終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜

第18話 どごどがどばん。


 どごん。

 たぶん、そんな感じで表現できたと思う。
 マンガならとげとげがついた吹き出しで囲っていて欲しい擬音。わたしは自分の膝を抱えてくるんと丸くなりぷるぷる震えているハリネズミ状態だから、オフィスのみんなの顔なんて見えてない。ただ、企画部フロアの全員がこっち見てることはなんとなく察知してる。

 「……美月先輩。袖机、大丈夫でした?」
 「……ひなちゃん、さ……そういうときってさ、ひざ、だいじょぶですかって、きくやつじゃないかなあ……って……あたた」

 デスクの下に入れている三段の袖机が横を向いている。わたしの膝による直接打撃を受けたためである。見た感じはへこんでも壊れてもいない。ちょっとほっとしたが、せめてわたしくらいわたしの膝の心配しろよとわたしが腹を立てた。
 右から手を伸ばし、向きが変わってしまった袖机をぐりぐり直しながら、唯一の後輩、志葉倉《しばくら》陽奈《ひな》がじっとりと視線を寄越す。

 「もう。なんなんですか美月先輩、朝からずうっと変ですよ。週末に宝くじとか外れましたか。それともビュッフェで和牛一頭ぜんぶ食べちゃっておなか辛いとか」
 「……なん、で……宝くじはずれたの、知ってんの……あとわたし意外と鶏肉派だから……おなか空かせて牧場襲う群れの一頭とかになったこともないし……」

 膝と精神の痛みを突かれ、答える気力もなくデスクにがくりとつっぷしたわたしの後頭部に、ぽこんと書類が挟まったクリアファイルが載せられる。

 「はいこれ、お昼までにチェックお願いね」
 「うう……紗縁さあん……」
 「ほんと、どうしたの。そんなに嫌いだった? 伊勢こんにゃく。出張のおみやげに買ってきたんだけど、そこまでびっくりされるとは思わなかった」
 「いえ、ちが、すきです、こんにゃく」
 「いったん落ち着け。ほら」

 わたしの左に形よく立っているのは、二つ上の須賀《すが》紗縁《さより》先輩。すっとするサプリみたいなお菓子をひとつ摘んで、わたしの口に放り込んでくれる。これを餌付けともいう。しゅわっと泡立つ喉の感触に、跳ね続けていた心臓がやっと落ち着く。

 先週ずっと伊勢のほうに出張していた紗縁先輩が買ってきてくれたのが、伊勢こんにゃく。その名称を聞いてわたしのぽんこつ耳が再生したのは、ニセ婚約。
 そりゃあわたしも、膝をぶつけようというものよ。無理はない。

 あの金曜日から、土日を挟んで明けた週、月曜日の朝。
 わたしは週末、ずっと、ずうっと、こんな感じだった。なんだろ、風が吹いてもくすぐったいっていうのと、似てる……? なにを見ても、なにを聞いても、自分がやらかしたことの恥ずかしさと処理しきれない情報量がぶわんって噴き上がってきて。
 食事もほとんど喉をとおらなかった。
 土曜も日曜も三食しか食べていない。

 「ね、ほんとに大丈夫? 言いづらいことだったらいいけど、わたしたちにできることあったら遠慮せずに言ってね。早退したっていいんだから」

 紗縁先輩が少し屈んで、耳元でちいさく言ってくれる。金曜日に急にとった有給休暇は、みんなには体調不良と受け取られていたのだ。わたしも特に否定しなかった。
 右隣の陽奈は、しばらくわたしと先輩の顔に交互に目をやっていたが、やがて頭の後ろで手を組んで椅子の背もたれに身体を預けた。ちらとこちらに横目を投げ、小さく息を吐きながら、かろうじてわたしにだけ届く声を出した。

 「……風邪、流行ってるんですかね。金曜日、工藤副部長も急に休んじゃったし」

 どがん。
 今度は、お腹。ぴょこんと浮いた身体がデスクの天板を直撃した。ペン立てとかマグカップが一瞬、浮いた。

 「あいたたたたた」
 「もう。なにやってるの。だから無理しなくていいって」
 「い、いいいえ、あの……すみません。チェックの書類はお昼までにやっておきます。企画書の残りは、夕方までには、なんとか……」

 お腹を抱えながら答えたわたしに、紗縁先輩は小さくため息をついて腕を組んでみせる。

 「ほんとに変だよ、佐倉さん。頼りないだろうけど、頼ってほしい。そのための仲間、チームなんだからさ」

 その言葉にちょっと泣きそうになりながら、下の唇をきゅっと噛んだ。ぺこりと頭を垂れる。心配してもらって嬉しくも申し訳ないというのもあるし、今日のわたしの挙動不審の理由を悟られたくはなかったためだ。
 そうして、ちょっと顔を上げ、上目に視線を投げる。
 わたしの席からみて右手、部屋の奥。
 駅直結ビルの二十三階、都内を見渡す窓を背負った席に座っているひと。

 工藤副部長は、いつもどおりに出勤し、いつもどおりに仕事している。動くたびに周囲がびくりと揺れる風景も、声を発するたびに相手が氷結する様子もなにもかわらない。
 スーツは、先週のものとは違う。シミなんてどこにもみえない。当然だ。当然だけど、でも……あの、夜。あんな金曜日。ぜんぶぜんぶ、夢のなかのできごとだったんじゃないかって思えてくる。

 君にしか頼めない。婚約者になってもらう。
 ここはあなたの世界じゃない。
 今日から、最終試合。ふふ、よろしくお願いします。

 またぶわりと浮いてきた言葉を、ぶんぶん頭を振って払う。 
 あかん。こんなんじゃ、あかん。仕事にならん。先輩にも陽奈にも、お客さまに失礼だ。ちょっと空気、吸ってこよう。

 立ち上がって、紗縁先輩と陽奈の視線を背中に受けながら廊下に出る。扉を閉めて、冷たい壁に背中をつけ、ふううと大きく吸って、吐く。しばらく目を瞑り、天井に顔を向ける。終わったんだよ美月。ぜんぶ、終わり。忘れなさい。
 もういちど息をゆっくり吸っていると、近くに気配を感じた。

 「……だいじょう、ぶ?」

 甘い声に、目を見開く。
 青の瞳。そこにかかるアンバーの前髪。
 距離にして、肩から肘くらいまでだろうか。要するに、目の前。
 わたしの顔を覗き込むように、そのひとは髪とおなじ琥珀の眉をひそめながら小さく声を出したのだ。

 「びっ、ふぁう、だ、だいじょぶ、でござります」
 「……その言葉も表情も、ふつうならそうは見えないっていうところなんだけど……佐倉さんの場合は難しいなあ。でも、元気がないようには見えたよ。勘違いならごめんね」
 「いえ、ちょっと、息苦しくなって……ほんとに、大丈夫です。申し訳ありません、フォーディア部長」

 膝に手を置いて頭を下げると、彼はふうと少し不満げに鼻を鳴らした。

 「部内ではケインって呼んでって、言ったでしょ。僕、嫌なんだよね。ファミリーネームと役職がくっついてる呼び方」
 「で、でも、わたし……もう、営業部、クビになってますから……」
 「クビ?」

 どん、とわたしの左上の壁に手首を置く。顔を近づける。ふんわりと柔らかく甘い柑橘系の香りがわたしを包んだ。

 「クビになったのは、僕らだよ。君と、それから……あのアイハラ、からね」
 「あい、はら、さん……?」
 「あいはらさんじゃないよ。アイス、ハラスメント。氷結男。冷凍仕事マシーン」
 「……あ」

 なにも返せないわたしの顔を真顔でじいっと見つめたあと、彼はくにゃりと表情を崩した。営業部にいたころ、なにか失敗をするたびにわたしはこの表情を見せられたものだ。責めてるんじゃない。でも、とてつもなく申し訳ない気持ちになる。

 ケイン部長は日系三世。ロンドン本社勤務だったけれど、わたしが入社する三年くらいまえに日本法人に移籍になったのだ。流暢で優しい日本語、柔らかな物腰。当時、すでに社内の名物だった企画部の氷の工藤と対比されて、雪解けフォーディアとか呼ばれていたらしい。
 でも……。
 わたしには、どっちも本気、全力でものごとに向かう、ほんもの……に、見えていた。コインの裏表、みたいな。いまでもそう。

 「ところで、いる? 氷結」

 そう言いながら、ケイン部長はくいと親指で遠くを指した。企画部の奥の方。その左手に分厚い封筒があるのを見つけて、わたしはやっと仕事モードに戻れた。

 「あ、はい。工藤副部長なら、ご在席です。書類ならわたしが渡しておきましょうか」
 「いや、いい。話もあるんだ。今度の合同コンペ、あまり可能性は高くないから、うちは辞退しようと思っていてさ」

 ケイン部長はそういって、ぽんと封筒を手の甲で叩いてみせる。
 合同コンペ。住宅や不動産の企業が集まって、大手の開発企業とかに提案をして、採用されれば大きな仕事につながる……というやつだ。でも、うちはあんまり相手にされてない。日本国内で古くからある企業どうしの助け合いみたいなところがあるから、うちのような外資は門前払いなんだ、って聞かされたことがある。

 「そう……ですか。去年のもそうでしたよね。ちょっと残念です。企画部としてはがんばりたいところなんですが」
 「だよね。君みたいなアイデアの塊みたいなひとに担当してもらえたらって思うんだけど」
 「あはは、一発で出入り禁止になるかもしれませんよ……ところで、今回はメイン、どちらの会社さんなんですか」

 ケイン部長はわたしの問いかけに、眉を上げてあたまの後ろをこりこりと掻いた。

 「それがさあ、超大手。うちなんか相手にされるわけもないんだよね」
 「へ、え……」
 「神原地所。知ってる?」

 どばん。
 一瞬で後退りしたわたしの背と後頭部が、壁をしたたかに打った音だ。


 
 
 
 
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