Hotaru. ー 君と過ごした、たった一つの夏 ー

第一章 代わり映えのない景色

「ほたるー! 準備できたー?」
一階からお母さんの声が聞こえてくる。
「もうちょっと!」
私は慌てて旅行バッグのファスナーを閉め、部屋を見回した。
帽子、財布、スマホ、充電器。
……うん、大丈夫。
バッグを肩に掛けて部屋を出ると、お母さんが笑いながら私を見た。
「忘れ物ない?」
「たぶん!」
そう答えると、お母さんは少し呆れたように笑う。
「その『たぶん』が一番心配なんだけど。」
「ちゃんと確認したから大丈夫!」
今年の夏休みは、私にとって特別だ。
おばあちゃんが暮らす町――光ヶ丘(ひかりがおか)
何度も「遊びにおいで」と誘われていたけれど、予定が合わなかったり、おばあちゃんが家まで来てくれたりして、一度も行けたことがなかった。
だから今年が、初めての光ヶ丘。
「おばあちゃん、すごく楽しみにしてるって。」
「私も!」
胸の奥が自然と弾む。
どんな町なんだろう。
どんな景色が広がっているんだろう。
そんなことを考えているだけで、頬がゆるんでしまう。



車は街を抜け、海沿いの道を走る。
窓を少し開けると、潮の香りを含んだ風が頬を優しく撫でた。
「……海だ。」
思わず窓の外へ顔を向ける。
太陽の光を受けて、海が一面きらきらと輝いていた。
こんな景色を見るのは初めてで、思わず息をのむ。
「光ヶ丘は海が近いからな。」
運転席のお父さんが笑う。
「すごい……。」
青い海。
その向こうには、小さな町並み。
さらに奥には緑の山々が連なっていて、時間までゆっくり流れているように見えた。
「もうすぐ着くぞ。」
その言葉に、胸がまた少し高鳴った。
車が一軒の古い家の前で止まる。
木造の平屋。
縁側には風鈴が吊るされ、夏風に揺れている。
玄関が開き、にこにこと笑うおばあちゃんが出てきた。
「ほたる!」
「おばあちゃん!」
私は車を降りると、そのまま駆け寄った。
「やっと来られたねぇ。」
「うん。ずっと来たかった。」
「長旅お疲れさま。」
優しく頭を撫でられ、少しだけ照れくさくなる。
荷物を部屋へ運び終えると、縁側で冷たい麦茶をごちそうになった。
風鈴が、ちりん、と涼しい音を鳴らす。
心地よい風が縁側を通り抜け、汗ばんだ肌を優しく冷ましてくれた。
「気持ちいい……。」
思わず空を見上げる。
青空には、ゆっくりと白い雲が流れていた。
「光ヶ丘はね、夕方が一番きれいなんだよ。」
おばあちゃんが空を眺めながら言う。
「夕方?」
流蛍川(りゅうけいがわ)に架かる夜光橋(やこうばし)って橋があってね。」
「夜光橋……。」
初めて聞く名前だった。
「夕焼けになると、本当にきれいなんだよ。」
その言葉だけで、どんな景色なのか想像したくなる。
「行ってみたいな。」
「暗くなる前には帰っておいでね。」
「うん!」
おばあちゃんに道を教えてもらってから、私は帽子をかぶり、小さなショルダーバッグだけ持って家を飛び出した。



初めて歩く光ヶ丘。
商店街には昔ながらのお店が並び、軒先では風鈴が静かに揺れている。
八百屋のおじさんが近所の人と笑いながら話し、駄菓子屋の前では子どもたちが楽しそうにはしゃいでいた。
どこを見ても、穏やかな時間が流れている。
「いい町だな……。」
自然とそんな言葉がこぼれた。
おばあちゃんに教えてもらった道を歩いていくと、水の流れる音が聞こえてくる。
さらさら、と耳に心地よい音。
その先へ歩みを進める。
「……!」
視界が一気に開けた。
目の前を、大きな川がゆったりと流れている。
夕日に照らされた水面は、まるで無数の光を散りばめたみたいにきらめいていた。
「ここが……流蛍川。」
橋の入口には、
『夜光橋』
と刻まれた石碑が立っている。
私はゆっくりと橋を歩き始めた。
夕風が髪を揺らし、川のせせらぎが静かに耳へ届く。
こんな景色、見たことがない。
思わず立ち止まり、川へ目を向けた、その時だった。
橋の少し先。
一人の男の子が、欄干にもたれて立っていた。
黒髪に、少し長めの前髪。
首からカメラを提げ、夕焼けに染まる流蛍川へ静かにレンズを向けている。
――カシャ。
小さなシャッター音が、夏の風の中へ溶けていった。
私は、その横顔から目を離せなかった。
「……この町の子、かな。」
知らない町で出会った、知らない男の子。
それなのに、不思議と話しかけてみたいと思った。
小さく息を吸って、一歩踏み出す。
近づくと、もう一度シャッター音が響いた。
――カシャ。
私は意を決して口を開く。
「あの……。」
その声に、彼はゆっくりと振り向いた。
前髪の奥にある瞳が、一瞬だけ私を映す。
「……。」
「急に話しかけちゃって、ごめんね。」
「……別に。」
短い返事。
だけど、不思議と冷たい感じはしなかった。
少しだけ安心して、私は笑う。
「この町に住んでるの?」
彼は少し考えるように空を見上げる。
「……たぶん。」
思わず笑ってしまった。
「『たぶん』って、どういうこと?」
「住んではいる。」
「うん。」
「でも、この町のこと全部知ってるわけじゃない。」
「そっか。」
少し変わった人。
そんな印象を抱きながら、私も欄干にもたれた。
目の前には夕焼け色の流蛍川が広がっている。
「……きれい。」
思わず漏れた言葉に、彼も川へ目を向ける。
「毎日見てるけど。」
「そうなの?」
「うん。」
私は静かに首を横に振った。
「私は初めて見た。」
彼が少しだけこちらを見る。
「今年初めて、光ヶ丘に来たの。」
「初めて?」
「うん。おばあちゃんが住んでるんだけど、来るのは今年が初めて。」
「……そう。」
さっきより少しだけ柔らかい声だった。
「君、名前は?」
「あぁ。」
彼は短く答える。
神崎(かんざき)。」
「名字じゃなくて、名前!」
少しだけ間が空く。
「……(みなと)。」
「湊くん、っていうんだ。」
私は嬉しくなって笑った。
「私は、星野(ほしの)ほたる。『ほたる』はひらがな。」
その瞬間、湊くんはほんの少しだけ目を丸くした。
「……ほたる?」
「うん。」
私は照れくさそうに笑う。
「ちょっと珍しいでしょ?」
「……。」
少しだけ沈黙が流れる。
私はその沈黙を埋めるように、小さく笑って言った。
「ほたるって呼んでくれていいからね。」
湊くんは私を見つめる。
「……分かった。」
短い返事。
それだけなのに、なんだか少しだけ嬉しかった。
短い沈黙が流れる。
夕風が橋の上を吹き抜け、川面をゆっくりと揺らしていく。
その静けさを破ったのは――
ぐぅぅ……
「あ……。」
思わずお腹を押さえる。
静かな橋に響いてしまった音が恥ずかしくて、顔が熱くなる。
「ご、ごめん……。」
視線をそらすと、湊くんは少しだけ目を瞬かせた。
「昼、食べてない?」
「食べたんだけど、今日は出発が早くて。お昼もいつもより早かったから……。」
そう答えると、湊くんは橋の向こうへ目を向けた。
「あっち。」
「え?」
「…夕凪海岸(ゆうなぎかいがん)。」
「海があるの?」
「歩けばすぐ。」
思わず表情が明るくなる。
「行ってみたいな。」
湊くんは少しだけ考えるように黙り込んでから、小さく息をついた。
「案内くらいなら。」
「いいの?」
「迷われても困る。」
ぶっきらぼうな言い方なのに、不思議と優しさが伝わってくる。
「ありがとう。」
私が笑うと、湊くんは何も言わずに歩き始めた。
私は少し後ろから、その背中を追いかける。
橋を渡りきると、道の先から潮風が吹いてきた。
さっきまで川の匂いだった風が、今度は少しだけ塩の香りを運んでくる。
「海ほんとに近いんだね。」
「うん。」
短いやり取り。
それでも、不思議と気まずくはなかった。
歩きながら周りを見渡す。
昔ながらの家並み。
道端に咲く向日葵。
風に揺れる風鈴。
見るもの全部が新鮮で、つい足が止まりそうになる。
「あっ。」
道端に小さな猫が寝転んでいる。
しゃがみ込むと、猫は眠たそうに一度だけこちらを見て、また目を閉じた。
「かわいい……。」
思わず笑う。
少し先を歩いていた湊くんも立ち止まり、私を待ってくれていた。
「あ…ごめんね。」
「別に。」
また短い返事。
だけど歩き出す速さを私に合わせてくれていることに気づいて、少しだけ嬉しくなる。
やがて視界が大きく開けた。
「わぁ……。」
目の前には、どこまでも続く海。
夕日を映した水面がきらきらと輝いている。
「きれい……。」
思わず言葉が漏れる。
波が静かに砂浜へ寄せては返し、その音だけが辺りに響いていた。
私は夢中になって海へ駆け寄る。
「海初めて?」
後ろから湊くんの声がした。
振り返る。
「こんなに近くで見るのは初めて。」
そう答えると、湊くんは海へ目を向けた。
「……そう。」
また短い返事。
でも、その横顔はどこか穏やかだった。
近くの売店を見つけて、2人で入ると、湊くんはラムネの瓶ふたつおじさんに渡して、お金を渡す。
「まいど。」
おじさんが笑顔でラムネを湊くんに渡す。
そのうちの一本を私へ差し出した。
「え。」
「はい。」
「払うよ?」
「いいから。」
私は少しためらってから受け取る。
「ありがとう。」
ビー玉を押し込むと、しゅわっと涼しげな音が鳴った。
「おいしい。」
口の中に広がる炭酸の爽やかさに、自然と笑みがこぼれる。
「湊くんは、よくここに来るの?」
「たまに。」
「写真を撮りに?」
「うん。」
「なんで?」
その言葉に、湊くんは少しだけ私を見た。
「……毎日違う景色だから。」
私には全部が同じに見えてたけど、本当は違うっていたけれど。
海も、空も、雲も、風も。
ほんの少しずつ姿を変えているって湊くんが教えてくれる。
毎日同じように見えても、きっと同じ日は一日もない。
湊くんの話を頷いて聞いていると、一羽のカモメが砂浜に降り立った。
「見て。」
私が指をさすと、湊くんもそちらを見る。
すぐにカメラを構えた。
――カシャ。
静かなシャッター音。
その一枚には、どんな景色が写ったんだろう。
少しだけ気になった。
「写真、好きなんだね。」
私が言うと、湊くんはカメラを見つめたまま、小さく答えた。
「……好き、なのかもしれない。」
その言葉は波の音に溶けていった。
空はゆっくりと茜色を深めていく。
「そろそろ帰らないと。」
おばあちゃんとの約束を思い出し、立ち上がる。
「送る。」
「え?」
「帰り道、分からないでしょ。」
私は思わず笑った。
「たしかに。」
来た道を二人で並んで歩く。
行きよりも少しだけ距離が近くなった気がした。
夜光橋まで戻ると、私は立ち止まる。
「今日はありがとう。」
湊くんは小さく頷く。
「また。」
その一言だけ残して歩き出そうとする。
「あ。」
私が呼び止めると、湊くんが振り返った。
「明日も、ここに来る?」
少しだけ間が空く。
「……たぶん。」
その返事がおかしくて、思わず笑ってしまう。
「また『たぶん』。」
私が笑うと、湊くんは何も言わなかった。
でも、その表情はどこか少しだけ柔らかく見えた。
「じゃあ、またね。」
手を振ると、湊くんも小さく手を上げる。
その姿を見送りながら、私は歩き出した。
夕焼けに染まる夜光橋。
さっきまで知らなかった景色が、ほんの少しだけ特別な景色に変わっていた。



「ただいま。」
玄関を開けると、台所から夕飯のいい匂いが漂ってきた。
「おかえり、ほたる。」
おばあちゃんが振り返って笑う。
「遅くならなくてよかった。」
「うん、約束したから。」
靴を脱ぎながら、さっきまで見ていた夕焼けを思い出す。
夜光橋。
流蛍川。
夕凪海岸。
そして――湊くん。
「夜光橋、どうだった?」
「すっごく……ううん、本当にきれいだった。」
自然と笑みがこぼれる。
「あんな景色、初めて見たよ。」
「そうかい。」
おばあちゃんは嬉しそうに目を細めた。
「それにね。」
私は少しだけ照れながら続ける。
「友達ができたの。」
「まあ。」
「湊くんっていうの。この町に住んでて、写真を撮るのが好きなんだって。」
「そう。」
おばあちゃんは驚くこともなく、穏やかに頷いた。
「いい出会いだったんだね。」
その一言が、胸の奥にすっと染み込む。
まだ会ったばかり。
話した時間だって長くはない。
それでも、「また会えたらいいな」と思っている自分がいた。
< 1 / 1 >

ひとこと感想を投票しよう!

あなたはこの作品を・・・

と評価しました。
すべての感想数:0

この作品の感想を3つまで選択できます。

  • 処理中にエラーが発生したためひとこと感想を投票できません。
  • 投票する

この作家の他の作品

公開作品はありません

この作品を見ている人にオススメ

読み込み中…

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop