ことば湯、ひとしずく――道後の小さな宿に、言えなかった想いを置いていく
第十四章 言いすぎた夜
十一月になった。
道後の朝は、息が白くなる季節になった。石畳が冷えて、温泉本館から出てくる客が、湯上がりの体に風を受けて肩をすくめている。宿の内湯も、この時期になると入りに来る人が増える。夏の間は少し持て余し気味だった湯船が、秋冬には本来の意味を取り戻す。
わたしは変わらず帳場に立ち、客を迎え、宿の仕事を続けていた。
なじんでいることは確かだった。でも十月の終わりから、頭の中に出てきた問いが、消えないまま続いていた。このままでいいのか。次はどうするのか。いつまでここにいるのか。
答えは出ていない。出ないまま、日々の仕事をしていた。
仕事をしている間は、問いが遠のく。でも夜、六号室に戻ると、また戻ってくる。その繰り返しが、十一月になってから少し重くなっていた。
澪さんが動いたこと、白石さんのはがきに書かれていた言葉、予約帳に積み重なったリピーターの記録。そういうものがいくつも重なって、わたしの中に何かを堆積させていた。
お父さんと言い合いになったのは、十一月の半ばの夜だった。
実家に帰ると、夕食のあと、居間でお父さんとわたしと、お母さんの三人になった。お母さんはお茶を持ってきて、しばらく三人でテレビを見ていた。特に話すこともなく、でも沈黙が気まずいわけでもない、いつも通りの時間だった。
それを崩したのは、お父さんだった。
お父さんは湯飲みに手を伸ばしたが、すぐには飲まなかった。何か言うべきか、言わない方がいいのか、その間で迷っているように見えた。
けれど、迷った末に選ぶ言葉は、いつも少し硬くなる人だった。
「由良、最近どうなんだ」
「どうって」
「宿の方は落ち着いたか」
「落ち着いた」
「そうか」
お父さんはそう言って、少し間を置いた。
「もうそろそろ、先のことを考えないといけないんじゃないか」
また来た、と思った。
先のこと。次のこと。いつまでここにいるのか。わたし自身が問い続けていることを、お父さんも言ってくる。自分の中の問いと、外からの同じ問いが重なると、逃げ場がなくなる感じがした。
「考えてる」
「考えてるなら、何か動き始めないといけないだろう。もう何か月も経ってる」
「分かってる」
「分かってるなら」
「分かってるって言ってる」
声が少し硬くなった。お父さんも気づいたようで、一拍置いた。でも止まらなかった。
「宿の手伝いをしてることは、悪いとは言ってない。ただ、それを続けるのか、別の仕事を探すのか、どっちにしても決めないといけない時期が来てるだろう。由良ももう二十六だし」
「二十六だから何なの」
「社会的に見て、空白期間が長くなるのは不利だろう」
「空白期間」
その言葉が、どこかに刺さった。
宿で過ごしたこの半年が、空白だと言われた気がした。もちろん、お父さんの言いたいことは分かる。履歴書上の話をしている。でも、言葉が刺さった。壊れていたものがここで少しずつ戻ってきて、言えなかったことが言えるようになってきて、ことば帳に二行書けて、澪さんの話を聞いて、白石さんに鍛えられて、佐和さんに泣かせてもらって、そういう全部が、空白に見えた。
「空白じゃない」
「そういう意味じゃなくて、客観的に見ると」
「客観的に見てどう見えるかより、わたしにとって何だったかの方が重要だと思う」
「でも社会は客観的な見方をする」
「今それを言う必要ある?」
「いつ言うんだ」
「わたしが聞く気になったときでいい」
「お前が聞く気になったときまで待ってたら、いつまでたっても話せないだろう」
「それは、わたしが話を聞かない人間だって言いたいの」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味」
「心配してるだけだ」
「心配してるなら、もう少し言い方を考えてほしい」
「俺はそういう言い方しかできない」
「知ってる。だから毎回傷つく」
言ってしまった、と思った瞬間に、もう遅かった。
お父さんの顔が、少し固まった。お母さんが「由良」と小さく言った。
でも言葉は続いた。止められなかった。
「ずっとそうだった。何か言うたびに、的外れで、言い方が雑で、わたしがどう受け取るか考えてない。心配してるのは分かってる。でも、心配してるから何を言ってもいいわけじゃない。東京で限界になってたとき、誰にも言えなかったのは、言っても分かってもらえない気がしてたから。お父さんに話せる気がしなかったから。それは、ずっとそういうふうに接してきたから」
台所の換気扇の音だけが聞こえた。
お父さんは何も言わなかった。お母さんも黙っていた。
わたしは立ち上がって、上着を羽織り、鞄を手に取った。
「少し出てくる」
返事を待たずに玄関を出た。
夜の道を歩きながら、足が勝手に動いていた。
どこへ行くかは考えていなかった。ただ、家の中にいられなかった。言いすぎた、という感覚はあった。でも、言ったことが間違いだったかどうかは、まだ分からなかった。間違いじゃないと思う言葉が、傷になることがある。
カフェ・コウノへ向かっていた。
九時を過ぎていたが、佐和さんの店はもう少し開いている。引き戸を押すと、中に明かりがあった。客はいなかった。佐和さんがカウンターの中で、グラスを拭いていた。
顔を見た瞬間に、視界がぼやけた。
泣きそうになっている、と気づいたのと、佐和さんが「どうしたの」と言ったのが、ほぼ同時だった。
カウンターに座ると、涙が出てきた。
ぼろぼろと、というほどではなかった。でも、止められなかった。
「お父さんと言い合いをした」
「うん」
「言いすぎた。でも言いたかったことでもあった」
「うん」
佐和さんはコーヒーではなく、温かいお茶を出してくれた。グラスを拭く手を止めて、カウンターの内側からわたしの方を向いて、ただそこにいた。
「何を言ったの」
「ずっとお父さんの言い方に傷ついてきたこと。言っても分かってもらえない気がして、東京でのことも話せなかったこと。そういうことを、全部一度に言ってしまった」
「全部言えたじゃない」
「でも、お父さんの顔が固まって。お母さんも黙って。言いたかったことを言ったのに、すっきりしない」
「そうだよ。言えたからって、すっきりするとは限らない。言ったあとの方がしんどいこと、あるから」
「何のために言ったんだろう」
「それは由良ちゃんが決めることだけど」
佐和さんはカウンターに肘をついた。
「聞いていい?」
「うん」
「由良ちゃんが一番怖かったのって、何?」
「怖かった?」
「東京で壊れていくとき。何が一番怖かった」
考えた。
足が動かなくなった朝のことを思い出した。息が吸えなくなった夜のことを。でも、それ自体が怖かったのか、というと、少し違う。
「壊れてしまった自分を、認めることが怖かった」
言葉が出てきた瞬間に、それだと思った。
「仕事を辞めたことが怖かったんじゃなくて、辞めなければいけないほど壊れてしまった自分がいることを、認めることが怖かった。認めると、そこまでの全部が崩れる気がして」
「崩れた?」
「崩れなかった。でも、ずっとそれが怖くて、だから誰にも言えなかった。言わないでいる間は、まだ認めなくて済む気がしてた」
佐和さんは黙って聞いていた。
「お父さんに言えなかったのも、お父さんを傷つけたくなかっただけじゃなくて、お父さんに言うと、本当になる気がしてたのかもしれない。ちゃんとした言葉で認めてしまうことへの怖さだった。そこまでは、まだ言えてない」
「でも、今夜は少し近づいたんじゃない」
「何に?」
「認めることに」
佐和さんの言葉を聞いた瞬間、少し泣けてきた。今度は声が出た。声が出ると、それまで胸の中に詰まっていたものが、少しずつ出てくる感じがした。
佐和さんはそのあとは何も言わなかった。ただ、お茶のカップを少し前に押した。
飲んで、とそういうことだと思った。
飲んだ。温かかった。体の内側に熱が通った。
「お父さんに言ったことは、間違いじゃないと思う。言い方は最悪だったかもしれないけど、内容は本当のことだった」
「じゃあ、内容までなかったことにしなくていいんじゃない」
「謝らないといけないかな」
「言い方が最悪だったと思うなら、そこは謝ればいい。でも内容まで謝ることはない」
「言い方と内容を分けて謝れるかな」
「難しいけど、やろうとする価値はある」
佐和さんはそう言ってから、少し間を置いた。
「由良ちゃん、今夜初めてだよ」
「何がですか?」
「ちゃんと泣いたの。ここ来てから」
言われて気づいた。
何度も感情が揺れた。胸が痛くなったことも、目が熱くなったことも、あった。でも、こうして声を出して泣いたのは、今夜が初めてだった。
「泣けるようになったんだね」
「泣けるようになった」
「それはよかったと思う。泣けない間は、どこかがまだ固かったってことだから」
固かった。そうかもしれない。壊れてしまった自分を認めることへの怖さが、体のどこかを固くしていた。今夜、言葉にして、泣いて、少し固さが溶けた。
カップのお茶を飲み干した。
「もう少ししたら、帰ります」
「うん」
「佐和さん、ありがとう。また来ます」
「いつでも」
引き戸をあけて外に出ると、夜の冷たい空気が顔に当たった。
涙の跡が少しひりついた。でも、体は不思議と軽かった。
実家へは戻らず、その夜はことの葉亭に泊まった。
おばあちゃんに電話を一本入れると、「六号室、開けておくから」とだけ言われた。何も聞かなかった。
六号室に入ると、布団が敷いてあった。枕元に、みかんの菓子が小皿に一つ載っていた。
それを見た瞬間に、また少し泣けてきた。
おばあちゃんは、何も言わずに用意してくれていた。来ることを知って、ただ部屋を整えて、小さな菓子を置いておいた。それだけのことが、今夜は十分すぎるほどだった。
布団に入って、天井を見た。
今夜言ったことを、また整理しようとした。でも整理できなかった。頭が疲れていた。
整理しなくていい、と思った。
今夜起きたことは、今夜起きた。言いすぎた部分もあった。でも、言うべきことでもあった。それを抱えたまま、明日また考えればいい。
目を閉じた。
道後の夜の静けさが、体に落ちてきた。
眠れる、と思った。
今夜も、ちゃんと眠れる。どんなに揺れた日でも、ここへ来ると眠れる。それがこの場所の意味だと、今夜初めて言葉でそう思った。
眠りに落ちる前に、ことば帳のことが頭をよぎった。
今夜のことを、いつか書けるかもしれない。まだ形になっていないが、今夜の何かが、いつか一行になる気がした。
そのまま、眠った。
道後の朝は、息が白くなる季節になった。石畳が冷えて、温泉本館から出てくる客が、湯上がりの体に風を受けて肩をすくめている。宿の内湯も、この時期になると入りに来る人が増える。夏の間は少し持て余し気味だった湯船が、秋冬には本来の意味を取り戻す。
わたしは変わらず帳場に立ち、客を迎え、宿の仕事を続けていた。
なじんでいることは確かだった。でも十月の終わりから、頭の中に出てきた問いが、消えないまま続いていた。このままでいいのか。次はどうするのか。いつまでここにいるのか。
答えは出ていない。出ないまま、日々の仕事をしていた。
仕事をしている間は、問いが遠のく。でも夜、六号室に戻ると、また戻ってくる。その繰り返しが、十一月になってから少し重くなっていた。
澪さんが動いたこと、白石さんのはがきに書かれていた言葉、予約帳に積み重なったリピーターの記録。そういうものがいくつも重なって、わたしの中に何かを堆積させていた。
お父さんと言い合いになったのは、十一月の半ばの夜だった。
実家に帰ると、夕食のあと、居間でお父さんとわたしと、お母さんの三人になった。お母さんはお茶を持ってきて、しばらく三人でテレビを見ていた。特に話すこともなく、でも沈黙が気まずいわけでもない、いつも通りの時間だった。
それを崩したのは、お父さんだった。
お父さんは湯飲みに手を伸ばしたが、すぐには飲まなかった。何か言うべきか、言わない方がいいのか、その間で迷っているように見えた。
けれど、迷った末に選ぶ言葉は、いつも少し硬くなる人だった。
「由良、最近どうなんだ」
「どうって」
「宿の方は落ち着いたか」
「落ち着いた」
「そうか」
お父さんはそう言って、少し間を置いた。
「もうそろそろ、先のことを考えないといけないんじゃないか」
また来た、と思った。
先のこと。次のこと。いつまでここにいるのか。わたし自身が問い続けていることを、お父さんも言ってくる。自分の中の問いと、外からの同じ問いが重なると、逃げ場がなくなる感じがした。
「考えてる」
「考えてるなら、何か動き始めないといけないだろう。もう何か月も経ってる」
「分かってる」
「分かってるなら」
「分かってるって言ってる」
声が少し硬くなった。お父さんも気づいたようで、一拍置いた。でも止まらなかった。
「宿の手伝いをしてることは、悪いとは言ってない。ただ、それを続けるのか、別の仕事を探すのか、どっちにしても決めないといけない時期が来てるだろう。由良ももう二十六だし」
「二十六だから何なの」
「社会的に見て、空白期間が長くなるのは不利だろう」
「空白期間」
その言葉が、どこかに刺さった。
宿で過ごしたこの半年が、空白だと言われた気がした。もちろん、お父さんの言いたいことは分かる。履歴書上の話をしている。でも、言葉が刺さった。壊れていたものがここで少しずつ戻ってきて、言えなかったことが言えるようになってきて、ことば帳に二行書けて、澪さんの話を聞いて、白石さんに鍛えられて、佐和さんに泣かせてもらって、そういう全部が、空白に見えた。
「空白じゃない」
「そういう意味じゃなくて、客観的に見ると」
「客観的に見てどう見えるかより、わたしにとって何だったかの方が重要だと思う」
「でも社会は客観的な見方をする」
「今それを言う必要ある?」
「いつ言うんだ」
「わたしが聞く気になったときでいい」
「お前が聞く気になったときまで待ってたら、いつまでたっても話せないだろう」
「それは、わたしが話を聞かない人間だって言いたいの」
「そういう意味じゃない」
「じゃあどういう意味」
「心配してるだけだ」
「心配してるなら、もう少し言い方を考えてほしい」
「俺はそういう言い方しかできない」
「知ってる。だから毎回傷つく」
言ってしまった、と思った瞬間に、もう遅かった。
お父さんの顔が、少し固まった。お母さんが「由良」と小さく言った。
でも言葉は続いた。止められなかった。
「ずっとそうだった。何か言うたびに、的外れで、言い方が雑で、わたしがどう受け取るか考えてない。心配してるのは分かってる。でも、心配してるから何を言ってもいいわけじゃない。東京で限界になってたとき、誰にも言えなかったのは、言っても分かってもらえない気がしてたから。お父さんに話せる気がしなかったから。それは、ずっとそういうふうに接してきたから」
台所の換気扇の音だけが聞こえた。
お父さんは何も言わなかった。お母さんも黙っていた。
わたしは立ち上がって、上着を羽織り、鞄を手に取った。
「少し出てくる」
返事を待たずに玄関を出た。
夜の道を歩きながら、足が勝手に動いていた。
どこへ行くかは考えていなかった。ただ、家の中にいられなかった。言いすぎた、という感覚はあった。でも、言ったことが間違いだったかどうかは、まだ分からなかった。間違いじゃないと思う言葉が、傷になることがある。
カフェ・コウノへ向かっていた。
九時を過ぎていたが、佐和さんの店はもう少し開いている。引き戸を押すと、中に明かりがあった。客はいなかった。佐和さんがカウンターの中で、グラスを拭いていた。
顔を見た瞬間に、視界がぼやけた。
泣きそうになっている、と気づいたのと、佐和さんが「どうしたの」と言ったのが、ほぼ同時だった。
カウンターに座ると、涙が出てきた。
ぼろぼろと、というほどではなかった。でも、止められなかった。
「お父さんと言い合いをした」
「うん」
「言いすぎた。でも言いたかったことでもあった」
「うん」
佐和さんはコーヒーではなく、温かいお茶を出してくれた。グラスを拭く手を止めて、カウンターの内側からわたしの方を向いて、ただそこにいた。
「何を言ったの」
「ずっとお父さんの言い方に傷ついてきたこと。言っても分かってもらえない気がして、東京でのことも話せなかったこと。そういうことを、全部一度に言ってしまった」
「全部言えたじゃない」
「でも、お父さんの顔が固まって。お母さんも黙って。言いたかったことを言ったのに、すっきりしない」
「そうだよ。言えたからって、すっきりするとは限らない。言ったあとの方がしんどいこと、あるから」
「何のために言ったんだろう」
「それは由良ちゃんが決めることだけど」
佐和さんはカウンターに肘をついた。
「聞いていい?」
「うん」
「由良ちゃんが一番怖かったのって、何?」
「怖かった?」
「東京で壊れていくとき。何が一番怖かった」
考えた。
足が動かなくなった朝のことを思い出した。息が吸えなくなった夜のことを。でも、それ自体が怖かったのか、というと、少し違う。
「壊れてしまった自分を、認めることが怖かった」
言葉が出てきた瞬間に、それだと思った。
「仕事を辞めたことが怖かったんじゃなくて、辞めなければいけないほど壊れてしまった自分がいることを、認めることが怖かった。認めると、そこまでの全部が崩れる気がして」
「崩れた?」
「崩れなかった。でも、ずっとそれが怖くて、だから誰にも言えなかった。言わないでいる間は、まだ認めなくて済む気がしてた」
佐和さんは黙って聞いていた。
「お父さんに言えなかったのも、お父さんを傷つけたくなかっただけじゃなくて、お父さんに言うと、本当になる気がしてたのかもしれない。ちゃんとした言葉で認めてしまうことへの怖さだった。そこまでは、まだ言えてない」
「でも、今夜は少し近づいたんじゃない」
「何に?」
「認めることに」
佐和さんの言葉を聞いた瞬間、少し泣けてきた。今度は声が出た。声が出ると、それまで胸の中に詰まっていたものが、少しずつ出てくる感じがした。
佐和さんはそのあとは何も言わなかった。ただ、お茶のカップを少し前に押した。
飲んで、とそういうことだと思った。
飲んだ。温かかった。体の内側に熱が通った。
「お父さんに言ったことは、間違いじゃないと思う。言い方は最悪だったかもしれないけど、内容は本当のことだった」
「じゃあ、内容までなかったことにしなくていいんじゃない」
「謝らないといけないかな」
「言い方が最悪だったと思うなら、そこは謝ればいい。でも内容まで謝ることはない」
「言い方と内容を分けて謝れるかな」
「難しいけど、やろうとする価値はある」
佐和さんはそう言ってから、少し間を置いた。
「由良ちゃん、今夜初めてだよ」
「何がですか?」
「ちゃんと泣いたの。ここ来てから」
言われて気づいた。
何度も感情が揺れた。胸が痛くなったことも、目が熱くなったことも、あった。でも、こうして声を出して泣いたのは、今夜が初めてだった。
「泣けるようになったんだね」
「泣けるようになった」
「それはよかったと思う。泣けない間は、どこかがまだ固かったってことだから」
固かった。そうかもしれない。壊れてしまった自分を認めることへの怖さが、体のどこかを固くしていた。今夜、言葉にして、泣いて、少し固さが溶けた。
カップのお茶を飲み干した。
「もう少ししたら、帰ります」
「うん」
「佐和さん、ありがとう。また来ます」
「いつでも」
引き戸をあけて外に出ると、夜の冷たい空気が顔に当たった。
涙の跡が少しひりついた。でも、体は不思議と軽かった。
実家へは戻らず、その夜はことの葉亭に泊まった。
おばあちゃんに電話を一本入れると、「六号室、開けておくから」とだけ言われた。何も聞かなかった。
六号室に入ると、布団が敷いてあった。枕元に、みかんの菓子が小皿に一つ載っていた。
それを見た瞬間に、また少し泣けてきた。
おばあちゃんは、何も言わずに用意してくれていた。来ることを知って、ただ部屋を整えて、小さな菓子を置いておいた。それだけのことが、今夜は十分すぎるほどだった。
布団に入って、天井を見た。
今夜言ったことを、また整理しようとした。でも整理できなかった。頭が疲れていた。
整理しなくていい、と思った。
今夜起きたことは、今夜起きた。言いすぎた部分もあった。でも、言うべきことでもあった。それを抱えたまま、明日また考えればいい。
目を閉じた。
道後の夜の静けさが、体に落ちてきた。
眠れる、と思った。
今夜も、ちゃんと眠れる。どんなに揺れた日でも、ここへ来ると眠れる。それがこの場所の意味だと、今夜初めて言葉でそう思った。
眠りに落ちる前に、ことば帳のことが頭をよぎった。
今夜のことを、いつか書けるかもしれない。まだ形になっていないが、今夜の何かが、いつか一行になる気がした。
そのまま、眠った。