夜の風景

無音の声

第5章・第6ページ

「届いた詩」


場所:東京・お台場海浜公園

時間:晩春――夕暮れ前


夕暮れが、ゆっくりと東京湾に降りていた。


空は、数時間前までの明るい青色をもう失っていた。

淡いオレンジと柔らかな灰色が混ざり合い、最後の光が水面に静かに伸びている。


小さな波が、音もなく岸へ打ち寄せては、また静かに引いていく。


海から吹く穏やかな風が、遠くの街の音を運んでくる。


電車の音。

車の音。

そして、それぞれの場所へ向かって歩いていく人々の声。


けれど、このお台場の一角だけは、いつもより静かに感じられた。


アイロは、一人で立っていた。


濃い色のジャケットを肩にかけ、両手をポケットに入れている。


視線は、遠くの水平線に向けられていた。


そこでは、海と空が夕暮れの光の中で溶け合い、もうはっきりとした境界さえ見えなかった。


しばらく、何もしなかった。


ただ、立っていた。


時には、人は何かを見つけるために、どこかへ行くわけではない。


ただ、数分だけでも、何かを忘れるために行くことがある。


アイロもそうだった。


会社の報告書や、会議や、ガラス張りの部屋から、自分の頭を少しだけ遠ざけるために、ここへ来た。


けれど――


逃げようとするときほど、


思い出は、自分の足音よりも静かに、


後ろからついてくる。


アイロの視線は、水面から離れなかった。


その時、ふいに青いマフラーの記憶が蘇った。


あの夜。


寒さ。


雪。


そして――


今はもう、何年もそばにいない少女。


アイロは、ゆっくりと息を吐いた。


そして、海辺のベンチに腰を下ろした。


バッグから、小さなノートを取り出す。


しばらくペンを手にしたまま、何も書かなかった。


まるで言葉さえも、彼と同じように、


どこから始めればいいのか分からないようだった。


穏やかな風が、彼の頬を撫でていく。


アイロは、ゆっくりと顔を伏せた。


白いページ。


そして――


静かに、書き始めた。


会社のことではない。


成功のことでもない。


周りの人たちが、すべてに恵まれた人生だと思っているような、そんな暮らしのことでもない。


そのすべての喧騒の中で、


今も一人で取り残されている、


一人の人間について。


彼は書いた。


「私たちは、忍耐という船を悲しみの海へと浮かべた。

この嵐が過ぎたあと、

その船のどの板が、どこへ流れ着くのだろう。」


最後の言葉を書き終えたところで、


アイロのペンが数秒間、止まった。


彼は、自分が書いた言葉を見つめた。


笑わなかった。


ただ、静かにノートを閉じた。


そしてスマートフォンをポケットから取り出す。


一つのページを開く。


そこは、彼が詩を発表している場所だった。


誰も、その名前の向こうに誰がいるのか知らない。


その名前は――


「無音の声」


「無音の声」


彼は、今書いた詩を、その場で投稿した。


数秒が過ぎた。


それからスマートフォンの画面を消し、再び海へ視線を向ける。


アイロには分からなかった。


この詩が、どこまで届くのか。


何人の人が読むのか。


誰かが、この言葉を理解してくれるのか。


何も分からなかった。


ただ、一つだけ分かっていた。


声にして伝えられない言葉がある。


そういう言葉は、


紙の上に残すしかない。


そして、もしかしたら――


遠く離れたどこかで、


誰かがそれを読んでくれるかもしれない。


風が、もう一度吹いた。


波の音が、さらに静かになった。


アイロはノートを隣に置き、遠くの水平線を見つめ続けた。


その瞬間、誰も彼を、大企業の副社長として見てはいなかった。


誰も、その穏やかな表情の奥に、


どんな人生が隠されているのか知らなかった。


そこにいたのは、ただ一人の男。


海辺で、


言えなかった言葉を詰め込んだノートを抱える、一人の男だった。


そして、静かなお台場の夕暮れの中で――


「無音の声」は、初めて、

より大きな声を持った。


少し離れた場所では、街がまだ眠らずにいた。


人が来る。


人が去っていく。


そしてアイロの詩は、


ゆっくりと、


その人々の間を通り抜けながら、


自分自身の道を歩き始めていた。
< 70 / 70 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:6

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop