紫煙
御木本家にいつもの朝がやって来た。
もう10月なのにクーラーを入れたいほど暑い日が時々ある。今朝は爽やかだ。
まだ黄金色には程遠いけど、自宅2階の窓から見えるイチョウは豊かに緑の葉を蓄えている。
「ン~、よく寝たぁ」
長く艶を作る黒髪をしたナナが、ベッドの上で伸びをする。
「で、今何時?」
ふとベッドサイドにある赤くて丸いアナログ時計に目をやる。
「もうすぐ10時じゃーん」
遅刻など存在しない、呑気な実家暮らしのナナである。それにしても、やりたいことだらけで遅く起きると損した気分。
クリームイエローにサクランボの散ったパジャマ姿でゆっくり階段を下りて行く。
「ああ、ナナおはよう。お味噌汁があるわよ」
「うん、ママ。サンキュー。パパはもう……あったりまえか、10時だもんね」
クスッと笑い母親が答える。
「そうですよ、パパは毎朝7時半に出勤してるでしょ~」
「うん」
ねぼけまなこの目をこすりつつナナはキッチンの椅子に座った。
(33才で親のすねをかじっているなんていけない。早くお仕事見つけなきゃなー)
テレフォンオペレーターを辞めてから3カ月が経過した。
「ナナ、ゆうべ遅くまで起きてたのね。あたしが夜中お手洗いに行った時、キッチンでコーヒーを淹れてたじゃない?」
「うん。『Asapon Room』いつもの音楽サークルでチャットをしていたの……。あ、求人も見ていますからね~。お仕事」
「うん。焦らず、自分が続けられそうなところを探したら良いよ!」
「ありがとう、ママ」
ナナは高校までずっと不登校だった。一見明るいがその実ナイーブな性格だ。
*
(きのうのチャットは盛り上がったな~、ウフフ)
ナナは楽しく思い出し笑いする。
音楽サークル『Asapon Room』は5年前にリーダーのアサポンこと朝也(あさや)が立ち上げた。最初はネットにてチャットだけの集いだったが、その内みんなでライブ観戦をし、その後は呑みに行く、というお決まりのコースが出来上がっていた。
昨夜皆で話し込んでいたのには理由がある。明日、某ロックバンドのライブへみんなで行くのだ。その後は連れ立って居酒屋へという流れ。
集まるのはナナ・妻子持ち40才男性のアサポン・高校生の娘のシンママである柚美50才、紀夫32才男性。紀夫と同棲中の恋人・南ちゃん29才女性も時々集まりに顔を出すが明日は来ない。
そして明日やって来る最後のメンバーは、ナナと一番気が合う仲間、音色31才男性、こういう顔ぶれだ。
年齢が若干ばらけているだけに皆互いに刺激を与え合っている。自分の知らない音楽を教え合う。
いつもリアルで集まるメンバーは都内に住んでいる。たまに地方から他のメンバーがやって来ることも。メンバーは全員で約30名いる。
ナナは『Asapon Room』に入り2年だが、他の都内組はみんな結成当初からのメンバーだ。
(ンフ。楽しみだなー、明日)
ナナはパソコン前にて求人情報とにらめっこしながらも、天を仰いでは上の空になる。
明日はよく行くライブハウスなので、いつもの居酒屋で飲み会だ。といってもナナは全くアルコールを呑めない。20代の頃ビールにトライしたら、顔が真っ赤になり倒れてしまった経験がある。そこから全くお酒を呑んでいない。
でも、気の合う仲間とわいわいするのはとても良い。
「なに着て行こっかな~」
朝ごはんを食べ終え部屋着に着替えたナナが、クローゼット前にて考え込む。
3カ月ぐらい前までは、ライダースジャケットに皮のピチパン、中はガーゼシャツ、というお決まりのPUNKファションだった。ナナはPUNKが大好きなのだ。
しかし、この頃……フェミニンな装いがしたい。
音色、サークルメンバーの男性・音色に可愛いと想われたいからだ。
(あたしってもしかして音色のこと、好きなのかな?)
ナナは淡い疑問符の付くようなふんわりとした情熱を彼に傾けている。
崎本音色31才。ツーブロックに金髪メッシュヘアーの色男。はっきり言ってモテる。いつもの顔ぶれである、柚美・南ちゃんはそんなことはないが、地方から来る女性メンバーは必ず音色に近寄って行く。
いつかのオフ会でナナは、地方から来た女の子が、音色の隣に座り仲良くしていた様子を見て、メラメラッとジェラシーの炎が湧いた自分に驚いた。
その時(この気持ちって?)と自身の音色に対するときめきに気づいたのだった。
――――「明日はフリフリのフリルで行く」
ふんだんにフリルのあしらわれたオフショルダーのピンク色のワンピースに決定。ミニスカートだ。上着は紺のデニムジャケット。
(ンフ。ライブ中は暑いからジャケットは脱ぐ。露出度高めになるわ。音色を悩殺しちゃう!)
足元は白いハイカットスニーカーに決定。
*
――――ライブ当日。
今日観覧するバンドはストレートなロックを演奏するバンド。
『Asapon Room』のみんなとは現地集合だ。
電車に揺られライブハウスへと急ぐ。
(少しでも早く着いて、音色とおしゃべりしたい)
――――最寄り駅に到着し、足早にライブハウスを目指すナナ。トレードマークのポニーテールが呼び名通り尾っぽのように嬉しそうに揺れている。
ライブハウスのオープン時刻である18時の30分も前に着いちゃった。ライブは18時半からスタートだ。
「ナナー」
(ン、このタバコで少ししゃがれたコ・エ・は!)
満面の笑みで振り返るナナ。
「音色!」
「うん。ちょっと早く来すぎちまった」
音色は、ナナが前にしていた恰好そのもの。ガーゼシャツに皮のピチパン。鋲だらけのライダースジャケットを着ている。そして、ツーブロックの刈り上げを生かしモヒカン頭だ。足元は、靴紐を通すアイレットが10個並んでいる10ホールブーツ。PUNKの王道スタイルだ。
「あたしも早く来ちゃった~。理由があってね……」
ナナは小悪魔的に誘うような目でそんなことを音色に言ってみた。
「ン、なんだ? 理由って」
ナナの瞳を見、少しソワソワとする音色。
「教えてあーげない!」
「な~んだ、それ」
「ウフフ。今にわかるよ~」
なにか企んでいる訳ではないけど、ナナはちょっぴり悪戯気分でそう答えた。
「そ、そうなの」
音色がイカつい見た目に反し、ドギマギしていて可愛い。
二人はライブハウス前で立ち話しをしている。
「まだみんな来ないね」
「ああ、そう言えばさ、アサポンは来れないみたい。『残業終わんない』ってさっきメールがあった」
「えー、そうなんだ。残念だね!」
「うん……。あ、あのさ、そのぅ……」
「ン? どうしたの? 音色」
「今日の服、似合ってるよ、ナナ。可愛い」
照れてしまう。でも、出来るだけレディーにナナは返した。
「ありがと」
「うん」
暫くすると紀夫と柚美もやって来た。
「揃ったね」と音色。
「ああ、オープンまであと10分か」
紀夫がおしゃれなダイバーズウォッチを覗き込み言う。
「相変わらずかっわいいねー、ナナちゃん! 今日はドレスね」と柚美。
「ありがとう。でもあたし、もうちょっと痩せたいの。柚美さんみたいにさ」
「えー、あたしは痩せ過ぎがコンプレックスだよ」
ショートカットの柚美は長身でスラリとしている。カッコいい雰囲気。
そうこうしているとお店が開いた。チケットを持ち列に並びドリンクを買う。
(今日も音色はビールかな?)
音色の動向が気になるナナ。ナナは既にウーロン茶のカップを手にしている。
柚美がおや? と言う顔をして言う。
「あ、今日スタンディングじゃないんだ~」
テーブル席が準備されていた。お目当てのロックバンドの対バン相手がフォークシンガーだからかな。
ナナは……音色と同じテーブルに座りたかった。出来れば他のメンバーはよそに行って欲しい気分。
その望みは自ずと叶った。ライブ会場には人が押し寄せて来て、どんどん椅子が埋まって行ったのだ。知らない人1名と相席……音色と共にナナは着席することとなった。
ナナと音色の席は会場中ほどのテーブル。紀夫と柚美は羨ましい事に最前列の席だ。
でも、ナナは想った。
(音色への淡いときめきを大切に密やかに育てたい。だから、柚美さんと紀夫さんに見られない席のほうがリラックス出来るよ?)と。
「あー、音色、今日もビールだね」
「ああ、当然」
酒豪の音色である。
「呑み過ぎちゃだめだよ」
「なに、急にお袋みたいなこと言い出しちゃって! ナナ」と笑顔で返す音色。
「良いの! わかった?」
「ハーイ」
「アハハハハ」
二人は同時に笑った。
丸テーブルにドリンクを置いているナナと音色は、ステージに向かって隣同士それぞれの椅子に腰掛けている。
ライブスタートまであと20分弱。
ジ――――。
ゴツゴツした手でビールの入ったカップを片手で持ち上げ、グイッと飲んでいる音色の横顔を、穴が開くほど見詰めるナナ。
当然視線に気づき「な、なに。なんだよ、ナナ」
ナナは言葉を発さず、瞳にエッチな力を宿して音色を見つめた。
「なんか、恥ずかしいぜ、ナナ」
アルコールのせいか、ナナのラブビームのせいかなのか、音色の顔が赤くなっている。
「ンフ……。今日はお仕事忙しかったの?」
照れる音色を救世する女神のように微笑むナナ。
「ああ、今日もバタバタだったよー。ビールが旨い! っと」
そう言って2杯目をカウンターへ買いに行こうとする音色。
ギュ。
「え」
「呑み過ぎちゃダメ、って言ったでしょう~」
ナナは大胆にも、たくましい音色の手首を懸命に握り引き留めた。
――――初めて音色の肌に触れた。
ナナと音色はずっと親友同士のような感じだ。ナナにとって一番気が許せるメンバーである音色。音色もそれは同じであるようだ。それはいつもの飲み会で互いにインスピレーションを感じ合っている。
「わ、わかったよ。も少し後で買いに行く」
「それでよし!」
「なんだよ、ナナ。いつからオレのご主人様になっちゃったわけ、ギャハハ」
明るく振る舞っているけど、音色の飛び出しそうな鼓動が伝わって来る。賑やかな会場にいても。なぜか、心臓の音まで聴こえて来そう。音色の瞳が潤んで見える。
ナナは先程の勇気……音色に手を伸ばしたことに手応えを感じている。積極的な乙女だ。
少しすると店内の照明が暗くなり、SEが流れ始め、お目当てのバンドの前座ミュージシャンが登場した。
指笛に拍手。おおいに盛り上がる客席。
演奏が始まると、フォークと言ってもかなり激しい演奏でとてもクールだ。途中で弦が2本切れたがそのまま彼は演奏を続けた。その時には会場から賞賛のどよめきが起こった。
そして、お目当てのロックバンドが登場。
「わ――――!」
周りに負けじとばかりにナナも歓声を上げる。そして興奮し、座っていられずステージ前まで走って行った。
多くの観客がそうした。
ナナを追いかける音色。
演奏の途中音色が、後ろからナナの耳元に大声でなにか言った。
「ン? なーに?」
顔はほぼステージ、耳だけ斜め後ろ、音色に向けるようにするナナ。
二人はチューしちゃいそうなほどの至近距離。
やっと音色の声が爆音の中聴き取れた。
「ナナ! 危ないって!」
ナナはその声を聴き思い切って音色の体にもたれ掛かった。音色がナナを後ろからかばっている形だ。
(音色、どんな顔してるだろ)と振り返ると、その瞬間二人は見つめ合った。音色の瞳は凄く優しい。怖い恰好なのに。
二人は激しいリズムにノッて一緒に踊った。
自分とは違う硬い筋肉を持つ胸を背中に感じる。力強い腕に守られている。ナナはロックに抱かれつつ、夢見心地で音色への恋が愛へと変化して行くのを堪能した。
*
――――「良いライブだったな!」
紀夫が眼鏡のずれをクイッと直しつつエキサイトした様子で話す。
10月の夜風に当たっても温まった体の熱が逃げない。
ナナは特にそう。音色は? 柚美と紀夫と合流してから肌は触れ合わないようにしている音色だが、ナナとの距離がライブ前よりも近い。そんな音色の心身も今、ホットかもしれない。
(紀夫さん達に、音色とあたしがくっついていたの、見られちゃったかな? どうだろ)
でも、柚美も紀夫も二人に対して茶化すようなことを言ってこない。二人もライブに夢中だったのだろう。
「よし、行こうよ! 例のお店」とお酒大好きの柚美が先頭に立った。
「うん、行こう!」と紀夫。
音色はナナに対して、なんだかライブ前よりちょっぴりよそよそしい。ステージ前で体を寄せ合い一緒に踊ったのに、とちょっぴり淋しくなるナナ。どうしたのかな? と思う。
*
――――「あ、あたしチューハイレモンで!」
早速一番に注文する柚美。
「オレはビール」と音色。それに続き「あ、僕もビールにします」と紀夫。
ナナは果汁100%のミックスジュースにした。
「フ~、やっと吸えるぜ」
音色がクシャッとなった紙パッケージの煙草を取り出した。
「それにしても音色君、よく耐えられるよね~、いつもさ。タバコ吸う人ってイライラするんじゃないの? 吸えない所って」
柚美が言う。このメンバーで喫煙するのは音色だけだ。今日来ていないアサポンは吸う。
「ああ、でもこのご時世だからね、仕方ないっすよ。慣れました」
ナナはまたも音色と隣同士。
おしぼりで手を拭きつつ、煙を吸い込む音色の表情と指に見惚れる。
節くれだった指に挟まれるタバコを羨ましいとすら感じる。
ナナは音色の煙草になりたい。
ポ――――。
「ン? ナナ、なに。どうかした」
「あ、ううん。なんでもない。音色のシルバーの指輪、かっこいいなーって見ていたのよ」
適当なことを言い、恥ずかしいその場を凌ぐナナ。
「音色って派手だよなー。僕はアクセサリーなんて全く」
地味目な紀夫が言う。
「ねえねえ、今日の対バンの人凄くなかった?」とジョッキを手にした柚美が唐突に言う。
「あ! 弦が切れてたよね、途中。超シブかった!」とナナが答える。
「オレもまたバンドやりたくなって来たな~」
タバコをキュッキュと灰皿に消し、音色。
「音色のベースは最高だぜ。めちゃ重いじゃん? 僕は音色のベースの音はたまらなく好きだな。復活してくれよ、バンド」
紀夫が生ビールに舌鼓を打ちながら言う。
音色はPUNKバンドでずっとベースを弾いていたのだ。ボーカルに赤ちゃんが生まれたため活動休止中だ。
(バンド復活したら、また音色、モテモテになっちゃうじゃん!)
音色が好きなことをして生き生き輝く日を祈りながらも、嫉妬の沸き上がるナナ。
音色を独り占めしたい。
*
飲み会は22時ごろまで続けられた。
支払いは割り勘だが、お店に迷惑をかけぬよう柚美が代表して一括で払った。
外に出てから、皆がそれぞれ柚美に自分の飲食代を渡す。
(キャ!)
一番に柚美にお金を渡した後、音色を見ていたナナは息を飲んだ。
(もうダメ)
音色が咥えタバコをしつつ眉間にしわを寄せ、財布からお札を取り出している。
長くなった灰は落ちそうで落ちない。
無論、イカつく見えてもマナーのある彼は携帯灰皿を常備している。
そんなことあんなことすべてひっくるめ、ナナは今、音色の眉間のしわになりたい。
おなかの下のほうがくすぐったくなる感じ。
キュン!
バンド活動を復活し人気者になっちゃうかもしれない音色を口説き落とす、とナナはその瞬間覚悟した。
「ナナ」
急に音色が呼ぶ。
「うん?」
「遅いからさ、ナナの家の近くまで送る」
「あ……」
音色の最寄り駅はナナの自宅最寄り駅の2つ先だ。
「まだ電車はあるから、オレのことは気にしないで。ナナが心配だからさ」
柚美と紀夫はそれを聴いて「そうしなよ、ナナちゃん」と言う。
実は紀夫の彼女である南ちゃんがこれから車で紀夫を迎えに来るのだが、柚美は乗せてもらうらしい。
柚美と紀夫たちは帰る方向がナナたちとは真逆だ。
ナナはモジモジしてしまったが、やはり(このチャンスを逃したくない!)と感じた。
暫くすると南ちゃんの軽自動車が見えた。
「じゃあ、僕たちは行くよ。ナナちゃん、音色に送ってもらいなよ。そのほうが僕たちも安心だよ」と紀夫は言い残した。
「お疲れ~」
柚美たちがいなくなった。
ナナと音色、二人きり。
「さて、ナナ、帰るか」
「うん、音色」
駅までの道、そして電車内でも無口な二人。
そのことがナナにとってはフワフワするほど心地よい。音色のハートが言葉のない中ダイレクトに伝わって来る。
(音色も、あたしのこと好きなのかな?)
そんな気がした。
電車を降り、ナナの家路を歩く時、音色が口を開いた。
「オレ、ナナをこれからも守りたい」
「え……」
まさか想像が本当? ドキリとするナナ。
「ナナ、ナナって繊細なんだよな。オレ、わかるの。それでさ、放っておけないんだ」
「音色……」
夢みたい。
「好きだ、ナナ」
ギュ……。
ナナは応えるよう、触れたくて仕方がなかったゴツゴツしている音色の手を懸命に握った。
「大好きよ、音色」
グイッ――――。
月明かりのもとナナは音色の力強い体に抱き締められた。
恍惚の雫。煌めくめまい。
音色を愛してる!
「柔らかいな、ナナ」
ひと言音色が言った。


