婚約者に捨てられた魔女です。このたびおじさま、拾いました。

08.お茶を、ご一緒することになりました

「ああ、これは素敵な色だ。ありがとうございます。ハンカチ、大切にしますね」

 包みからハンカチを取り出したヴィルが、口元を綻ばせながら胸ポケットにしまう。
 だが、ネアは彼の顔をまともに見ることができなかった。

(……まずいわ)

 ドッドッドッ、と鼓動が激しい音を立て、皮膚を突き破ってしまいそう。
 以前までのネアは、ヴィルを見ると芸術品を鑑賞しているような気持ちになったものだが――。

(前までわたし、どんな態度でヴィルさんと話してたんだっけ!?)

 恋心を自覚してしまった今は、もう駄目だ。
 彼と目が合うだけで体温が上がり、胸の奥が痺れたような心地になる。
 この男性(ひと)を前にして、あんなに冷静でいられた自分が信じられない。

 そんなネアの心中など知る由もない。ヴィルがケーキの箱を持ち上げながら、ご機嫌に提案してくる。

「そうだ。せっかくお菓子がこんなにあるので、今からご一緒にティータイムでもいかがですか?」
「わ、わたしとヴィルさんふたりで、ですか!?」

 今までだって、ふたりきりで共に食事をとったことはある。それなのに、無駄に過剰反応をしてしまった。

「? はい。店長はいらっしゃらないので」
「あっ、そ! そうですよね! それならわたし、珈琲を淹れてきます!」

 シュバッ! という効果音でも付きそうなほど機敏な動きで、ネアは椅子を立ち上がる。
 ヴィルは以前と何も変わっていない。それなのに、心持ちひとつでこんなにも彼を意識してしまう自分が、無性に恥ずかしかった。

 逃げるように厨房へ駆け込み、伯母がストックしている珈琲豆をミルでゴリゴリと挽く。
 ハンドルを回すだけの単純作業は、余計なことを考えずにいられていい。

(落ち着くのよ、ネア。あんなに挙動不審な態度で、ヴィルさんにも不審に思われるでしょう。そう、心を静かに。無を意識するのよ……)

 自分にそう言い聞かせていると、徐々に心も静まって――。

「――失礼します」
「ひゃっ!?」

 突然に背後からヴィルの声が聞こえてきて、せっかく静まり掛けていたネアの心は再び荒波の中に放り込まれた。
 ネアのすぐ背後。吐息を感じるほどそばに、ヴィルが佇んでいる。

「あ、驚かせてすみません。ケーキを載せるお皿を取りたくて」

 食器を収めた棚は、ちょうどネアの目の前にある。長い腕を伸ばしてひょいと皿を二枚取ったヴィルは、ついでに引き出しからフォークを取り出す。
 そして何事もなかったかのようにカウンターのほうへ戻っていった。

 姿勢のよい背中を見送っている内に、ひとりで勝手にあたふたしている自分が、だんだんと虚しくなってくる。

(ヴィルさんからしたら、わたしなんて小娘みたいなものだろうし……。大体、ヴィルさんには帰りを待っている奥さまや恋人がいるかもしれないわけで……)

 そう。この人は、いつかどこかへ帰る人。
 好きになったところで、迷惑をかけるだけだ。
 絶対に、この一方的な想いに気づかれるわけにはいかない。

(わきまえなくちゃ。これ以上変に意識しちゃだめ)

 自分に言い聞かせると、ネアはパンパンと両手で自分の頬を叩いて気合いを入れる。
 抽出し終えた珈琲をカップに注いでカウンターのほうへ戻ると、ヴィルがちょうど、半分ずつに切ったケーキを皿に並べ終えたところだった。

「ネアさんからいただいたもので恐縮ですが、どれも美味しそうなので、半分ずつ味見をしましょう」
「そ、そうですね。わぁ、本当に美味しそう」

 少々声は上擦ったものの、先ほどよりずっと冷静に返事をすることができている。

(やればできるじゃない)

 この調子なら、ヴィルに不審に思われずに済みそうだ。自分で自分を褒めてやりたくなる。

 椅子を軽く引いて腰掛けたネアは、まずチーズケーキから味見してみることにした。
 フォークで口に運ぶと、ほろりとほどけるような食感と、濃厚なチーズの香りが口いっぱいに広がる。

 隠し味は、レモンの皮だろうか。
 爽やかな香りが、チーズのコクや底に敷かれたビスケットの香ばしさと混じり合い、絶妙なハーモニーを奏でている。

「んんっ! 美味しい!」

 王都の有名菓子店に勝るとも劣らぬ味わいに、思わず感激の声がこぼれた。一口、二口と口に運ぶたび、胃の中が幸せで満たされていくようだった。
 ヴィルもまた、この味を気に入ったようだ。

「本当に美味しいですね。コクがあるのにさっぱりしていて、食べやすいです」

 あっという間に半分食べ終わり、ふたりして珈琲で口をさっぱりさせる。

(次はどれにしようかな……)

 ティラミスとオレンジのタルトを見比べていたネアは、ふと、あることを思いついた。

「ちょっと待っててください、ヴィルさん。すぐ戻ってきますので」

 そう言い残して厨房に向かったネアは、店の裏手にある食品庫から数本の酒瓶を取り出し、ヴィルのもとへ戻った。

「それは――酒ですか」
「はい。ウイスキーと、白ワインです。店員さんがケーキとの相性もいいと言っていたので、よかったら」

 琥珀亭では酒類の取り扱いもあり、時折食後酒を嗜む客もいた。
 ネア自身はあまり酒に強くないが、ルヴェナから簡単な知識くらいは教わっている。

 氷の入ったグラスを並べ、注いだ酒を差し出す。
 骨張った手がグラスを掴むのを見届け、ネアは小さく付け足した。

「――それと」
「それと?」
「ヴィルさん、ここに来てからお酒飲んだことないですよね。だからもしかして、お酒を飲んだら何か思い出せるかもって思って」

 ヴィルはわずかに目を見開き、それから苦笑した。

「……そこまで考えてくださっていたんですか」
「だ、だって、ヴィルさんの帰りを待っている人がきっといるはずですから……!」

 慌てて言い募るネアに視線を向けたまま、ヴィルは静かにウィスキーのグラスを傾ける。
 琥珀色の液体が薄い唇の隙間から、口の中へ流れ落ちていく。

 ごくり、とウィスキーを飲み下す音。
 上下する喉仏。
 酒の余韻に浸るような、小さく長いため息。

 その一連の様子からは、なんともいえない色気を感じる。
 何かいけないものを見ているような罪悪感に駆られ、ネアは思わずヴィルから目を逸らした。

「ど、どうですか? 何か、思い出せそうですか?」

 目を逸らしたまま尋ねると、ヴィルは少し考え込むように沈黙した。そして、微かに首を横に振る。

「いいえ。……残念ながら、何も」
「そ、そうですか……」

 ということは、彼はそもそもそんなに酒を嗜まない人だったのかもしれない。

「少しは記憶を取り戻す手助けになればと思ったのですが……。あまりお役に立たなかったようで、すみません……」

 しょんぼりと肩を落としていると、ふと自身を見つめるヴィルの視線を感じた。
 彼のほうに視線を向けると、なんとも言えない表情を浮かべている。
 不思議そうな、困ったような、戸惑うような。そんな顔だ。

「ネアさんは、どうして赤の他人である私に、そんなに親身になってくれるのですか?」
「――え?」

 思いも寄らぬ質問にまたたきを繰り返していると、ヴィルは自嘲するように笑ってみせた。

「全身びしょ濡れで倒れている不審者なんて、普通そのまま放っておいてもいいはずだ。だけどネアさんは、行く当てのない私をここに住まわせてもらえるようにと、店長を説得までしてくれた」
「どうして、と言われましても……」

 そんなの、考えたこともない。
 倒れている人を助けるのは当然だと思ったし、記憶を失って困っているなら、力になりたいと思っただけだ。

 そして今は、好きな相手の助けになれるなら、できる限りのことをしたいと思っている。
 ――もちろん、それを口にするわけにはいかないけれど。

「放っておけないですよ。ヴィルさん、怪我もしてましたし。困っている人を見捨てるなんて真似、わたしにはできません」

 苦笑しながら答えると、ヴィルはしばらく何も言わずに黙っていた。
 ただ静かにネアを見つめ、それからぽつりと呟く。

「……あなたは、お人好しですね。もし私が悪人だったらどうするつもりだったんですか?」

 ――カラン。
 グラスの中の氷が、小さく音を立てた。
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