、あかりは優しくなでてくれた。
あかりの家から、公園に行った。ベンチには、慎吾と翔が座っていた。私が二人のもとにかけよると、慎吾が言った。
「よぉ、タマ。」
それから、慎吾は翔に言った。
「この猫、マルって名前もあるんですよ。」
「マル?」
「花屋のとなりに喫茶店ができたでしょ。そこの喫茶ってんの息子と仲良くなって。その子がマルって呼んでいて。」
「そうか、いろいろな名前があるんだね。」
私は翔の足元に行き、ちょこんと座った。
「それで、この前の話なんだけど。」
慎吾が話を始めた。
「たまたま知り合ったその喫茶店の息子にはクラスメイトの美少女がいて。で、その女の子が不登校で。」
「不登校?それは、かわいそうだね。」
「そう。で、なんだかんだあって、その息子の家に俺と彼女も行って、その女の子の悩み相談になって。」
「そっか、悩みを聞いてあげたんだね。」
「そうなんですよ。なんだかんだで。で、彼女がその女の子にポンポンといいアドバイスしてて。俺、彼女をほれなおしました。」
「慎吾君、すごい素直だね。」
翔はちょっと笑った。
「はい。」
慎吾はちょっと自分の言葉に照れたみたいで、顔を赤くした。
「で、彼女が小学校の先生になったら、きっとすっげぇいい先生になるだろうなって思ったんです。なんていうか、俺は何もその女の子にアドバイスできなかったから。でも、彼女はちがった。自分の意見を的確に言ってたし、実際にその女の子最後はうれし泣きしてたし。」
「そうか、すごいね。その女の子、学校には行けたのかな。」
「どうだろう。彼女も心配してました。学校にちゃんと行けたのかなって。それで、彼女は彼女なりに、あんなアドバイスで良かったのかなって心配してて。うまく言えないけど、女子ってデリケートな生き物だなって、思いました。俺、ガサツだし。でも、女子は色々大変みたいですね。」
「そうかもしれないね。その女の子が、ちょっとでも元気になってくれたらいいね。」
「はい。それで、今日はバイト休みなのに翔さんに聞いてほしくて、ここに来てもらったんです。」
「なにかな?」
「俺、やっぱり彼女には東京に行ってほしくないんです。だから、それを正直に言おうと思って、ケンカになるかもしれないけど。それで、俺今から、遅いかもしれないけど、勉強頑張って彼女と同じ大学に行けるように頑張ろうって思って。」
「うん。いいと思うよ。東京に行ってほしくないっていう慎吾君の気持ちも話せば、きっとわかってくれると思うよ。」
「よかった。翔さんに、そう言ってもらえて。ケンカになるかもしれないけど、ちゃんと話をしようと思います。」
「うん。それがいいと思うよ。」
慎吾は、ほっとした顔をした。それから、翔の顔を見て言った。
「翔さんって、好みの女性のタイプとかってありますか。」
「え。」
翔がおどろいて、慎吾を見た。
「いや、理想の彼女のタイプって、どんなかなって。」
翔は、ちょっと考えてから言った。
「特に、ないかな。」
「え、ないんですか。」
「え、そんなに珍しいかな。そんなにおどろかれる事かな。」
「おどろきですよ。普通は、ちょっとくらいあるでしょ。例えば、かわいい事か。きれいな人よりもかわいい子がタイプとか、色々。」
「うーん。特にないな。」
「翔さん、もったいないですよ。せっかくイケメンなのに。」
「イケメン?あんまり言われたことないよ。」
「なんていうか、翔さんって、子犬みたいな顔してるから、女子から絶対もてるはずなのに。」
「え、子犬?」
「ああ、いい意味です。なんていうか、かわいらしい顔っていうか。年上の人にこんな事言って失礼かもしれないけど。」
「一応ほめてくれてるんだよね?」
「はい、もちろんです。」
「ありがとう。僕は、なんていうか、めぐり会えたらなって思ってるんだよ。」
「めぐり会い?」
「そう。理想のタイプとかはないんだけど、そういうのって縁があって結ばれると思うから。」
「ふーん。」
「慎吾君には理想のタイプとかあったの?」
「はい。顔がかわいい子。あと、よく食べる子。俺の彼女、かわいいし、よく食べるんです。この前も、花屋のとなりにできた喫茶店に二人で行って来たんだけど、おいしそうに食べてる彼女がかわいくて。」
「へぇ、そうなんだ。」
「あの喫茶店、店も新しくてきれいだし、おいしかったし、翔さんも今度行ってみてくださいよ。」
「そうだね、いつか行ってみるよ。」
二人は、そんな会話をしていた。私は、少し眠くなったので、ベンチの下にもぐりこんだ。そして、体を丸くして、ねむった。
翌日の夕方も、私はあかりの家の玄関の前にいた。あかりはどんな顔をして帰ってくるだろうか。
「白ちゃん。」
あかりが帰って来て、私に声をかけてくれた。表情が明るい。あかりは、私の目の前でしゃがみこんで、話をしてくれた。
「今日ね、すごい事があったの。」
すごいことって、なんだろうと私は話の続きを聞いた。
「私の前の席の女子がね、話しかけてくれたの。さきちゃんって子なんだけどね、さきちゃんは、一年生の頃から私の事を知ってたんだって。クラスはずっとちがったのに。それで、私と友達になりたいって思ってくれてたんだって。昨日は、緊張して、話かけられなかったって言ってたの。」
あかりに友達ができたみたいで、私はうれしくなった。
「でもね、さきちゃんには仲良くしている女子のグループがあるから、あんまり一緒にはいられないの。」
そこが、意味がわからない。私はそう思ってあかりの話を聞いていた。
「お昼休みにね、トイレに行ったの。その時にね、去年同じクラスだった女子から、文句を言われたの。すごく怖かった。でもね、さきちゃんが、言い返してくれたの。すごいでしょう。普通、みんなそういう事に関わりたくないって、見てみぬふりをするのに。さきちゃんは、私のために言い帰してくれたんだよ。はきはき物事を言えるさきちゃんが、かっこよかったな。私とは、性格が正反対。私は思っていることを言えないから。それでね、さきちゃんと、ちょっと話をしてね。私が読書が趣味だって話したら、さきちゃんは小説は読まないけど、マンガ本なら大好きだって教えてくれたの。今度ね、さきちゃんのおすすめのマンガ本を貸してくれるって言ってくれたんだよ。」
あかりが、とてもうれしそうでなによりだ。
「あ、そうだ。私の事もさきちゃんに話したの。最近ね、スマホで小説投稿サイトにアップしてある小説を読んだよって。すごくおもしろかったよって、教えたの。」
あかりは、その小説投稿サイトの小説の話もしてくれた。
「あこがれのアオハルっていうタイトルだったの。タイトルに魅かれて、呼んでみたの。主人公は高校生の女の子でね、病気で入院しているの。学校に行きたくても行けなくて。でもね、眠って夢の中で高校生活を送るの。それがね、とってもよくて。休み時間に友達とお菓子食べてしゃべったり、お昼休みに購買でパンとジュース買ったり。学校帰りに寄り道して、友達とドーナツ食べたり。食べてばっかりだなって、わらっちゃった。でもね、目がさめると、主人公は病院に入院していて、現実の世界では学校には行けなくて。読んでいてね、学校にいけないっていうのが、私と同じだなって思ったの。でも、その主人公は病気で入院しているから行けないの。私は元気な体をしてるのに、行けなかった。きっと世の中には、こんなふうに本当に病気で、学校に行きたくても行けない人がいるんだろうなって思ったの。」
あかりは、真剣に話をしてくれた。
「読み終わって、コメントを書いたの。恥ずかしいから本名は書かなかったよ。そのかわりに、白ちゃんってペンネームにしたの。白ちゃんの名前使っちゃった。」
あかりは、はにかんで笑った。それから、あかりは一度家に入って、戻って来た。
「白ちゃん。色々心配かけちゃったね。私ね、明日も学校に行けるよ。」
あかりはそう言って、牛乳の入った皿を差し出してくれた。私は、それを遠慮なく飲んだ。
「白ちゃん、ありがとね。」
あかりは、そうお礼を言ってくれた。
あかりの家を後にして歩いていた。翔と桃子の住むアパートに来た。ちょうど仕事から帰って来た桃子と偶然会った。
「あれ、ミルクだよね?」
桃子はそう言って、私に近づいて来た。そして、目の前でしゃがみこんで、話をした。
「圭介さんって、知ってるでしょ?花屋の、男の人。その人から連絡先を聞かれたの。それで、最近電話で話すの。なんかね、圭介さん、私の事が好きみたいなんだ。私もね、話してて圭介さんって、いい人だなって思ったの。でもね、ご飯に誘われても、ことわったんだよね。」
なんでだろうと、私は首をかしげた。
「だって、私彼氏いない歴六年なんだもん。うまく男性とつきあえるか、わかんないよ。それに、つきあうなら、もうこの年だし結婚とか考えたいの。でも、いきなり結婚なんて言ったら相手には、重い女っておもわれちゃうよね。」
そんな事はないのにと、私は思った。そこに、翔が帰って来た。
「桃子さん、こんばんは。」
「あ、翔君。こんばんは。」
桃子は立ち上がって翔に挨拶をした。
「翔君は夜ご飯、何食べるの?」
「僕は、適当に作って食べます。」
「へぇ、料理するんだね。えらいね。」
「いえ、僕のおかずのレパートリーなんて少なくて。」
「でも、すごいよ。私なんて、今日もカップラーメンだよ。たまには、おいしいもの食べたいな。」
「あ、そういえば、バイト先の子が言ってましたよ。花屋のとなりの喫茶店、店内もきれいだしおいしかったって。」
「へぇ、あの喫茶ってんね。」
「今度行ってみたらッてすすめられました。桃子さんも、いつか行ってみたらどうですか。」
「そうね。行ってみたいな。」
「それじゃあ、僕はご飯作らないとなので。」
「私も、カップラーメン食べないと。じゃあ、またね。」
桃子は翔に手を振ってから、私にも手を振ってアパートの中に入って行った。翔も私に手を振って、アパートに入って行った。私は、首をかしげて考えた。圭介は桃子を好きだ。桃子も圭介が気になっているようだ。それなのにどうして、桃子は圭介の誘いを断ったのだろう。まったくわからない。私は、そう思っていつもの公園に向かって歩き出した。
翌日、神社に行った。私は今までたくさんの願い事をこの神社にしてきた。あかりが元気に学校に行けるようになったので、今日はお礼参りをしようと思ってやって来た。
お礼参りを終えてから、ふと思った。そういえばと思い出して、圭介と桃子の事もついでにお参りをした。それから、私は、花屋に向かった。
花屋の店にやって来た私は、大きな窓から店内にある色とりどりの花々を見ていた。きれいだなと思って見ていると、圭介が店から出てきた。私に気が付くと、さっそく近づいてしゃがみこみ、話を始めた。圭介の話は、いつも長い。私はちょこんと座って話を聞いた。
「ミルク、聞いてくれ。桃子さんから昨日電話がきたんだ。それで、そこの喫茶ってんに今度二人で行く事になったんだ。」
それはそれはうれしそうに、圭介は言った。
「神社でお参りしたからかな。さっそくご利益があったな。で、うれしすぎてさ。でも、次に問題が起こったんだ。」
今度はなんだと、私は思った。
「着て行く服がないんだ。」
なんだ、そんな事かと私は思った。
「今までデートなんてした事ないからな。着て行く服がないんだ。クローゼットあさっても、なくてさ。ダサい男だって思われたくないんだよ。何を着て行けばいいかな。」
私は、やれやれと思た。圭介の話は、いつもやれやれだ。
「きっと桃子さんは、仕事の帰りに来るからきちんとした服を着てくるだろうな。だから、となりにいてもはずかしくない服を着て行かないとな。」
私は、圭介の表情を見ておもった。よろこんだり悩んだり、表情がくるくる変わる。まったく忙しい人だなと思った。
「猫はいいよな。服着なくてもいいから。」
なんだそれ、だったら圭介も服を着なければいいじゃないかと、私はちょっと思ってしまった。
「でもな、俺は裸で行くわけにもいかないしな。」
まさか、私の心の声が聞こえたのかと、私は思った。
「うーん。何を着ていけばいいんだ。この際、買い物に行って、店の人に事情を話して、かっこいい服をコーディネートしてもらおうか。でも、俺、あんまりお金ないしな。」
圭介はそんな事をずっと話していた。すると、店の中から、副店長が出てきて、圭介を怒鳴った。
「圭介、いつまでそんな所にいるの!早く配達に行って来なさい。」
「はいはい。」
圭介はたちあがって、軽トラックの方へと歩いて行った。一度立ち止まり、私を見て言った。
「ミルク、また来てくれよな。」
もしかして、私が圭介の話は長いと思っていた事がバレてしまったのだろうか。圭介は、軽トラックに乗って、配達に出かけて行った。それにしても、たった一言で圭介を動かす副店長はすごいなと私は思った。
私は、午後から公園のベンチで昼寝をしていた。日差しがポカポカしていて、気持ちがいい。すやすやと眠っていると、優しい風が吹いて、まるで私の体を優しくなでてくれているみたいだった。そのまどろみから目を覚まして、私はある場所に行こうと思った。
ベンチから降りて私は公園を出た。いつもは行かない方向へ向かう。
トコトコと歩いてやってきたのは、ある場所だった。私の目の前には電柱がある。そのうしろには民家のブロック壁がある。私は、以前ここで車にひかれそうになった。あれは私がまだ子猫だった頃の事だ。捨て猫だった私は、親猫をさがすのにこのあたりをうろうろしていた。車が来ている事には全く気がつかなかった。すごく大きな音が聞こえて、その音の方向を見た時には、私の目の前にすごいスピードで車が近づいてきたところだった。危ないと私は、とっさに目をつぶった。しかし、次の瞬間、誰かに私は助けられた。優しくて大きな両手が私を守ってくれたのだった。そして、車はものすごいブレーキ音を出して、何かにぶつかった。ドン!と大きな音が聞こえた。何が起こったのか、すぐには理解できなかった。ようやく理解したのは、救急車とパトカーのサイレンが聞こえた時だった。私は、男子高校生に助けてもらって無事だったが、私を助けてくれた男子高校生は即死だった。それが、斗真だ。私は、ここであの日、斗真に命を救ってもらったのだ。私はあの時の事を思って目をとじた。斗真がこの私の命を救ってくれたからこそ、私は今こうして生きている。斗真、本当にありがとう。斗真に感謝を伝えてから、私はまた公園に戻った。
夕方になった。私は公園のベンチで座っていた。そこに彩ちゃんがやって来た。白杖を上手に使ってこちらに歩いて来る。ベンチまでたどりつくと、いつものように手でベンチを確認してから座った。
「ニャー。」
私が挨拶すると、彩ちゃんが私にも挨拶をしてくれた。
「猫ちゃん、こんにちは。」
彩ちゃんと、しばらく二人夕暮れ時の音を聞いていた。それから彩ちゃんが、私に話しかけてくれた。
「小説がね、この前歓声したの。」
彩ちゃんはうれしそうに言った。
「斗真君にいつか話したあの小説が、完成したの。私は高校には行ってないから、高校生活をしらないでしょ。だから、わたしのあこがれを小説にこめたんだよ。」
彩ちゃんは、まるで私だけでなくここに斗真がいるように、優しい口調で話をした。
「休み時間にお菓子を食べながら友達とおしゃべりしたり、お昼休みに購買に行ってパンとジュース買ったり。帰り道に寄り道して、友達とドーナツ食べたり。ふふふ、この話した時、斗真君言ってたよね。食う事ばっかりだなって。」
彩ちゃんは、なつかしそうな顔をして話を続けた。
「それでね、あこがれのアオハルってタイトルにしたの。小説を書くためにパソコン教室に通って良かったよ。パソコンができるようになったから、小説が書けたわけだしね。でもね、小説投稿サイトにアップするのは、お兄ちゃんにしてもらったの。音声ソフトはね、キー操作じゃないと使えないから。」
キー操作ってなんだろうと思いながら、私は彩ちゃんの話を聞いた。
「マウスで操作すると音声で画面を読み上げてくれないの。だから、見えない私にはマウスの操作ができなくて、小説投稿サイトにアップする時はお兄ちゃんにしてもらうしかないんだよね。それで、昨日、私の小説を読んでくれた人がいたのかなって思って、お兄ちゃんにいいねがついているか見てもらったの。」
彩ちゃんは、私の方を見て笑顔で言った。
「いいねが一つあるぞって言われたの。うれしかったな。すごくすごくうれしかったな。一生懸命書いて良かったなって、心から思ったの。それでね、お兄ちゃんが言ったの。コメントもあるぞって。そのコメントも、お兄ちゃんから読んでもらったの。そのコメントに羽根、私もこんな学校生活にあこがれていますって一言だけ書いてあったの。白ちゃんって人からの、たった一言のコメントが、私にはすっごくすっごくうれしかったの。書いてよかったなって。思ったんだ。」
私は彩ちゃんの話を聞いて、そのコメントをしたのが、あかりだとわかった。彩ちゃんは、本当にすがすがしいほどの笑顔をしていた。本当にうれしいのが、伝わってくる。小説を書いた彩ちゃんと、それを読んだあかりが、見えない糸でつながれたんだなって、私は思った。
「猫ちゃん、私ね、最近思うの。見えなくなって、本当に人生に絶望してた頃もあったけど。なんで病気になったのが、私だったのかって、神様を恨んだりもした。でもね、こういうふうに目がみえなくなって、弱い立場になったからこそ、見えたものがあるの。」
なんだろうと、私は首をかしげた。
「本当の優しさが、わかるようになったの。本当の優しさがなんなのか、見えるようになったの。」
彩ちゃんは、話を続けた。
「翔君は、白杖を持っている私にも、普通に接してくれるでしょう。同情とかじゃなくて、特別扱いでもなくて。そういうのが、うれしいの。普通にしていてくれる子音が。それにね、ママと二人で出かけたりした時にもね、声をかけてくれる人がいたりして。気にかけて声をかけるなんて、きっと私なら、こんなふうに見え亡くならなかったら、私にはそんな気遣いはできなかったと思うの。さりげない優しさとか、思いやりがうれしいんだなって、心から思ったの。だから、病気になった事はいやな事だけど、病気になったからこそ、気づけた事もあるんだなって。」
その時、一瞬強い風が吹いた。思わず私は目をつぶった。そして、目をあけると、目の前には、ブレザーの制服を着た斗真が立っていた。
「斗真君。」
彩ちゃんにも斗真が見えるみたいだ。斗真は優しい顔で、私と彩ちゃんを見た。そして、本当に本当に優しい微笑みを浮かべた。その時、今度は静かな風が吹いた。そして、斗真の姿は消えた。
「猫ちゃん、今斗真君いたよね?」
「ニャー。」
「猫ちゃんにも、見えたよね?」
「ニャー。」
「もしかして、斗真君の事を思って話をしていたから、出て来てくれたのかな。私と、猫ちゃんに会いに来てくれたのかな。」
私も彩ちゃんと同じ事を考えた。
「ニャー。」
私は彩ちゃんに声をかけた。
「うれしいね。一瞬だけど、斗真君に会えたね。」
彩ちゃんは、そう言って私の頭をやさしくなでてくれた。そして、しばらく、二人で静かに公園のベンチに座っていた。
彩ちゃんが帰って、私は一人になった。今日はいろんな事があったなと思った。私は、斗真のおかげで、こうして生きている。斗真からもらった大切な命だ。私は猫だけど、これからもたくさんの人と出会いたい。そして、たくさんの話を聞きたい。もちろん、これからも彩ちゃんの話も聞くし、あかりや翔、圭介や桃子の話も聞くつもりだ。私は、猫。白い猫。いわゆる野良猫。でも、名前はいくつかある。誰かの何かの役にたてれば、私はうれしい。これからも幸せな野良猫生活を楽しもうと思う。

