終電で鬼上司の肩を枕にしてしまいました〜会社生活終了と思ったのに、終わったのは平凡で退屈な日常でした〜

第8話 とすんと、落ちて。


 ふふ。
 天下の神原カンパニーの社長さんと、ご親戚。ふふ。

 こういうのは、嘘である。ボケというか。ジャストアジョーク。一瞬でも真にうけた自分が恥ずかしい。きっとこれは、あれだ。社会人として試されてるやつ。
 だからわたしは、ものすごくぎこちなく、ぎぎぎと軋む音が鳴るような速度と動きでもって口の端を持ち上げてみせた。

 「……あ……あは、ははは……副部長のそういうの、初めて聞きました。ウケました。で、でも、ちょおっとなんか、もうひとつノレなかったかなあ、なんて……」

 眼球周辺の筋肉に厳しい指令を送ることにより目を弓形に撓めながら副部長に視線を向ける。お願い。つまらなくていいからもう一回ボケて。呼吸続かないから。呼吸というかわたしの生命線はあと数ミリしか残ってない。これ以上の想定外は無理です。
 機械油が必要になりそうなわたしの顔面状況をちらっと見てから、副部長はわずかに唇を曲げてみせた。

 「ノる、というのがよくわからないが……君なりの驚きの表現ということだと解釈しておこう。まあ、会社のなかでは誰にも言っていなかったからな。上司にも伝えていない。だが、こんなことを頼んでいる君には伝えざるを得まい。他言無用で願う」
 「……え……でも、副部長って、工藤さん……ですよね?」
 「ああ、工藤は母方の姓だ。だが、まあ……いろいろあってな。中学生までは神原姓だったが、高校生になって自活するようになってからは工藤を名乗っている」

 しばらく黙って副部長の横顔を見ていることに気づいたのだろう。彼はこちらにちらっと視線を向け、ん、という顔をしてすぐに前を向く。わたしの表情が笑いながら怒りつつ泣きべそをかくひとになっていたから、どんな反応をすればいいかわからなかったのだろう。

 「……あの」
 「うん」
 「ボケではないんですね?」
 「健康診断は受けたばかりだがそうした兆候は指摘されなかった。もう少しは問題ないだろうと思う。ところで質問の意図が理解しかねる。俺は辻褄の合わない発言をした覚えがないのだが、なにか疑わしいところがあ」

 ったのか、と言わんとするところで言葉を挟んだ。

 「すみません」
 「なんだ」
 「降ります」
 「駄目だ。理由は」
 「無理かなあって思います。わたしのキャパの問題です。えっ、いや、ごめんなさい冗談ですよね。ボケって言ってもらえればまだ踏みとどまれたと思いますからもう一度ききますが」
 「冗談ではないが、そう驚く話でもない。俺は神原の本家の人間ではないんだ。後継だの世襲だの、そういった面倒ははなしとは関係がない。たんにうるさい親戚が金持ちだったというだけだ。誰だって血縁を辿っていけば芸能人にも政治家にも当たるだろう……ところでなにをしている」

 無言でドアをがちゃがちゃするわたしの背に言葉を投げる副部長。

 「いえ、こうやると緊急センサーとかでクルマとまるかなあって」
 「危険なことを考えるな。それにそういうセンサーは装備していない。言ったろう、君の今日は俺が買い取った。あきらめろ。それに……」

 そう言い、こりりと鼻のあたまあたりを掻いた気配。

 「それに、君にしか頼めない。これは冗談ではない。君しか、いないんだ」
 「……え」

 振り返るわたしに向けられる、すこしグレーを帯びた涼やかな瞳。まっすぐにわたしを見つめ、わずかに迷うように揺れる。小さく唇を開き、言葉を送り出す。

 「終電で上司の肩に巨大なシミをつくったうえに泥酔してあらぬことを叫び、肩に担がれて狭いシングルルームに運び込まれて翌朝には平然とホットサンドをリスのように頬張れるような野生味ある肝の座った女性は俺のまわりには君しか」
 「降りますただちに停車してください今すぐに」
 「駄目だ」
 「無理です」
 「駄目だ」

 本気のほんとに無理なんだけど、伝わらない。なんどか押し問答を繰り返しているうちに、いつのまにかクルマは少し標高のある場所を走っていた。変わらず海が見えているが、ずいぶん下のほうになってきている。商店も民家もほとんど見えない。田舎というより、あえてつくられた上品な余白、というような雰囲気の地域だった。

 そうしてやがて、竹林に入る。葉をとおして差し込む光がきらきらと揺れている。窓を閉めているのに、周囲の空気がどこか変わったことを感じた。
 しばらく走ると竹林が不意に切れ、緩やかな坂となった。登り切ると、静かな、だけど凛とした雰囲気の街に入った。

 窓の外を見渡して、違和感に気づく。
 高層の建物などひとつもない。コンビニや大型チェーン店も見当たらない。
 あるのは、鮮やかな緑と白。街路樹なり庭の緑が、示し合わせたように統一された瀟洒な白い外壁の建物に映えている。ただ、よく見ればスーパーのようなお店もあるし、病院やカフェ、美容室らしいガラス張りの建物もある。
 なのに、どの建物にも、目立つような看板がひとつも掲げられていないのだ。

 「……まっしろ……看板、ない……」

 ぽつりとこぼした疑問を察知したように、副部長は小さく呟いた。ほんの少し、鼻のあたまに皺を寄せている。

 「不思議な風景だろう。俺は正直、あまり好きではない。不自然だし、不気味と思う。だが、こういうものなんだ。一族しか利用しない町。それが、神原の郷だ」
 「……へ、へえ……」
 「宣伝の必要もない。だから看板も掲げない。白壁が多い理由は知らないが、神原が戦国大名だったころに白の旗印を掲げていたことに由来するとも言われているな」

 とうとう戦国大名まで出てしまいました。
 もうドアをがちゃがちゃするのはやめているが、そのかわりに手が震え始めている。ほんとうにまずい場所に来てしまったらしい。
 やがてクルマは、街の奥まったところ、山側にある建物の駐車場に滑り込んだ。やはり真っ白。明かり取りのような小さな窓と照明があるだけで、看板もなにもない。それでもおそらくお店なんだろうと思ったのは、その小さな窓の奥にたくさん吊された衣服が見えたからだ。

 「ここは……?」
 「言っただろう。まずは服だ。女性のものは、この店くらいしか知らなくてな」

 促されてクルマを降り、上品な木目のドアを静かに開ける。
 ほんのり明るい店内には見るからに高価そうな服や小物がいくつも並んでいた。だが、値札もポップ広告もなにもない。服屋さん、あるいはブティックなのだろうけれど、どちらかといえば貸切の美術館みたいな重厚な雰囲気だ。
 と、奥から、上品なスーツに身を包んだ初老の女性がでてきた。

 「いらっしゃいませ……あら、湊《みなと》さま……?」
 「え」

 下の名前で副部長を呼んだことに驚いて振り返ると、彼はひどくばつが悪そうな顔をしていた。相手がなにか言う前に、逃げるように言葉を被せる。

 「今日は、このひとをお願いします。ひととおり。うるさい親戚の前に出しますから」
 「ま……ふふ。わかりました」

 女性は口元を抑え、とても嬉しそうに目を細めた。

 「嬉しいです。また、湊さんのお手伝いができるのが」

 ……また?
 その言葉の響きに、わたしの胸の奥でなにかが小さく引っかかった。
 けれど、それを掘り下げる暇は与えられなかった。女性はいったん奥へ引っ込み、どこかに電話をしているようだった。副部長に促され、手近のものすごく高級そうなソファに腰を下ろす。
 数分後、店の扉が開き、どやどやと何人かの女性たちが入ってきた。みな、このお店のひとと同じくらいの年恰好だ。

 「まあまあ、可愛らしいお嬢さん……!」
 「お肌がほんと綺麗。どんなお色も合いますわね。腕が鳴るわ」
 「骨格がよろしいのよね。ラインをしっかり出してまいりましょうねえ」

 ふわんとお化粧品の匂い。ひとりは腰に美容師さんの道具入れをつけている。そういう職業のひとたちなんだろう。なんだろうけど、なんなの。
 
 「あ、あの……」
 「さあさ、どうぞこちらへ。さ」

 囲まれ、立たされて、促されるままに奥へ連行されてゆく。戸惑いながら副部長に振り返るが、わずかに口元を撓めて敬礼のようなポーズをとっていた。
 パウダールームとワードローブがいっしょになったようなほんのり暗い部屋に連れ込まれる。あれよという間に身ぐるみ剥がされ、何着もの服を当てられ、着替えさせられていく。

 「まあ、よくお似合い」
 「あら、もうすこし襟元は賑やかなほうが……」
 「なに言ってるの、せっかくの綺麗なお顔を引き立てたいじゃない。シンプルがいちばん」
 「あ、あの」
 「髪はあげたほうがいいわね。お背中見せていきたいかな」
 「あの!」

 まったく挟む余地のなかった声をようやく挟む。ぴたりと動きをとめる女性たち。

 「あの、これ……って。皆さんは……」
 「ああ、ごめんなさい。もしかして湊さまからなんにも聞いておられないんでしょ?」

 鏡の前に座らされ、ファンデーションをとんとんと置かれながら頷くわたしを見て、女性たちは顔を見合わせてふふっと笑い合った。

 「ぼっちゃんらしいわね」
 「ほんとうに、昔から不器用でいらっしゃるんだから」

 ぼっちゃん。その響きから氷の副部長を連想することはとても難しかった。後ろ髪に指を通しながら、美容師風の女性が懐かしそうに目を細める。

 「わたしたちはこの商店街、神原家御用達の店のものです。ぼっちゃんが高校に上がる頃までは、なんやかやとお世話させていただいてたんですけどねえ。それからずっと、いらっしゃらなくて」

 高校から自活した、と言っていた彼の言葉を思い出す。
 背中の女性は髪をいじりながら言葉を続けた。

 「わたしが最後にお会いしたのは……弥生さまの成人式のときかしら。ちょうど今日みたいに、湊さまが弥生さまをお連れになって」
 「ね、ちょっと」

 わたしの左で襟足を剃ってくれている女性がちいさく嗜める。背中の女性がはっと口を押さえた様子が感じられた。
 訳もわからず、わたしは鏡越しの彼女たちに向けて、ただぎこちない愛想笑いを浮かべていることしかできなかった。

 やよい、さん。
 副部長、女性の服はこの店くらいしか知らないと言っていた。
 お店のひと、またお手伝いができるのが嬉しい、って、笑っていた。

 (副部長……恋人、いるんだ)

 それは、そうでしょう。そうだよね。
 仕事ができて見目がよく、育ちのよい適齢の男性。いないほうがおかしい。
 おかしいけど、だけど……だったら、今日のこれは、昨日のは、なんなの。
 仕事が大変な時期に結婚も見合いもしている場合じゃない。そう言ったのは……。

 訳のわからないままに昨日からずっと激しい振幅で中空を飛び回っていたわたしの心が、とすんと冷たい場所に着地した。
 だよね。
 どんな事情があるか知らない。ほんとに仕事を優先したいのかもしれない。とにかくまだ時間が欲しい。意地悪で面倒な親戚筋なんでしょう。そんなのの矢面に、ほんとうに大事なひとを立てたくない。だから、どれだけ傷つけてもいい頑丈そうな女を身代わりに立てる。
 そういう、ことなんだよね。

 そっと差し出されたリップの色味がひどくくすんで見えたのは、ほんのり暗いその部屋の照明のせいだろうと思う。間違いなく、そうだと思う。

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