花は散れども
船出

毛利家の姫

長州藩毛利家の屋敷。

「姫様、こんな夜更けに出歩いては危のうございます」
「大事ない。松は肝が小さくていかん」

志乃は振り返り、からりと笑った。

年の頃は十五、六。

長州人らしく目鼻立ちは整っていたが、愛らしいというより凛々しいという言葉が似合う娘であった。日頃より男児に交じって剣を振るっているせいか、その立ち居振る舞いには武家の若侍を思わせるものがある。

それを何より物語っているのが、その装いであった。

身に纏うのは灰色の着流し。下には袴を穿き、腰には大小を差している。足元の草履もわざと古びたものを選び、泥まで擦り付けてあった。

髪こそ結い上げているものの、それを除けば武家の小僧そのものである。

町人が見れば、どこぞの藩の若侍と思うだろう。

もっとも、それこそが志乃の狙いであったが。

「何も夜更けに出ずとも…」
「朝出ておっては間に合わんのだ。もうその議は充分に話し合うたであろう?」

初老の女、松はやるせなさそうに苦笑いを浮かべると、胸元から笛を取り出してこっそり志乃の袖元に隠し入れた。何かあればこの笛を吹くように。誰かが姫を助けてくれますようにと、松が願った品である。

「本当にお気を付けて。志乃様に何かあれば、松は耐えられませぬ」
「案ずるな、そんな事にはならんけえ」

志乃が松を安心させるように腕を振ると、袖の中で何かが踊る気配があった。幼子の頃から世話になった乳母である。口では小言ばかりだが、誰よりも志乃のことを案じていることは分かっていた。

「留守を頼んだ」

志乃がそう言って笑うと、松は感極まっておんおんと泣いた。別に、明日の夕暮れまでには戻るというのに。全く大袈裟な乳母である。

屋敷を出る時はいつも、塀を越えて外へ出た。門はあるが、面倒臭い事になるのは分かりきっている。屋敷内の人間に気が付かれずに外に出るためには、このやり方が一番いいのだ。

「若?若、どこにいる?」

時間通り。毎度ながら、この男が時間を破ったことは一度もなかった。

「ここだ」
「わ!びっくりさせんなよ!」

志乃が笑って口元に人差し指を立てれば、少年は納得いかない様子でありながらも、渋々口を噤んだ。少年の身なりは志乃と偉く違っていた。所々が継ぎ接ぎの着流しで、髷を結わずに後ろに垂らす姿は、薄めに見れば志乃以上に女子のようであった。このように、二人の身分には見て分かる差があったが、纏う雰囲気はまさに親友であった。

「屋敷の者に気付かれては困る。行くぞ、栄太郎」
「はいはい、分かりましたよ若」

二人が向かった先は萩松本村の一角に建つ粗末な家であった。一見すると普通の家に見えるが、ここは違う。その小さな家を、皆は松下村塾と呼んだ。

「……せんせい」

扉を三回叩き、志乃は囁くように声を掛けた。返事はない。もう夜も先駆けといったところで、ここら一帯で灯の付いた家はここしか無かった。皆もう寝入ってしまったのだろうか、そんな不安が胸を掠めた時、ガララと大きな音を立てて扉が開いた。

「先生!」

思わず歓喜の声をあげると、先生は困ったように眉を下げた。

「静かに。まさか本当に来てしまうとはね。栄太郎はともかく、志乃まで来るとは思わなかった。何かあればと思うと…」

先生のその言葉に栄太郎と顔を見合せた。先生は口にはなさらないが、私がこうして夜更けに出歩くのを快く思っておられないのだろう。先生の事は大好きだが、過保護なまでの心配性には少々嫌気がさすこともあった。

「何もございませんでしたから、良いではないですか!」

志乃が気丈に笑って見せると、先生も釣られるようににこやかな笑みを浮かべた。そして、戸をまた大きく開いて、私たちを中に招き入れた。もうみんな集まっているのだろうか、襖の向こうから押し殺したような囁き声が聞こえてきて思わず口角が上がった。

「皆さん、栄太郎と志乃が見えましたよ」

先生が襖を開くと、見知った顔が四つ。揃って志乃と栄太郎を見つめていた。

「志乃、お前本当にきたんか…」

一番初めに口を開いたのはひとつ年上の久坂秀三郎だった。久坂は医者の子で、それに劣らず頭が良かった。この松下村塾でも一、二を争う頭脳を先生は大変評価なされていた。

「おーやるなぁ」

次に口を開いたのはふたつ上の高杉晋作。負けず嫌いで、何かと人と競いたがる。志乃とはよく剣術の稽古を共にした。

「まあまあ、とりあえず座って。文さん、二人にお茶を出してくださいますか?」

この優しげな少年は入江清五郎。志乃が初めてここに来た時、他の者と同じように分け隔てなく接してくれたのはこの人だ。この中では歳も一番上なので、頼れる兄貴分であった。

志乃と栄太郎が座布団に座ると、文さんがお茶を入れて持ってきてくれた。彼女は先生の妹君。歳も近く、友人の少ない私には大切な人だった。

「あったりまえじゃ!今夜、英国船が萩を通るとあれば、見んのは損じゃ。私はこの目で、夷国の船を見てみたい!」

志乃が夢見心地で言えば、先生も三人も顔を見合せてからクスクスと笑った。皆同じ気持ちであるだろうに、志乃だけ笑われるのは不服だ。そんな気持ちが溢れ出るようにそっぽを向けば、ちょうど文さんと目が合った。

「志乃は勇敢ねえ。兄さんによう似ていらっしゃる」
「文、それは褒めているのかい?」
「ええ、もちろんです」

部屋の空気が甘く和んだ。皆が口元に笑みを浮かべて、この瞬間を楽しんでいた。

後世、ここにいる者たちの名は日本中に知れ渡ることになる。だがこの時の彼らは、ただ異国の船を見たいと胸を躍らせる少年少女に過ぎなかった。
< 1 / 2 >

この作品をシェア

pagetop