pomme
放課後の教室で、机の上に置いたりんごだけが、赤く夕日に染まっていた。

私はそのりんごの前にスケッチブックを抱きしめて座る。
開いていた窓から吹き込む秋風に、りんごの甘い匂いがかすかに揺れた。

スケッチブックの真っ白なページを開き、鉛筆を手に取り、机の上のりんごを観察する。りんごには、小さな傷がたくさんあった。

観察すればするほど、りんごは赤いだけじゃないことに気づいた。
朱色に滲む部分や、指先で撫でれば消えてしまいそうな黄色の筋が、まるで誰かの感情みたいに表面へ浮かんでいた。

鉛筆を置き、りんごを手に取る。掌に収まったりんごは驚くほど冷たかった。
先程鞄から出して机の上に置いた時は生ぬるかったのに。
心地よい秋風だけでは、ここまで冷えるはずはないのに。

その違和感に眉をひそめた瞬間、りんごの表面に、白い息のような霧がふわりと浮かび上がった。
私は驚き、思わずりんごを落としてしまった。

床に転がったりんごは鈍い音を立てたあと、ひとりでにころころと窓際まで転がっていく。
りんごの霧はどんどん濃くなっていった。
やがて霧の奥に、誰かの影がぼんやりと浮かび始めた。

そのうち、霧は消え、人影がはっきりとし始める。
夕焼けの逆光の中で輪郭を得たその人影は、まるで最初からそこにいたみたいに静かに窓辺へ立っていた。

そしてその人は、窓際に転がったりんごをゆっくり拾い上げ、そのままりんごにキスをした。夕日に照らされたその姿はとても美しく、目を奪われた。

唇が離れた瞬間、唇の赤が、じわっと絵の具が滲むようにりんごに染み込んでいく。まるで、赤く熟れたりんごが現実のものでは無くなっていくかのように。
その人は胸にりんごを抱えたまま、こちらを向いて微笑み、静かに私の名前を呼んだ。

「私のことを知ってるの?」
私は混乱した。どこからともなく現れ、私のことを知るこの美しい人は一体何なのか。

「知ってるよ。」とその人は答えたあと、「まぁ、君は覚えていないだろうけど。」と笑った。

その笑顔が何故か癪に障り、どうにか思い出そうとした。
けれど記憶の奥へ手を伸ばすたび、頭の中には赤く熟れたりんごの絵だけが何度も浮かんでは消えていった。

「君は毎回思い出そうとしてくれるね。」
絶対に思い出せないのに、とその人は何故か嬉しそうに言った。

「あなたは何なんですか。」
思い出せないままモヤモヤした私は、少し苛立ちながら聞いた。すると、強い風が吹いて、私とその人の間を通り抜けていく。

風に煽られたスケッチブックのページがぱらぱらと捲れ、その中の一枚で、私は息を止めた。
私のスケッチブックに、私の絵柄で描かれていた、真っ赤なりんごと、そのりんごを掲げるその人の絵。

その絵の隅には、見覚えのない文字で、小さく「pomme」と書き添えられていた。

「結局あなたは……」
一体何なのか、と聞こうとした時、チャイムが鳴り響いた。窓の縁に腰をかけ、手に持ったりんごを眺めていたその人は、「もう時間だ」と言う。

「また会おうね。」
次は覚えているといいけど。そう付け足して、その人は夕日の中に溶けていった。

私は慌てて窓辺へ駆け寄ったけれど、そこに残っていたのは、ひどく冷たいりんごだけだった。
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