続 ・ あなたが愛しすぎて…
朝の光がリビングの床に柔らかな四角い模様を作っている。

絵里がキッチンで朝食の支度をしていると、背後で小さな足音が響いた。まだ足元がおぼつかない一歳の陽葵が、トコトコとベットへ向かっていく。

​そこには、まだ眠りの中にいる章男がいた。
​陽葵は迷うことなく、章男の頬を小さな手でペシペシと叩く。章男は音では起きない。けれど、肌に伝わる愛おしい体温と振動に、ゆっくりと瞼を持ち上げた。

​目が合った瞬間、章男の顔がくしゃりと綻ぶ。
彼は声を出さずに、けれど誰よりも雄弁な笑顔で陽葵を抱き寄せた。

​「あー、パパ起きたね」
​絵里が手を止めて二人に歩み寄る。章男は絵里に気づくと、片手でひらひらと手を振り、それから指先を動かした。

​『おはよう。今日の絵里も可愛い』
​直球すぎる手話に、絵里は少し照れながら「おはよう」と口の形をはっきりさせて返す。

​かつて、絵里は一度この場所から逃げ出したことがあった。元カレの圭佑との、激しく、痛みを伴う愛に引き戻されたあの日。

けれど、傷ついた自分を最後に救ってくれたのは、章男の静かな、海のような深い優しさだった。

​章男を裏切ってしまった過去は消えない。けれど彼は、戻ってきた絵里を責める代わりに、ただ温かいお茶を淹れ、隣に座ってくれた。

その静寂の中で、絵里はようやく「本当の愛」を見つけたのだ。
​陽葵が二人の間に割り込むように、章男の鼻をつまんだ。

章男はおどけた顔をして、陽葵の手を優しく包み込む。そして、絵里の手も一緒に。

​章男の手は、いつも温かい。
言葉にならなくても、伝えきれないほどの想いがその手のひらから伝わってくる。

​「ねえ、章男。明日は三人で公園に行こう」
​絵里がゆっくりと話しかけると、章男は頷き、陽葵を高く抱き上げた。

陽葵の弾けるような笑い声が部屋に響く。章男にその声は聞こえないけれど、腕に伝わる振動と陽葵の表情から、彼は世界で一番美しい音楽を聴いているようだった。

​失った時間を埋めるのではなく、新しい時間を積み重ねていく。

この小さな家には、もう、哀しい涙はいらない。
​絵里は二人の姿を見つめながら、心の中でそっと呟いた。
——選んでよかった。あなたのいる、この静かな世界を。
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