御曹司社長は恋に臆病な契約妻を極上の愛で囲う
 しばらく考えを巡らせていた小夜莉は「そうだ」とつぶやく。よく母が炊飯器で作ってくれた鯛めしが良いかも知れない。海が近かった小夜莉の地元では鯛めしが有名で、小夜莉も子供の頃から大好きだったのだ。初めて自分の手料理を振る舞うのだから、変に背伸びをしたメニューよりも自分が慣れ親しんだ料理を味わって欲しいと思った。

(雅人さん、喜んでくれるといいけど)

 小夜莉はほうと小さく息をつく。雅人の顔を思い浮かべるだけで胸の奥が熱っぽくなる。これはどういう気持ちなのだろう。
 小夜莉がそんなことを思った時、遠くから「ねぇ」という驚いたような声が聞こえてきた。

「今、能面が笑ってたんだけど」

 その声にぎくりとした小夜莉は、慌ててメガネをぐっと押し上げながら、いつものように平然と食事を終えたトレーを持って立ち上がる。横顔をジロジロと見る後輩の視線を痛いほど感じるが、何も聞こえなかった振りをして無表情で通り過ぎた。

「そう? いつも通りの能面じゃない?」
「そうかなぁ?」
「本物の能面ってさ、見る角度によって表情が違って見えるように作られてるっていうから、それじゃない?」
「あぁ! なるほど」

 あははと笑う声が後ろの方で響いている。

(そもそも、私は能面じゃないんですけど)

 そう思いつつも、今日は自分に対する噂話もうっとうしく感じない。それよりも小夜莉の心を占めているのは今晩のことだ。

(今日は仕事を定時で切り上げて、急いで帰ろう)

 小夜莉は華やぐ心の内を誰にも気がつかれないように呼吸を整えると、白い帽子をかぶり直して研究室へと向かった。
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