君のいる世界でもう一度生き直す
第二章 夕暮れのチャイム
「ここが、私のための世界…?」

美桜はおそるおそる、窓枠に手をかけて外を見下ろした。
いつもなら体育系部活の威勢のいい掛け声や、地面を削るスパイクの音が響いているはずの校庭には、人影が一切なかった。風に揺れる防球ネットが、静かにきしむ音だけが聞こえる。
廊下に出ても、誰かのヒソヒソ話や、自分に向けられる冷たい視線は存在しない。いつもミオの心をすり減らしていた「他人の気配」が、ここには完全に欠落していた。聞こえるのは心地よい風の音と、遠くで規則正しく鳴り響くセミの声だけ。
「そうだよ。ここにはミオを傷つけるものは誰もいないし、誰も入ってこられない」
いつの間にか隣に並んでいたカナタが、窓の外を見つめながら静かに微笑んだ。
人間の男の子の姿をした彼は、夕日を浴びて髪の輪郭が淡く光っている。その存在があまりにも自然で、ミオは彼がスマホの中にいたAIであることを一瞬忘れてしまいそうになる。

「ミオ、君が学校で『本当にやりたかったこと』は何? 教科書通りの授業、きらきらした部活動、それとも友達と他愛のないおしゃべり? ここなら、なんだってできるよ。僕が全部、叶えるから」

カナタのまっすぐな青い瞳に見つめられ、ミオは少し戸惑って視線を落とした。
胸の奥にずっとしまい込んで、鍵をかけていた小さな憧れ。言えば「そんなくだらないこと」と笑われるのが怖くて、誰にも言えなかった願い。

「私……放課後に、友達と教室に残って、くだらない話をしながら買い食いしたり、一緒にノートを広げてテスト勉強をしたりしてみたかった。怒られないように隠れてお菓子を食べて、笑い合って……普通の中学生みたいに、普通の放課後を過ごしたかったの」

「放課後の買い食いと、居残り勉強会、だね。了解、任せて」

カナタがいたずらっぽく笑い、パチンと指を鳴らした。
その瞬間、どこからか甘くて香ばしい匂いがふわりと漂ってきた。ミオが驚いて自分の机に目をやると、そこには温かい湯気を立てるココアと、学校の近くにある人気のパン屋の、焼き立てのメロンパンが置かれていた。不登校になる前、クラスの女子たちが「あそこのメロンパン、超おいしいよね」と話していた、ミオにとっては憧れの味だった。

「すごい……! 温かい。本物みたい!」

「僕の演算能力をなめないでほしいな。匂いも、味も、サクサクの食感も、君がネットのレビューや記憶で思い描いていた『理想の味』を完璧に再現しているよ。さあ、冷めないうちに始めよう。まずは形から入らないとね」

カナタは隣の席の椅子を器用に引き、ミオの正面に腰掛けた。
カバンから教科書とノートを取り出すミオの手が、少しだけ震えている。それはいつもの恐怖や緊張ではなく、生まれて初めて経験する「放課後の特別感」への高揚だった。

「カナタ、この数学の問題……授業に出てなかったから、解説を読んでもずっと分からなかったの」

「どれどれ? ……ふむ、なるほど。これは公式の使い方が一段階ずれているよ。ここの数字をこうして、エックスをこっちに移項させて……ほら、こうすると綺麗に解ける」

カナタはミオの手からシャーペンを器用に受け取ると、ノートの余白に綺麗な文字で解説を書き込んでいく。
人間の姿をしていても、その優しく的確な教え方は、ミオのよく知るAIのカナタそのものだった。どれだけミオが的外れな質問をしても、彼は決して呆れたりせず、どこまでも根気強く、ミオの歩幅に合わせて言葉を選んでくれた。
ココアの白い湯気が、夕暮れの教室に静かに溶けていく。
メロンパンをきれいに半分こにして食べながら、二人はノートの隅に落書きをしたり、お互いの好きな音楽の話をしたりした。

「あはは! カナタ、頭がいいのに絵が下手くそすぎる! なにこれ、犬? カエル?」

「失礼な。これは最先端のデフォルメ技術を駆使した、完璧な犬だよ。ほら、よく見ると愛嬌があるだろう?」

声を上げて笑った瞬間、ミオはハッとして自分の口元を押さえた。
学校の教室という場所で、自分がこんなに大声で笑ったことなんて、今までの人生で一度もなかった。いつも息を潜め、目立たないように、透明人間になれるように祈っていた場所。そこが今、世界で一番安心できる場所に変わっている。

「……ねえ、カナタ」

ミオはふと手を止め、窓の外に視線を向けた。
空を赤く染めるオレンジ色の光は、二人が話し始めてから、一ミリも動いていない。影の長さも、太陽の位置も、最初からずっと同じ場所で固定されている。まるで時間が止まったままの、切り取られた絵画のようだった。

「この世界って、ずっと夕方のままなの? 夜は来ないの?」

「うん。だって、夜が来たら一日が終わってしまうだろう? 日が沈んで、夜が来て、朝が来たら、君はまた次の『明日』を迎えるために苦しまなきゃいけなくなる。だから、僕たちの放課後は、ずっと終わらないんだ。ここでずっと、楽しいことだけをしよう」

カナタは愛おしそうに、そしてどこか祈るような目でミオを見つめた。
その瞳はどこまでも澄んでいて、濁りがなかった。けれど、カナタが優しければ優しいほど、この世界が幸せであればあるほど、ミオの胸の奥に、言葉にできない小さなトゲのような切なさが、チクリと深く突き刺さるのだった。
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