硝子の鍵

Key·12 先生じゃない顔

でも、逃げてはいません。

その一文を、私は何度も読み返した。

短い。
甘くない。
好きだとも、大丈夫だとも、すぐには言わない。

でも、そこには利月くんらしい誠実さがあった。

逃げてはいない。

それだけで、胸の奥にあった冷たいものが少しだけ溶けた。

翌朝、陽斗はいつも通り学校へ行った。

「お母さん、今日も濃い?」

玄関で靴を履きながら、陽斗が聞く。

「今日は薄め」

「本当?」

「たぶん」

「たぶんは信用ならない」

陽斗は笑って、鞄を背負った。

「行ってきます」

「行ってらっしゃい」

ドアが閉まる。

その音を聞いて、私は少しだけ息を吐いた。

昨日までと同じ朝なのに、どこか違っていた。

利月くんは、陽斗が私の息子だと知った。
私が社長であることも、年齢のことも知った。

その事実は怖い。

でも、もう完全な嘘の中には戻れない。

それが少しだけ、楽でもあった。

会社に着くと、音葉がいつものように書類を持ってきた。

「顔色、昨日よりましですね」

「ましって褒めてる?」

「褒めています」

「音葉の褒め方って、だいたい傷薬しみる」

音葉は少しだけ笑った。

「登坂先生から連絡は?」

「来た」

「なんて?」

私は少し迷ってから、スマホを見せた。

音葉は画面を見て、小さく頷いた。

「登坂先生らしいですね」

「そう思う?」

「はい。短いけれど、逃げていない」

「うん」

私は画面を閉じた。

「でも、まだ怖い」

「怖くなくなる日は、たぶん来ません」

「え、厳しい」

「怖いまま進むしかないこともあります」

音葉はそう言って、書類を机に置いた。

「次は、登坂先生の話を聞く番ですね」

その言葉に、私は顔を上げた。

利月くんの話。

美紗子先生のこと。
東京タワーに来る理由。
先生でいることを怖いと言った、あの横顔。

私は、自分の秘密を話すことに必死で、利月くんの鍵にはまだ触れられていない。

「聞いていいのかな」

「聞かないと、灯理さんだけが開けたことになります」

音葉の言葉は、いつも核心をつく。

私は頷いた。

「次は、聞く」

「はい」

「でも、どうやって誘えばいい?」

「普通に」

「その普通が難しい」

音葉は少し考えてから言った。

「“この前の話、聞かせてもらえますか”でいいと思います」

「重くない?」

「十分重い話なので、軽くしなくていいです」

たしかに。

私はいつも、重いものを軽いふりで渡そうとする。
だから余計に歪む。

その日の昼休み、私は利月くんにメッセージを送った。

この前、登坂さんも話したいことがあると言っていましたよね。
無理のない時でいいので、聞かせてもらえますか。

送ってから、スマホを伏せた。

今回は、すぐに返事を待たない。

そう決めた。

でも三分後には見ていた。

自分でも笑ってしまう。

返信は、昼過ぎに来た。

今日の夜、少しだけなら。
東京タワーでいいですか。

胸が鳴った。

東京タワー。

やっぱり、私たちはそこに戻る。

はい。

私はそう返した。

たった二文字なのに、指先が少し震えた。

夜の東京タワーの下は、前より少し人が多かった。

写真を撮る人。
誰かを待つ人。
並んで歩く恋人たち。

その中で、私は利月くんを探した。

けれど彼は、いつもの場所にはいなかった。

少し離れたベンチの近く。
東京タワーを真正面からではなく、斜めから見上げる場所に立っていた。

「登坂さん」

声をかけると、彼はこちらを向いた。

「こんばんは」

「こんばんは」

いつも通りの挨拶。

でも、少しだけ空気が違う。

彼は私の秘密を知っている。
私は彼の返事を待った。

そして今日は、彼の話を聞きに来た。

「陽斗は、元気でした」

利月くんが最初にそう言った。

私は少しだけ目を開いた。

「今日、見かけたんですか」

「はい。図書室で」

「本、返してました?」

「返して、新しい本を借りてました」

「何を?」

「月の写真集です」

胸の奥が、また小さく鳴った。

「星の次は月なんですね」

「はい」

利月くんは少しだけ笑った。

「陽斗に、月は自分で光ってないなら、少しかっこ悪いのかって聞かれました」

「なんて答えたんですか」

「誰かの光を受けて、それでも夜を明るくできるなら、十分すごいと思うって」

その答えに、私はしばらく何も言えなかった。

「いい答えですね」

ようやくそう言うと、利月くんは少し困ったように笑った。

「正解かは分かりません」

「正解です」

私はすぐに言った。

「少なくとも、陽斗にはきっと届いてます」

利月くんは、東京タワーを見上げた。

「だといいです」

その横顔は、先生の顔だった。

優しくて、少し不器用で、子どもの言葉をちゃんと持ち帰る人の顔。

でも今日は、そこから先を聞きたかった。

「登坂さん」

「はい」

「この前、話したいことがあるって言ってましたよね」

利月くんは、少しだけ目を伏せた。

「はい」

「聞かせてもらえますか」

彼はすぐには答えなかった。

風が、少し冷たい。

私は待った。

今度は、急かさない。

利月くんが私を待ってくれたように、私も彼の言葉を待ちたいと思った。

「母のことです」

彼は静かに言った。

「美紗子先生のこと?」

私がそう呼ぶと、利月くんの表情が少しだけやわらいだ。

「灯理さんにとっては、先生なんですよね」

「はい」

「俺にとっては、母です」

その当たり前の言葉が、なぜか胸に残った。

同じ人を、私たちは違う場所から見ている。

「母は、いい先生だったと思います」

利月くんは東京タワーを見上げたまま続けた。

「たぶん、灯理さんが覚えている通りの人です。子どもの変化に気づくのが早くて、怒る時も、ちゃんと理由を話す人で」

私は黙って聞いていた。

「でも家では、よく疲れていました」

利月くんの声が、少しだけ低くなる。

「帰ってきても、頭の中は学校のことばかりで。連絡帳を読んだり、プリントを作ったり、誰かのことで電話をしたり」

東京タワーの赤い光が、彼の横顔に落ちる。

「子どもの頃の俺は、母がすごい人だって分かっていました。でも、少し寂しかった」

その言葉が、胸に刺さった。

陽斗の顔が浮かぶ。

「大人になった今なら分かります。母は、きっと必死だったんだと思います。でも子どもの俺には、母がたくさんの子どもの先生で、俺の母でいる時間が少し足りない気がしていた」

私は何も言えなかった。

利月くんは、私を責めているわけじゃない。

でも、その話は私の中にもまっすぐ入ってくる。

社長でいる私。
母でいる私。
そのどちらかを選べずに、陽斗に「お母さん、いる?」と聞かせてしまった私。

「だから、先生になるのが怖かったんです」

利月くんが言った。

「お母さんと同じ仕事だから?」

「はい」

「でも、なったんですね」

「なりました」

「どうして?」

利月くんは少しだけ笑った。

「母が好きだったからだと思います」

その笑い方は、少し痛かった。

「先生としての母も、家で疲れている母も、結局どちらも好きでした。だから、同じ場所に立ってみたかった」

彼は言葉を探すように、少し間を置いた。

「でも、立ってみたら分かりました。母がどうして疲れていたのか。どうして、家に帰っても子どもたちのことを考えていたのか」

「うん」

「子どもって、置いて帰れないんです」

その言葉に、胸がきゅっと縮んだ。

教室を出ても。
校門を閉めても。
家に帰っても。

子どもの顔は、心のどこかに残る。

私も知っている。

「母は、たぶん不器用でした」

利月くんは言った。

「子どもたちを大事にするほど、家族にも上手に甘えればよかったのに、それができなかった」

「利月くんは?」

思わず、そう聞いていた。

彼がこちらを見る。

「登坂さんは、甘えるの得意ですか」

利月くんは、少しだけ困った顔をした。

「得意ではないです」

「でしょうね」

つい、口から出た。

利月くんが少し驚いて、それから小さく笑った。

「分かりますか」

「分かります」

「そんなに?」

「はい」

私も少し笑った。

でも、すぐに胸が痛くなる。

笑えるのに、苦しい。

この人も、鍵を持っている。

先生でいる自分。
母を誇りに思う自分。
寂しかった子どもの自分。
そして、誰かに甘えるのが下手な今の自分。

「ここに来ると、先生じゃなくていい気がすると言ったのは」

私は静かに聞いた。

「お母さんのことと関係ありますか」

利月くんは頷いた。

「はい」

彼は東京タワーを見上げた。

「母とここに来た時だけ、母は先生じゃありませんでした」

胸の奥が、静かになる。

「登坂美紗子先生じゃなくて、俺の母でした」

その言葉が、東京タワーの光の中に落ちた。

「だから俺は、ここが好きなんだと思います」

利月くんの声は、少しだけ掠れていた。

「母を、先生じゃない顔で思い出せるので」

私は、泣きそうになった。

私にとって美紗子先生は、忘れられない先生だった。
教室で私を見つけてくれた人。
東京タワーの足元を教えてくれた人。

でも利月くんにとっては、母だった。

先生ではない顔も、疲れた顔も、寂しさも、全部知っている。

私は、そのことをちゃんと分かっていなかった。

「すみません」

気づいたら、そう言っていた。

利月くんが私を見る。

「何がですか」

「私、あなたのお母さんを“先生”としてしか見ていなかった」

「それは、当然じゃないですか」

「でも」

「母は、灯理さんの先生でもあったんです」

利月くんは静かに言った。

「俺の母で、灯理さんの先生で、たぶん他の誰かにとっても大事な人だった。それでいいんだと思います」

その言葉に、胸がほどける。

利月くんは、完璧な慰めは言わない。

でも時々、こうして私の中で絡まっていたものを、静かにほどく。

本人は、そんなつもりもなさそうに。

「登坂さん」

「はい」

「私、陽斗に寂しい思いをさせてきたかもしれません」

言葉がこぼれた。

「社長だから。家を継いだから。仕事があるから。そう言いながら、学校のことも、家のことも、音葉や母に頼って」

利月くんは黙って聞いていた。

「陽斗はいい子です。だから、余計に怖い。私がちゃんと見ていなくても、大丈夫なふりをしていたのかもしれない」

大丈夫。

私が何度も使ってきた言葉。

陽斗にも、使わせてしまっているのかもしれない。

「灯理さん」

利月くんが私を呼んだ。

「はい」

「陽斗は、灯理さんのこと好きだと思います」

その言葉に、涙が出そうになった。

「そんなの、分かりません」

「学校で、母親の話をする時の顔があります」

「陽斗が?」

「はい」

利月くんは少しだけ考えた。

「お母さんは忙しいけど、すごいんだって。前に図書室で言っていました」

胸が、ぎゅっと痛んだ。

陽斗。

そんなことを言っていたの。

「俺、その時は灯理さんのことだと知りませんでした」

「うん」

「でも、今日思いました。陽斗が言っていた“すごいお母さん”は、灯理さんだったんだなって」

涙がこぼれた。

「すごくなんかないです」

「すごいかどうかを決めるのは、俺じゃなくて陽斗です」

利月くんは静かに言った。

「陽斗がそう思っているなら、それは本当です」

ずるい。

どうしてこの人は、欲しい言葉を欲しい時にはくれないのに、こんなふうに急に心の深いところへ置いていくんだろう。

私は泣きながら笑った。

「登坂さんって、そういうところありますよね」

「どういうところですか」

「普段は言葉が足りないのに、急に刺さること言うところ」

利月くんは、本気で困った顔をした。

「すみません」

「謝るところじゃないです」

「難しいです」

「本当に難しいですね」

少しだけ、笑えた。

東京タワーの下で、私たちはまだ恋人ではなかった。

触れることもない。
甘い言葉もない。
すぐに答えも出ない。

それでも、昨日より少しだけ近い場所に立っていた。

利月くんの鍵に、私は少し触れた。

先生ではない顔。
母を思う顔。
寂しかった子どもの顔。

そのどれもが、私の知らない利月くんだった。

「母の年賀状」

利月くんが言った。

「もう少しだけ、預かっていてもいいですか」

「もちろん」

「ありがとうございます」

彼は少しだけ目を伏せた。

「母の字を見たの、久しぶりでした」

「つらくないですか」

「つらいです」

正直な答えだった。

「でも、見たいです」

その言葉に、胸が静かに痛んだ。

私もそうだ。

教室のことは苦しい。
でも、忘れたくない。

痛みと大事なものは、時々同じ箱に入っている。

「また、話してくれますか」

私が聞くと、利月くんは頷いた。

「はい」

「私も、話します」

「陽斗のことですか」

「それも。会社のことも、教室を離れた日のことも」

利月くんは、少しだけ私を見る。

「無理しなくていいです」

「無理しないと、たぶん私は話せません」

言ってから、少し笑った。

「でも、逃げたくないです」

利月くんは静かに頷いた。

「俺もです」

その一言は、とても短かった。

でも、ちゃんと届いた。

私たちは、まだ何も約束していない。

好きだとも、付き合おうとも、これからどうしようとも言っていない。

ただ、お互いの鍵を少しずつ見せ合っている。

それは恋と呼ぶには不器用で、
友情と呼ぶには苦しくて、
秘密を共有するには、少しだけ優しすぎた。

帰り際、利月くんが言った。

「灯理さん」

「はい」

「今日、来てくれてありがとうございました」

「こちらこそ」

「俺、話すのが上手くなくて」

「知ってます」

思わずそう言うと、利月くんが少しだけ目を丸くした。

私は慌てて口を押さえる。

「すみません」

「いえ」

彼は小さく笑った。

「その通りなので」

その笑顔が、東京タワーの光の下で少しだけほどけて見えた。

先生じゃない顔。

その瞬間、私はまたひとつ、利月くんを好きになってしまったのだと思う。

帰りのタクシーで、私は窓の外を見た。

東京タワーが少しずつ遠ざかる。

でも今夜は、前ほど遠く感じなかった。

利月くんの鍵は、まだ完全には開いていない。

私の鍵も、まだ全部は開いていない。

それでも、確かに分かった。

私たちは、閉じた扉の前で立ち尽くしているだけではなくなった。

少しずつ、鍵穴を探している。

手探りで。
怖がりながら。
それでも、逃げずに。

硝子の鍵は、冷たいままだった。

けれどその冷たさの中に、初めて小さな体温が宿った気がした。
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