私を振った同級生ドクターの距離が近すぎます!〜もしかして、私のこと好きですか〜

3 クローゼットの奥の、終わらない過去


新しい職場の初出勤は、無事に終えることができた。
病棟を出ようとしたところで、エレベーターから降りてきた鳴海くんとすれ違う。

「藤川、お疲れ。初出勤、どうだった?」
爽やかにかけられた声に、心が解ける。
「みんな優しくて、すぐに慣れそうだよ。鳴海くんも気にかけてくれて、ありがとう」
「いつでも頼れよ……そのつもりで見ているから」
「……うん、ありがとう。まだ仕事なの?」
「これから定期薬の処方。……じゃあ、また明日な」

軽く手を挙げて去る彼の背中に、私もつられて手を振った。
一人になったエレベーターの中で、思わず頬が緩む。

(また、明日も会えるんだ)

まるで部活の頃に戻ったみたいで、胸が弾んだ。
――なのに。

(“そのつもりで見ている”って……どういう意味?)

その一言だけが、甘い余韻の端っこで、小さく引っかかった。



帰宅すると、当然のように我聞がソファを占領していた。
私は鞄を置くなり、その前に立つ。

「萌奈、テレビ見えないだろ。どけよ」
「今日、若葉総合病院に行ったら鳴海くんがいたんだけど」
「あいつの職場なんだから当たり前だろ」
「……なんで教えてくれなかったの?」
「教える必要あるか? あいつ、いい奴だろ」
「じゃあ、私の転職のことはなんで伝えたのよ」
「酒の席の話だよ。覚えてねえ」

(……都合よすぎ!)
確信犯なのは見え見えだけれど、これ以上追求しても無駄だろう。

「……私の転職理由、あいつに言ってないよね?」
声が、自分でも驚くほど硬くなる。
「そんなの知らん」
「そ、そう……」

胸の奥の重みが、ほんの少しだけ軽くなった。
(知られていないなら、やり直せる。……真っ白な状態で)
我聞は面倒くさそうに、大きなあくびをしていた。



我聞が帰り、家に静けさが戻った。
キッチンで水を飲んでいると、母が背後から声をかけてきた。

「萌奈、新しい病院はどうだった?」
「うん。いい人ばかりで安心したよ」
「そう……。それでね、萌奈」
母が少しだけ、言いづらそうに視線を彷徨わせる。

「あなたの部屋の、あのクローゼット。……奥にある、黒い大きな袋……あれ、何?」

――ドクン、と心臓が跳ねた。
飲みかけた水が気管に入り、激しくむせる。

あの袋。
絶対に誰にも見られないよう、一番奥に押し込んだはずのもの。
(なんで……見つけるのよ……)

「仕事が落ち着いたら処分するから。……触らないで」
「すぐ捨てられないものなの? 嫌な匂いとかはしないけれど……」
母の視線に、戸惑いと不安が混じる。

「ただのゴミ。でも、そのまま捨てたくないだけ」
「……ねえ、萌奈」
母の声が、静かに沈んだ。
「前の病院で、本当は何があったの?」

――心臓が、嫌な音を立てる。
思い出したくない、あの光景。

大声で名前を呼ばれ、
嘲笑とともに、写真をばら撒かれ、
逃げ場を塞がれた、あの地獄のような日。

「……なんで、そんなこと聞くの?」
「急に辞めたでしょう。理由も言わないし、ずっと顔色が悪いから」

(言えるわけないじゃない。……あんなこと)
私はコップを握りしめる。
「大丈夫だよ。心配することじゃない。……終わったことだから」

無理やり笑顔を作る。頬が引き攣るのが自分でもわかった。
「本当に?」
「うん。新しい病棟も順調だし」

母を安心させるための嘘。自分を納得させるための、まやかし。
(終わってなんて……いない)

私は視線を逸らし、コップをシンクに置いた。
クローゼットの奥。きつく縛られた黒い袋の中で、死んだはずの“過去”が、まだ醜く息をしていた。
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