トップアイドルは白衣の天使に恋をする-second-
夜になった頃。

ICU前の空気は、少しだけ落ち着きを取り戻していた。

そんな中廊下の向こうから、足音が近づいてくる。

黒いスーツ姿の男性。

背の高い、整った顔立ち。

でもその表情には、明らかな疲労が滲んでいた。

「……黒瀬さん」

黒騎士のマネージャー。

私は以前、東京で一度だけ会ったことがある。

黒瀬さんはまず、紗凪のお父さんお母さんへ深く頭を下げた。

「初めまして。佐野陽貴のマネージャーをしております、黒瀬です」

落ち着いた、大人の声。

お父さんも静かに頭を下げ返した。

黒瀬さんの視線は、その後すぐ陽貴さんへ向いた。

空気が変わる。

「陽貴」

低い声。

陽貴さんは、紗凪の手を握ったまま振り返る。

「……何」

「もう戻らないといけない」

その瞬間。

部屋の空気が張った。

陽貴さんの表情が、一気に消える。

「……嫌だ」

即答だった。

黒瀬さんも表情を変えない。

「気持ちは分かる。でも限界だ」

「2日間、出来る限りこっちも調整した」

「スポンサーも、現場も、全部止めてる」

静かな声。

でもかなり切羽詰まっていた。

「これ以上は待てない」

陽貴さんが、ゆっくり立ち上がる。

「……こんな状態で?」

掠れた声。

「紗凪がこんな状態なのに、俺だけ帰れって?」

黒瀬さんも引かない。

「陽貴、お前一人で何人動いてると思ってる」

「分かってる」

「分かってない」

空気が重くなる。

陽貴さんは完全に拒絶の目をしていた。

「俺は行かない」

「絶対無理」

「今ここ離れるとか、ありえない」

声が震えている。

怒りじゃない。

怖いんだ。

また目を離した瞬間、失うんじゃないかって。

それが痛いほど伝わってくる。

私は思わず視線を落とした。

……そりゃそうだ。

やっと目を開けたばかりなのに。

そんな簡単に離れられるわけがない。

でも。

黒瀬さんの言ってることも分かる。

この人は、“佐野陽貴”を背負ってる。

その責任の重さも、本物だ。

どうしたらいいんだろう。

そう思った、その時だった。

きゅっ——

小さな音。

全員の視線が、ベッドへ向く。

紗凪だった。

陽貴さんの手を、ぎゅっと握っている。

「……紗凪?」

陽貴さんがすぐ顔を近づける。

紗凪は、ゆっくり瞼を開けた。

まだぼんやりしてる。

焦点も不安定。

それでも。

何かを伝えようとしていた。

「どうした?」

陽貴さんの声が、一気に優しくなる。

「苦しい?」

「どっか痛い?」

紗凪は小さく首を横に振る。

そして。

弱々しい手で、陽貴さんの手を押した。

まるで。

“行って”

そう言うみたいに。

陽貴さんの表情が止まる。

「……やだ」

子どもみたいな声だった。

「行かない」

紗凪は苦しそうに息をしながら。

それでもまた、小さく手を押す。

涙が、陽貴さんの目に滲む。

「……なんでそんなことするの」

掠れた声。

「今、俺のことなんかいいから」

「ちゃんと自分のこと考えてよ……」

でも。

紗凪は、また小さく首を横に振った。

その目が。

“あなたが大事だから”

そう言ってるみたいで。

陽貴さんは、とうとう俯いた。

握った手に額を押し当てる。

肩が震えていた。

誰も、何も言えなかった。
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