ORANGE×BOY
重いドアを押し開けて一歩足を踏み入れると、咲良の家とは比べものにならないくらい綺麗な長い廊下が、奥へとまっすぐ伸びていた。
どこか生活感の希薄な、モデルハウスのような静寂が足元から這い上がってくる。
咲良は泥棒にでもなったような心地で、つま先立ちで恐る恐るその突き当たりの部屋へと足を運んだ。
意を決してその部屋のドアを開けると、そこには無駄なものが一切置かれていない、きれいに整えられた空間が広がっていた。
けれど、部屋の主の趣味を観察する余裕なんて、咲良の脳内には一ミリも残されていなかった。
視線が吸い寄せられたのは、部屋の奥に鎮座するベッドだ。
そこには、いつも学校の廊下を我が物顔で歩いているはずの綾瀬先輩が、見たこともないほど小さくなって、苦しそうに体を丸めていた。
「――先輩っ!」
考えるより先に、咲良はベッドの側へと駆け寄っていた。
「綾瀬先輩! 大丈夫ですか!?」
呼びかけながら、恐る恐るその肩に手を触れる。その瞬間に手のひらから伝わってきた熱量に、文字通り息を呑んだ。
信じられないくらい体が熱い。
形の良い額には、びっしりと痛々しい汗が浮かんでいた。
いつも世界の中心みたいに笑う人が、今はただの、ひどく脆い熱の塊に成り下がっている。
「ん……、咲良ちゃん……?」
咲良の必死の声が届いたのか、綾瀬先輩は長い睫毛を震わせながら、ゆっくりと薄目を開けた。
その視線はどこか焦点が合っていなくて、ひどく虚ろだ。
綾瀬先輩は、カサカサに乾いた唇を小さく動かして、消え入りそうな声で呟いた。
「やっべぇ……。高熱で、ついに幻覚まで見えてきたわ……。幻覚の咲良ちゃん、超絶可愛すぎだけど……」
こんな命の危機みたいな状況ですら、この人は相変わらずペースを乱すようなセリフを吐く。
咲良は胸の奥がぎゅっと締め付けられるような感覚をごまかすために、わざとらしく大きめの溜息を吐き出してみせた。
「もう!何寝ぼけた事言ってるんですか!幻覚じゃなくて本物ですってば!よく見てください!」
声を荒らげてみるけれど、綾瀬先輩はそれ以上言葉を返す気力もないらしく、すぐにまた辛そうに深く目を閉じてしまった。
苦しげな呼吸の音だけが、静かな部屋に木霊する。
感傷に浸っている場合ではなかった。咲良はバッグを床に放り出すと、とにかくこの異常な熱を冷まさなければと、部屋の中を奔走した。
広すぎるキッチンや冷蔵庫を勝手にひっくり返し、冷えピタや保冷剤、タオルになりそうなものをかき集める。
冷やしたタオルで綾瀬先輩の額の汗をそっと拭い、冷えピタを貼り直す。
枕元にポカリスエットを置き、保冷剤をタオルの上から脇の下に差し込む。
これまで誰かの看病なんてろくにしたことがなかったのに、不思議と身体は迷いなく動いた。
大嫌いなはずのヤンキーな先輩なのに。
でも、早く楽になってほしい。
ただそれだけの純粋な願いが、咲良の冷めた自意識を綺麗に消し去っていた。
それから、どれくらいの時間が経っただろうか。
綾瀬先輩の呼吸が少しずつ穏やかになっていくのを見届けているうちに、張り詰めていた緊張の糸が、ぷつりと切れた。
急激な睡魔が、容赦なく咲良の瞼を重くしていく。
教室からここまで走り通しだった咲良の身体は、すでに限界を迎えていた。
「ちょっとだけ……、休憩……」
誰に言い訳するでもなくそう呟いて、咲良は綾瀬先輩の横たわるベッドの端っこに、そっと上半身を伏せた。
部屋に漂う、綾瀬先輩のものらしき、少し甘くて落ち着く匂い。
それに包まれながら、咲良は深い眠りの底へとゆっくりと沈んでいった。
自分のすぐ真横に、あの国宝級の顔面があることへの警戒心すら、その時はすっかり忘れてしまっていたのだ。