紫陽花の短編集物語#2

背番号じゃ届かない

第1話 初夏、背番号もない僕たち

五月の空はまぶしくて、まだ部室の匂いも新しい。
高校に入って1ヶ月、野球部の1年・球児(きゅうじ)は、ひたすら声を張って、グラウンドの隅を走り続けていた。
「おい一年!もっと腹から声出せ!」
「はいっ!」
先輩たちのノック、飛び交うボール、焼ける土。
そのすべてが“夢に見てた場所”のはずなのに、球児の背中にはまだ背番号がない。
今日もベンチ入りどころか、ボール拾いが主な仕事。 でも、それでも目が離せなかった。
――マネージャーの、麻耶(まや)先輩。3年生。
練習ノートに目を通しながら、時折くすっと笑う横顔。 タオルで汗を拭う仕草が、無意識のうちに心に焼き付く。
球児(うわ、また見ちゃってる…)
一方、そんな球児の視界に、いつも突然割り込んでくるのがもう一人。
「おーい、球児! タイムキーパー頼む!」
それが――3年生のエースで副キャプテン、塁(るい)先輩。
天才肌、だけど誰よりチーム思いで、人懐っこい笑顔が似合う人。
そして…なぜか麻耶と話すときだけ、ほんの少し表情が変わる気がする。
球児(……まさか、塁先輩も、麻耶先輩のこと……)
そんなことを思い始めた自分が、少しだけイヤだった。
その日の練習終わり、倉庫にボールを戻しに行く途中で、球児は偶然、立ち話をしているふたりの姿を見てしまう。
「……今年の夏、最後だもんな。頑張れよ、塁」
「ありがとな、麻耶。お前の声があると、不思議と落ち着く」
その言葉に、麻耶が微笑む。
球児(ああ…やっぱり、背番号もない僕じゃ、届かないのかな)

夜、部屋に戻っても、球児の手の中には汚れた練習メモと、 ノートの端にこっそり書いた――たった一行。
「“好き”って、球速よりむずかしい。」
【背番号じゃ届かない】








第2話 3年生と、僕

翌朝。部室の扉を開けると、先に来ていたのは塁先輩だった。
「……おはようございますっ!」
「ああ、おはよ、球児。今日も来るの早いな~」
塁の声は、まるで太陽の熱そのまんまみたいに眩しかった。 その後ろには、いつの間にか麻耶先輩の姿。
「球児くんも、早いね」 笑いかけられただけで、胸の奥が焼ける。
球児(ああ…やっぱり、無理だ。塁先輩には敵わない)
でも、負けたくない。それが自分で初めて思えた本音だった。
練習が始まり、炎天下のノックと声出しが続く中。
「おい球児、そこ右!次!一歩目遅いぞ!」
「はいっ!!」
声を張り上げてグラウンドを駆けるたび、自分の影がすこしずつ伸びていく気がした。

練習終わり、片付け中。麻耶がこっそり水を差し入れてくれた。
「今日の球児くん、ちょっとかっこよかったよ」
「……へっ」
心臓が爆音のように鳴る。喉が渇くのに、水が飲めない。 でも、言葉を返さなきゃって思った。
「……俺、マネージャーのノート、すごいと思います。 すごく、見てるんだなって……チームのこと」
麻耶の目が、少しだけ驚いたように揺れた。 けど、すぐに、静かに笑った。
「ありがと。……嬉しい、そう言ってくれて」
でもその直後、塁が麻耶を呼ぶ声が響く。
「おーい麻耶!補食の買い出し、付き合ってくれない?」
「うん、すぐ行く!」
立ち上がる麻耶と、それを待つ塁先輩。
背中越しに、球児は思った。
球児(……ああ、この距離って、どれくらいあるんだろう)
グラウンドを全力で走るよりも、 この一歩が、一番遠く感じた。
【背番号じゃ届かない】







第3話 知られちゃいけない、この気持ち

「なあ球児、お前さぁ、最近ずっと麻耶先輩のほう見てね?」
昼休み。購買の帰り道、親友の翔太が不意に言った。
「えっ!? な、なんでそう思うの?」
「いやもう、バレバレ。笑」
翔太は飄々としてて、だけどよく周りを見てるタイプ。 球児は汗をぬぐいながら、無理に笑ってごまかした。
「べ、別にそんなんじゃ…!」
「うっわ~図星のやつだ~!」
笑いながら、翔太はドリンクを球児に投げてよこす。
「でもさ、あの人、塁先輩とちょっと特別そうじゃね?」
……その言葉に、球児はうまく笑えなかった。

その日の午後練。ベンチで短い休憩時間。 遠くで塁と麻耶が何かを話していた。
塁が麻耶に軽く手を振ると、麻耶はふわっと笑って手を振り返す。
球児(そんな顔、俺、見たことない……)
「――あ、球児くん、疲れてない?」
はっとして振り返ると、すぐ後ろに麻耶が立っていた。
「え、えっと、いや、大丈夫っす!」
「あはは、なんか今日、顔赤いよ?」
「あ、いや、たぶん……日焼けです!」
球児(わーーーもうむり!!)
顔から火が出そうで、全速力で外野に逃げ出した球児を 翔太がぽつりとつぶやく。
「……こりゃ本格的に、終わってんな」

その夜。球児のノートの片隅に、またひとこと。
「好きって、声に出したら全部終わっちゃいそうなんだ」
【背番号じゃ届かない】








第4話 ユニフォームの重さ

日曜日。対外試合の朝。
「球児、今日はベンチ入りメンバーに入るぞ。背番号は無いが、付き添いだ。勉強してこい」
顧問の先生からそう告げられた瞬間、球児の胸が跳ねた。 憧れていたベンチ。試合の匂い。ユニフォームの背中。
着替えを終えたベンチ裏で、麻耶が微笑んだ。
「がんばってね、球児くん。今日は試合球の記録、お願い」
「っ、はいっ!!」
ただそれだけのやりとりなのに、今日の天気すら特別に思えた。
だが、試合が始まると、現実の厳しさを思い知る。 塁先輩は1回から全開。剛速球に三振の山。
歓声の中、背番号「1」の存在感が、眩しすぎた。
球児(俺の球と、全然違う……)
そのうえ、塁が投げ終わったあと、疲れた顔でベンチに戻ってくると、麻耶が駆け寄ってタオルを差し出す。
「ナイスピッチング、塁」
「おう。お前に言われると、なんか効くわ」
自然すぎるやりとり。何気ない会話。だけど、それが、胸を締めつけた。

試合後、球児はベンチで固まったままユニフォームの袖を握っていた。そのとき、翔太がぽつりと肩を叩く。
「試合って、ほんと、背中の数字がすべて…って感じするな」
「うん。俺、今日はただ着てただけだった」
「でも、お前、声一番出てた。俺は見てたぞ」
球児の心に、少しだけ風が吹いた。

そして夜。球児のノートには、静かにこう記されていた。
「背番号があっても、重さに負けることもある。 でも、無いままじゃ、何も始まらない」
【背番号じゃ届かない】










第5話 雨の日のノート

午後の雷鳴とともに、土砂降りの雨。 グラウンド練習は急きょ中止、部員たちは体育館に移動して筋トレを始めていた。
「おい一年、道具の確認しとけよー!」
倉庫にひとり残された球児は、グラブやスパイクを拭いていた。
そのとき、部室の机にノートが置きっぱなしになっているのに気づいた。
球児(……マネージャーの?)
表紙の端に、小さく「M.M.」の文字。きっと、 麻耶先輩の練習記録ノートだ。
球児は開くつもりはなかった。けれど、ノートがぱらりと風にめくられた。
「塁、今日は疲れているのに声を出していた。 きっと“チーム”で勝ちたいんだと思う。背中が、やっぱり一番大きい。」
球児(……俺が憧れてる塁先輩に、  麻耶先輩も、ちゃんと憧れてるんだ)
次のページに綴られていたのは、別のメモ。
「“特別”って、誰かにとって何を意味するんだろう」
その言葉に、球児の指先が止まった。 ノートを閉じると、心の奥から染み出すものがあった。

練習後、部室で麻耶がそのノートを見て、はっとしたように球児に尋ねる。
「……球児くん、それ、見た?」
「……すみません。ちょっとだけ」
麻耶はふわっと笑った。でもその笑顔は、どこか“やさしい距離”を保っていた。
「大丈夫。見られて困るようなこと、書いてないから。 私、みんなのこと、ちゃんと見てたいんだ」
「……はい」
それが、さりげない会話のふりをした、 “やわらかく拒まれる”瞬間のようで、胸が少しだけ痛かった。

その夜、球児のノートには、静かにこう書かれていた。
「努力すれば、想いが届くって、  野球以外には当てはまらないのかもしれない」
【背番号じゃ届かない】










第6話 エースにだけはなりたくない

その日、部活中にふとした空気の変化があった。
「塁、最近球速が落ちてきてるな」
顧問のつぶやきに、ベンチの誰もが静かになった。 麻耶は何も言わず、ノートを見つめていた。
試合が近づくにつれ、塁の調子が少しずつ崩れていた。 エースの“揺らぎ”は、チームに波紋を広げる。

練習後の帰り道。球児は道具袋を担ぎながら、ふと考えた。
球児(もし、塁先輩が倒れたら……俺に、出番が来る?)
球児(でも、そんな形でしか立てないのなら……)
その夜、球児はひとり、暗い室内練習場に残って投球練習をしていた。 ボールがネットにぶつかる音だけが響く。
「なんで投げてるの? もう、みんな帰ったよ」
振り向くと、そこには麻耶。
「……なんでって。自分のためです」
「ううん。違う。顔が“誰かの代わり”みたいだった」
図星だった。悔しさと、自分への苛立ちで声が詰まった。
「俺、塁先輩みたいになれないし、なりたくもないんです。  でも、麻耶先輩が…彼のことを見てるのが、つらくて」
麻耶はしばらく黙っていた。 そして、やさしく一言だけ残して帰っていく。
「……じゃあ、“君自身”を、見せてよ」
言葉の意味が、胸に響いてしばらく動けなかった。

その夜、球児のノートにはこう綴られていた。
「誰かを超えることじゃなくて、  “自分の投球”をするって、どうやるんだろう」
【背番号じゃ届かない】












第7話 夏の大会メンバー発表

真夏の朝、緊張が走るグラウンド。 今日はついに、夏の大会メンバー発表の日だった。
顧問が読み上げていく番号と名前。ひとつ、またひとつ、球児の心臓の音が大きくなる。
「背番号10、翔太。」 「背番号11、森田。」
……そして。
「以上、17名。補欠メンバーは――」
その中に、球児の名前があった。ベンチ入り“補欠”という形で。
それでも、一瞬うれしかった。 でも同時に、心の奥がざわついた。
球児(やっぱり、背番号は……もらえなかったんだ)

その日、練習が終わっても、球児はひとりグラウンドに残っていた。
ベンチ横の板に貼られたメンバー表を、何度も何度も見つめていると、 麻耶の声が後ろから響いた。
「球児くん、残ったの? ちゃんと補食食べなきゃ倒れちゃうよ」
「……あの、俺、背番号もらえなかったですけど、 でも、試合に行けるの、嬉しいです」
「うん。ちゃんと、見てたよ。 球児くんの声、一番遠くまで届いてた」
「本当ですか……?」
「うん。背中に数字がなくても、届くものって、あるんだよ」
その言葉が、球児の胸をじんわりと熱くしていった。
その夜、ノートにはこう綴られていた。

「数字がなければ見えないと思ってた。 でも、背番号がなくても、“誰かの目”には映るって、今日初めて知った」
【背番号じゃ届かない】













第8話 背番号18のくせに

大会初戦、球場に立つ選手たちの背中は誇らしげだった。
その中でも一際、背番号「1」のユニフォームが眩しく映る。――塁。
スタンドには麻耶の姿。野球ノートを胸に抱きしめ、静かに塁の投球を見つめていた。
「ストライク!」
初回は完璧だった。だが、二回、三回と進むにつれて―
「…あれ、球速、落ちてないか?」と、翔太がつぶやく。
球児も気づいていた。 塁のフォームに、どこか“迷い”がある。
そして、四回。相手打者にレフト線へのツーベース。
「タイム! 投手交代!!」
スタンドがざわついた。
塁はキャップのつばを深く下げて、ゆっくりベンチへ戻った。そのときだった。ベンチ前の塁に、麻耶が駆け寄る。
「大丈夫、塁。あんたはよく頑張ったよ」
やさしい声。その一言で、塁の背中が少しだけ揺れた。
一方――その様子を見つめていた球児の拳が、ゆるく握られる。
球児(背番号18のくせに……俺、ずっと見てるだけで、なんにもしてない)
補欠席にいる球児にできることは、声を出すこと。 でも、その声すら、今の自分には届かない気がした。
試合はなんとか勝利。だが、球児の中では、悔しさばかりが募った。

その夜、ノートにはいつになく荒れた文字が並んだ。
「塁先輩はミスしても、応援される。 俺はまだ、チャンスすら与えられてない」
【背番号じゃ届かない】













第9話 走る理由

大会2回戦前日。夕焼けのグラウンドに、球児の声が響いていた。
「お願いしますっ! ノックもう一本、ください!」
周囲の部員が帰り支度をする中、ただひとり、走り続ける球児。
ノックは補欠の球児にとって、“出番がない日”でもできる唯一の試合。 ――そして、その姿を、見ていた者がいた。
「……ほんと、頑張り屋さんだよね。あの子」
バックネット裏。麻耶の声に、隣にいた塁が答える。
「…オレ、思ってたよ。球児、野球向いてないんじゃねぇかって。でも今は……あいつ、誰より“野球”やってるよ」
麻耶は少しだけ微笑んだ。
「それ、ちゃんと伝えてあげて。塁の言葉って、響くんだから」

試合当日。予想外の展開でピンチが続き、チームに焦りが広がっていく。 塁の調子も戻らず、守備が乱れ始めるベンチ。
そんななか、球児が立ち上がった。
「いきましょう、声出して!ベンチからでも守れるはずです! 折れるなぁ、野球部ーっ!!」
その声に、一瞬戸惑いながらも、選手たちの顔が変わっていく。
ベンチ、スタンド、そして塁のいるマウンドへ。
球児(届いた……!)
「――ナイス声出し、球児!」
塁が振り返って言ったその言葉に、球児の胸が震えた。
球児(試合に出てなくても、チームに立っていいんだ。俺にも、やれることがあるんだ)
試合は接戦の末に勝利。 背番号がなくても、声が“得点”につながった日だった。

その夜、球児のノートにはこう綴られていた。
「走った距離で、何かが変わるなら、俺は何度でも走る。  見えなくたって、きっと“届く”瞬間がある」
【背番号じゃ届かない】










第10話 君のために打ちたい

大会3回戦、6回裏――1点ビハインド、2アウト一塁。
「代打、18番――球児!」
ベンチに響いたその声に、球児は一瞬固まった。
球児(……俺? 本当に?)
でもすぐに、塁がバットを手渡して言う。
「行ってこい。自分の打席、掴んでこい」
緊張で足が震える。けれど、ベンチに戻った塁の背中と、 スタンドで祈るように見守る麻耶の姿が、球児の背中を押してくれた。
球児(背番号がなくても、打席には“俺”が立てる)
初球。内角高め、ストライク。
球児(見送ってよかった。よし、次)
二球目。外角スライダー、空振り。
球場がざわつく。カウント0-2。追い込まれた。
でも、球児の中で、なぜか心は静かだった。
球児(もう、隠すのはやめよう)
三球目――バットが走った。
カキーン! 打球はライト前へ抜けるタイムリーヒット!
ベンチが沸き、同点!

球児は一塁ベース上で帽子を取って、ベンチへ向けて叫んだ。
「俺、まだ背番号ないけど、 このチームに立ってるって、証明したかったんです!」
その姿に、麻耶は両手で口を押え、涙を浮かべていた。
球児(今の球、好きって伝えるより、気持ちが乗ってた)

その夜、球児のノートにはこう綴られていた。
「この一打、誰かの背中じゃなくて、 自分の心で振れたと思う。好きです――麻耶先輩」
【背番号じゃ届かない】







第11話 二塁打と片想い

球児の打ったタイムリーは、そのまま逆転の流れを生んだ。 最終回、守りきってチームは見事に3回戦突破。
試合後、球児は人の輪の中で祝福を受けながら、 ちらりとスタンドのほうを見上げた。
麻耶の姿が見えた。 両手で掲げたスコアボードメモに、なにか書き込んでいる。
球児(俺のヒット、ちゃんと記録に残ったんだ)
麻耶の視線がこちらに向き、軽く手を振ってくれる。 その瞬間、球児の胸が跳ね上がった。
でも、同じタイミングで、麻耶のすぐ隣にいた塁が振り返って笑ったのを見た。麻耶も、笑って答えた。
球児(あ……あの顔は、俺には、向けられたことがない)
喜びが、するすると剥がれ落ちていった。

数十分後、球場の出口にいた麻耶が声をかけてくれた。
「球児くん、ナイスバッティング。ほんと、びっくりした」
「ありがとうございます……本当は、もっと打ちたかったですけど」
「ふふ、欲張りだね。でもね……」
麻耶が一瞬言いよどんだあと、静かに言った。
「すごく“まっすぐな打球”だった。……まるで球児くんそのものって感じがした」
嬉しかった。その言葉だけで、生きていけそうだった。
けど、その後に塁の名前が出るのが怖くて、球児はそれ以上何も聞けなかった。

その夜、ノートにはこう綴られていた。
「好きって言葉の代わりに、 “自分らしさ”で伝えたヒットだったんだと思う」
でも最後に、小さくもう一行。
「……でもやっぱり、“好き”って言ってみたかったな」
【背番号じゃ届かない】











第12話 塁の過去、麻耶の涙

大会4回戦を翌日に控えた放課後。
球児はグラウンド整備をしながら、ふと見上げた夕空に胸を落ち着けていた。隣には翔太。いつになく、真剣な顔。
「なあ、球児。…ちょっと、聞いちゃったんだ。塁先輩と麻耶先輩の話」
球児の手が止まる。
「昔、2人って、幼なじみだったんだって。しかも中学の時、麻耶先輩、塁先輩に告白して…振られたらしい」
「……えっ」
「でもな、塁先輩もずっと引きずってたって。
甲子園目指すって決めて、自分に“恋は邪魔だ”って言い聞かせてたってよ」
球児の心がふいに冷たくなる。
それは、自分の“想い”も“努力”も、一瞬でかすんでしまうほどの、重たい過去だった。

その晩、部室の外のベンチでひとり座る麻耶の姿を見つけた。 月明かりの中で、ノートを開いたまま、うつむいている。
「……あのとき、言わなきゃよかったって、何度も思った」
ぽつりと、麻耶が言う。
「でも、伝えなかったら、塁はもっと遠くへ行ってた気がするから。
それに私、きっと――塁の“初めての涙”を見たの、あの夏だったんだ」
球児は、何も言えなかった。ただその横顔を、目に焼きつけた。
ノートの片隅。球児は、こう書いた。
「“好き”は、届かなくても、誰かの背中を押すんだ。 ……それなら俺の想いも、誰かの力になれるだろうか」
【背番号じゃ届かない】














第13話 試合後、バスの中で

大会4回戦を勝ち抜いたその日。
夕焼けに包まれた球場をあとにし、バスが出発する直前、球児は少し遅れて乗り込んだ。
球児(うわ、席ほとんど埋まってる……)
後部座席――麻耶が窓側にひとり座っている。
「……ここ、いいですか?」
「あ、球児くん。もちろん」
緊張でガチガチになりながら隣に座る。バスがゆっくりと走り出す。
窓の外には、もう何度も通ったはずの街が流れていた。
「今日も、すごかったね」
「いえ、僕なんか……まだまだです」
「でも、あの打席。わたし、ちょっと泣きそうだったよ。 背番号があるとかないとか、そういうこと全部超えてた」
麻耶の言葉は、まるで静かに心の奥へ染みる音楽のようだった。
「……僕、背番号、ずっとほしくて。でも今は、 “誰かの目に映る存在になりたい”って思ってるんです」
一瞬、麻耶が息を飲んだ気がした。けれどすぐに、そっと頷いた。
「うん……それって、たぶん、塁もずっと思ってたことだと思うよ」
名前が出た瞬間、胸がチクリと痛んだ。
「塁先輩、すごいです。ほんと、全部持ってるみたいで。 僕には……きっと、追いつけない」
「そうかな?」
麻耶の声は、驚くほどやわらかかった。
「誰かに“追いつく”って思うより、 誰かの“知らない景色”見せてくれるほうが……わたし、惹かれるな」
その言葉が、球児のなかで火花のように燃え始めた。
球児(俺にだって……俺だけの何かがあるのかもしれない)
バスの車窓に映る自分の顔を見つめながら、静かに決意した。
【背番号じゃ届かない】










第14話 背番号のない告白

大会5回戦を前日に控えた夜。夏の空気が肌にまとわりつくような蒸し暑さの中、球児はずっと言葉を抱えていた。
球児(明日試合に勝ったら、とか。背番号もらえたら、とか。 そんな“タイミング”ばっかり探してたけど……)
思いを伝えたい。ただそれだけだった。

グラウンドの倉庫裏。夕暮れに染まった空の下、麻耶がノートを書いているところに、球児が歩み寄る。
「麻耶先輩」
「……球児くん?」
「あの、少しだけ、お話できますか」
麻耶が静かにうなずくと、球児は拳を握った。
「僕……先輩のことが、ずっと好きでした」
沈黙。蝉の声すら遠のいたような気がした。
「練習中も、試合のときも、声をかけてくれたことも。 全部、僕のなかで、すごく大きかったんです」
麻耶は何も言わなかった。でも、拒絶の空気ではなかった。球児は深呼吸して、つづけた。
「……先輩が、塁先輩のことを想ってることも、知ってました。 勝てないって思った。
でも、“好き”って気持ちは、それでも消せなかったんです」
ようやく顔を上げると、麻耶は目を伏せたまま、ふっと息を吐いた。
「……ありがとう。正直、驚いた。でも……うれしい」
「……でも、答えは違いますよね」
「……ごめん」
麻耶の声は震えていた。 それでも球児は、にっこりと笑った。
「背番号はもらえなかったけど、この“気持ち”だけは、自分でちゃんと付けられた気がします」
その笑顔に、麻耶の目から一筋の涙が落ちた。
【背番号じゃ届かない】











第15話 塁、最後の夏

準決勝当日。朝から球場の空は曇り、どこか張りつめた空気が流れていた。
マウンドには、塁の姿。 背番号1を背負った最後の夏。彼の肩には、想いがぎっしり詰まっていた。
ベンチの隅で球児は祈るように見つめていた。
球児(今日、きっとこれが、塁先輩の最後の登板になる)
試合は静かに、けれど確実に進んでいく。初回、三者凡退。 二回、制球が乱れるも無失点。
だが、五回――相手打線に捕まり、2失点。

その回の終了後、塁はゆっくりとベンチに戻り、麻耶と目を合わせた。 その瞳には、いつもの強さと違う何かがあった。
「……泣いてんの?」
麻耶が問いかけると、塁は苦笑してうなずいた。
「泣くって、投げるより体力いるな」
麻耶はそっとタオルを差し出した。
「いいよ。泣きたいときくらい、泣きなよ。…ずっと背中で引っぱってたんだもんね」
球児(この人たちは、特別だったんだ。きっと、ずっと)
球児はそう思いながら、塁の背中を目に焼きつけた。
最終回、塁はギリギリまで腕を振り、最後の打者を三振で締めくくった。 試合終了――4対2、勝利。決勝進出。
塁は笑った。目に涙を浮かべたまま。ベンチの中で、球児はそっと呟く。
「これが、塁先輩の“野球”だったんだな……」

その夜、ノートにはこう記されていた。
「背番号1の重さ、背中越しに少しだけ知った気がした。 でも、俺の野球はこれからだ」
【背番号じゃ届かない】












第16話 負けてしまった

決勝戦。 全国まであとひとつ、という場所まで来たこの夏の最終戦。
5回裏――1対2で1点ビハインド。球児はベンチから、塁の投球を、チームの背中を、黙って見ていた。
「……あと少しだったのにな」
試合が動いたのは、7回表。 エラー、連打、そして――相手のタイムリーで3点差。
マウンドに集まる内野陣、誰もが口を結んでいる。 塁は何も言わず、ボールを握りしめたまま背を向けた。
その姿を、麻耶はスコアノートの陰から見つめていた。 目元には、すでに涙のあと。

そして、試合終了の瞬間――
「ゲームセット。5対2で桜ヶ丘高校の勝利」
スコアボードの数字が、じわりと胸に迫る。塁はマウンドに立ったまま、動けなかった。
誰よりも投げてきた夏。 誰よりも背負ってきた背番号1。後ろから、球児が駆け寄って帽子を脱ぐ。
「塁先輩、……おつかれさまでしたっ!」
声が震えていた。でも、それでも伝えたかった。塁はゆっくりと振り返り、弱い笑顔をつくる。
「なんでだろな……負けてスッキリしたの、はじめてだ」
その言葉に、球児も泣いていいのか分からなくなって、ただ頷いた。
スタンドで泣き崩れる麻耶。翔太がそっと肩に手を置く。
「これで……終わっちゃったんだね」
「うん。……でも、ぜんぶ、見届けたよ」

その日の帰り道。 球児は一人、ノートを開いてこう書いた。
「負けたけど、悔しいけど、 それでも“この夏”を、なかったことにはしたくない」
【背番号じゃ届かない】












第17話 花火のあとで

夏祭りの夜。浴衣姿の人混み、屋台のにおい、ぽつりぽつりと鳴り始める花火。
球児はひとり、人混みの端でうちわを握りしめていた。
球児(……なんで来たんだろう)
野球部の打ち上げも終わって、無理やり翔太に引っ張られるようにして来たこの会場。
でも、どこかでわかっていた。誰かに、会いたくて来たのだと。
「球児くん?」
その声に振り返ると、そこにいたのは――浴衣姿の麻耶だった。
「……わ、ほんとに来てたんだ」
麻耶は笑っていた。でもどこか少し、さみしそうな微笑みだった。
「祭り、あんまり似合ってないですね、自分」
「ふふ、そう? でも、球児くんは……なんか似合ってるかも」
「えっ」
「ちょっとだけ、柔らかくなった感じ」
2人で歩きながら、金魚すくいの前を通ったり、たこ焼きを分け合ったり。
まるで時間が、少しだけ高校生じゃなくなったような不思議な感じだった。
花火が打ちあがる音が、静寂を切り裂く。
「……今日、ここに来たの。お別れを言うためなんだ」
「え?」
麻耶は顔を上げずに、ポツリと言った。
「わたし、卒業したら、県外に行くんだ。 受験もあるし、もう学校にもあまり来られないと思う」
一瞬、言葉が見つからなかった。
「それとね、塁とは……もう話さないって決めたの。
あの人の中に、私の“好きだった時間”を置いてきた。もう、進まないとって思ったから」
麻耶の横顔が火花の光に照らされてきれいだった。球児は、目の奥が熱くなるのを感じながら、ゆっくりと口を開いた。
「じゃあ…俺は、麻耶先輩の“これから”に、いたいです」
麻耶が目を丸くして、そしてそっと笑った。
「……それ、すごく、ずるいセリフ」
でもその声は、泣きそうなくらいやさしかった。

その夜。球児のノートにはこう綴られていた。
「夏の終わりに、やっと“恋”が始まった気がする」
【背番号じゃ届かない】


第18話 3年生、最後の日

夏の終わり。校舎裏のグラウンドでは、3年生の卒部式が静かに行われていた。ベンチに並ぶ1・2年生。
正面には塁、そして麻耶―― 3年生ひとりひとりが、チームと後輩たちに最後の言葉を届けていく。
「……後悔してることはある。でも、それが“全部”だったと思う」
塁がゆっくりと話しはじめた。
「甲子園には行けなかった。エースらしい姿も、最後は見せられなかった気がする。
だけど、野球がずっと好きだったのは、チームメイトと、この部活があったからです。俺にとって、それが全部です」
静まり返った空気の中、塁は帽子を取って深く頭を下げた。次に麻耶が前に出る。 手にスコアノートを握りしめている。
「3年間、ずっとこの場所に立って、ノートに数字を書き続けてきました。 でも本当は、数字じゃ測れないもののほうが多かった。嬉しさも、悔しさも、全部―― “このチーム”と、“この背中たち”が教えてくれました」
声が少しだけ震えていた。
「ありがとう。みんなの背番号を、わたしは一生忘れません」
そして、卒部証書が手渡されていく。 球児は塁から直接、記念のサイン入りボールを受け取った。
「お前なら、ちゃんと投げられる。背番号も、気持ちもな」
「……ありがとうございます」
麻耶は球児の手を握り、小さく微笑んだ。
「君の“野球”は、きっとこれから。楽しみにしてるね」

その夜、球児はノートの最後のページにこう綴った。
「受け取ったのは、ただのボールじゃなかった。 背中の重み、想いのバトン――全部、ちゃんと未来へ投げ返したい」
【背番号じゃ届かない】














第19話 背番号をもらった日

新チーム発足から2週間。 部内戦での活躍もあって、球児はついに――
「背番号10、球児!」
コーチの声が響いた瞬間、グラウンドに少し風が吹いたように感じた。
球児(……俺にも、ついに背中ができたんだ)

その日の午後。ユニフォームに番号を縫い付けてもらい、 それを抱えて帰る途中、部室のロッカーに一通の封筒が入っているのに気づいた。
【From:Maya】
開封すると、そこには麻耶の手書きの文字が、丁寧に並んでいた。

『球児くんへ
夏祭りの夜、「君の“これから”にいたい」って言葉、 あれ、ずるかったよ。
でもほんとはね、ちょっと、うれしかった。
塁には、ちゃんと気持ちを終わらせられたと思う。
でも球児くんの想いは、まだ“続いていく”って感じがして、 それがちょっと怖くて、でも楽しみにもなった。
来年の夏、君がどんな背中になっているか、きっと私、遠くからでも見つけてる。
だから、がんばって。私の“青春のページ”に、 球児くんはもう、ちゃんと書き込まれてるから。
麻耶より』
球児は手紙を読み終えると、そっと胸元で封筒を握りしめた。
「うん。今度こそ、“届く”ところまで、投げてみせるから」
その言葉に、背番号10のユニフォームが、ほんの少しだけ光って見えた。

その夜、ノートにはこう記されていた。
「“好き”を伝えることと、“想いを背負う”ことは、ちょっと似てる。 どっちも、ちゃんと“名前を呼んでくれる人”がいるって信じることだから」
【背番号じゃ届かない】








最終話 君に、届いた?

秋の公式戦初日、朝のグラウンドには新チームの声が響く。
「背番号10、球児! 今日も声出していこう!」
「はいっ!!」
夏の大会後、背番号をもらって初めての公式戦。 球児は気合いが入っていた。
アップ中、ふと見上げたスタンドに、ひとりの姿を見つける。――麻耶だった。
球児(……ほんとに、来てくれたんだ)

試合開始。1回表、球児はライトの守備に就く。
打球は一度も飛んでこなかったけど、それでも声を切らさず、全力でグラウンドを走った。
そして4回、球児に打席が回ってくる。
「バッター、背番号10、球児!」
ピッチャーが投げたその一球目。 球児は、フルスイングで打ち返した。打球は、右中間を破るツーベースヒット!
立った二塁ベースの上で、球児はスタンドを振り返る。 麻耶と目が合った。
静かに、笑って――両手で拍手を送ってくれていた。
球児(ああ、やっと届いたんだ)

ゲーム後、部室でひと息つく球児に、翔太が声をかける。
「お前、今日めっちゃカッコよかったぞ」
「へへ……ありがとな」
「つーか、スタンドに来てたよな? 麻耶先輩」
「うん」
球児はロッカーにしまってあったノートを開いた。

最後のページに、こう記した。
「“好き”って気持ちも、“努力”ってやつも、  振り返らずに走ってきた先で、ちゃんと届いてた気がした」
ページの余白に、背番号“10”の丸印を描く。
これが、球児の物語の結び。
だけど――
背番号を持った日から、“本当の物語”が始まっていた。
【背番号じゃ届かない 完結】
< 18 / 32 >

この作品をシェア

pagetop