まだ恋とは呼べない距離で

赤面と少女漫画

理緒は、言葉にならない気持ちを、口にしかけては戻していた。

何度も、同じところで止まる。

――誤魔化せない。

そう思ったとき。

「……また、昇降口で待ってたら、お前困るか?」

先輩の声が、思ったより近くで落ちる。
視線が真っ直ぐに理緒を捉えていた。

昇降口で待つ先輩の姿と、そこへ向かう自分の姿が一瞬だけ重なる。

「……困らない、と思います」

口から先に出ていた。

言ったあとで、自分でも少しだけ遅れて気づく。

“困らない”は、否定じゃない。
肯定でもないのに、断れもしない言葉だった。

理緒が次の言葉を探すより先に、先輩が短く息を吐く。

「……じゃあ」

一拍。

「明日も……待ってていい?」

「……明日も……」

理緒は、確認するみたいに繰り返してしまう。

その瞬間、自分が頷いていることに気づいた。
止める前に、もう決まっていたみたいに。

先輩はそれを見て、少しだけ目を細める。

「じゃ、帰るか」

それだけ言って歩き出す。

いつもの終わりの場所に着く。

一瞬の間を置いて、先輩は理緒の頭に軽く手を置いた。
ポン、と軽い、音のない動作。

「じゃあ、明日な」

そう言って背を向ける。

理緒は、頭に残る感触に少しだけ息を詰めたまま、その背中を見送った。

触れられた場所だけが、妙に熱を持っている。

理由は分からない。

でも、もう分からないままでいられる感じではなかった。

---

「ただいま」

帰宅して、玄関のドアを閉めた瞬間、理緒は少しだけ息を吐いた。

「おかえり」

母の声に顔を上げると、母は理緒を見て小さく首をかしげた。

「……理緒、顔赤いけど大丈夫?熱でもある?」

「えっ……」

一瞬、言葉が詰まる。

「え……あ……大丈夫。ちょっと……歩いてただけ」

「そう?」

母は納得していない顔をしながらも、それ以上は追及しなかった。

理緒は逃げるように階段を上がる。

——顔、赤い?

自分の頬に触れてみても、よく分からない。

ただ、胸の奥だけが少し落ち着かないままだった。

部屋に入ると、そのままベッドに倒れ込む。

天井を見上げる。

何もしていないのに、頭の中だけが妙に忙しい。

今日の帰り道。

当たり前のように二人で歩く帰り道

「特別なんだよ」

あの言葉。

そして、自分の返事。

——嫌じゃない。

でも、それ以上は分からない。

分からないはずなのに。

本当は、知っている気がしている。

理緒は体を横向けにして、枕に顔を埋める。

視線の先に、本棚が見えた。

そこにある、昔読んだ少女漫画。

なぜか、手が伸びる。

ぱらぱらと適当にページをめくる。

恋に落ちる場面。

告白する場面。

両想いになる場面。

——そういうの、あるんだ。

ふと、未来の声が頭に浮かぶ。

『理緒ってそういうとこ鈍いよね』

「……鈍いって何」

小さく声に出す。

誰もいない部屋なのに、少しだけ反論するように。

「知らないわけじゃないし……そういうの」

言いかけて、止まる。

本当に?

ページをめくる手が止まる。

理緒は天井を見上げる。

今日の先輩の顔。

少し迷って、でも真っ直ぐだった目。

「俺はもう、誤魔化すのやめる」

その言葉が、頭の中で繰り返される。

じゃあ私は?

目を瞑る。

まだ決めなくていい。

まだ、知らないままでいい。

その方がいいはずだから。

でも。

胸の奥が、小さくざわつく。

——本当にそれでいいの?

理緒はゆっくりと体を起こす。

少女漫画のページをもう一度見つめる。

顔を赤らめながら、恋人を想う主人公……。

「……誤魔化してるわけじゃ……」

呟いて。

違う。

まだダメ。

そう思うのに。

さっきからずっと、同じ場所をぐるぐる回っている。

分からないままにしようとしているのに。

その一歩手前で、心が何度も引き返す。

理緒はベッドに再び倒れ込む。

枕に顔を押しつける。

「……分かんない」

声は小さい。

でも、その後に続く言葉だけは、少しだけ違っていた。

「……でも、知りたくないわけじゃない」

天井は何も答えない。

ただ、静かだった。

その静けさの中で、理緒はまだ名前のない気持ちを触れないままに抱えていた。
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