似た者同士の契約婚 ~結婚しないと宣言した日に出会った相手は、不眠の心臓外科医でした~
(ただそれだけのことなのに)
大きなミスをしたわけでもない。
トラウマと呼ぶには、あまりに些末な出来事だ。
それなのに、あの日以降、優斗は寝つけなくなっていた。
寝ようとすると、あの父親と上野の声が思い浮かぶようになってしまったのだ。
目をつぶると、「寝てはいけない」「寝なくてはならない」という相反する気持ちが交互に頭を打つ。
疲労感はあるのに、目を閉じても朝が来ることはない。
その内、優斗は眠ることを諦めてしまっていた。
それなのに――。
『良い感じです。呼吸は止めないで』
(美空のおかげだな)
夜の静寂の中、落ち着いた美空の声に導かれるように呼吸をすると、頭の中が空っぽになっていくようだった。
なにも考えずに、ただ呼吸をする。それが優斗にとっては心地よかった。
(病院でも家でも考え事ばかりだったからな。たまにはああいう『無の時間』が必要なのかもしれない)
優斗は昨日教わった深呼吸を数回繰り返すと、仕事へ向かう準備を始めた。
出発しようと廊下に出ると、彼女の自室が目に入る。
(彼女にも、眠れない夜があるのだろうか……)
夢見が悪かったと言いながら空元気に振る舞っていた彼女に、仲間意識を感じる。
「もう全然平気、か……」
美空を真似た言葉を口にしてみる。
確かに、空元気でもないよりマシなのかもしれない。
優斗は口元に笑みを浮かべて、そっと家を出た。
「おはよございまーす。お、今日は顔色がマシだな」
優斗が心臓外科の医局で作業をしていると、横から声をかけられた。
同僚の佐田だ。小児科の彼は、白衣のポケットから覗いていたクマのぬいぐるみを優斗にむかって振りながら「良いことでもあったのか?」と聞いてきた。
「別に。ただよく寝ただけだ」
「えぇー、新婚さんなのにー? もう夫婦関係冷えきっちゃったの? クマさん心配だなー」
「……お前、子供たちの前でもクマにそんなこと言わせてんのか?」
「まさか! 『僕がついてるから大丈夫だよ』って可愛くしてるよ」
クマを揺らしながら笑う佐田を適当に流すと、佐田は何枚かの紙が挟まったファイルを手渡した。
「ちょっと宮倉先生に意見を聞きたいんだ。今うちで診てるファロー四徴症の子の検査結果。一応緊急手術するほどではないって判断したんだけど、どう思う?」
「うん? ……確かに数値は安定しているし、まだ月齢が幼い。体重がもう少し増えるのを待ってからで良いと思うが……」
「だよな! さんきゅ。これはご意見いただいたお礼」
佐田がデスクにぽんと小瓶を置いた。栄養ドリンクだ。
「と思ったんだけど、今日は必要なかったな。まあ、また寝不足になったら飲めよ」
「もらっとく」
「いいってことよ! 奥さんと熱々になるの期待してるぜ」
佐田は言いたいことだけ言って、満足そうに去っていった。
(これを渡しに来たのか? お節介なやつだ)
先程の患者の話は、佐田だけで判断できる内容だ。おそらく優斗の顔色が心配だったんだろう。
佐田はこうして適当な雑談を挟みつつ、時々様子を見に来るのだ。
優斗は栄養ドリンクを眺めながらふっと微笑んだ。
(佐田。俺は新婚生活、結構うまくやってるよ)
こんなにも穏やかな朝は、久しぶりなのだから。
大きなミスをしたわけでもない。
トラウマと呼ぶには、あまりに些末な出来事だ。
それなのに、あの日以降、優斗は寝つけなくなっていた。
寝ようとすると、あの父親と上野の声が思い浮かぶようになってしまったのだ。
目をつぶると、「寝てはいけない」「寝なくてはならない」という相反する気持ちが交互に頭を打つ。
疲労感はあるのに、目を閉じても朝が来ることはない。
その内、優斗は眠ることを諦めてしまっていた。
それなのに――。
『良い感じです。呼吸は止めないで』
(美空のおかげだな)
夜の静寂の中、落ち着いた美空の声に導かれるように呼吸をすると、頭の中が空っぽになっていくようだった。
なにも考えずに、ただ呼吸をする。それが優斗にとっては心地よかった。
(病院でも家でも考え事ばかりだったからな。たまにはああいう『無の時間』が必要なのかもしれない)
優斗は昨日教わった深呼吸を数回繰り返すと、仕事へ向かう準備を始めた。
出発しようと廊下に出ると、彼女の自室が目に入る。
(彼女にも、眠れない夜があるのだろうか……)
夢見が悪かったと言いながら空元気に振る舞っていた彼女に、仲間意識を感じる。
「もう全然平気、か……」
美空を真似た言葉を口にしてみる。
確かに、空元気でもないよりマシなのかもしれない。
優斗は口元に笑みを浮かべて、そっと家を出た。
「おはよございまーす。お、今日は顔色がマシだな」
優斗が心臓外科の医局で作業をしていると、横から声をかけられた。
同僚の佐田だ。小児科の彼は、白衣のポケットから覗いていたクマのぬいぐるみを優斗にむかって振りながら「良いことでもあったのか?」と聞いてきた。
「別に。ただよく寝ただけだ」
「えぇー、新婚さんなのにー? もう夫婦関係冷えきっちゃったの? クマさん心配だなー」
「……お前、子供たちの前でもクマにそんなこと言わせてんのか?」
「まさか! 『僕がついてるから大丈夫だよ』って可愛くしてるよ」
クマを揺らしながら笑う佐田を適当に流すと、佐田は何枚かの紙が挟まったファイルを手渡した。
「ちょっと宮倉先生に意見を聞きたいんだ。今うちで診てるファロー四徴症の子の検査結果。一応緊急手術するほどではないって判断したんだけど、どう思う?」
「うん? ……確かに数値は安定しているし、まだ月齢が幼い。体重がもう少し増えるのを待ってからで良いと思うが……」
「だよな! さんきゅ。これはご意見いただいたお礼」
佐田がデスクにぽんと小瓶を置いた。栄養ドリンクだ。
「と思ったんだけど、今日は必要なかったな。まあ、また寝不足になったら飲めよ」
「もらっとく」
「いいってことよ! 奥さんと熱々になるの期待してるぜ」
佐田は言いたいことだけ言って、満足そうに去っていった。
(これを渡しに来たのか? お節介なやつだ)
先程の患者の話は、佐田だけで判断できる内容だ。おそらく優斗の顔色が心配だったんだろう。
佐田はこうして適当な雑談を挟みつつ、時々様子を見に来るのだ。
優斗は栄養ドリンクを眺めながらふっと微笑んだ。
(佐田。俺は新婚生活、結構うまくやってるよ)
こんなにも穏やかな朝は、久しぶりなのだから。