まだ恋とは呼べない距離で

【番外編】もう恋とは呼べない距離で

大学の講義を終えた帰り道。

晃は、いつものように電車へ乗り込むと、空いていた端の席へ腰を下ろした。

スマホを取り出しかけて、ふと顔を上げる。

何となく車内を見回した、その時だった。

――……あ。

数メートル先。

車内の反対側の端の席で、理緒がうたた寝をしていた。

鞄を抱え込むように座り、小さく上下する肩。 揺れるたび、柔らかな髪が頬へ落ちる。

イヤホンを片耳だけつけたまま、静かに眠っていた。

晃は、一瞬だけ目を見開く。

――なんで……。

偶然。

ただ、それだけだった。

それなのに、心臓が妙にうるさい。

晃は視線を逸らしかけて、また理緒を見る。

起きる気配はない。

数年ぶりに見た理緒は、少しだけ大人びていた。
それでも、知っているままの理緒だった。

――声、かける?

ふと、そんな考えが浮かぶ。

でも。

何て?

「久しぶり」?

それとも、 「たまたま見かけたから」?

頭の中で言葉を並べてみる。
どれも、不自然だった。

そもそも、自分たちは今、どういう関係なんだろう。

友達?
元恋人?
もう他人?

考えようとするほど、答えが曖昧になる。

晃は小さく息を吐いた。

理緒は眠ったまま、何も知らない。

自分だけが勝手に動揺している。

――別に、話しかける理由なんてないだろ。

そう思う。

けれど、視線を外せない。

電車が揺れる。

理緒の頭が小さく傾き、また元に戻る。

その何でもない仕草から、視線を外せなかった。

車内アナウンスが流れた。

晃は顔を上げる。

自分が降りる駅だった。

――あ……。

立つべきなのに、身体が動かない。

理緒はまだ眠っている。

このまま乗っていれば、もう少しだけここにいられる。

でも。

だから何だ。

晃はゆっくり立ち上がる。

ドアの前へ向かいながら、一度だけ振り返った。

理緒は、変わらず眠っていた。

電車が減速する。

ドアが開く。

晃はホームへ降りた。

春の風が吹き込む。

後ろ髪を引かれるような感覚を抱えたまま、振り返る。

車内の理緒は見えなかった。

プシューッ、と音を立ててドアが閉まる。

その瞬間。

晃は、自分が息を止めていたことに気付いた。

肺の奥が、じわりと苦しい。
息をゆっくりと吐く。

発車ベルが鳴る。

電車はゆっくり動き出し、そのまま晃の前を通り過ぎていく。

晃は黙ったまま、それを見送った。

もう、引き返せない。

その事実だけが、静かに胸へ沈んでいく。

氷を落とされたみたいに、胸の奥が冷たかった。
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