タイムリープするお嬢様――二度目の婚約破棄はもう遅い。あなたが破滅する始まりです
58 雪解けの予感
騒動から数日後、ベアトリスがキャサリンの屋敷を訪ねて来た。
約束を取り付けていたわけではない。
それでも、エマが来客を告げた瞬間、キャサリンには相手が誰だかわかった。
「通して」
応接室に現れたベアトリスは、前回とはどこか違う雰囲気をまとっていた。
落ち着いた茶色のドレス。
きちんと整えられた銀色の髪。
いつもと変わらない出立ちのはずなのに、その表情が違う。
――ああ、そういう顔もできたのね。
ずっと堪えていた人間が、ようやく解放されたときの安堵が体中に満ちている。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
ベアトリスが丁寧に頭を下げる。
「どうぞ、座ってくださいな」
エマが紅茶を用意して、部屋の端へと下がる。
向かい合って座ると、ベアトリスが少しだけ迷うような素振りを見せてから、口を開いた。
「この度は……本当に、ありがとうございました」
そこで言葉が途切れる。
続けようとして、どこから話せばいいかわからなくなっているようだった。
「お礼を言いに来てくださったの?」
「それだけではありません」
ベアトリスがキャサリンをまっすぐに見た。
「お礼と……それから、報告がしたくて」
報告という言葉に、キャサリンの口元がわずかに緩む。
「聞かせてください」
ベアトリスの話は、舞踏会の夜から始まった。
アーサーに誘われてダンスをした、あの場面のことだ。
「驚いたんです」
ベアトリスが静かに言った。
「アーサー様が、あんな形でいらしてくださるとは思っていなくて……。それに、踊りながら言ってくださったことが……」
「何とおっしゃったの?」
キャサリンが問い返すと、ベアトリスの頬がほんのりと赤くなった。
「……ずっと待たせてごめんと」
キャサリンは何も言わない。
ベアトリスがカップを両手で包むようにして、視線を落とす。
「私、首を横に振ってしまったんです」
「どうして?」
「待っていたわけじゃないですから。でも、そのときはそれしかできなくて……」
キャサリンはその一言の意味をゆっくりと理解した。
待っていたと認めることは、自分の気持ちを完全に言葉にしてしまうことに等しい。ベアトリスにとって、それはまだ怖いことだったのだろう。
だから、首を横に振った。
待っていなかったわけではないのに。
「アーサー様は、それからなんと?」
ベアトリスが少しだけ笑う。
「困った顔をされていました。それから笑ってもいました」
「それだけ?」
ベアトリスがカップをソーサーに戻す。
「それだけです。……でも、翌日また会いに来てくださいました。昨日の話の続きをしようと」
「それで?」
「今度はちゃんと話せました」
深くは聞かない。
話せたという事実だけでも、キャサリンには十分だった。
ベアトリスもそれ以上は語らない。
ただ、その横顔が舞踏会のどの瞬間よりも穏やかだったので、キャサリンには結末が見えた気がした。
「では、またいずれ」
立ち上がったベアトリスが、深く一礼する。
扉に向かいかけて、ふと足を止めた。
「キャサリン嬢」
「なんです?」
「あの本の主人公は、最後にちゃんと幸せになれるのでしょうか?」
恋愛小説のことだ。
想いを打ち明けられないまま縁談を受け入れてしまった、あの令嬢のことを聞いている。
キャサリンは少しだけ間を置いた。
「まだ私も途中までしか読んでいませんの。でも、きっとなれると思いますわ」
ベアトリスが静かに笑う。
もうそこに薄い磁器のような危うさはない。
「そうですね。私もそう思います」
扉が閉まる。
廊下の足音が遠ざかっていく。
キャサリンはしばらく、閉じられた扉を眺めていた。
「よかったですね」
エマが静かに言った。
「ええ」
短く答えて、キャサリンは窓の外に目をやった。
冬の王都に、また雪が降り始めていた。
白く積もった屋根と、石畳。
それでもどこか、少しだけ空が明るいようにも見える。
――春はもう少し遠いかしらね……。
キャサリンはそっと息をついた。
約束を取り付けていたわけではない。
それでも、エマが来客を告げた瞬間、キャサリンには相手が誰だかわかった。
「通して」
応接室に現れたベアトリスは、前回とはどこか違う雰囲気をまとっていた。
落ち着いた茶色のドレス。
きちんと整えられた銀色の髪。
いつもと変わらない出立ちのはずなのに、その表情が違う。
――ああ、そういう顔もできたのね。
ずっと堪えていた人間が、ようやく解放されたときの安堵が体中に満ちている。
「本日はお時間をいただき、ありがとうございます」
ベアトリスが丁寧に頭を下げる。
「どうぞ、座ってくださいな」
エマが紅茶を用意して、部屋の端へと下がる。
向かい合って座ると、ベアトリスが少しだけ迷うような素振りを見せてから、口を開いた。
「この度は……本当に、ありがとうございました」
そこで言葉が途切れる。
続けようとして、どこから話せばいいかわからなくなっているようだった。
「お礼を言いに来てくださったの?」
「それだけではありません」
ベアトリスがキャサリンをまっすぐに見た。
「お礼と……それから、報告がしたくて」
報告という言葉に、キャサリンの口元がわずかに緩む。
「聞かせてください」
ベアトリスの話は、舞踏会の夜から始まった。
アーサーに誘われてダンスをした、あの場面のことだ。
「驚いたんです」
ベアトリスが静かに言った。
「アーサー様が、あんな形でいらしてくださるとは思っていなくて……。それに、踊りながら言ってくださったことが……」
「何とおっしゃったの?」
キャサリンが問い返すと、ベアトリスの頬がほんのりと赤くなった。
「……ずっと待たせてごめんと」
キャサリンは何も言わない。
ベアトリスがカップを両手で包むようにして、視線を落とす。
「私、首を横に振ってしまったんです」
「どうして?」
「待っていたわけじゃないですから。でも、そのときはそれしかできなくて……」
キャサリンはその一言の意味をゆっくりと理解した。
待っていたと認めることは、自分の気持ちを完全に言葉にしてしまうことに等しい。ベアトリスにとって、それはまだ怖いことだったのだろう。
だから、首を横に振った。
待っていなかったわけではないのに。
「アーサー様は、それからなんと?」
ベアトリスが少しだけ笑う。
「困った顔をされていました。それから笑ってもいました」
「それだけ?」
ベアトリスがカップをソーサーに戻す。
「それだけです。……でも、翌日また会いに来てくださいました。昨日の話の続きをしようと」
「それで?」
「今度はちゃんと話せました」
深くは聞かない。
話せたという事実だけでも、キャサリンには十分だった。
ベアトリスもそれ以上は語らない。
ただ、その横顔が舞踏会のどの瞬間よりも穏やかだったので、キャサリンには結末が見えた気がした。
「では、またいずれ」
立ち上がったベアトリスが、深く一礼する。
扉に向かいかけて、ふと足を止めた。
「キャサリン嬢」
「なんです?」
「あの本の主人公は、最後にちゃんと幸せになれるのでしょうか?」
恋愛小説のことだ。
想いを打ち明けられないまま縁談を受け入れてしまった、あの令嬢のことを聞いている。
キャサリンは少しだけ間を置いた。
「まだ私も途中までしか読んでいませんの。でも、きっとなれると思いますわ」
ベアトリスが静かに笑う。
もうそこに薄い磁器のような危うさはない。
「そうですね。私もそう思います」
扉が閉まる。
廊下の足音が遠ざかっていく。
キャサリンはしばらく、閉じられた扉を眺めていた。
「よかったですね」
エマが静かに言った。
「ええ」
短く答えて、キャサリンは窓の外に目をやった。
冬の王都に、また雪が降り始めていた。
白く積もった屋根と、石畳。
それでもどこか、少しだけ空が明るいようにも見える。
――春はもう少し遠いかしらね……。
キャサリンはそっと息をついた。