硝子の鍵
Key·1 社長じゃない夜
Key·1 社長じゃない夜
社長じゃなくていい夜なんて、久しぶりだった。
そう思った瞬間、私は窓の外に目を向けた。
東京タワーが、夜の中にまっすぐ立っている。
私の部屋から見えるそれは、いつも綺麗だった。
綺麗で、遠くて、少しだけ残酷だった。
どれだけ明るく光っていても、
私の嘘までは照らしてくれない。
「灯理さん、まだ迷ってます?」
背後から音葉の声がした。
振り返ると、彼女はクローゼットの前で腕を組んでいた。
会社では私の秘書。
家では、私よりも私の予定を知っている人。
息子の学校のことも、会社のことも、私が取りこぼしそうなものを全部拾ってくれる人。
「迷ってるっていうか……行かなくてもよくない?」
「よくないです」
音葉は即答した。
「ただの食事会ですよ。仕事でも接待でもありません」
「だから困るの」
仕事なら、いくらでも顔を作れる。
社長として笑えばいい。
必要な言葉を選んで、必要な距離を保って、必要な私でいればいい。
でも、今日は違う。
音葉の知り合いに誘われた、ただの食事会。
相手は小学校の先生たちらしい。
人数が足りないから少しだけ来てほしい、と頼まれた。
それだけのことなのに、私は落ち着かなかった。
「社長じゃなくていいんですよ、今日は」
音葉の声が、少しだけやわらかくなる。
「ただの灯理さんで行ってください」
ただの、灯理。
その言葉が、胸の奥にそっと沈んだ。
私はいつから、ただの自分でいることがこんなに下手になったんだろう。
昔は違った。
学校で働いていた頃の私は、名前で呼ばれていた。
先生、と呼ばれることもあったけれど、それは肩書きというより、子どもたちが私に向けて伸ばしてくる小さな手みたいなものだった。
廊下を走る足音。
給食の匂い。
放課後の教室に残る、チョークの白い粉。
あの場所が好きだった。
それなのに今の私は、大きな会社の社長だ。
好きで選んだというより、家を継いだ。
守らなきゃいけないものがあった。
背を向けられないものがあった。
その代わりに、私は教室を離れた。
「……行くだけだからね」
「はい。行くだけです」
音葉はにっこり笑った。
その顔は、絶対に行かせると決めた人の顔だった。
私は小さく息を吐いて、もう一度だけ東京タワーを見た。
今夜だけ。
社長じゃない私でいる。
そう決めて、部屋を出た。
食事会の店は、落ち着いた個室のある和食店だった。
派手すぎず、静かすぎず、誰かの秘密を少しだけ見逃してくれそうな場所。
音葉に背中を押されるようにして部屋に入ると、先に来ていた男性が二人、こちらを見た。
ひとりは、明るく笑う人だった。
「はじめまして。佐伯尚です」
人懐っこい声。
距離の詰め方がうまい人だと思った。
初対面なのに、こちらが身構える前に懐へ入ってくる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
もうひとりは、少し遅れて顔を上げた。
「登坂利月です」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ静かになった。
優しそう、という言葉だけでは足りない人だった。
目線も、声も、姿勢も、どこか整っている。
けれど、その整い方が少し寂しい。
まっすぐ立っているのに、どこか遠い。
さっき窓から見ていた東京タワーみたいだと、私は思った。
「灯理です」
苗字は言わなかった。
名刺も出さなかった。
社長とも言わなかった。
ただ、灯理です、とだけ言った。
それだけで済むことが、こんなに軽いなんて知らなかった。
「灯理さんって、音葉さんの友達?」
尚さんがすぐに聞いてきた。
「友達というか……まあ、そんな感じです」
横で音葉が笑いをこらえているのが見えた。
秘書だとは言わない。
私が社長だとも言わない。
今夜だけは、そう決めていた。
「へえ。なんか若いですね」
尚さんが何気なく言った。
私の指が、箸袋の端で止まる。
若い。
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
「灯理さん、俺らと同じくらいかと思った」
否定すればよかった。
違うよ、と。
あなたたちより、ずっと年上だよ、と。
私はそんなふうに見られて喜んでいい人間じゃないよ、と。
言えばよかった。
でもその時、利月くんが私を見ていた。
探るでもなく、疑うでもなく、
ただ、私の返事を静かに待っている目だった。
その目の前で、私はほんの少しだけ嘘をついた。
「……そう見える?」
尚さんが笑う。
「見える見える。落ち着いてるけど、同世代感あります」
同世代。
その言葉は甘かった。
甘くて、危なかった。
私は笑ってごまかした。
「じゃあ、そういうことにしておこうかな」
言った瞬間、胸の奥で小さな音がした。
カチリ。
鍵が閉まる音だった。
利月くんは何も言わなかった。
ただ、少しだけ口元をゆるめた。
その笑い方が、あまりにも静かで。
私は思ってしまった。
この人の前では、もう少しだけ、ただの私でいたい。
食事が始まると、尚さんはよく話した。
学校のこと。
子どもたちのこと。
体育の授業で転びそうになったこと。
職員室で利月くんが真面目すぎてからかわれていること。
「登坂って、こう見えて結構抜けてるんですよ」
「余計なこと言うなよ」
利月くんが少し困ったように笑う。
その横顔を見て、胸の奥がやわらかく痛んだ。
先生。
その言葉が、私には少し特別だった。
私は昔、そちら側にいた。
子どもたちの名前を呼ぶ側にいた。
朝の教室で、泣きそうな子の顔を見つける側にいた。
今はもう、違う。
大きな会社を背負って、
母としての顔も隠して、
年齢まで曖昧にして。
私は何をしているんだろう。
そう思ったのに、利月くんがふと私を見て言った。
「灯理さん、学校関係の仕事してたことあります?」
心臓が、ひとつ遅れて鳴った。
「どうして?」
「子どもの話を聞く顔が、なんとなく」
利月くんは、それ以上何も決めつけなかった。
その優しさが、少し怖かった。
私はグラスの水面を見つめた。
揺れる透明の向こうに、昔の教室が見えた気がした。
「少しだけ。昔ね」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
私の言葉はいつも、硝子の欠片みたいに中途半端だった。
「そうなんですね」
利月くんは静かに頷いた。
その目が、ほんの少しだけやさしくなった気がして、私は困った。
困ったのに、嬉しかった。
その夜、店を出ると、冷たい風が頬に触れた。
音葉は先にタクシーを呼ぶと言って、少し離れた場所に行った。
尚さんは電話をしながら歩いている。
利月くんだけが、私の隣に残った。
「灯理さん」
名前を呼ばれて、私は顔を上げる。
「今日は来てくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったです」
社交辞令みたいな言葉だった。
でも、言った後で、本当に楽しかったのだと気づいた。
社長じゃない私。
母じゃない私。
家を継いだ誰かでもない私。
ただ、笑っていた私。
「また、会えたらいいですね」
利月くんが言った。
その声は軽くなかった。
だから、私はすぐに返事ができなかった。
会いたい。
そう思った。
でも私は、彼が思っている私ではない。
本当の年齢も、肩書きも、母であることも。
何ひとつ言えていない。
それでも私は、笑ってしまった。
「……そうですね」
利月くんが空を見上げた。
その視線の先には、ビルの隙間から小さく東京タワーが見えていた。
「あれ、東京タワーですね」
「好きなんですか?」
私が聞くと、利月くんは少しだけ黙った。
「上るより、下から見る方が好きです」
「どうして?」
「上に行くと、遠くまで見えすぎるから」
その言葉の意味を、その時の私はまだ知らなかった。
ただ、利月くんの横顔が、東京タワーの赤い光に少しだけ照らされていたことだけを覚えている。
その夜、私は最初の嘘をついた。
同じ歳くらいの女のふりをした。
社長じゃないふりをした。
母じゃないふりをした。
そして、登坂利月という人に、もう一度会いたいと思ってしまった。
それが、私の最初の鍵だった。
硝子みたいに透明で、
硝子みたいに脆い、
私だけの鍵だった。
社長じゃなくていい夜なんて、久しぶりだった。
そう思った瞬間、私は窓の外に目を向けた。
東京タワーが、夜の中にまっすぐ立っている。
私の部屋から見えるそれは、いつも綺麗だった。
綺麗で、遠くて、少しだけ残酷だった。
どれだけ明るく光っていても、
私の嘘までは照らしてくれない。
「灯理さん、まだ迷ってます?」
背後から音葉の声がした。
振り返ると、彼女はクローゼットの前で腕を組んでいた。
会社では私の秘書。
家では、私よりも私の予定を知っている人。
息子の学校のことも、会社のことも、私が取りこぼしそうなものを全部拾ってくれる人。
「迷ってるっていうか……行かなくてもよくない?」
「よくないです」
音葉は即答した。
「ただの食事会ですよ。仕事でも接待でもありません」
「だから困るの」
仕事なら、いくらでも顔を作れる。
社長として笑えばいい。
必要な言葉を選んで、必要な距離を保って、必要な私でいればいい。
でも、今日は違う。
音葉の知り合いに誘われた、ただの食事会。
相手は小学校の先生たちらしい。
人数が足りないから少しだけ来てほしい、と頼まれた。
それだけのことなのに、私は落ち着かなかった。
「社長じゃなくていいんですよ、今日は」
音葉の声が、少しだけやわらかくなる。
「ただの灯理さんで行ってください」
ただの、灯理。
その言葉が、胸の奥にそっと沈んだ。
私はいつから、ただの自分でいることがこんなに下手になったんだろう。
昔は違った。
学校で働いていた頃の私は、名前で呼ばれていた。
先生、と呼ばれることもあったけれど、それは肩書きというより、子どもたちが私に向けて伸ばしてくる小さな手みたいなものだった。
廊下を走る足音。
給食の匂い。
放課後の教室に残る、チョークの白い粉。
あの場所が好きだった。
それなのに今の私は、大きな会社の社長だ。
好きで選んだというより、家を継いだ。
守らなきゃいけないものがあった。
背を向けられないものがあった。
その代わりに、私は教室を離れた。
「……行くだけだからね」
「はい。行くだけです」
音葉はにっこり笑った。
その顔は、絶対に行かせると決めた人の顔だった。
私は小さく息を吐いて、もう一度だけ東京タワーを見た。
今夜だけ。
社長じゃない私でいる。
そう決めて、部屋を出た。
食事会の店は、落ち着いた個室のある和食店だった。
派手すぎず、静かすぎず、誰かの秘密を少しだけ見逃してくれそうな場所。
音葉に背中を押されるようにして部屋に入ると、先に来ていた男性が二人、こちらを見た。
ひとりは、明るく笑う人だった。
「はじめまして。佐伯尚です」
人懐っこい声。
距離の詰め方がうまい人だと思った。
初対面なのに、こちらが身構える前に懐へ入ってくる。
でも、不思議と嫌ではなかった。
もうひとりは、少し遅れて顔を上げた。
「登坂利月です」
その声を聞いた瞬間、胸の奥が少しだけ静かになった。
優しそう、という言葉だけでは足りない人だった。
目線も、声も、姿勢も、どこか整っている。
けれど、その整い方が少し寂しい。
まっすぐ立っているのに、どこか遠い。
さっき窓から見ていた東京タワーみたいだと、私は思った。
「灯理です」
苗字は言わなかった。
名刺も出さなかった。
社長とも言わなかった。
ただ、灯理です、とだけ言った。
それだけで済むことが、こんなに軽いなんて知らなかった。
「灯理さんって、音葉さんの友達?」
尚さんがすぐに聞いてきた。
「友達というか……まあ、そんな感じです」
横で音葉が笑いをこらえているのが見えた。
秘書だとは言わない。
私が社長だとも言わない。
今夜だけは、そう決めていた。
「へえ。なんか若いですね」
尚さんが何気なく言った。
私の指が、箸袋の端で止まる。
若い。
その言葉は、思っていたより深く刺さった。
「灯理さん、俺らと同じくらいかと思った」
否定すればよかった。
違うよ、と。
あなたたちより、ずっと年上だよ、と。
私はそんなふうに見られて喜んでいい人間じゃないよ、と。
言えばよかった。
でもその時、利月くんが私を見ていた。
探るでもなく、疑うでもなく、
ただ、私の返事を静かに待っている目だった。
その目の前で、私はほんの少しだけ嘘をついた。
「……そう見える?」
尚さんが笑う。
「見える見える。落ち着いてるけど、同世代感あります」
同世代。
その言葉は甘かった。
甘くて、危なかった。
私は笑ってごまかした。
「じゃあ、そういうことにしておこうかな」
言った瞬間、胸の奥で小さな音がした。
カチリ。
鍵が閉まる音だった。
利月くんは何も言わなかった。
ただ、少しだけ口元をゆるめた。
その笑い方が、あまりにも静かで。
私は思ってしまった。
この人の前では、もう少しだけ、ただの私でいたい。
食事が始まると、尚さんはよく話した。
学校のこと。
子どもたちのこと。
体育の授業で転びそうになったこと。
職員室で利月くんが真面目すぎてからかわれていること。
「登坂って、こう見えて結構抜けてるんですよ」
「余計なこと言うなよ」
利月くんが少し困ったように笑う。
その横顔を見て、胸の奥がやわらかく痛んだ。
先生。
その言葉が、私には少し特別だった。
私は昔、そちら側にいた。
子どもたちの名前を呼ぶ側にいた。
朝の教室で、泣きそうな子の顔を見つける側にいた。
今はもう、違う。
大きな会社を背負って、
母としての顔も隠して、
年齢まで曖昧にして。
私は何をしているんだろう。
そう思ったのに、利月くんがふと私を見て言った。
「灯理さん、学校関係の仕事してたことあります?」
心臓が、ひとつ遅れて鳴った。
「どうして?」
「子どもの話を聞く顔が、なんとなく」
利月くんは、それ以上何も決めつけなかった。
その優しさが、少し怖かった。
私はグラスの水面を見つめた。
揺れる透明の向こうに、昔の教室が見えた気がした。
「少しだけ。昔ね」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
私の言葉はいつも、硝子の欠片みたいに中途半端だった。
「そうなんですね」
利月くんは静かに頷いた。
その目が、ほんの少しだけやさしくなった気がして、私は困った。
困ったのに、嬉しかった。
その夜、店を出ると、冷たい風が頬に触れた。
音葉は先にタクシーを呼ぶと言って、少し離れた場所に行った。
尚さんは電話をしながら歩いている。
利月くんだけが、私の隣に残った。
「灯理さん」
名前を呼ばれて、私は顔を上げる。
「今日は来てくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ。楽しかったです」
社交辞令みたいな言葉だった。
でも、言った後で、本当に楽しかったのだと気づいた。
社長じゃない私。
母じゃない私。
家を継いだ誰かでもない私。
ただ、笑っていた私。
「また、会えたらいいですね」
利月くんが言った。
その声は軽くなかった。
だから、私はすぐに返事ができなかった。
会いたい。
そう思った。
でも私は、彼が思っている私ではない。
本当の年齢も、肩書きも、母であることも。
何ひとつ言えていない。
それでも私は、笑ってしまった。
「……そうですね」
利月くんが空を見上げた。
その視線の先には、ビルの隙間から小さく東京タワーが見えていた。
「あれ、東京タワーですね」
「好きなんですか?」
私が聞くと、利月くんは少しだけ黙った。
「上るより、下から見る方が好きです」
「どうして?」
「上に行くと、遠くまで見えすぎるから」
その言葉の意味を、その時の私はまだ知らなかった。
ただ、利月くんの横顔が、東京タワーの赤い光に少しだけ照らされていたことだけを覚えている。
その夜、私は最初の嘘をついた。
同じ歳くらいの女のふりをした。
社長じゃないふりをした。
母じゃないふりをした。
そして、登坂利月という人に、もう一度会いたいと思ってしまった。
それが、私の最初の鍵だった。
硝子みたいに透明で、
硝子みたいに脆い、
私だけの鍵だった。