トップアイドルは白衣の天使に恋をする-second-
PHSを握る手に、自然と力が入った。

——ドクターヘリ要請。

ずっと聞きたかった音。

でも同時に。

身体の奥が、少しだけ強張る。

あの日の記憶が、一瞬脳裏を掠めた。

血の匂い。

警報音。

意識が落ちていく感覚。

思わず呼吸が浅くなる。

その時だった。

「紗凪ちゃん」

森崎さんの声。

私はハッとして顔を上げる。

森崎さんは、すぐ近くまで来ていた。

「大丈夫」

静かな声。

「今日は“戻る日”や」

「完璧にやる日ちゃう」

その言葉に、少し肩の力が抜ける。

私は小さく息を吐いた。

「……はい」

すると西国先生がカルテ端末を見ながら言う。

「CPAは回避済み。外傷メイン」

「現地で気胸疑い」

「搬送時間短めや。落ち着いていくぞ」

「はい!」

ERの空気が、一気に戦闘モードへ変わる。

私は無意識に、隣へ視線を向けた。

そこには、フライトバッグを掴んだ橘さん。

「……橘さん」

声をかけた瞬間私は気づいた。

橘さんの手が、震えていた。

ほんの小さく。

でも隠しきれないくらい。

顔色も少し白い。

呼吸が浅い。

あの日から。

橘さんは、まだ一度もヘリへ乗れていない。

分かっていたことなのに。

実際に目の前で見ると、胸が締め付けられた。

私はゆっくり近づく。

「……一緒に、乗れますか?」

できるだけ優しく聞いた。

橘さんが、びくっと肩を揺らす。

そしてヘリポートの方向を見る。

数秒。

沈黙。

ぎゅっと握られた拳。

その震えが、少しずつ強くなっていく。

私は何も言わず待った。

すると橘さんが唇を噛みながら、小さく首を横に振った。

「……っ、すみません……」

掠れた声。

その瞬間。

周囲が少し静かになる。

私はすぐ笑った。

「わかりました」

責める声なんて、一切出さずに。

「またあとで、一緒に作戦会議しましょ」

出来るだけ、いつも通りに。

橘さんが、はっとした顔で私を見る。

私は続けた。

「今日は地上からサポートお願いします」

「橘さんの記録、めちゃくちゃ助かるので」

すると橘さんの目が、一気に潤んだ。

「……一ノ瀬さん……」

泣きそうな顔。

私は小さく笑う。

「焦らなくて大丈夫です」

「ヘリ、逃げませんから」

その言葉に。

橘さんが、ぐしゃっと顔を歪めた。

でも今度はちゃんと頷いた。

その時後ろから森崎さんの声。

「よし、チーム変更するで」

主任としての、低く通る声。

みんなが一斉に動きを止める。

森崎さんは一瞬だけ橘さんを見て。

全部察したみたいに、静かに頷いた。

それからすぐ切り替える。

「橘さんはER待機」

「一ノ瀬さんは俺と行く」

「西国先生、フライト同行お願いします」

「了解」

西国先生が短く返す。

森崎さんは続けた。

「復帰初日や。無理は絶対させへん」

そう言いながら。

ちらっと私を見る。

「しんどなったら即帰還。ええな?」

「……はい」

返事をした瞬間。

胸が高鳴った。

——乗るんだ。

また。

あの空へ。

ヘリポートへ向かうエレベーター。

乗り込む瞬間。

ほんの少しだけ、手が震えた。

怖くないと言えば嘘になる。

あの日の記憶が、完全に消えたわけじゃない。

でも。隣には森崎さんがいた。

前には西国先生。

後ろでは整備士さんたちが動いている。

聞き慣れた音。

聞き慣れた声。

帰ってきたんだって、実感する。

ヘリポートの扉が開く。

強い風。

ローター音。

空気が震える。

その瞬間。

森崎さんが、私の肩を軽く叩いた。

「一ノ瀬さん」

私は顔を上げる。

すると森崎さんが、少し笑った。

「おかえり、空へ」

胸の奥が、熱くなる。

私はヘルメットを被り直し。

そして。

真っ直ぐ前を向いた。
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