硝子の鍵
Key·25 オリオンの下で
週末の夜、私はクローゼットの前でまた迷っていた。
星を見に行くだけ。
そう言い聞かせた。
デートではない。
少なくとも、利月くんはきっとそう呼ばない。
でも、ただの用事でもない。
だから困る。
黒のコートを羽織ってみる。
少し重い。
白いニットに替えてみる。
少し甘い。
結局、いつものコートに、利月くんから借りたマフラーを巻いた。
まだ返していないマフラー。
返す理由にもなるし、返さない理由にもなる。
私は鏡の中の自分を見た。
社長には少し柔らかい。
母には少し浮かれている。
恋をしている女としては、たぶん臆病すぎる。
でも、これが今の私だった。
「お母さん」
リビングから陽斗の声がした。
「なに?」
「マフラー、またそれ?」
心臓が跳ねる。
「寒いから」
「ふうん」
陽斗はゲーム機を持ったまま、こちらを見ていた。
「遅くならない?」
「ならない」
「ちゃんと帰ってくる?」
「帰ってくる」
「星、見えるといいね」
その言葉に、私は少しだけ胸が詰まった。
陽斗は、子どもなのに。
私が思うよりずっと、大人みたいにこちらを見ている。
「うん」
私は頷いた。
「見えたら、教えるね」
「写真撮ってきて」
「星の写真、難しいよ」
「登坂先生なら撮れるんじゃない?」
「なんで」
「細かいから」
思わず笑ってしまった。
「細かいと写真撮れるの?」
「たぶん」
陽斗は少しだけ笑った。
それから、ふいに真面目な顔になった。
「お母さん」
「うん」
「楽しかったら、楽しかったって言っていいからね」
息が止まった。
「え?」
「俺に気使って、普通だったとか言わなくていいよ」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
「……うん」
「でも、にやにやしすぎたら言う」
「それは言わないで」
「言う」
陽斗はまたゲーム画面に目を戻した。
私はしばらく、その横顔を見ていた。
この子に、私は何度助けられているんだろう。
母親なのに。
守らなきゃいけないのは私なのに。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアを閉める直前、陽斗がもう一度言った。
「寒いから、ちゃんと帰ってきてね」
私は振り返って笑った。
「うん。ちゃんと帰ってくる」
待ち合わせ場所は、都心から少し離れた小さな展望広場だった。
有名な夜景スポットではない。
人も多すぎない。
利月くんが選んだ場所だった。
星が見えやすいかは分かりません。
でも、少し空が広いです。
その説明が、やっぱり利月くんらしかった。
確約しない。
でも、ちゃんと探してくれる。
広場に着くと、冬の風が頬に触れた。
冷たい。
でも、嫌な冷たさではなかった。
空は、思っていたより暗い。
街明かりはあるけれど、ビルの隙間から見える夜空には、いくつかの星が光っていた。
利月くんは、柵の近くに立っていた。
黒いコート。
首元にはマフラーがない。
私が借りているからだ。
それに気づいた瞬間、胸が少し鳴った。
「登坂さん」
声をかけると、利月くんが振り返った。
「灯理さん」
彼の目が、私の首元で少し止まった。
「寒くないですか」
「マフラーがあるので」
私がそう言うと、彼は少しだけ目を伏せた。
「なら、よかったです」
その一言が、静かに胸に落ちる。
「登坂さんは寒くないんですか」
「少し」
「マフラー返します」
「今日はいいです」
「でも」
「灯理さんが寒い方が困ります」
まただ。
こういうことを、急に言う。
私は視線を逸らした。
「そういうこと、普通に言わないでください」
「普通に言ってしまいました」
「分かってます」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
いつものやり取り。
冬の風の中で、その言葉が白く溶けた。
利月くんは空を見上げた。
「オリオン座、見えますね」
「どれですか」
「そこです」
彼が指をさす。
私は同じ方向を見た。
星はたくさんあるようで、少ないようで、どれが何なのか分からない。
「分かりません」
正直に言うと、利月くんが少し笑った。
「真ん中に三つ並んでいる星があります」
「三つ?」
「はい。あれがオリオンのベルトです」
「ベルト?」
「そうです」
「星座って、名前の付け方がけっこう大胆ですね」
「そうですね」
利月くんの声が、少し楽しそうだった。
私はもう一度空を見る。
三つ並んだ星。
あった。
「あ、分かった」
思わず声が明るくなる。
「見えました?」
「見えました」
「よかったです」
たったそれだけなのに、嬉しかった。
星を見つけたことより、隣で利月くんが少し安心したように笑ったことが。
「陽斗に言えます」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「写真は難しいと思います」
「陽斗にも言われました。登坂先生なら撮れるんじゃないかって」
「なぜ俺なら」
「細かいからだそうです」
利月くんは、少しだけ固まった。
「陽斗は、俺のことを細かい先生だと思っていますね」
「かなり」
「自覚はあります」
「あるんですね」
「あります」
二人で少し笑った。
笑いながら、私は空を見上げた。
冬の星は、思っていたより静かだった。
東京タワーみたいに強く光らない。
街の中に埋もれそうなくらい小さい。
でも、見つけるとちゃんとそこにある。
「星って」
私はぽつりと言った。
「探さないと見えないんですね」
利月くんが、こちらを見る気配がした。
「はい」
「東京タワーは、嫌でも目に入るのに」
「星は、見上げないといけません」
その言葉に、少しだけ胸が鳴った。
見上げないといけない。
私は、いつも何を見ていたんだろう。
会社の数字。
陽斗の予定。
父と母の体調。
東京タワーの光。
見えるものばかりを追って、見上げないと分からないものを、たくさん見逃してきたのかもしれない。
「灯理さん」
「はい」
「陽斗、どうでしたか」
やっぱり、そこを聞く。
私は利月くんを見た。
「行ってらっしゃいって言ってくれました」
「そうですか」
「楽しかったら、楽しかったって言っていいって」
利月くんの表情が、少しだけ変わった。
「陽斗が?」
「はい」
「……大人ですね」
「そうなんです」
私はマフラーに少しだけ顔をうずめた。
「でも、大人にさせすぎてるのかなって、思う時があります」
利月くんはすぐには答えなかった。
風が吹く。
マフラーの端が少し揺れた。
「陽斗は」
彼はゆっくり言った。
「大人になろうとしているというより、灯理さんを見ているんだと思います」
「私を?」
「はい」
「それが、つらいです」
本音が落ちた。
「私がちゃんとしないから、陽斗が先に見てしまう」
「灯理さん」
「はい」
「ちゃんとしないからではなくて、大事だから見るんだと思います」
言葉が、胸に静かに入ってくる。
「子どもは、どうでもいい大人のことをそんなに見ません」
私は目を伏せた。
「そうでしょうか」
「少なくとも、俺はそう思います」
利月くんの声は、強くはなかった。
でも、逃げ道のない優しさがあった。
「陽斗は、灯理さんが大事なんだと思います」
涙が出そうになった。
「登坂さんは、そういうことを急に言います」
「またですか」
「またです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
私たちは、また少し笑った。
でも、胸の奥は熱かった。
利月くんは、私を甘やかすために言っているわけじゃない。
ただ、見たことを言う。
考えたことを、少し遅れて、少し不器用に渡してくる。
その言葉は、時々私を泣かせる。
星を見ながら、しばらく歩いた。
展望広場の周りには、小さな遊歩道があった。
人は少ない。
街の音は遠く、足音だけが近くにある。
隣にいる。
それだけのことに、まだ慣れない。
手は繋がない。
でも、歩幅はいつの間にか少し合っていた。
「灯理さん」
「はい」
「寒くないですか」
「大丈夫です」
言った瞬間、利月くんがこちらを見る。
私は小さく笑って、言い直した。
「少し寒いです」
彼は頷いた。
「車まで戻りますか」
「もう少しだけ歩きたいです」
「分かりました」
利月くんは、自分のコートのポケットから使い捨てカイロを出した。
「え」
「持ってきました」
「用意よすぎません?」
「寒いと思ったので」
「登坂さん、細かい」
「陽斗に言われます」
私は笑ってしまった。
彼は少し照れたように、カイロを私に差し出した。
「使ってください」
「ありがとうございます」
受け取る時、指先が触れた。
ほんの一瞬。
でも、前よりもその一瞬を怖がらなかった。
利月くんも、手をすぐには引っ込めなかった。
触れているわけではない。
でも、触れそうな距離にいた。
それだけで、胸がゆっくり熱くなった。
「灯理さん」
利月くんの声が、少し低くなる。
「はい」
「こうして会うのは」
彼は言葉を探した。
「やっぱり、早いと思う時もあります」
私は息を止めた。
「はい」
「でも、遅らせれば安全になるとも思えません」
風が止まったように感じた。
「会わないで考えているだけでは、分からないことがあります」
利月くんは、私を見る。
「今日、来てよかったです」
胸が、熱くなった。
「私も」
声が震える。
「来てよかったです」
利月くんは、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、東京タワーの下で見たものより少し柔らかかった。
先生でもなく。
社長と向き合う人でもなく。
陽斗のことを考える大人でもありながら。
それでも今、私に会いに来た人の顔だった。
帰る時間になって、私は少しだけ寂しくなった。
陽斗には遅くならないと言った。
ちゃんと帰ると約束した。
だから帰る。
それが、今の私たちには必要なことだった。
駐車場へ向かう途中、利月くんが言った。
「陽斗に、オリオン座見えたと伝えてください」
「はい」
「写真は」
「撮れませんでした」
「そうですね」
「細かい先生でも無理でしたね」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
二人でまた笑う。
車の前で立ち止まる。
別れ際の空気は、いつも少し難しい。
手を振るだけでいいのか。
何か言うべきなのか。
マフラーを返すべきなのか。
私は首元に手を当てた。
「マフラー」
「今日はそのままで」
「また?」
「はい」
「返せないですね」
「次に会う理由が必要なので」
前より、少しだけ自然に言った。
私は笑ってしまう。
「それ、気に入ってます?」
「はい」
「正直」
「はい」
利月くんも、少しだけ笑った。
私は車のドアを開ける前に、彼を見た。
今度は、ちゃんと。
「登坂さん」
「はい」
「今日は、楽しかったです」
陽斗に言っていいと言われた言葉。
私はまず、利月くんに伝えたかった。
利月くんは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「俺も、楽しかったです」
短い。
でも、ちゃんと届いた。
私は車に乗った。
窓越しに、利月くんが小さく手を上げる。
その上に、冬の星が光っていた。
帰り道、私は空を見上げることはできなかった。
運転中だから。
でも、胸の中にはオリオン座があった。
三つ並んだ星。
見上げなければ見つけられない光。
家に着くと、陽斗はまだ起きていた。
「おかえり」
「ただいま」
「星、見えた?」
「見えたよ」
「オリオン座?」
「うん。三つ並んでるやつ」
陽斗は少しだけ嬉しそうに笑った。
「分かったんだ」
「登坂さんが教えてくれた」
「やっぱ細かい」
「でも、分かりやすかった」
陽斗は頷いた。
「楽しかった?」
私は少しだけ息を吸った。
「うん」
今度は迷わなかった。
「楽しかった」
陽斗は、そう、とだけ言った。
でも、その顔は少し安心しているように見えた。
「ちゃんと帰ってきたね」
「帰ってきたよ」
「ならいい」
その言葉に、胸があたたかくなる。
私はこの子のもとへ帰ってくる。
それを忘れない限り、きっと少しずつ進める。
部屋に戻り、窓の外を見る。
東京タワーは赤く光っていた。
その上の空に、オリオン座は見えない。
でも、見えないからといって、なくなったわけじゃない。
私はスマホを開き、利月くんにメッセージを送った。
陽斗に、楽しかったと話しました。
ちゃんと帰ってきたね、と言われました。
返事は少しして届いた。
陽斗らしいですね。
もう一通。
ちゃんと帰ってくれて、ありがとうございます。
その言葉に、私は静かに笑った。
ちゃんと帰る。
母として。
大人として。
そして、また会いたい人のところへ行くために。
また、星を見に行きたいです。
送ると、既読がついた。
少し間が空いた。
はい。
次は、もう少し星が多い場所を探します。
私は泣きそうになりながら笑った。
次。
また、次がある。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、オリオンの下に落ちていた。
冷たい夜に、
手を繋がなくても隣にいられることを知った、
小さな星の鍵だった。
星を見に行くだけ。
そう言い聞かせた。
デートではない。
少なくとも、利月くんはきっとそう呼ばない。
でも、ただの用事でもない。
だから困る。
黒のコートを羽織ってみる。
少し重い。
白いニットに替えてみる。
少し甘い。
結局、いつものコートに、利月くんから借りたマフラーを巻いた。
まだ返していないマフラー。
返す理由にもなるし、返さない理由にもなる。
私は鏡の中の自分を見た。
社長には少し柔らかい。
母には少し浮かれている。
恋をしている女としては、たぶん臆病すぎる。
でも、これが今の私だった。
「お母さん」
リビングから陽斗の声がした。
「なに?」
「マフラー、またそれ?」
心臓が跳ねる。
「寒いから」
「ふうん」
陽斗はゲーム機を持ったまま、こちらを見ていた。
「遅くならない?」
「ならない」
「ちゃんと帰ってくる?」
「帰ってくる」
「星、見えるといいね」
その言葉に、私は少しだけ胸が詰まった。
陽斗は、子どもなのに。
私が思うよりずっと、大人みたいにこちらを見ている。
「うん」
私は頷いた。
「見えたら、教えるね」
「写真撮ってきて」
「星の写真、難しいよ」
「登坂先生なら撮れるんじゃない?」
「なんで」
「細かいから」
思わず笑ってしまった。
「細かいと写真撮れるの?」
「たぶん」
陽斗は少しだけ笑った。
それから、ふいに真面目な顔になった。
「お母さん」
「うん」
「楽しかったら、楽しかったって言っていいからね」
息が止まった。
「え?」
「俺に気使って、普通だったとか言わなくていいよ」
胸の奥が、ぎゅっとなる。
「……うん」
「でも、にやにやしすぎたら言う」
「それは言わないで」
「言う」
陽斗はまたゲーム画面に目を戻した。
私はしばらく、その横顔を見ていた。
この子に、私は何度助けられているんだろう。
母親なのに。
守らなきゃいけないのは私なのに。
「行ってきます」
「行ってらっしゃい」
ドアを閉める直前、陽斗がもう一度言った。
「寒いから、ちゃんと帰ってきてね」
私は振り返って笑った。
「うん。ちゃんと帰ってくる」
待ち合わせ場所は、都心から少し離れた小さな展望広場だった。
有名な夜景スポットではない。
人も多すぎない。
利月くんが選んだ場所だった。
星が見えやすいかは分かりません。
でも、少し空が広いです。
その説明が、やっぱり利月くんらしかった。
確約しない。
でも、ちゃんと探してくれる。
広場に着くと、冬の風が頬に触れた。
冷たい。
でも、嫌な冷たさではなかった。
空は、思っていたより暗い。
街明かりはあるけれど、ビルの隙間から見える夜空には、いくつかの星が光っていた。
利月くんは、柵の近くに立っていた。
黒いコート。
首元にはマフラーがない。
私が借りているからだ。
それに気づいた瞬間、胸が少し鳴った。
「登坂さん」
声をかけると、利月くんが振り返った。
「灯理さん」
彼の目が、私の首元で少し止まった。
「寒くないですか」
「マフラーがあるので」
私がそう言うと、彼は少しだけ目を伏せた。
「なら、よかったです」
その一言が、静かに胸に落ちる。
「登坂さんは寒くないんですか」
「少し」
「マフラー返します」
「今日はいいです」
「でも」
「灯理さんが寒い方が困ります」
まただ。
こういうことを、急に言う。
私は視線を逸らした。
「そういうこと、普通に言わないでください」
「普通に言ってしまいました」
「分かってます」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
いつものやり取り。
冬の風の中で、その言葉が白く溶けた。
利月くんは空を見上げた。
「オリオン座、見えますね」
「どれですか」
「そこです」
彼が指をさす。
私は同じ方向を見た。
星はたくさんあるようで、少ないようで、どれが何なのか分からない。
「分かりません」
正直に言うと、利月くんが少し笑った。
「真ん中に三つ並んでいる星があります」
「三つ?」
「はい。あれがオリオンのベルトです」
「ベルト?」
「そうです」
「星座って、名前の付け方がけっこう大胆ですね」
「そうですね」
利月くんの声が、少し楽しそうだった。
私はもう一度空を見る。
三つ並んだ星。
あった。
「あ、分かった」
思わず声が明るくなる。
「見えました?」
「見えました」
「よかったです」
たったそれだけなのに、嬉しかった。
星を見つけたことより、隣で利月くんが少し安心したように笑ったことが。
「陽斗に言えます」
私が言うと、利月くんは頷いた。
「写真は難しいと思います」
「陽斗にも言われました。登坂先生なら撮れるんじゃないかって」
「なぜ俺なら」
「細かいからだそうです」
利月くんは、少しだけ固まった。
「陽斗は、俺のことを細かい先生だと思っていますね」
「かなり」
「自覚はあります」
「あるんですね」
「あります」
二人で少し笑った。
笑いながら、私は空を見上げた。
冬の星は、思っていたより静かだった。
東京タワーみたいに強く光らない。
街の中に埋もれそうなくらい小さい。
でも、見つけるとちゃんとそこにある。
「星って」
私はぽつりと言った。
「探さないと見えないんですね」
利月くんが、こちらを見る気配がした。
「はい」
「東京タワーは、嫌でも目に入るのに」
「星は、見上げないといけません」
その言葉に、少しだけ胸が鳴った。
見上げないといけない。
私は、いつも何を見ていたんだろう。
会社の数字。
陽斗の予定。
父と母の体調。
東京タワーの光。
見えるものばかりを追って、見上げないと分からないものを、たくさん見逃してきたのかもしれない。
「灯理さん」
「はい」
「陽斗、どうでしたか」
やっぱり、そこを聞く。
私は利月くんを見た。
「行ってらっしゃいって言ってくれました」
「そうですか」
「楽しかったら、楽しかったって言っていいって」
利月くんの表情が、少しだけ変わった。
「陽斗が?」
「はい」
「……大人ですね」
「そうなんです」
私はマフラーに少しだけ顔をうずめた。
「でも、大人にさせすぎてるのかなって、思う時があります」
利月くんはすぐには答えなかった。
風が吹く。
マフラーの端が少し揺れた。
「陽斗は」
彼はゆっくり言った。
「大人になろうとしているというより、灯理さんを見ているんだと思います」
「私を?」
「はい」
「それが、つらいです」
本音が落ちた。
「私がちゃんとしないから、陽斗が先に見てしまう」
「灯理さん」
「はい」
「ちゃんとしないからではなくて、大事だから見るんだと思います」
言葉が、胸に静かに入ってくる。
「子どもは、どうでもいい大人のことをそんなに見ません」
私は目を伏せた。
「そうでしょうか」
「少なくとも、俺はそう思います」
利月くんの声は、強くはなかった。
でも、逃げ道のない優しさがあった。
「陽斗は、灯理さんが大事なんだと思います」
涙が出そうになった。
「登坂さんは、そういうことを急に言います」
「またですか」
「またです」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
私たちは、また少し笑った。
でも、胸の奥は熱かった。
利月くんは、私を甘やかすために言っているわけじゃない。
ただ、見たことを言う。
考えたことを、少し遅れて、少し不器用に渡してくる。
その言葉は、時々私を泣かせる。
星を見ながら、しばらく歩いた。
展望広場の周りには、小さな遊歩道があった。
人は少ない。
街の音は遠く、足音だけが近くにある。
隣にいる。
それだけのことに、まだ慣れない。
手は繋がない。
でも、歩幅はいつの間にか少し合っていた。
「灯理さん」
「はい」
「寒くないですか」
「大丈夫です」
言った瞬間、利月くんがこちらを見る。
私は小さく笑って、言い直した。
「少し寒いです」
彼は頷いた。
「車まで戻りますか」
「もう少しだけ歩きたいです」
「分かりました」
利月くんは、自分のコートのポケットから使い捨てカイロを出した。
「え」
「持ってきました」
「用意よすぎません?」
「寒いと思ったので」
「登坂さん、細かい」
「陽斗に言われます」
私は笑ってしまった。
彼は少し照れたように、カイロを私に差し出した。
「使ってください」
「ありがとうございます」
受け取る時、指先が触れた。
ほんの一瞬。
でも、前よりもその一瞬を怖がらなかった。
利月くんも、手をすぐには引っ込めなかった。
触れているわけではない。
でも、触れそうな距離にいた。
それだけで、胸がゆっくり熱くなった。
「灯理さん」
利月くんの声が、少し低くなる。
「はい」
「こうして会うのは」
彼は言葉を探した。
「やっぱり、早いと思う時もあります」
私は息を止めた。
「はい」
「でも、遅らせれば安全になるとも思えません」
風が止まったように感じた。
「会わないで考えているだけでは、分からないことがあります」
利月くんは、私を見る。
「今日、来てよかったです」
胸が、熱くなった。
「私も」
声が震える。
「来てよかったです」
利月くんは、ほんの少しだけ笑った。
その笑顔は、東京タワーの下で見たものより少し柔らかかった。
先生でもなく。
社長と向き合う人でもなく。
陽斗のことを考える大人でもありながら。
それでも今、私に会いに来た人の顔だった。
帰る時間になって、私は少しだけ寂しくなった。
陽斗には遅くならないと言った。
ちゃんと帰ると約束した。
だから帰る。
それが、今の私たちには必要なことだった。
駐車場へ向かう途中、利月くんが言った。
「陽斗に、オリオン座見えたと伝えてください」
「はい」
「写真は」
「撮れませんでした」
「そうですね」
「細かい先生でも無理でしたね」
「すみません」
「謝るところじゃないです」
二人でまた笑う。
車の前で立ち止まる。
別れ際の空気は、いつも少し難しい。
手を振るだけでいいのか。
何か言うべきなのか。
マフラーを返すべきなのか。
私は首元に手を当てた。
「マフラー」
「今日はそのままで」
「また?」
「はい」
「返せないですね」
「次に会う理由が必要なので」
前より、少しだけ自然に言った。
私は笑ってしまう。
「それ、気に入ってます?」
「はい」
「正直」
「はい」
利月くんも、少しだけ笑った。
私は車のドアを開ける前に、彼を見た。
今度は、ちゃんと。
「登坂さん」
「はい」
「今日は、楽しかったです」
陽斗に言っていいと言われた言葉。
私はまず、利月くんに伝えたかった。
利月くんは、一瞬だけ目を見開いた。
それから、静かに頷いた。
「俺も、楽しかったです」
短い。
でも、ちゃんと届いた。
私は車に乗った。
窓越しに、利月くんが小さく手を上げる。
その上に、冬の星が光っていた。
帰り道、私は空を見上げることはできなかった。
運転中だから。
でも、胸の中にはオリオン座があった。
三つ並んだ星。
見上げなければ見つけられない光。
家に着くと、陽斗はまだ起きていた。
「おかえり」
「ただいま」
「星、見えた?」
「見えたよ」
「オリオン座?」
「うん。三つ並んでるやつ」
陽斗は少しだけ嬉しそうに笑った。
「分かったんだ」
「登坂さんが教えてくれた」
「やっぱ細かい」
「でも、分かりやすかった」
陽斗は頷いた。
「楽しかった?」
私は少しだけ息を吸った。
「うん」
今度は迷わなかった。
「楽しかった」
陽斗は、そう、とだけ言った。
でも、その顔は少し安心しているように見えた。
「ちゃんと帰ってきたね」
「帰ってきたよ」
「ならいい」
その言葉に、胸があたたかくなる。
私はこの子のもとへ帰ってくる。
それを忘れない限り、きっと少しずつ進める。
部屋に戻り、窓の外を見る。
東京タワーは赤く光っていた。
その上の空に、オリオン座は見えない。
でも、見えないからといって、なくなったわけじゃない。
私はスマホを開き、利月くんにメッセージを送った。
陽斗に、楽しかったと話しました。
ちゃんと帰ってきたね、と言われました。
返事は少しして届いた。
陽斗らしいですね。
もう一通。
ちゃんと帰ってくれて、ありがとうございます。
その言葉に、私は静かに笑った。
ちゃんと帰る。
母として。
大人として。
そして、また会いたい人のところへ行くために。
また、星を見に行きたいです。
送ると、既読がついた。
少し間が空いた。
はい。
次は、もう少し星が多い場所を探します。
私は泣きそうになりながら笑った。
次。
また、次がある。
硝子の鍵は、またひとつ鳴った。
今度の鍵は、オリオンの下に落ちていた。
冷たい夜に、
手を繋がなくても隣にいられることを知った、
小さな星の鍵だった。