そんな君に届けたい
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30代に差し掛かり、大きなプロジェクトを引き受けることが多くなった。とすると、気づかぬうちに私の体には愚痴が蓄積していくものだ。とはいえ、会社では「几帳面で真面目なOL」という肩書で通っているため、時々ある飲み会などでも、皆からの愚痴を拾うことはあっても、私が吐き出すというのは皆無に近い。
ただ、私が心を許している一人を除いては――。
「じゃあ、先輩、終わったのでお先に失礼します!」
「北野さん、お疲れ様。来週は大事なプレゼンがあるから、週末で体調を万全にしておいてね」
「はい、任せてください。先輩もあまり残業しないでくださいね。そんな先輩に、頑張ってくださいの気持ちを込めたエナジードリンクです!」
「北野さん、ありがとう」
後輩OLの北野さんが、私のデスクにエナジードリンクをそっと置いて帰途に就く。北野さんは私が知る中でも優しさに満ち溢れている同僚だ。でも、皆がみんな北野さんのようではない。会社内にもいろいろな人がいるのは承知の上だが、手を焼く後輩だけでなく先輩がいる中、残業は私にとってありふれた日常の一部だった。とはいっても今日は金曜日。私は、北野さんからもらったエナジードリンクを片手に、時計の針が動く速度に負けないようにキーボードを打ち続けようやく帰路に就くことができた。
やっとのことでオンボロアパート――いや、我が家に着き、ドアノブをひねる。すると、なぜだか感触がいつもと違った。家の鍵が開いていたのだ。「こんな家に入っても取るもんなんてないぞ!」と思いながら恐る恐る開けてみたが、玄関には馴染みのある大きな革靴がきちんと揃えられて置いてあった。さっきまでの緊張感があっという間に抜けていく。
「お帰り。もうそろそろだと思って鍵、開けておいたよ」
「もう、泥棒が入ったかと思ったじゃん! ……っていうかここ私のうちだし」
ドアが開いた音に気付いたのか、成人男性の平均身長より少し高そうな痩せ型の男の人がキッチンから顔を出す。あくまでこの人には鍵を渡しているので、彼は不審者ではない。
私は、彼に向かってカバンをよいしょと放り投げる。彼はそれを素早くキャッチして、中からお弁当などを取り出す。その間に私は「あっー!」と鈍い声を出しながら、自分のベッドにスーツのまま勢いよく飛び込むのだ。清潔の観点から言えばオススメしないが、幸福度の観点から言えばとてもオススメだ。とはいえ、会社の人がこの姿を見たらおそらく猿のように発狂するだろう。
5分ほどベッドでうたたねをしていると、「できたよ」と言いながら彼が料理をテーブルに運んできてくれた。
「おー、これは豚ひき肉とにらのスタミナ丼ってところ?」
「うん、大正解。お決まりのチューハイもいる?」
「当たり前だよ。飲む、飲む!」
週末なんだから、我慢はしない。冷蔵庫でキンキンに冷やしてある大好きなチューハイを一気に流し込むと、彼が作ってくれたスタミナ丼をレンゲで一気に掻き込む。おそらく私には絶対に出せない心に沁みる味。そして、追加でビールも体に収めた。これぞだらしない私の至福のひとときだ。
「真弥ってまるで主夫だよな。料理だけじゃなく身の回りのお世話まで。そして、私の愚痴まで聞いてくれる。……そこまでしておいて私のこと、本当に好きじゃないの?」
度数の高いビールのせいで早くも酔っているのだろうか、それとも私の本音なのだろうか。そんなことを堂々と真弥に聞いてしまう。私はその間に躊躇いもなくもう1本ビールを開ける。プシュッとはじける音がたまらない。
「前にも言ったけど、俺はアロマンティックだから好きとかないんだよ。そもそも俺が来るのは金曜だけ。それも俺の会社は定時厳守という特権付きだから」
「何回もその話聞いたな」
「それでもって、灯梨のだらしない生活が心配!」
「あははっ、すみません……。これも毎回聞いてる気がするけど、それでいって真弥にメリットあるの?」
「うん、あるよ。……なにとは言わないけどね」
その「なにか」は頑なに教えてくれないが、それが肉体関係ではないことだけは確かだ。男女しかいない密室という好環境でも襲われたことがないし、襲おうとする素振りすらない。ただ、この質問をすると多少なりとも私の目の方を見て照れるのだ。何か目に関係があるのだろうか。
「ちなみにそういう灯梨は?」
「私もどうやら君のような顔は、タイプじゃないみたいだな。真弥の方が一応先輩だからこんなこと言うのは失礼だけどね。でも、真弥がいてくれると安心する。これだけは紛れもない事実だから」
2つ年上の先輩に堂々と顔がタイプではないと言うのはなんだか気が引けるけれど、今後も末永く関わるためには本音を言うことも多分大切なこと。私は真弥の頬を「つん」とした後にじっと真弥の目を見つめた。真弥はくすぐったいなど言いながら笑っていた。
「……てか聞いてよ、今、私が大きなプロジェクト持ってる話、先週も少ししたでしょ? それが進んでるんだけど、上司からは超短い期限をつきつけられるしさ、同期の中でも自分の担当なのに面倒な部分を押し付けてくる奴もいてさ!」
「いつもの愚痴の時間ですか。でも、灯梨が頼りになるからこそ周りの人たちはそうしてくると思うんだよな。もっと自信持ちなよ。ポジティブ、ポジティブ!」
「そうかもしれないけどー。でもさ、でもさ……、いや、まて、これ、また長時間コースだわ。……とりあえずもう1本!」
「ほどほどにしなよ」
真弥には毎回のように注意喚起してくれているけれど、愚痴の出る量と比例して、私のお腹には酒がみるみる貯まっていく。もう、何杯飲んだだろうか。客観的に見ても酔っているというのは誰の目からしても明らかだった。
そして、今日もまた愚痴を散々吐き出した後、男という時には凶暴にもなる動物の前で、私はためらいもなく堂々と目を閉じてしまうのだ。夢の中へ入り込む。
うっ――。
いつもなら、私が目を覚ますと、もう真弥の姿はない。しかし、今日は違った。すぐに目が覚めてしまったのだろうか、まだキッチンの方からジャージャーと水が流れる音がする。おそらく、私の使った食器などを洗ってくれているのだろう。
寝たふりをして、真弥がこっちに来た瞬間に「わっ!」と驚かせるという子供みたいないたずらでもしようと考え、私は再び目をつぶった。それとほぼ同時に、キッチンから流れ出ていた水の音がぴたりとやんだ。
「灯梨、まだ気持ちよさそうに寝てるな。この寝顔、やっぱりたまらないな」
いつも飲んでいるコーヒーに、ミルクを多く入れたようなそんな甘い声。そして、私の顔の周りを真弥が頻繁に通っているような感覚がある。流石に今、目を開けることはできない。
「誰の寝顔であっても好きだけど、灯梨のは特別だな。これで好きになれたら、どれだけ幸せだっただろう。僕はもったいないな。でも、愛してるよ」
おそらく目を開けた先にいる彼は、子供みたいな笑顔をして私の顔をじっと眺めている。
彼は一度だけ私の頬をそっと触った。先ほどまで洗い物をしていたせいか、彼の手はまだ冷たかった。触った後もまだ近くにきっと彼の顔がある気配を感じる。それは少なくとも数分間は続いていた。
そして、私はある1つのことを思った。
――こいつ、寝顔フェチか!?
そして、同時にもう一つのことを思った。
――こいつ、かわいい!
1つ目についてはここまでの経緯を辿ると妥当だが、2つ目に関しては、なぜそう思ったのかと理由を問われれば難しい。ただ、なんとなく完璧そうな彼にそういう面があること知って、異常に幼さを感じてしまったのだろう。
その後のことはもう覚えていない。再び眠気に負けたのか、気づけば土曜の朝を迎えていた。その日も、太陽の光が降り注ぐ気持ちのよい朝だったが、私の体は二日酔いの状態で頭がゴロゴロとしていた。
「先輩、よかったら今日、社員食堂でランチ一緒にどうですか?」
金曜日の夜にエナジードリンクをプレゼントしてくれた優しい後輩と無事に大事なプレゼンを終え、会社に戻っている途中、そんなことをふと言われた。
「いいけど、私は毎月使うお金はきちんと決めてるんだ。奢ることはできないけどいい?」
普段は一人で食べることが多い私だが、せっかくの誘いに断るのも悪いと思い、奢らないことをあらかじめ告知したうえで誘いに乗ることにした。
「……はい、奢ってもらいたくて誘ったわけではないので大丈夫です! それにしても先輩、やっぱりお金の面に関しても几帳面で真面目ですね」
北野さんは面白おかしく笑う。おそらくこれは奢り目的を期待していた顔ではない。ただ、目的は何かを相談したいような、そんな意図が隠されているのだろう。
「そんなことはないよ」
私は、几帳面で真面目という部分に関して、そんなことはないよと苦笑いして答える。
会社に戻ってから雑務をこなし昼休みに入ると、後輩は元気よく私の名前を呼びながら近づいて来る。私はそれに反応して、一緒に社員食堂に出向く。いつも通り、野菜炒め定食でいいだろうか。毎月使うお金はきちんと決めてるのは事実だが、実を言うと彼氏もおらずお酒以外の物欲がない私は、ほとんどお金を使わないので予備費から後輩に奢ることができる。でも、後輩はやはりそんなことは全く望んでないかのようで、さっさと自分の分の食券を買っていた。とろ~り卵のオムライスか、かわいいな。
料理を受け取り、空いている窓側の席へ持っていく。いつもは一人席だが、今日はソファー席である二人席。木の椅子と比べると何倍もふかふかだ。いただきますと丁寧に手を合わせ、私はまずは一口口に運んだ。おいしい。でも、いつも食べている慣れ親しんだ味なので特別感動はない。
「んー、おいしい。実はこれ、初めて頼んだんですけど、いつも頼んでるサバの味噌煮定食よりもさらにおいしいかもしれません」
この子の表情、本当に私は好きみたいだ。北野さんは、私がそのオムライスを気になっているのに気づいたのだろうか、「少し食べます?」と恥ずかしそうな様子で問いかける。私は、その流れにつられて、でも流石に後輩が使ったスプーンで食べるのはためらわれたため、自分の箸で少しつまませてもらい、一口分もらった。確かに、私の食べている野菜炒め定食よりも癖になる味だ。このとろ~りと口の中で溶けていく感じが妙にたまらない。
「おいしいね」
「でしょー、先輩と私、似てるかもですね」
「またまた……で、なにか話したいことがあるんじゃないかな? 仕事以外の」
私は話を変える。もしこれで外れたら恥ずかしいが、おそらく何かの相談で間違いはないだろう。私の目に狂いはない、はず。
「まだ何も言ってないのに先輩はすごいですね。さらに仕事以外の話っていうのも見抜いてましたか」
「意外と私、皆のこと見てるんだから」
だからあんなに愚痴大会が続くのよというのは、私と真弥だけの秘密である。もちろん、この後輩に関する愚痴は一つもない。強いて言うなら、お節介が過ぎるところだろうか。
「……私の私生活の話で恐縮なんですけど、実は、最近好きな人が出来ちゃいまして」
「……ちょっと待って。私、恋愛にはめっぽう疎い方だよ。ほら、彼氏もいないし!」
私生活の悩みという部分までは予想できていたが、まさか恋愛の話だとは一ミリも予想してなかった。おそらくその相談を私にするのは間違っている。まだ二股疑惑がある同じ部署の人の方がためになることを言ってくれるだろう。
「いいんですよ、経験とかは。ただ、先輩は口が堅そうですし、しっかりとしたアドバイスをしていただけそうなので。だからといって、先輩が身構える必要は全くないんですよ。選んだのは私なので、その責任は自分が持ちます」
「……うん、ならわかった。話してみて」
私は完全に後輩の圧に負けたと思い、致し方なくも応じてしまう。
「隣の部署に西山くんっているじゃないですか?」
人間関係が希薄な方だが、西山さんはなんとなく知っている。確か歳はこの後輩と同じだが、すでに大きなプロジェクトをいくつも成功させている人だ。とはいえ、私が言うのもなんだが容姿はそれほどでもないためモテる部類かと言えば悩ましい。ただ、優しい笑顔が人気だとかは小耳に挟んだことがある。
「うん、知ってるよ。西山さんがその相手なの?」
「はい。同じ大学出身だったので、この前、機会があって二人で食事したんですよ。そしたら、西山くんのワイシャツの第二ボタンが取れてしまったので裁縫道具を貸したんですけど、全然針に糸が通らなくて……。何でもできるイメージがあったので、そんな不器用なところになぜか惚れてしまったんですよね。私がやってあげたら、『ありがとう』って言ってにっこり褒めてくれたんです。その時にはもうなぜか好きになっちゃいました。謎ですけどね……」
「へー、不器用なところを見てか。ギャップ萌えみたいな感じかな?」
先日、好きと確定したわけではないが、なぜかちょっとしたことで意識してしまう出来事があった私も、彼女と同じく顔色がほんのりと変わっていく。彼女は顔をそっと手で覆う。何も支えていない状態では不安定になるほど、西山さんに恋心を抱いてしまったのだろう。
「そんな感じかもしれません。私の元カレも、私から告白した人はなぜか不器用な部分が決め手になって……なんですよね」
勝手にフェチと決めつけるのは失礼だが、彼女は不器用フェチなのではないか。どこか距離が近いと感じる。
「そうなんだ」
「で、そんな私が、彼に告白してもいいと思いますか!? 今はおそらくいないけれど、意外と彼って女性に好かれるんですよね」
やや食い気味に、北野さんは私の目をはっきり見て質問を投げかける。ただ、どこか迷いネコのように泣きそうな目でもあった。
「確かに、何もしないと誰かに取られてしまう可能性はある。ただ、何事も急ぐと後々響くのは仕事を通しても学んでることなん
じゃないかな。頼られた身として私が言うのであれば、少しずつ距離を詰めていって、告白するのは自分を信じられるようになってからでいいんじゃないかな?」
無責任なことは言えない。とはいえ何も言わずに言うのも私らしくない。私が今持っている中で一番の答えを彼女に出した。もちろん、100点満点の回答ではないことは承知の上だ。
「確かにそうですね。私が新人の頃、必死になって追いつこうとしている時、焦りすぎて失敗して、先輩は『焦ったらミスにつながるから今は着実にゆっくり進めていこう』って言ってくれましたしね。その答えに思うことがないといえば嘘になりますが、とりあえずまずはゆっくり進めていきます!」
彼女は今度は精一杯の笑顔で私にアドバイスのお礼を言ってくれた。作り笑顔ではない本物の笑顔で。それはまるで、オムライスの卵のように輝いていると思うのは、私だけだろうか。
『ごめん、おそらく金曜日に灯梨の家に忘れ物したみたいでさ。大事なものじゃないんだけど、ちょっとだけ今日、家に寄っていいかな?』
久しぶりに奇跡の定時帰りだ。そう思いながら会社を出ると、真弥から連絡が来ていた。連絡から察するに困るほどじゃないけど、仕事中にあったら便利ぐらいなものだろう。私は『いいよ、今日は定時帰りだし待ってる』と連絡して、会社最寄り駅まで向かった。
家に帰ってきてからちょうど1、2分ほどで鳴ったインターフォンのチャイム音。金曜だけは彼が来るけれど、基本的には一人なため、いつもなら今頃素っ裸に近い。ただ、今はラフな服装とはいえもちろん隠すべきところは隠している。
インターフォンの映像にはいつもの彼。はーい、とドア越しの相手に届くかどうかの声の音量で彼を迎える。
ドアを開けるとそこにはいつもの彼がいる――はず、なのだが胸が大きくドキンとした。今までになかった感情だ。まだ好きとは認めるには足りないけれど、少なくとも彼を意識していることはもう認めざるを得ない。
「ん? なんか灯梨フリーズしてないか? 俺の髪の毛に鳥の糞でもついてる?」
「いや、そんなことはないよ、上がってあがって!」
平静を装いながら彼を家に上げた。
「まあ、今日はすぐお暇するけどな」
「で、何を忘れたの?」
「大したものじゃないよ。モバイル充電。おそらく、この辺に……」
そう言いながら、テレビ台あたりを探す。そして、いとも簡単に見つけてしまう。テレビはお母さんが持って行けと言ったのでここにあるけれど、スマホで完結してしまう現代ではほとんど使っていない。だから土日中に気づかなかったのだろう。
「あったよ、ありがとう! じゃあ、また金曜日!」
私は真弥とずっといたいのに、どうして真弥はまるで仕事のタスクが終わったらあっけなくも帰ってしまう会社員のように家を後にしてしまうのだろう。
もし、今、後ろから強く抱きついたら、彼の唇に私の唇を当てたら、彼はどういう感情を抱くのだろうか。アロマンティックなのはわかっている。恋心は抱かなくても、少しぐらいは私を女の子として感じてくれるのだろうか。
私、今日、後輩に何て言ったっけ――少しずつ距離を詰めていって自分を信じられるようになってから、そう言った。まだ、自分を完全には信じられていない。とすると、何をすべきかは自然とわかるものだろう。私は彼を玄関まで見送る。ただそれだけのことをした。彼に触れたいという欲望を抑えて。
次の金曜日が来るまでの時間の流れは、生きてきた中で一番長いと思った。1日24時間と平等に与えられてはいるけれど、それは決して公平ではない。
いつものように金曜は定時を超えるのが当たり前。そのため、体力を消耗した私は道草など食わずまっすぐ家に帰り、彼のご飯を食べるのがルーティーンだったはずなのに、似合わず今日は駅前のデパートに寄る。幾分、今日の私はどこか気合いが入っていることが周りから見てもわかるらしい。北野さんにも「先輩、夜はデートとかですか?」と言われてしまう始末だ。ただ、今日のお昼、あれ以降初めて北野さんと食事をしたのだけれど「計画はうまくいきそうです!」と良い報告をしてくれた。ならば、次は私だと自動的にエンジンが掛かっているのだ。
「ただいま」
「おかえり」
私はデパートで買ったあるものを玄関にある靴箱入れの上に置いた。今日はどうやらデパートで道草を食っていたため、料理をもう作り終わっているようだ、彼はリビングでテレビを見ていた。私の買ってきたものがまだばれないようで都合がいい。
「あれ、なんか今日、灯梨オシャレしてる?」
「……そうかな? 気分転換、みたいな……?」
妙な間の後に私は言葉を続ける。動揺を抑えようとしたが、私はテーブルに置かれたとろ~りオムライスに「おいしそう!」と思わず反応した。
「いつも通り、チューハイからのビール?」
「いや、今日はね、久しぶりにワインの口だな。持ってくるね」
「いいよ俺が。灯梨は疲れてるんだから」
「場所とか知ってるの私だから」
私は実家のお母さんから前に送られていたまま放置していたワインとグラスなどのセットを用意して、ようやくご飯にありつく。ワインをついでもらうのは彼に任せた。ただ、今日は彼にも飲んでもらうため彼の分は私が注いだ。
「今日も、間違いなく、いつも通り――いや、いつも以上においしいです」
「よかった、今日のは自信作なんだ」
そして、優雅にとまではいわないけれど、ワインを嗜む。意外とこのワインは度数が高い。これでは、あっけなくも早々に酔ってしまう。そうやって酔ってしまう前にあれを渡したい。そう思って「ちょっと待ってて」と前置きを置いてから、玄関の方に置いておいた赤とピンク色のチューリップの花束を持ってきて恥ずかしさを押し殺しながら彼に渡す。
「いつもお世話になってるから。たまにはと思って。もらってくれますか?」
「……灯梨なんかあったのか? でもありがとう、嬉しいよ」
「何かと言われれば、なんでもないかな。……でも、なぜか渡したくなったんだ」
ひねりがないと言えばそれまでだ。チューリップの花言葉が「愛」を表すことは多くの人が知っていることだろう。でも、受け取った当人がその意味でもらうとは限らない。気づかずにただ花として受け取る可能性だってある。彼がこのチューリップに吹き込まれた意味をどう解釈したのか心は読めないけれど、彼に初めて頭をなでられた。
その興奮を、私はアルコールの力で抑えようとする。するとどうなるのか、分かりきっていることだが、彼にとってのご褒美になるのであればそれで私は構わない。
寝ている私の、顔を彼は微笑みながら覗いてくれるのであれば。
おやすみなさい。
――どうやら、今日はもういないみたいだ。
私が起きたときには彼の姿はなかった。でも、今日は顔に初めて彼の手が触れた感触が残っていた。初詣の時に配られる甘酒のように温かい。今日も見たのだろう、私の寝顔を。いや、彼は見守ってくれていたのだろう。
テーブルに目を向けると、『豚汁を作って冷蔵庫に置いておいたから、明日にでも飲んでね。赤とピンク色のチューリップ、ありがとう』というメモ書きが置いてあった。なんだか心地よさを覚えながら、もう一杯ワインを飲もうとした。でも、今日はもうやめようと思い、ワイングラスを片付けた。そして、スマホを片手にバルコニーへと出る。
「月、綺麗だな」
この時期の外の空気は清々しい。ずっとこのままでいたいと思えるほどに。
私の目の前には、文句のつけようがない満月が照り輝いていた。
私はスマホから彼の連絡先を探して、とある文を送ってみた。
『月が綺麗だよ。見てみてよ』
と。
次は彼をデートに誘ってみよう。まだもう少し時間がかかるかもしれないけれど。でも、この満月が、新月になって消えてしまう前に。
彼が私のことを好きになれないことは知っている。
でも、私は彼に少しでも私を女性として興味を持ってもらえるよう、少しずつ歩んでいくのだ。
気持ちを抑えられないぐらいに、好きだよ――。