硝子の鍵

Key·22 まだ名前のない関係

週末、私は鏡の前で三回服を替えた。

一回目は、社長っぽすぎた。
二回目は、母親っぽすぎた。
三回目は、自分でも何を目指しているのか分からなくなった。

黒のニットに、柔らかい色のスカート。

派手ではない。
地味すぎもしない。
でも、少しだけ会いに行く気持ちがある。

そんな服。

「お母さん、どこ行くの?」

リビングから陽斗の声がした。

私は一瞬、鏡の中の自分と目が合う。

「少し出かける」

「仕事?」

「仕事じゃない」

言ってから、胸が小さく鳴った。

仕事じゃない。

それだけで、少し特別に聞こえる。

陽斗はソファに寝転がったまま、ゲーム機を持っていた。

「登坂先生?」

直球。

本当にこの子は、いつからこんなにまっすぐ投げるようになったんだろう。

「……うん」

私はごまかさなかった。

全部は話せない。
でも、もう嘘を重ねたくもなかった。

陽斗はゲーム画面を見たまま言った。

「ふうん」

「ふうんって何」

「別に」

「気になる?」

「ちょっと」

ゲームの音が小さく鳴る。

「でも、お母さんが困ってないならいい」

その言葉に、胸がぎゅっとなる。

この子は、また私を先に見ている。

「困ってる時もあるよ」

私は正直に言った。

陽斗が顔を上げる。

「嫌な困り方?」

前にも似たようなことを聞かれた。

私は少し考えて、首を横に振った。

「嫌じゃない」

「じゃあいいんじゃない」

陽斗はまたゲームに視線を戻した。

「登坂先生、細かいけど悪い人じゃないし」

「細かいは固定なんだ」

「固定」

少し笑ってしまった。

「陽斗」

「なに」

「まだ、学校では普通にしててね」

「してるし」

「本当に?」

「お母さんの方が普通じゃないと思う」

言い返せなかった。

陽斗はゲームを止めて、こちらを見る。

「俺、別に子どもだけど、何も分かんないわけじゃないからね」

胸が、少し痛んだ。

「うん」

「でも、全部聞きたいわけでもない」

その言葉に、私は目を伏せた。

子どもは、大人が思うより分かっている。

でも、全部を背負いたいわけじゃない。

私はそれを忘れちゃいけない。

「分かった」

私がそう言うと、陽斗は少しだけ笑った。

「いってらっしゃい」

その言葉が、いつもより少し大人びて聞こえた。

「行ってきます」

私は小さく答えた。

待ち合わせは、小さな本屋だった。

駅から少し離れていて、学校からも会社からも遠い。
一階が本屋で、二階に小さなカフェがある。

利月くんが選んだ場所だった。

人が多すぎず、でも密室ではないので。

その説明があまりにも利月くんらしくて、私はメッセージを見た時に少し笑ってしまった。

デートではない。

たぶん、利月くんはそう思っている。

でも、仕事でもない。
東京タワーで秘密を話す夜でもない。
マフラーを返すだけの用事でもない。

ただ、会う。

その理由のなさが、私をいちばん緊張させた。

本屋に入ると、紙の匂いがした。

新しい本の匂い。
静かな音楽。
棚の間をゆっくり歩く人たち。

利月くんは、児童書の棚の前にいた。

黒いコートではなく、少し柔らかい色のニットにジャケット。

先生でも、東京タワーの下の人でもなく、休日の男の人だった。

その姿を見た瞬間、胸が忙しくなる。

「登坂さん」

声をかけると、彼が振り返った。

「灯理さん」

目が合う。

今日は、逸らさなかった。

二秒くらい。

私にしては、かなり頑張った。

利月くんは少しだけ驚いたような顔をして、それから小さく笑った。

「今日は、見てくれるんですね」

顔が熱くなる。

「今の、言います?」

「すみません」

「謝るところじゃないです」

いつものやり取り。

それだけで、少し呼吸ができた。

「早かったんですね」

私が言うと、利月くんは手元の本を棚に戻した。

「少し」

「どれくらい?」

「三十分くらい」

「それは少しじゃないです」

「落ち着かなかったので」

その言葉に、胸が鳴った。

利月くんも、緊張していたのだろうか。

そう思うと、私だけが浮かれているわけじゃない気がして、少し安心した。

「何見てたんですか」

「陽斗に合いそうな本を」

やっぱり先生だった。

私は思わず笑ってしまう。

「今日、陽斗はいないですよ」

「はい」

「なのに陽斗の本?」

「癖です」

「先生ですね」

そう言うと、利月くんは少し困ったように笑った。

「今日は、先生じゃないつもりだったんですけど」

その声が、少しだけ小さくなる。

私は棚の本に触れながら言った。

「先生の登坂さんも、嫌いじゃないです」

利月くんがこちらを見る。

「細かい先生でも?」

「陽斗が言うには、細かいけどちゃんと見てる先生なので」

「それは、褒められてますか」

「かなり」

彼は少しだけ安心したように目を伏せた。

その表情が、私には少し愛おしかった。

本屋の中を、二人でゆっくり歩いた。

最初は児童書。
次に教育書。
それから、小説の棚。

利月くんは、本を選ぶ時に背表紙をじっと見る。

手に取って、少しページをめくって、また戻す。
その動きが静かで、丁寧だった。

「登坂さんって、本屋でも真面目ですね」

「本屋で不真面目になる人いますか」

「いるかも」

「たとえば?」

「タイトルだけ見て勝手に妄想するとか」

「灯理さんですか」

「私ですね」

利月くんが少し笑った。

その笑顔を見るだけで、胸がまた少し浮く。

私は一冊の小説を手に取った。

表紙には、古い鍵の絵が描かれていた。

「鍵」

思わずつぶやく。

「好きなんですか」

「最近、気になります」

「どうして?」

私は少しだけ考えた。

「閉じるものでもあるけど、開けるものでもあるから」

利月くんは、何も言わずに聞いていた。

「私はずっと、鍵って閉じるためのものだと思ってたんです。知られたくないものをしまっておくためのもの」

「はい」

「でも最近、開けるためにもあるんだなって」

利月くんの目が、少しだけやわらかくなる。

「灯理さんらしいですね」

「そうですか?」

「はい」

「また急に褒めてます?」

「たぶん」

「たぶん?」

「まだ慣れていません」

私は笑ってしまった。

「褒める練習中?」

「そうかもしれません」

利月くんは真面目な顔で言うから、余計におかしかった。

本を買ったあと、二階のカフェに上がった。

窓際の席に座る。

外には小さな通りが見える。
東京タワーは見えない。

それが、少し新鮮だった。

東京タワーがなくても、利月くんと向かい合っている。

それだけで、今日は十分だった。

「陽斗」

利月くんが、カップを置きながら言った。

「今朝、何か言っていましたか」

「何かって?」

「俺と会うこと」

私は少し驚いた。

「気になるんですか」

「気になります」

正直な答えだった。

「登坂先生はいい先生だって」

「それは、前も聞きました」

「あと、私が困ってないならいいって」

利月くんの指が、カップの横で止まった。

「陽斗が?」

「はい」

「大人ですね」

「大人っぽくさせちゃったのかもしれません」

口にした瞬間、胸が少し痛む。

利月くんはすぐには答えなかった。

でも、沈黙のあとで静かに言った。

「大人っぽい子が、必ず寂しいとは限りません」

私は顔を上げた。

「でも」

「でも、寂しくないとも限らない」

利月くんは、私の逃げ道も甘えも、どちらも雑に扱わなかった。

「だから、見ていくしかないと思います」

「見ていく」

「はい」

「私、見逃してばかりだった気がします」

「気づいたなら、そこから見ればいいと思います」

その言葉に、胸が少し熱くなる。

「そういうこと、さらっと言いますよね」

「さらっと言ってますか」

「はい。刺してます」

「すみません」

「謝るところじゃないです」

何度目かの言葉。

でも、その繰り返しはもう、私たちだけの合図みたいになっていた。

しばらく、二人で黙ってコーヒーを飲んだ。

沈黙が、前ほど怖くない。

東京タワーの下の沈黙とは違う。
カフェの明るい沈黙。

私は少しだけ勇気を出して聞いた。

「これは、何ですか」

利月くんが顔を上げる。

「何、とは」

「今日のこれ」

言ってから、恥ずかしくなる。

「デートではないって、言ってましたよね」

利月くんは、少しだけ視線を落とした。

「はい」

「じゃあ、何ですか」

困らせている。

分かっている。

でも聞きたかった。

名前がほしかった。

恋人ではない。
デートではない。
でも、ただの知り合いでもない。

この関係の置き場所が、分からなかった。

利月くんは、長く考えた。

私は待った。

スマホの返事を待つ時より、ずっと近い距離で。

「名前をつけるには、まだ早いと思います」

彼は言った。

胸が少しだけ沈む。

でも、利月くんは続けた。

「でも、名前がないから大事じゃない、とは思いません」

私は息を止めた。

「今日、ここに来たのは、マフラーのためだけではありません」

「はい」

「灯理さんに会いたかったからです」

また、その言葉。

会いたかった。

何度聞いても、胸が震える。

「でも、デートと呼んだら、何かを急がせる気がしました」

「私を?」

「灯理さんも。俺も。陽斗も」

陽斗。

その名前が入るところが、利月くんらしかった。

少しじれったい。

でも、ちゃんと大事にしてくれている。

「だから、今は」

利月くんは少しだけ困ったように笑った。

「名前のない約束でいいですか」

私は、目を伏せた。

名前のない約束。

それは少し寂しくて、でも少し優しかった。

「いいです」

私は頷いた。

「でも、いつか名前つけてくださいね」

利月くんが、少し驚いた顔をした。

それから、ゆっくり頷いた。

「はい」

その返事だけで、胸の奥に小さな灯りがともる。

焦らなくていい。

でも、止まっているわけでもない。

私たちは、名前のない場所にいる。

でも、そこに二人で立っている。

帰り際、本屋の袋を持った利月くんが言った。

「これ」

差し出されたのは、さっき私が見ていた鍵の表紙の小説だった。

「え?」

「買いました」

「なんで?」

「灯理さんが、気にしていたので」

そんなふうに見ていたのか。

私は袋を受け取れずに、彼を見た。

「もらえません」

「重いですか」

「重いというか」

「本です」

「そういう意味じゃなくて」

利月くんは少し困った顔をする。

「すみません。こういうの、慣れていなくて」

私は笑ってしまった。

「でしょうね」

「はい」

彼は本の袋を少しだけ下げた。

「でも、渡したかったんです」

その言葉に、胸がやわらかくなる。

プレゼントというには小さい。
でも、ただの本ではない。

私が一瞬見たものを、彼が覚えていた。

それが嬉しかった。

「ありがとうございます」

私は袋を受け取った。

指先が少し触れた。

ほんの少し。

それだけなのに、胸が跳ねた。

利月くんも、ほんの一瞬だけ動きを止めた。

気づいたのだと思う。

触れたことに。

二人とも、何も言わなかった。

本屋を出ると、夕方の空は少し青く残っていた。

夜でもなく、昼でもない時間。

今の私たちみたいだと思った。

恋人でもなく、ただの知り合いでもない。

デートでもなく、用事だけでもない。

名前のない関係。

でも、私はもうそれを怖いだけだとは思わなかった。

「灯理さん」

利月くんが呼んだ。

「はい」

「次も、こういうふうに会えますか」

胸が鳴った。

次。

ちゃんと次と言った。

「はい」

私は答えた。

「会いたいです」

利月くんは、少しだけ目を細めた。

「俺もです」

短い。

でも、今の私にはちゃんと届いた。

帰りの車の中で、私は本の袋を抱えていた。

硝子の鍵。

そのタイトルが、袋の中から静かに私を見ている気がした。

鍵は閉じるためだけじゃない。

開けるためにもある。

名前のない関係にも、きっと鍵はある。

まだ開かない扉。
まだ怖くて触れられない言葉。
まだ言えない未来。

でも、その前に立つことを、私はもうやめたくなかった。

硝子の鍵は、またひとつ鳴った。

今度の鍵は、名前のない約束の形をしていた。

寂しさと嬉しさが、同じ輪っかに通された、
小さくて静かな鍵だった。
< 22 / 30 >

この作品をシェア

pagetop