泣きたくなったら、こっちへおいで
「や〜ほんとにこんな時間まで残業させて申し訳ない!」
「いや全然……むしろこちらこそ……」
──その後、晴永の涙はぴたりと引っ込んで。
色々と衝撃が重なり、とても仕事どころではなくなった私たちはそのままオフィスを出ることにした。
何事もなかったかのように解散する……という勇気はさすがになかったので、口から出まかせで晴永を飲みに誘ってみるとあっさりOKされてしまい、どぎまぎしながら適当に選んだ居酒屋に入る。
平日の遅い時間だからか店内は空いており、掘り炬燵の個室に通されていよいよ逃げ場がなくなってしまった。
「田中腹減ってるだろ? ここは俺が出すから遠慮なく食べて! 今日はお疲れ! 乾杯!」
「え、いや、うん、乾杯……」
「っあ〜ビールうま! なあ何食いたい? 刺身盛りとかモツ煮とかあるよ。あ、これとか美味そうじゃない? 柚香る鶏むね肉の炭火焼き! 当店自慢だって」
「じゃ、じゃあそれで……」
いつの間に復活したのか、晴永はすっかりいつものギラギラ直射日光男に戻っていた。
彼は慣れた所作で店員を呼び、満面の笑みでこれはどう? これ田中好き? とメニューを次々と指差し注文していくが、正直私はそれどころではない。
頭がふわふわしている。
なにこれ。どういう状況?
「ていうかサシで飲むの初めてだよな! 同期飲みもあんまりしなくなったしやっぱ部署違うとなかなか、」
「……あの、晴永」
「うん?」
「なんで、泣いてたの」
意を決した私は、一口も口を付けられていないビールジョッキを両手でぎゅっと握る。
目の前にいる晴永が遠のいていくような、私の実体も意識もここにあるのにどこか遠くからここを見ているような、よくわからない感覚だ。
手の平の冷たさだけが今私の体を支えている。
あれは、何だったのか。
衝動的だった。気付いたら晴永の唇に自分のそれを押し付けていた。
触れた部分がまだじんわりと熱を帯びている気がする。
あの涙が、鮮烈に脳に焼き付いている。
「あ〜なんか癖みたいなもんでさ! 全然気にしなくていいよ忘れて忘れて! てか聞いて、この前さ」
「癖?」
私の問いを笑ってかわそうとする晴永から微かな焦りを感じた。
逃げられないよう間髪入れずに私が言葉を挟むと、鉄壁のように笑顔を崩さない晴永の瞳が、ほんのわずかに揺れる。
「いや、癖っていうか、とにかく全然大したことじゃなくて」
「大したことじゃないのにあんなに泣く?」
……きっと、晴永にとっては避けたい話題なのだろう。できればなかったことにしたいほど。
だから彼は私のキスについても一切触れない。逆に不自然なくらいに。
でも、もう見てしまったから。触れてしまったから。
きみの泣き顔を、私は当分忘れられない。