終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜

第4話 ふ、ふわあああああ。


 ぴぴぴ、と安っぽい電子音が鳴り響いている。
 カーテンの隙間から差し込む日差しが、容赦なくまぶたを照らす。

 「ん、んん……」

 重い頭を振って、わたしはゆっくりと目を開けた。
 視界に飛び込んできたのは、黄ばんだ壁紙と、どこか暗い天井。
 身体が痛い。布団は薄くて固いし、枕は冷凍したみたいにゴツゴツしている。

 どこ、ここ。
 って、なんかわたし、こればっかりだな。
 ゆっくりと首を動かし、見回す。自分の部屋じゃない。今度は電車の中でもない。ええと、昨日の夜、わたしはたしか……。

 『責任を取ってもらう』

 脳内で再生される低音ボイスに、わたしはがばっと跳ね起きた。
 そうだ、終電で終点まで行ってしまって、なぜか工藤副部長とバーに行って、それから……それから?
 記憶が曖昧だ。カクテルのあとに飲んだホットウイスキーが美味しくて、緊張の糸が切れて、ふわふわといい気分になったところまでは覚えているけれど。

 「ここ、ビジネスホテル……?」

 見渡す限り、六畳ほどの狭い部屋だ。
 テレビ台とベッドだけで埋まる空間。ユニットバスのドアが半開きになっている。
 どう見ても、ドラマチックな展開が期待されるシティホテルのダブルルームではない。駅前の、一泊五千円くらいの格安ビジネスホテルだ。
 なんでわたし、こんなとこ泊まったんだろう。

 とりあえず顔を洗おうと、ベッドから足を下ろす。
 と、床にあるなにかをぐにゃりと踏んづける感触。

 「……?」

 毛布の塊。
 ベッドの脇のわずかなスペースに、毛布が丸めて置いてある。
 なんだこれ、と見ていると、もぞりとそれが動いた。

 「ひゃ」

 思わずのけぞる。と、毛布の端からなにかが覗いた。誰かの、頭? 見覚えのある髪色、髪型……わずかに寝崩れているけれど、かっちりと整髪料で固めたままの、それ。
 壁側を向いていた身体をこちらに向けたのだろう。窮屈そうに折り曲げられた長い脚がぽんと毛布の上に出る。
 え、これ、って。
 うそ。うそうそ。やめて。

 「……ぐ」

 うめき声を上げ、頭をがしがしと掻きながら工藤副部長は身体を起こした。
 うそじゃなかった。やめてくれなかった。なんで。どうして。
 
 「……なんだか、思いっきり背中を踏まれたような、気がしたが……」
 「ふ、ふふふふ副部長……! な、なんで、そんなところで寝てるんですか」
 「……なんで、だと?」

 彼は不機嫌そうに目を細め、首をこきこきと鳴らした。

 「見てわからないか。ベッドが君に占拠されていたからだ」
 「えっ、あ、はい、申し訳ありません……って、そうじゃなくて!」

 わたしは無意識に着ているものの乱れを確認して、布団を胸元まで引き上げた。周囲をきょろきょろと見回す。

 「なな、なんで、なんで副部長とおんなじ部屋に……っていうか、わたしたちなんでホテル、泊まってるんですか……ていうかていうか、ここ、シングルですよね? え、やだ、なんで、ちょっと待って」
 「うるさい。少し黙れ、頭に響く」

 彼はふらりと立ち上がると、デスクの上に置いてあったペットボトルの水を一気に煽った。喉仏が上下する。乱れたシャツの胸元から覗く鎖骨が妙に生々しい。
 彼は水を飲み干すと、わたしのほうを向いて、深いため息をついてみせた。

 「覚えていないのか? なにも」
 「え、えっと、その……副部長の馴染みのバーで、お酒を飲んで……」
 「そうだ。そして君はホットウイスキーが気に入ったといって、俺がやめとけというのも無視して四杯飲んだ。五杯目を注文しようとしたから実力で阻止したんだが、君は立ち上がって叫んだんだ」

 聞きたくない。すっごく、絶対、ききたくない。
 耳を塞ごうとしたが、その前に言葉が飛び込んできた。

 「副部長のばかやろー、こんな特別な夜くらい好きに飲ませろー、だいたい仕事できすぎなんだよー、もう大好きだこのやろー、だったか」
 「……はい?」
 「それだけ叫んで、ばたんとテーブルに突っ伏した」

 血の気が引く、という言葉がある。でも、足りない。どうせ引くならぜんぶ引き切って身体から抜けちゃえばいいのに。わたしは枯れ木になりたい。
 って、いうか。
 なんか最後に、どさくさに紛れてすごいこと言ってないか、わたし。

 「声をかけても揺り動かしても起きない。タクシーも捕まらない。仕方がないから俺が担いで、店からいちばん近くにあったこのホテルに飛び込んだんだ」
 「か、担い……で……?」
 「ああ。重かった」

 穴があったら入りたい。
 穴がなくても作ってみせましょう。
 存在してごめんなさい。ごめんなさい。
 
 「だが、あいにく満室でな。マスターに電話をして口をきいてもらって、無理やり予備のシングルを開けてもらったんだ。野宿よりはましだろう」
 「……は、はい」
 「さすがに泥酔した部下と同じベッドで寝る趣味はない。かといって、床で寝ている君を踏むのも寝覚めが悪い。結果、俺が床で寝ることになったわけだ。理解したか」

 さすが、副部長。完璧な論理。とてもわかりやすい。わたしのとっちらかった脳でもすぐに状況が把握できた。
 だから、把握すると同時にベッドからずるずると落ち、床に膝をついた。副部長と同じ目線でじっと目を見て、がばっと土下座する。

 「まことに、まことにもうしわけもございません」
 「武士か。いいから顔を上げろ。店に誘ったのは俺だし、ホットウイスキーを勧めたのも俺だ。君が一方的に謝るべきことじゃない。それに……」

 そこで言葉を区切って、横を向く。

 「俺は、楽しかった」
 「……え」
 「誰かと……いや、君と、あんな夜が過ごせるとは思っていなかった。あんなに笑ったのは久しぶりだよ」
 「……」
 「それとも、なにか」

 彼は壁の鏡に向かって、乱れた髪を手ぐしで整え始めた。鏡越しにいたずらめいた視線がわたしを捉える。

 「君としては、同じベッドで、そういうことになったほうが気が楽だったか?」
 「えっ、い、いえ! めめ、滅相もない!」
 「……ふ、冗談だ。意識のない女に手を出しても、面白くもなんともないからな」

 そう言って、彼はにやりと笑ってみせた。
 昨夜、バーでみせた狩人の目を思い出す。

 「ただ、寝顔は愛らしいと、素直に思った。これくらいは言っておこうか」

 どきり、と心臓が跳ねる。
 寝起きの掠れた声でそんなことを言われて反応しないわけがない。

 「さあ、起きろ佐倉。シャワーを浴びて目を覚ませ。俺は朝飯を調達してくる。身支度が済んだら携帯にメッセージを寄越せ。そうしたら部屋に戻る」

 彼はジャケットを手に取り、ぱんぱんと皺を伸ばした。ちらと窓の外に目をやり、口端を持ち上げる。

 「天気もいい。幸先がいいな。やっぱり君は、持っている。その運と図太さ、遺憾なく利用させてもらおう」
 「……え」
 「言っただろう。君の今日は、俺が買い取った。それにこれは、君といっしょじゃなければできないことだ」

 振り返り、朝日を背にして不敵に微笑む。逆光で表情が見えにくいけれど、瞳に宿る、獲物を逃さないと言わんばかりの光だけは見てとれた。
 わたし、と、一緒じゃないと……できない、こと?
 それって……。

 「だが、まずは服だ。そんなよれよれの格好で紹介するわけにはいかないからな」
 「……しょ、しょう、かい……?」

 わざとのように、しばらく言葉を止める副部長。
 藍色がかった瞳で、じっとわたしの目を見つめている。
 それでもやがて、眉をあげた。あげたのは右の手も同じ。それをわたしの頭のうえに運んで、ぽんぽんと叩く。

 「君には、俺の婚約者になってもらう。めんどくさい親戚たちがちょうどこのあたりに固まってるんだ。せっかく時間ができたし、適役が現れたこの機会に済ませてしまいたい」
 「……は」
 「いまは仕事が重要な時期だ。君も知ってるだろう。結婚だの見合いだの、している余裕はない。なに、君の顔さえ見せればみんな黙るだろう。ただし、みな名家ぞろいだ。振る舞いには気をつけてくれよ」

 そう言ってくるりと踵を返し、ううんと伸びをする。
 そのまま片手を上げて部屋を出ていった。

 たぶん、七分間。
 わたしが床にぺたりと座り込み、硬直していた時間。

 「ふ……ふわ、わあああああああ」

 やっと絞り出せた悲鳴は、たぶん蚊の鳴くような音量にしかならなかったと思う。

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