雪桜婚
第一話 出会い
第1話
「やばい、 遅刻なんだけど~」
あたし、 茶山鈴奈十二月の寒空の中、雪道を早足で歩いていた。
目覚ましかけるのを忘れてた〜!
あたしってば、なんてドジなの〜!
歩くたびに「ザッザッザッ」と雪を踏む音がする。
「もう、お化粧した意味がないなぁ……」
ほんのりのせた化粧が汗で溶けていくのをあたしは感じる。
冷たい風が頬をかすめる。
「だ~か~らぁ、寒いんだってば〜」
あたしは環境に文句を言う。
「…………」
歩道を眺めた。
わぁっ、きれい……。
こんな日でも積もった雪が人々を魅了する。
でもこんなに積もってて、今日、お客さん来るのかな? こんな日まで営業するって、もはやド根性……。
あたしは勤務先のスーパーを目指してひたすら歩いた。
スカートの下から冷気がこれでもかと襲ってくる。
アパートから勤務先まで徒歩15分。
あたしは県記念公園の横を通り過ぎる。
福祉を目的とした複合施設が公園内にあり、レストランなどもあるが、雪の影響で今はひとっ子ひとり見当たらない。
公園にはたくさんの桜の木が植えられていて、毎年お花見の時期は賑わっている。
「……んっ?」
あたしはふと人の気配を感じて公園内を見た。
「え——」
目を開き、あたしは大きく息を呑んだ。
そこに男性がひとり立って、天を仰いでいた。
「なにこれ……」
足が止まる。
息をするのですら忘れてしまう——
ひらひら……。
空に美しい桜の花びらが、優雅に舞っていた。
十二月初めの冬に咲いた一本の桜の木。
桜には真っ白な雪が積もり、あたりを銀世界へと変えていた。
人離れした美しい男性が、優しい眼差しでその桜を眺めていた。
ふわり——
男性の鳶色の絹のような髪が、風に大きくなびく——
背が高く、桜を見上げるしなやかな身体。年はあたしより少し上だろう。
グレーのマフラーに黒のジャケットからは品の良さが滲み出ていた。
風が吹くたびに男性の周りを楽しそうに舞う雪と、桜の花びら。
……こんな景色、初めて見た……ド、ドラマの撮影みたい……
あたしの身体に電気が走った。
「…………」
ただただその光景に見惚れた。
「……!」
男性のラフなレイヤーが入った髪が揺れ、目が合う。
ドキッ!
心臓が跳ねた——
「なに見てんだよ……?」
誰も寄せ付けないような温度のない声が、男性から発せられた。
「えっ?」
驚きを隠せなかった。
その言葉、あたしに言ったんだよね?
「おれは他人からそんなに見られるのは好きじゃない」
男性が淡々と語った。
「あ、ご、ごめんなさい。なんかアニメ……じゃない、ドラマのワンシーンみたいで、思わず見惚れてました」
あたしは急いで男性から視線を逸らす。
男性がその様子を見て、少しだけ頬を緩めた。
その表情にあたしの中にあった警戒心が、少しだけ軽くなる。
「こんな真冬に桜が咲いて、雪が積もるなんてほんと奇跡だよな……」
男性の横顔が再び空を仰いだ。
「…………」
どうしてかわからないけど、心臓がなぜか速くなっていく——
第2話
「ほんとですね~きれい……今の時期に桜なんて……なんか得した気分です」
あたしは舞い散る桜の花びらを見つめながら、歩く。
「今日はいい日だな……」
遠い目をした男性がつぶやくように言った。
「あの、あなたは俳優さんなんですか? 戦隊もののヒーローかなにかですか?」
あたしは男性に尋ねた。
だってどう見ても、一般人じゃないオーラが滲み出てる。
「違うわ。普通の社会人だ」
男性が即座に反応した。
……うわっ、秒で返してきた、案外面白い人だな。
風がふたりの間を吹き抜けた。
雪と桜が一面を飾る。
「わぁ……」
あたしのすぐ前を桜の花びらが舞う。
「ちょっと待って~」
花びらを追う。
「捕まえたっ」
手のひらの中に桜の花びらを閉じ込めた。
「…………」
気配を感じて、あたしがそっと左を見ると、男性がすぐそばに立っていた。
「近い、近いですっ。やだっ」
頬が赤く染まる。
ぶ、ぶつかりそうな距離じゃない!
「おまえが勝手に近づいてきたんだろうが。やだってなんだ」
男性が呆れた声を出した。
……えっ? そうだったの? なんだそっかぁ。
「ご、ごめんなさい」
慌ててあたしが男性から離れようとするも、雪で足元が滑った。
「あっ——」
視界に空が映った。あたしの背中が地面に近づいていく。
「……っ!」
男性の声にならない声が耳元で揺れた。
空間がふわりと動いた気配がした。
「——あ、すみません……」
たちまち身体に火照りが広がる。
あたしは後ろから男性に抱きしめられて、すっぽりと彼の腕の中にいた。
空から雪が降ってきて、ふたりの上で優しく溶ける。
「……危ないやつだな」
男性の吐息が頬に触れる。
「…………」
心臓がバクバクと音を立てた。
……男性と触れ合ったのは、いつ以来かな? しかもこんなにかっこいい人と、心臓に悪いよ。
そう思ってもなぜかその腕の中は居心地が良かった。
「……おまえさ、どこかで会ったことないか?」
男性の声が耳元で響く。
「え……? あなたと?」
あたしが顔を男性のほうに向ける。
そこには琥珀色の瞳に、鳶色の髪がさらさらと揺れた中性的な美しい顔があった。
「おれは立冬龍太郎だ。おまえは?」
男性がその瞳であたしをじっと見据えた。
龍太郎?
龍太郎って言った?
聞いたことあるような……。
「あたし? あたしは茶山鈴奈です……」
抱きしめられたまま、答えた。
き、緊張するよ。ドキドキする。
あんまり見ないでほしいよ。
「……おまえさ、昔と変わらないな……」
急に柔らかくなった声が、あたしの首すじをかすめた。
「え? あなたとあたし知り合いなんですか……?」
自分の声に熱がこもる。
「知り合いもなにも、おれたち同じ中学校だよな? おれは生徒会長をしてた。おまえは書記だ」
龍太郎と名乗った男性が確認するように口にした。
えっ、生徒会??
あっ、この人、立冬先輩か!
たしかに面影あるわ。
それにますますかっこよくなってる。
「……あ~! あのやたら目立ってた立冬先輩ですか!?」
あたしは思わず声を上げた。
「その言い方な」
「あは。でもほんとのことです。目立ってましたよ。あの、もうそろそろ離してもらえませんか?」
あたしは立冬先輩に話しかける。
「おまえはおれの特別だった——」
寒空の中で、立冬先輩の声だけが広がっていった。
ドクン——
心臓が跳ねた。
なに、いまのセリフ。
どういう意味?
「な、なんですか。離してください」
あたしはパニックを起こし、立冬先輩の腕の中から抜ける。
「…………」
立冬先輩の目がなにか言いたげだった。
「あ~っ! 仕事! 仕事行かなきゃ~すっかり忘れてた!」
あたしは腕時計に目をやる。
やばい、急がなきゃ。立冬先輩に抱きしめられて、脳がフリーズしてた。
「ふっ……」
立冬先輩が目を細めて笑う。
「あ、あの助けてくださって、どうもありがとうございました」
あたしは立冬先輩に頭を下げて、急いで歩き出す。
「あっ……ちょっと待って……」
あたしの背後で声がした気がした。
この時、あたしは自分がスマホを落としたことに、気がついていなかった。
第3話
あたしは早足で勤務先であるスーパーに向かった。
空から落ちる雪が止んできて、視界が良好になる。
さっきはびっくりしたなぁ……まさかあんな再会のしかたをするなんて……。
思わず口元が緩んでしまう。
「でも、なんであたしのことを覚えてたんだろう……」
首をかしげる。
——先生の無茶振りが多すぎて、生徒会への負担が大きすぎる——
あたしの脳裏に、中学時代の立冬先輩のしかめっ面が浮かんだ。
ふふ。あの顔は今思うと愛嬌なんだけど、当時はどことなく近づきにくかったんだよね。
時々、お腹を壊してるみたいな顔してて、ちょっとみんなと距離があったよね……。
でも副会長とは仲がよかったなぁ。
昔の思い出が蘇ってきて、懐かしい気持ちが込み上げてくる。
大切な思い出。
蘇る青春。心がじんわりと温かくなる。
「あたしはすっかり忘れてたなぁ……あっちは覚えてたんだ」
自分で言った内容に少し、ドキッとした。
やがて勤務先に着いて、あたしは従業員入り口のドアを開けた。
廊下に積まれたダンボールの匂いが、一斉に襲ってきた。
女性用ロッカールームに入り、自分のロッカーを開け、鞄を押し込んだ。
鞄からヘアゴムを取り出して、背中まである長い髪をひとつに束ねる。
設置してある鏡で全身をチェックする。今日は白いセーターにロングスカートといった出立ち。
次にリップを取り出し、くちびるに塗った。ほんのり色づくリップ。
廊下にあるタイムカードを押し、あたしは事務所のドアを開けた。
「おはようございます」
元気に挨拶をする。他の従業員から「おはようございます」と声が返ってきた。
「……おはようございます」
事務長があたしをジロジロと見ながら、近づいてきた。
五十代後半の男性で、時々加齢臭が漂う。
「……なんですか?」
事務長の太いお腹に自然と目がいってしまう。
「髪色、規定ギリギリだよ?」
事務長があたしの髪を見ながら告げた。
「あ、これは地毛です」
口元にだけ笑みを浮かべて、あたしはなんとか返す。
「ふ~ん?」
事務長がさらに近づいてきた。
ちょっとやめてよ。不愉快なんですけど?
「ねぇ、今日もいい匂いがするね。今晩さ、食事にでもどう?」
あたしの耳元で事務長がささやく。
……ふざけないで、反撃開始よ。
「……いいですね。じゃあみんなも誘いましょう? もちろん事務長の奢りですよね?」
あたしは手を合わせて、にっこりと笑顔を作る。
「ち、ちょっと困るよ、君」
事務長の慌てる声が事務所に広がる。
「みなさ~ん、事務長がなんとご飯を奢ってくれるらしいですよ~!?」
あたしはわざと声を張り上げた。
「えー、本当? 嬉しいなぁ。さすが事務長」
「今月、ピンチだから助かる~」
「ありがとうございます、事務長」
事務所の中で、事務長を持ち上げる声が次々に上がった。
その光景を目にし、あたしはほんのり笑みを浮かべた。
……本当にハラスメントの撲滅を願うわ。
「茶山さん、君は今日は伝票の整理はいいから、売り場を手伝ってきてくれる? レジ担当が休みが多いらしいから」
事務長が吐き捨てるように言う。
……やれやれ、相変わらず、わかりやすい仕返しね。
「は~い」
レジ用のエプロンを手に取り、あたしは階段を降り、食品売り場に向かう。
店内にいる客の姿がぽつぽつと目に入った。
周りの従業員に挨拶をした後、あたしはレジに立っていた。
「…………」
何気にあたしはパンコーナーを眺めた。いつもとは違い寂しい棚が目につく。
……雪でパンも届いていなくてスカスカだよ。
「……ん?」
そのパンコーナーで、黒のトレンチコートが揺れていた。
「んんっ?」
あたしは瞳を大きく開いて、そのコートを目で追った。
立冬先輩の姿があたしの視界に飛び込んできた。
やだ。立冬先輩、無駄にイケメンだからすごく目立ってる!
「えっ? 立冬先輩。なにやってるの、こんな場所で」
驚きのあまり、あたしから声が漏れた。
その声に反応するかのように、立冬先輩が近づいてきた。
近くの従業員たちも彼に目を向けた。
「よう。茶山の職場はここなんだな」
レジに立つあたしに立冬先輩が話しかけてきた。
「えぇ、よくわかりましたね」
あたしは驚きを隠して、なるべく平静を装う。
……なんでわかったの?
「さっき茶山の後をつけた……」
立冬先輩があたしをじっと見つめる。
「はぁ!? 後をつけた?」
あたしは目をぱちぱちさせた。
「茶山が困るだろうと思って、おれがここまできてやったんだ」
立冬先輩の口角が上がった。
「え、怖っ……別に困るようなことはありませんけど? そんな悪趣味な真似やめてくださいよ?」
「……やっぱりマヌケだな」
立冬先輩がボソッとつぶやき、笑う。
「……なんですか? なんで笑ってるんですか?」
あたしの眉が寄る。
「そんな口の聞き方していいのか? これ、茶山のだよな?」
彼がコートからあたしのスマホを取り出して、レジにそっと置いた。
スマホに付いたクマのストラップがコロンと揺れた。
「……あ、あたしのスマホ!」
思わず声を上げて、スマホに手を伸ばした。
サッ。
立冬先輩があたしより早く、ひょいとスマホを取った。
「は? か、返してくださいよ」
……なんなの、この人?
「墓参りのついでにここまでわざわざ届けてやったんだ。茶山は今晩、おれに付き合え——」
立冬先輩が微笑む。
「はぁぁ?」
素っ頓狂なあたしの声が店内に響いた。
なにがどうしてそうなるわけ?
「やばい、 遅刻なんだけど~」
あたし、 茶山鈴奈十二月の寒空の中、雪道を早足で歩いていた。
目覚ましかけるのを忘れてた〜!
あたしってば、なんてドジなの〜!
歩くたびに「ザッザッザッ」と雪を踏む音がする。
「もう、お化粧した意味がないなぁ……」
ほんのりのせた化粧が汗で溶けていくのをあたしは感じる。
冷たい風が頬をかすめる。
「だ~か~らぁ、寒いんだってば〜」
あたしは環境に文句を言う。
「…………」
歩道を眺めた。
わぁっ、きれい……。
こんな日でも積もった雪が人々を魅了する。
でもこんなに積もってて、今日、お客さん来るのかな? こんな日まで営業するって、もはやド根性……。
あたしは勤務先のスーパーを目指してひたすら歩いた。
スカートの下から冷気がこれでもかと襲ってくる。
アパートから勤務先まで徒歩15分。
あたしは県記念公園の横を通り過ぎる。
福祉を目的とした複合施設が公園内にあり、レストランなどもあるが、雪の影響で今はひとっ子ひとり見当たらない。
公園にはたくさんの桜の木が植えられていて、毎年お花見の時期は賑わっている。
「……んっ?」
あたしはふと人の気配を感じて公園内を見た。
「え——」
目を開き、あたしは大きく息を呑んだ。
そこに男性がひとり立って、天を仰いでいた。
「なにこれ……」
足が止まる。
息をするのですら忘れてしまう——
ひらひら……。
空に美しい桜の花びらが、優雅に舞っていた。
十二月初めの冬に咲いた一本の桜の木。
桜には真っ白な雪が積もり、あたりを銀世界へと変えていた。
人離れした美しい男性が、優しい眼差しでその桜を眺めていた。
ふわり——
男性の鳶色の絹のような髪が、風に大きくなびく——
背が高く、桜を見上げるしなやかな身体。年はあたしより少し上だろう。
グレーのマフラーに黒のジャケットからは品の良さが滲み出ていた。
風が吹くたびに男性の周りを楽しそうに舞う雪と、桜の花びら。
……こんな景色、初めて見た……ド、ドラマの撮影みたい……
あたしの身体に電気が走った。
「…………」
ただただその光景に見惚れた。
「……!」
男性のラフなレイヤーが入った髪が揺れ、目が合う。
ドキッ!
心臓が跳ねた——
「なに見てんだよ……?」
誰も寄せ付けないような温度のない声が、男性から発せられた。
「えっ?」
驚きを隠せなかった。
その言葉、あたしに言ったんだよね?
「おれは他人からそんなに見られるのは好きじゃない」
男性が淡々と語った。
「あ、ご、ごめんなさい。なんかアニメ……じゃない、ドラマのワンシーンみたいで、思わず見惚れてました」
あたしは急いで男性から視線を逸らす。
男性がその様子を見て、少しだけ頬を緩めた。
その表情にあたしの中にあった警戒心が、少しだけ軽くなる。
「こんな真冬に桜が咲いて、雪が積もるなんてほんと奇跡だよな……」
男性の横顔が再び空を仰いだ。
「…………」
どうしてかわからないけど、心臓がなぜか速くなっていく——
第2話
「ほんとですね~きれい……今の時期に桜なんて……なんか得した気分です」
あたしは舞い散る桜の花びらを見つめながら、歩く。
「今日はいい日だな……」
遠い目をした男性がつぶやくように言った。
「あの、あなたは俳優さんなんですか? 戦隊もののヒーローかなにかですか?」
あたしは男性に尋ねた。
だってどう見ても、一般人じゃないオーラが滲み出てる。
「違うわ。普通の社会人だ」
男性が即座に反応した。
……うわっ、秒で返してきた、案外面白い人だな。
風がふたりの間を吹き抜けた。
雪と桜が一面を飾る。
「わぁ……」
あたしのすぐ前を桜の花びらが舞う。
「ちょっと待って~」
花びらを追う。
「捕まえたっ」
手のひらの中に桜の花びらを閉じ込めた。
「…………」
気配を感じて、あたしがそっと左を見ると、男性がすぐそばに立っていた。
「近い、近いですっ。やだっ」
頬が赤く染まる。
ぶ、ぶつかりそうな距離じゃない!
「おまえが勝手に近づいてきたんだろうが。やだってなんだ」
男性が呆れた声を出した。
……えっ? そうだったの? なんだそっかぁ。
「ご、ごめんなさい」
慌ててあたしが男性から離れようとするも、雪で足元が滑った。
「あっ——」
視界に空が映った。あたしの背中が地面に近づいていく。
「……っ!」
男性の声にならない声が耳元で揺れた。
空間がふわりと動いた気配がした。
「——あ、すみません……」
たちまち身体に火照りが広がる。
あたしは後ろから男性に抱きしめられて、すっぽりと彼の腕の中にいた。
空から雪が降ってきて、ふたりの上で優しく溶ける。
「……危ないやつだな」
男性の吐息が頬に触れる。
「…………」
心臓がバクバクと音を立てた。
……男性と触れ合ったのは、いつ以来かな? しかもこんなにかっこいい人と、心臓に悪いよ。
そう思ってもなぜかその腕の中は居心地が良かった。
「……おまえさ、どこかで会ったことないか?」
男性の声が耳元で響く。
「え……? あなたと?」
あたしが顔を男性のほうに向ける。
そこには琥珀色の瞳に、鳶色の髪がさらさらと揺れた中性的な美しい顔があった。
「おれは立冬龍太郎だ。おまえは?」
男性がその瞳であたしをじっと見据えた。
龍太郎?
龍太郎って言った?
聞いたことあるような……。
「あたし? あたしは茶山鈴奈です……」
抱きしめられたまま、答えた。
き、緊張するよ。ドキドキする。
あんまり見ないでほしいよ。
「……おまえさ、昔と変わらないな……」
急に柔らかくなった声が、あたしの首すじをかすめた。
「え? あなたとあたし知り合いなんですか……?」
自分の声に熱がこもる。
「知り合いもなにも、おれたち同じ中学校だよな? おれは生徒会長をしてた。おまえは書記だ」
龍太郎と名乗った男性が確認するように口にした。
えっ、生徒会??
あっ、この人、立冬先輩か!
たしかに面影あるわ。
それにますますかっこよくなってる。
「……あ~! あのやたら目立ってた立冬先輩ですか!?」
あたしは思わず声を上げた。
「その言い方な」
「あは。でもほんとのことです。目立ってましたよ。あの、もうそろそろ離してもらえませんか?」
あたしは立冬先輩に話しかける。
「おまえはおれの特別だった——」
寒空の中で、立冬先輩の声だけが広がっていった。
ドクン——
心臓が跳ねた。
なに、いまのセリフ。
どういう意味?
「な、なんですか。離してください」
あたしはパニックを起こし、立冬先輩の腕の中から抜ける。
「…………」
立冬先輩の目がなにか言いたげだった。
「あ~っ! 仕事! 仕事行かなきゃ~すっかり忘れてた!」
あたしは腕時計に目をやる。
やばい、急がなきゃ。立冬先輩に抱きしめられて、脳がフリーズしてた。
「ふっ……」
立冬先輩が目を細めて笑う。
「あ、あの助けてくださって、どうもありがとうございました」
あたしは立冬先輩に頭を下げて、急いで歩き出す。
「あっ……ちょっと待って……」
あたしの背後で声がした気がした。
この時、あたしは自分がスマホを落としたことに、気がついていなかった。
第3話
あたしは早足で勤務先であるスーパーに向かった。
空から落ちる雪が止んできて、視界が良好になる。
さっきはびっくりしたなぁ……まさかあんな再会のしかたをするなんて……。
思わず口元が緩んでしまう。
「でも、なんであたしのことを覚えてたんだろう……」
首をかしげる。
——先生の無茶振りが多すぎて、生徒会への負担が大きすぎる——
あたしの脳裏に、中学時代の立冬先輩のしかめっ面が浮かんだ。
ふふ。あの顔は今思うと愛嬌なんだけど、当時はどことなく近づきにくかったんだよね。
時々、お腹を壊してるみたいな顔してて、ちょっとみんなと距離があったよね……。
でも副会長とは仲がよかったなぁ。
昔の思い出が蘇ってきて、懐かしい気持ちが込み上げてくる。
大切な思い出。
蘇る青春。心がじんわりと温かくなる。
「あたしはすっかり忘れてたなぁ……あっちは覚えてたんだ」
自分で言った内容に少し、ドキッとした。
やがて勤務先に着いて、あたしは従業員入り口のドアを開けた。
廊下に積まれたダンボールの匂いが、一斉に襲ってきた。
女性用ロッカールームに入り、自分のロッカーを開け、鞄を押し込んだ。
鞄からヘアゴムを取り出して、背中まである長い髪をひとつに束ねる。
設置してある鏡で全身をチェックする。今日は白いセーターにロングスカートといった出立ち。
次にリップを取り出し、くちびるに塗った。ほんのり色づくリップ。
廊下にあるタイムカードを押し、あたしは事務所のドアを開けた。
「おはようございます」
元気に挨拶をする。他の従業員から「おはようございます」と声が返ってきた。
「……おはようございます」
事務長があたしをジロジロと見ながら、近づいてきた。
五十代後半の男性で、時々加齢臭が漂う。
「……なんですか?」
事務長の太いお腹に自然と目がいってしまう。
「髪色、規定ギリギリだよ?」
事務長があたしの髪を見ながら告げた。
「あ、これは地毛です」
口元にだけ笑みを浮かべて、あたしはなんとか返す。
「ふ~ん?」
事務長がさらに近づいてきた。
ちょっとやめてよ。不愉快なんですけど?
「ねぇ、今日もいい匂いがするね。今晩さ、食事にでもどう?」
あたしの耳元で事務長がささやく。
……ふざけないで、反撃開始よ。
「……いいですね。じゃあみんなも誘いましょう? もちろん事務長の奢りですよね?」
あたしは手を合わせて、にっこりと笑顔を作る。
「ち、ちょっと困るよ、君」
事務長の慌てる声が事務所に広がる。
「みなさ~ん、事務長がなんとご飯を奢ってくれるらしいですよ~!?」
あたしはわざと声を張り上げた。
「えー、本当? 嬉しいなぁ。さすが事務長」
「今月、ピンチだから助かる~」
「ありがとうございます、事務長」
事務所の中で、事務長を持ち上げる声が次々に上がった。
その光景を目にし、あたしはほんのり笑みを浮かべた。
……本当にハラスメントの撲滅を願うわ。
「茶山さん、君は今日は伝票の整理はいいから、売り場を手伝ってきてくれる? レジ担当が休みが多いらしいから」
事務長が吐き捨てるように言う。
……やれやれ、相変わらず、わかりやすい仕返しね。
「は~い」
レジ用のエプロンを手に取り、あたしは階段を降り、食品売り場に向かう。
店内にいる客の姿がぽつぽつと目に入った。
周りの従業員に挨拶をした後、あたしはレジに立っていた。
「…………」
何気にあたしはパンコーナーを眺めた。いつもとは違い寂しい棚が目につく。
……雪でパンも届いていなくてスカスカだよ。
「……ん?」
そのパンコーナーで、黒のトレンチコートが揺れていた。
「んんっ?」
あたしは瞳を大きく開いて、そのコートを目で追った。
立冬先輩の姿があたしの視界に飛び込んできた。
やだ。立冬先輩、無駄にイケメンだからすごく目立ってる!
「えっ? 立冬先輩。なにやってるの、こんな場所で」
驚きのあまり、あたしから声が漏れた。
その声に反応するかのように、立冬先輩が近づいてきた。
近くの従業員たちも彼に目を向けた。
「よう。茶山の職場はここなんだな」
レジに立つあたしに立冬先輩が話しかけてきた。
「えぇ、よくわかりましたね」
あたしは驚きを隠して、なるべく平静を装う。
……なんでわかったの?
「さっき茶山の後をつけた……」
立冬先輩があたしをじっと見つめる。
「はぁ!? 後をつけた?」
あたしは目をぱちぱちさせた。
「茶山が困るだろうと思って、おれがここまできてやったんだ」
立冬先輩の口角が上がった。
「え、怖っ……別に困るようなことはありませんけど? そんな悪趣味な真似やめてくださいよ?」
「……やっぱりマヌケだな」
立冬先輩がボソッとつぶやき、笑う。
「……なんですか? なんで笑ってるんですか?」
あたしの眉が寄る。
「そんな口の聞き方していいのか? これ、茶山のだよな?」
彼がコートからあたしのスマホを取り出して、レジにそっと置いた。
スマホに付いたクマのストラップがコロンと揺れた。
「……あ、あたしのスマホ!」
思わず声を上げて、スマホに手を伸ばした。
サッ。
立冬先輩があたしより早く、ひょいとスマホを取った。
「は? か、返してくださいよ」
……なんなの、この人?
「墓参りのついでにここまでわざわざ届けてやったんだ。茶山は今晩、おれに付き合え——」
立冬先輩が微笑む。
「はぁぁ?」
素っ頓狂なあたしの声が店内に響いた。
なにがどうしてそうなるわけ?